『説岳全伝』/05

Top / 『説岳全伝』 / 05

第五回

岳飛 九枝の矢を巧みに試み
李春 百年の姻を(こころよ)(むす)

詩に曰く

未だ嘗て金殿に去りて伝臚せざるに*1
先ず識る 魚龍の変化することの多きを
屏中に孔雀を図くを用いず
却って仙子をして嫦娥に近づかしむ

さて、そのとき周侗は岳飛に尋ねた。

「いったいどうして、応試しないのだ。」

岳飛は答えた。

「三人の兄弟は皆富豪の家で、弓馬衣服を整えに行きました。ご覧下さい、私が着ているこのようなボロを。何処に馬を買う金などありましょうか。ですから、『次の機会にいたしましょう』と言ったのです。」

周侗は頷いて

「それもそうだ。よかろう、ついてきなさい。」

岳飛が周侗に従って寝室に入ると、周侗は箱を開けて、一着の新しくも古くもない白袍、一枚の深紅の錦、一本の深紅の帯を取り出し机に置いた。

「せがれよ、この服は、母御に言って、お前の体に合わせて戦袍に作り替えてもらい、余りで頭巾を作ってもらいなさい。この深紅の錦で、肩衣(かたぎぬ)*2と、篭手(こて)*3を一組こしらえてもらい、深紅の帯で締めなさい。王員外が私にくれたあの馬を、お前が乗るのに貸してあげよう。十五日の朝になったら、県城まで行かねばならないから、夜通しで支度しなさい。」

岳飛は一声返事をすりゃ、家に持ち帰り母親に事情を話した。夫人はそこで夜通し働いて作りあげた。

翌日、周侗が一人で家塾にくつろぎ本を読んでいると、足音が聞こえた。頭を上げて見れば湯懐が入ってきた。

「先生にご挨拶いたします。父が先生に、このような装束でよろしいのか見て頂いてこいとのことです。」

周侗が湯懐を見ると、頭に純白の包巾を戴き、てっぺんには一輪の大きな赤い牡丹が刺繍してある。身には純白の刺繍のある戦袍をまとい、首のところには深紅の細かな刺繍の肩衣をつけ、両側には深紅の篭手をつけ、腰には銀色の柔らかい帯をつけ、黒光りする白い底の靴を履いていた。周侗

「その装束でいいだろう。」

湯懐はまた

「父が先生に明日拙宅においでいただき、食事をしてから一緒に町に参りましょうと、申しております。」

周侗

「せっかくだが遠慮しよう。ともかく、練兵場で落ち合えばよかろう。」

湯懐が立ち去ると、今度は張顕がやってきた。緑の緞子の包巾をかぶり、やはり一輪の牡丹が刺繍してある。花模様の緑の緞子の戦袍を身につけ、やはり赤い肩衣に赤い篭手、柔らかい金色の帯を腰に締め、銀底の緑の緞子の靴をはいていた。周侗にお辞儀をして

「先生、私は武芸者に見えるでしょうか。」

周侗

「よろしい。帰って父君に伝えなさい。『明日私を待つ必要はありません。練兵場でお目にかかりましょう』と。」

張顕が返事をして帰っていくと、続いて王貴がやってきた。

「先生、私の格好はどうですか。」

見れば、深紅の戦袍を身につけ、頭に戴く深紅の包巾には、一つの丸い花模様が刺繍してある。深紅の肩衣に、深紅の篭手をつけ、赤金色の柔らかい帯を腰に締め、足には黄金色の緞子の靴を履いていた。それが彼の赤ら顔と相まって、全身上から下まで、真っ赤な炭のようであった。周侗

「素晴らしい。お前は明日、父上と一緒に先に県城に行きなさい。私を待つことはない。私は、おまえの岳兄さんのところで食事をして、彼と一緒に練兵場くので、そこで会おう。」

王貴を行かせたばかりのところに、こんどは岳飛がやってきた。

「父上、これでよろしいでしょうか。」

周侗

「それでなんとか間に合うだろう。お前の弟たちとは、明日練兵場で落ち合おうと約束した。私は明日お前の家で食事をして、お前と一緒に出発しよう。」

岳飛

「しかし、私の家にはおもてなしするような好い料理がありませんが。」

周侗

「適当でよい。」

岳飛は承知して別れを告げて家に戻ると、母親に話した。

翌朝、周侗がやってきて、岳飛と食事をすると出立した。周侗は自分で馬にまたがり、岳飛は後に従った。一路真っ直ぐ練兵場にやってきた。するとご覧なさい、黒山のような人だかり、市が立っていて様々な商売、また屋台の茶店や居酒屋*4が出ていて、とても賑やかである。周侗は清潔な茶店を選んで、馬を門前の木につなぐと、屋台に入り、父子二人で、一つの卓を占めて茶を飲んだ。かの三人の員外は、みな城内に親友がいたので、それぞれ食事を練兵場まで運び、大きな屋台の居酒屋に座を定めると、小作たちをやって四方に先生と岳飛を捜させた。かの小作は馬を見て周侗のものと知り、中を覗けば父子二人が座っているのが見えた。そこで急ぎ居酒屋に戻り、員外たちに知らせた。三人の員外は、急いで子どもたちを小作とともに茶店に行かせた。先生に会うと、

「父どもはみな向かいの屋台におり、先生と岳兄さんにお食事においで下さいと申しております。」

周侗

「お前たち、戻って父君に『ここは酒を飲むようなところではありません』とお伝えしなさい。お前たちは支度しなさい。しばらくしてお前たちの名前が呼ばれたら、三人で進み出て返事をするのだ。知県がお前たちの兄のことを尋ねたら、『後からすぐ参ります』と答えなさい。」

王貴は尋ねた。

「なぜ兄上を我々と一緒に行かせないのですか。」

周侗

「お前たちにはわからないだろうが、私が彼にお前たちと一緒に行かせたくないわけではない。ただ、お前たちの兄の弓の方が少々硬いから、お前たちの腕並が顕せなくなってしまう。そこで、別に試験を受けさせるのだ。」

三人はようやく納得した。先生に別れを告げて酒屋に戻り、員外たちにこのことを話せば、員外たちは賞賛してやまなかった。

間もなく、それぞれの村の武童*5たちが、次々とやってきた。まことに「貧しくば文、富まば武」、多くの金持ちの子弟たちが、しっかりと装いを整え、皆背の高い駿馬に派手で美しい鞍を添えていた。いずれも合格して東京に上って功名を立てようと心中考えている。果たして黒山のような人だかり、語り尽くせぬきらびやかさ。しばらくすると、知県の李春が、前後に下役どもを従え練兵場にやってきて馬を下りると、演武庁に座を定めた。左右のものが進めた茶を飲み、見ればかの受験生どもは、とても熱気に溢れている。知県はひそかに喜び

「今日、幾人かの好い門弟を選ぶことができ*6、都に上って合格できたら、私にとっても名誉なことだ。」

まもなく、担当の下役が名簿を持ってきた。知県はそれを見て一人一人呼び出すと、順に矢を比べさせ、それから騎射を見た。このとき演武庁の前では、シュッシュッという矢の音が絶えなかった。周侗は岳飛と茶店の中で、耳をそばだてて武童たちの矢の音を聞いていたが、思わず笑みを浮かべた。岳飛が尋ねた。

「父上、なぜおかしいのですか。」

周侗

「せがれや聞こえないか。あの射手どもは、弓矢の音ばかりで命中を知らせる太鼓の音が聞こえないだろう。おかしくではないか。」

李知県は数名が射るのを見たが、意にかなう者はほとんどいなかった。ようやく麒麟村の番になり、

「岳飛」

と叫んだが、誰も答えなかった。また

「湯懐」

と叫ぶと、湯懐が声に応じて

「はい」

と答えた。また張顕・王貴の二人を呼び、二人とも返事した。三人はそろって進み出た。員外たちは屋台で目を見開いて、子どもたちが合格して都に上って応試するのを待ち遠しく眺めていた。そのとき、知県は三人の武童が、他のものどもとは違うと見て、挨拶がすむと尋ねた。

「もう一人の岳飛は、なぜ来ないのだ。」

湯懐は答えた。

「後からすぐ参ります。」

知県

「まずお前たちの弓矢を試そう。」

湯懐

「閣下、的をもう少し遠くして下さい。」

知県

「もう六十歩もあるのだから、もっと遠くする事はなかろう。」

湯懐

「もう少し遠くして下さい。」

知県

「八十歩に据えよ。」

張顕がまた進み出て言った。

「閣下、もう少し遠くして下さい。」

知県はまた

「ちょうど百歩に据えよ。」

王貴が叫んだ。

「大人、もう少し遠くして下さい。」

知県は思わずおかしくなって

「それならば、百二十歩に据えればよかろう。」

人々は返事をして、的を据えに行った。

湯懐は一番目、張顕は二番目、王貴は三番目に射た。ごらんあれ、三人が弓を引いて矢を放てば果たして絶妙、見ている人々は、声をそろえて喝采し、かの知県も驚きあきれて眺めるばかり。それはなぜだとお思いか。かの三人の射た矢は、それまでの者とは全く逆、放つ矢は全て的に当たり無駄矢が全然無かったからである。ただ太鼓をたたく音ばかりが聞こえ、矢を射る音は聞こえず、射終わるとようやく太鼓も鳴りやんだ。三人が演武庁に上がると、知県は大喜びして尋ねた。

「お前たち三人の弓矢は、誰に教わったのですか。」

王貴

「先生です。」

知県

「先生とは誰ですか。」

王貴

「師匠です。」

知県は大笑いして

「お前の武芸は大したものだが、頭は良くないようだな。どの師匠で、何という名前なのだ。」

湯懐は慌てて進み出て

「師は関西の人、姓は周、名は侗です。」

知県

「なんとお師匠は、周先生だったか。彼は私の親友ですが、長らくお会いしていない。いま何処においでかな。」

湯懐

「下手の茶店の中においでです。」

知県はそれを聞くと、直ちに人を派遣して三人とともに周侗を招かせ、一方では役人に人々の矢比べを見させた。

しばらくして、周侗が岳飛を伴って演武庁にやってくると、李春は慌てて段を下りて出迎えた。挨拶をして、主客分かれて座につくと、知県は言った。

「兄上、それがしの県で塾の先生をしておられながら、お訪ね下さらないとは、いったいなぜでしょうか。」

周侗

「それがし、会いに来たくなかったわけではないのだが、麒麟村の住民たちは、ことさらに訴訟を構えるのが好き。もしそれがしが弟御の役所に出入りしたら、取りなしをお願いされてしまうでしょう。もし弟御が取りなしを聞き入れたなら、国法をおろそかにしてしまい、聞き入れなかったら和気を壊してしまうだろう。そこで来ない方が好いと考えたのだ。」

李春

「全くお説の通りです。」

周侗

「お別れして久しくなりますが、幾人のご令息がおいでかな。」

知県

「先妻はすでにみまかりましたが、娘を一人残しました。十五歳になります。」

周侗

「ご子息がいないのなら、後添いをもらうべきでしょう。」

知県

「それがし些か持病を持っておりまして、時ならず発作が起きますので再婚しないのです。兄上の奥様はお元気でしょうか。」

周侗

「やはりみまかって、かなりになります。」

李春

「ご子息はおありですか。」

周侗は手招きして

「せがれよ、伯父上に挨拶しなさい。」

岳飛は声に応じて進み出て、知県に向かって挨拶した。李春はそれを見て笑って言った。

「兄上、またご冗談を。このようなお子さんが、いつ生まれたのですか。」

周侗

「実を言えば、お嬢様は実子ですが、この子はそれがしの養子なのです。名は岳飛と言います。弟御、彼の弓矢がどうだか見てくれませんか。」

李春

「お弟子さんでさえあのようですから、ご令息は定めし素晴らしいことでしょう。見る必要などありますまい。」

周侗

「弟御、これは国家のために英才を選抜しているのだから、公に従わなくてはなりません。まして、どうであれ人々を信服させなくてはなりませんから、どうしてそそくさと取りなして頂いてよいことがりましょうや。」

李春

「そうおっしゃるのなら、ものども、的を近づけよ。」

岳飛

「もう少しさげて下さい。」

知県

「少しさげよ。」

従者は返事をした。岳飛はまた

「もっとさげて下さい。」

李春は周侗に言った。

「ご令息は何歩くらい遠くまで射ることが出来るのですか。」

周侗

「愚息は幼いとはいえ、強弓を引きます。おそらく二百四十歩は射ることができるでしょう。」

李春は口では賞賛しながら、心中疑わしく思ったが、言いつけた。

「的を二百四十歩に据えよ。」

方々にお教えするが、岳飛の神のごとき力は、周先生が伝授した“神臂弓”、三百余斤の強弓を引き、また左右どちらからも射ることもできるのだが、李知県は知るよしもない。見れば岳飛は階を下りて足場を定め、弓を構えて矢をつがえ、ササッと続けざまに九本の矢を放った。かの太鼓をたたくものは、一本目の矢から打ちはじめ、そのまま九本目までたたき続けて、ようやく手を休めた。下手の試験見物の人々は声をそろえて喝采し、村々の武童たちは驚きあっけにとられた。三人の員外も、湯懐・張顕・王貴とともに茶店で見ていたが、やはり手を打って褒め称えた。すると、矢を取ってくる係の者が、泥の固まりと九本の矢を、まとめて捧げ持ってやってきた。

「こちらは、本当にたぐい稀な方だ。九本の矢が一つの穴から出て、鏃を寄せあっています。」

李春は大喜びして

「ご令息はおいくつになりますか。婚約はお済みですか。」

周侗

「むなしく十六年をすごしましたが、まだ縁談はございません。」

李春

「兄上がお嫌でなければ、娘をご令息に差し上げたく存じますが、如何でございましょうか。」

周侗

「それは願ってもないことですが、家柄が釣り合わぬのではありますまいか。」

李春

「兄弟の間でそのようなよそよそしい話は不要です。それがし、この一言で約束しました。明日、娘の庚帳*7をお送りいたします。」

周侗はお礼をして、岳飛を呼んだ。

「岳父殿にご挨拶しなさい。」

岳飛はただちに進み出て挨拶し、お礼を述べた。周侗は心ひそかに喜び、別れの挨拶に立ち上がった。

「他日、またお訪ねいたします。」

李春

「いえいえ、どうか拙宅までお運び下さい。」

周侗

「承りました。」

そこで李春と別れて岳飛とともに演武庁を下りると、屋台に入り、員外父子たちとともに、そろって県城を後に村に帰ったことはこれまでとする。

さて、李知県は公務が終えて衙門*8に戻った。翌日、娘の庚帳を書くと、書記を派遣して周侗の塾に届けさせた。書記は命を受けて、麒麟村にやってくると、人に聞いて王家荘に至った。小作が入って周侗に伝えると、周侗はあわてて請じ入れた。書記は書斎に入って周侗に会うと、挨拶をして座を定め、言った。

「わが殿の命を受けまして、お嬢様の庚帳を持って参りました。どうかお納め下さい。」

周侗は大いに喜び、岳飛に渡して言った。

「この李お嬢様の庚帳は、持ち帰って、家堂*9にお供えしなさい。」

岳飛は返事して、両手で受け取ると、家に戻って母に知らせた。岳夫人は大いに喜び、家堂に祖先を拝し、それからお嬢様の生年を見た。話すのも不思議なことに、なんと岳飛と同年同月同日同時刻の生まれであった。これこそ『縁は奇なもの味なもの』。このことはさておく。

こちら周侗は、心づけを包んで書記に渡した。

「遠路ご足労頂きまして有り難うございます。お礼する物もありませんので、些かのお食事代です。些少で恐れ入ります。」

下役が

「いえいえ。」

と言って、心づけを納めると、お礼を言って別れを告げ帰ったことは、これまでとする。

話は戻って、岳飛がまた家塾に行くと、周侗は言いつけた。

「明日、早めに、一緒に県城まで岳父殿へのお礼に伺おう。」

岳飛は直ちに答えた。

「承知しました。」

一夜が過ぎて翌朝の明け方、父子二人は洗面をすますと村を出て、県城まで歩いていった。県衙門の前にやってくると、二通の感謝状を屋敷の門に投じた。李春は直ちに屋敷の門を開いて出迎え、官舎に通した。挨拶を済ますと、岳飛は婚約の恩に拝謝し、李春は半礼を返し、席について語り合った。しばらくして、宴席が設けられ、三人がひとしきり飲むと、従者が使用人の食事を運び出して行った。周侗はそれを見て。

「われら二人は、歩いて参りました。使用人は連れてきておりませんので、どうかお気遣いなく。」

李春

「それならば、婿殿が参られても何もお贈りする物がありませんが、それがし何十頭かの馬を持っており、まだ売り終わっていませんので、ご令息に一頭お贈りしたいと思いますがいかがでしょう。」

周侗

「せがれは武術を学びながら、ちょうど乗り物が足りなかったところ。もしお贈り下さるのでしたら、まことに好都合です。酒は十分頂きましたから、一緒に馬を見に行って、それからまた戻って飲すとしましょう。」

李春

「いいでしょう。」

三人はそこで立ち上がり、一緒に裏手の厩にやってくると、馬丁に命じて

「轡をとり、馬を選ぶ準備をしなさい。」

馬丁は一声返事をした。周侗はこっそりと岳飛に言った。

「お前、しっかりと眼力を使って、子細に選びなさい。岳父殿が贈ってくださる物だから、取り替えるわけにはいかないからな。」

岳飛

「承知しました。」

歩いていくと、細かにながめた。彼はもともと心中、白馬が最も好きであった。色が好いものは、手で押さえつけると、足がみな萎えてしまった。続けざまに数頭試したがどれも同じ、一頭も意にかなうものは無かった。李春

「まさか、これらの馬が、みな役に立たないと言うのですか。」

岳飛

「これらの馬は、役に立たないわけではありません。ただ金持ちの子弟が派手に飾った鞍を置いて、春の散策や見物に行く足になるだけです。私の考えでは、戦場に出て干戈を交え、国家のために事業を成し遂げ、功名を立てることができる、そのようなものを選びたいのです。そのような馬が好いのですが。」

李知県は頭を振って

「こいつら何十頭は売れ残りですから、婿殿の足代わりにお贈りするだけのこと。どこにそのような好い馬がいましょうか。」

話しているさなか、突然、壁の向こうから馬のいななきが聞こえた。岳飛

「この声は、好い馬です。いったい何処にいるのでしょうか。」

周侗

「せがれよ、声だけを聞いて、馬を見ていないのに、なぜ好い馬とわかるのだ。」

岳飛

「父上、この馬の声が大きく響くのをお聞きになりましたでしょう。必ずや力が大きいに違いありません。ですから好い馬と申したのです。」

李春

「婿殿、その通りです。この馬は私の使用人・周天禄が、北方から買い付けてきたもので、もう一年余りになります。たしかに力は大きいのですが、人を見ると、やたらと蹴ったり噛んだり、だれも馴らすことができません。そのため、売り出しては返品され、そんなことが五・六回、しかたなく、壁の向こう側の塀の内側につないであります。」

岳飛

「なぜ、私に見せてくださらないのですか。」

李春

「婿殿には乗り馴らせないのではありますまいか。もし馴らすことができたら、差し上げましょう。」

そこで馬丁に門を開けさせた。馬丁

「岳様、ご注意下さい。この馬は人を傷つけようとします。」

岳飛は馬相を見ると、広袖の上着を脱ぎ捨てて、進み出た。その馬は人が来たと見るや、岳飛が近づくのを待たず、蹄を挙げて蹴りかかってきた。岳飛が身をかわせば、その馬、こんどは振り向きざまに噛みついてきた。岳飛は後ろにサッとかわすや、勢いに乗じて一つかみ、たてがみを握りしめると、拳を挙げて殴りかかり、続けざまに数発見舞えば、その馬は動こうとしなくなった。これぞまさしく

驊騮*10が伯楽に逢い、馳騁が王良に遇う*11

というもの。

この先どうなるのかは、次回のお楽しみ。


*1 科挙の最終試験、殿試合格者を御前に読み上げる儀式が「伝臚」。
*2 正確には、前あわせのベスト、もしくは、その裾を足まで伸ばしたもの。
*3 直訳すれば、袖をしぼる布。
*4 屋台は原文「棚」。遠くが見渡せるように高床に作った屋根付きの臨時客席で、茶や酒を供したものであろう。
*5 武は武科挙受験生を指す。童はすなわち童生で、科挙の第一段階の県試・府試・院試の受験生を謂う。
*6 科挙では、試験官と合格者は師弟関係となる。
*7 八字、すなわち生年月日時間の干支を書いたもの。相性その他占いの基本で婚約時取り交わされる。
*8 「衙門」とは、長官の邸宅兼庁舎。前が公務を執り行う庁舎、裏がプライベートな生活空間になっている。
*9 祖先を祭るほこら、廟。
*10 いにしえの名馬。周穆王の八駿の一。
*11 「馳騁」は本来馬を走らせる意であるが、ここでは「驊騮」と対句であるから固有名詞と取る。「王良」は春秋時代の名御者。