『都市芸研』第一輯/周信芳評価の一側面

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周信芳評価の一側面

藤野 真子

周信芳(1895~1975)の中国京劇史におけるポジションはなかなか興味深く思われる。その理由としてまず、京劇の本拠地たる北京ではなく上海を生涯の活動拠点としていたこと、そして殊に歌唱技術が批評の主要対象となる老生として、あえてしぐさ・科白を中心とした「做工老生」の道を選んだ-悪声のため選ばざるを得なかった-ことが挙げられよう。こうした大きな負の要素、特に長らく酷評された声質の問題を抱えつつも、解放後の彼はかの梅蘭芳と並び、京劇界二大巨頭の一人としての地位を確固たるものにした。突出した扱いを受けた原因には、早くから田漢など左翼系知識人と接触があった、演劇界における北京と上海とのバランスが考慮された等いろいろな理由が考えられるが、大衆的な人気があり、京劇の改革者として注目を浴びてはいたものの、周信芳を京劇界全体の頂点と見做す共通認識が全国レベルで形成されていたとは言い難い。現にこんにちでも、北方で麒派が特に尊重されているとはとても思えない*1。また同世代の老生全般を見渡しても、より安定した舞台評価を受けていた人物は他に幾人か存在する。では、周信芳の演技水準が彼らより劣っていたのかというと、決してそうではない。むしろ、こうした背景を持ちながら最上級の扱いを受けることに異論が出ないほど、周信芳の舞台は幅広い層に受容され、支持されていたのである。同時にそれは、歌唱にすぐれてこそ京劇老生という従来からの根強い捉え方に変化が表れた、ということでもある。今回、彼がそれだけの位置へ至るに相応しい評価を得ていた事実を、解放前夜の新聞・雑誌記事を紹介しつつ、見ていくことにしたい。周信芳が初舞台を踏んだのは、その芸名「麒麟童」が「七齢童」の誤記(呉方言では「lin/ling」の区別がない)から来ていることから分かるように、幼年期のことだと思われる。また、少年期に北京の喜連成(後の富連成)に身を置き、公演活動に参加したことも確かなようである*2。その後、上海にて本格的な職業俳優としての道を歩み始めるが、ここで参考として当時の劇評を一編紹介してみたい。

……しぐさはしっかりしていて気風は人に勝るが、ただ白鬚生(白い鬚を付ける役柄)に扮したときは怒気が激しすぎていただけない。のどがかれ、声もしわがれていて、潘月樵と同じ欠点がある。紗帽(官僚)に扮するのがいちばんしっくりしていて、『打厳嵩』の鄒応龍、『清官冊』の寇準、『群英会』の魯粛、『白門楼』の陳宮、『八大錘』の王佐、『御碑亭』の王有道、その人物を表すに情理を尽くすさまは、非常に的確なものである。

(玄郎「滬伶演最相宜之角色」『申報』1912年10月2日)
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『名伶秘本 麒麟童拿手傑作彙編』(1939年醒民出版社)の口絵

このとき周信芳は二十歳前だが、上記文章に見られる演目は『打厳嵩』を除いて純粋な做工戯ではない(いずれの演目も歌唱と共に科白またはしぐさを重視する)上、後日の常演演目ではないことから(『群英会』は時に演じた)*3、まだ試行錯誤の段階であったことが分かる。実は、同時期の『申報』は周信芳の演技に関する情報を比較的多く提供しており、ほかにも「一語一語が冷厳で深みがある」(健児「『収関勝』『悪虎村』『打厳嵩』」 1912年9月6日)、「(黄天覇を阻止する場面で)溌剌と飛びあがり、身のこなしも機敏。機を得て勢いを得る様は、非常に引き締まっていた」(玄郎「麒麟童之『八蜡廟』及金秀山之『穆柯寨』」 1912年12月23日)などといった評語を見ることができる。もっとも、この時期の評語は『申報』に限らず、「神気勝人」「入情入理」など常套句がまだまだ多用されており、演技の独自性にかかわるような詳細かつ具体的な表現をこれらから拾い出すことは難しい。

1920年代前半は長期の北方巡演活動を行うなどの影響で、地元上海で記事になることの少なかった周信芳だったが、後半になると次第に注目を浴びるようになる。とはいえ、新聞広告における連日の派手な宣伝文句などから推定される大衆的な人気に比して、劇評など舞台そのものへの言及頻度は未だ高いとは言えない。例えば、当時出版状況が充実し始めていた演劇専門誌において最も有力なものの一つに、『戯劇月刊』(劉豁公・鄭過宜主編、1928~31年)が挙げられるが、周信芳に関する文章はほとんど目にすることが出来ない*4。時に取り上げられることがあっても、肯定的評価を与えているものは少ない。しかし筆者は、拙論「周信芳と『梨園公報』」(『野草』60号1997年8月、中国文芸研究会)で論じたように、いわゆる「麒派」の確立期をこの1920年代末から30年代初と考えている。この時期に周信芳が行った多様な活動のうち、新歌劇
*5『潘金蓮』(田漢・欧陽予倩らと共同演出)の上演(1927年)、上海伶界聯合会の機関紙『梨園公報』への寄稿(1928~31年)、連台本戯『封神榜』の商業的成功(1929~31年)などは、いずれも彼の舞台生活における最大のメルクマールと目されるものだからである。特に注目すべきは『梨園公報』に掲載された二十余篇の文章で、自身の芸に対する直接の言及こそないものの、上海京劇における名優・名劇の紹介など史料的なもの、海派京劇俳優としての京劇改革論、さらには演劇そのもののあり方への提言など内容的に多岐に渡り、伝統劇に対する当の俳優自身の考えを知るための貴重な資料となっている*6。 さて、これに続く1930年代以降が周信芳の円熟期・安定期であり、冒頭で述べた彼のポジションに対するコンセンサスはこの時期に確定したと考えられる。観客レベルでは、麒派の演技を愛好する層-「麒迷」の登場が挙げられるだろうし、新聞紙上での「伶界泰斗」(『申報』「麒麟童先声奪人」1935年4月11日)、「伶界革命鉅子」(同、「麒麟童将演『王宝釧』」1935年7月1日)などいった冠称からも、彼の京劇界における位置がどれほどのものであったか容易に見てとれる。また雑誌においても、『戯劇週報』(1936~40年、王雪塵主編、上海戯劇週報社発行)では「麒麟童専号」という名で周信芳の特集が組まれるなど、積極的な紹介・評価の文章が多数掲載されるようになる。

世人で未だ麒の芸を理解していない者は、彼を何かと貶めるが、惜しむらくはみなもっともなようでそうではなかったり、理解に誤りがあったりするものなので、私はこれを糾さずにはおれない。麒麟童の唱は、しわがれ声であるがゆえに調子が外れることもあるが、響きは味わい深く、聞いて激賞しない者はない。『追韓信』『跑城』などのレコードが十何万枚も売れているのがその確かな証拠である。(中略)そのしぐさは、深みがあり精緻で、この世に並ぶ者がないと言ってもよい。すぐれた目つき、伴奏にピッタリ合った一挙手一投足、「圓場」のおちつき、脚運びのおもおもしさ、「理鬚」「捽鬚」の美しさ、「搶背」「吊毛」「僵尸」の確実さ、「靠把」での武功の老練さ、「翻袖」「踢袍」のきっぱりした様子、これらいずれもが未到の境地に達しているのである。数年前の芝居は、まだオーバーアクションに流れがちであったが、昨年捲土重来ののちは、もはや名人の域に達していると言っても良く、完全に荒さが抜けている。もし、彼は気負いすぎだなどと言う者がいれば、その人は最近の麒麟童の芝居を見ていないに違いない、と断言できる。

(白雪「麒麟童芸術我観」『戯劇週報』第1巻第6期 1936年11月14日)
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『戯劇週報』「麒麟童専号特集」の目次

欠点とされていた声質に味わい深いものとして肯定的な評価が与えられているなど、この文章は一見、単なるファンの熱烈な賛美のような感があるが、著者としては京劇改革の第一人者としての周信芳を大まじめに論じているのである。ちなみにこの雑誌の執筆陣は、演目の来歴や舞台上の決まり事に関する詳細な知識の保有を自負する、いわゆる伝統劇専門家とはやや異なる層で構成されているようである。ゆえに知識水準にはばらつきがあり、全てを専門家の視点から論じたものとは見做し辛い。しかし、他のメディアの論調もおおむね類似したものであり、こうした空気が伝統劇専門家らの発言に影響を与えた可能性がある。一例として、上海芸術研究所研究員の高義龍氏の弁によれば*7、1930年代に活躍した劇評家の張古愚は、当初京劇の伝統の保存を目指し海派京劇全般に対して批判的であったが、やがて周信芳の芸の前に「屈服」したのだという。彼に限らず、京劇専門家・劇評家を自認する一群の人々は、一部を除きかなり早い時期から上海京劇全般に嫌悪感を表していた。そして前述のように、老生俳優として型破りであった周信芳に対しては、手厳しい非難か、あるいは無視のいずれかの態度がとられていたが、高氏の言は彼らの軟化あるいは転向を裏付けるものであるといえよう。ここで実際に、張古愚の周信芳に対する評論二篇を比較することで、評価の変遷を見ていくことにする。

最近、各地の平劇(京劇)を愛護する方々から、本刊に「つとめて『三害』を除け」*8とのお便りが届いている。三害とは、馬連良・麒麟童・程硯秋のことである。馬・麒・程をなぜ除かねばならないのか、当然相応の説明がなければならぬだろう。(中略)……麒麟童のしぐさだが、『一棒雪』などにあっては、適材であると言えよう。『四進士』では、オーバーアクションに過ぎるように思う。宋士述(傑?)は怒気の抜けきった憎たらしい訴訟代行人であり、切れ者で陰険なのはよろしいが、怒りがチラチラ見えるのはよくないのだ。「害」は「做」にあるのではなく、「唱」と「白」、つまりしわがれ声で、一語一語に力が入っていることにある。『別窰』は、「非戦主義」の唯一の佳作で、若い夫婦が生き別れにならんとする嘆きの場面を描いたものである。平貴に扮する者は、低くおだやかな声で唱ってはじめて悲惨な様を表現するのがよいが、麒麟童は慷慨してそこからはみ出てしまっているので、辻褄があわなくなっている。また、いくつかの科白は、いたるところで平仄を取り違えている。この際、怒気は小さなことだ。人はそれを以て「二易」とする。学び「易」いものは歓迎を受けることもた「易」い。ついには「蓮花落」*9のように、長江流域で盛んに行われるようになるのである。内地で俳優を招聘するとき、看板役者は必ず麒派のしばいを唱えるものを選ぶし、甚だしくは滑稽劇団と契約することもまたおなじことである。……

(「後台」 『戯劇旬刊』第12期 1936年6月2日)

この文章では周信芳の演技について、基本的に否定的なトーンで語ることに終始しており、やはり歌唱にすぐれてこそ老生という観念が根強いことを窺わせる。また注目すべきは、做工老生としてしぐさと並んで重要な科白に対して、「過剰である」として辛辣な批評がなされていることである(もっとも、これは周信芳批判では非常に多く見られる言辞である)。ちなみに『戯劇旬刊』(1935~37年、上海国劇保存社)の編集には、鄭過宜・張肖傖ら著名な劇評家が当たっているが、張古愚は創刊号から精力的に文章を発表しており、リニューアルされて『十日戯劇』(1937~41年)と名前が変わると編集の一端をになうまでになる。次に引用するのは、三年後同誌に掲載された文章である。

「面に芝居あり」。つまり眼に生気があれば、眼からエネルギーが出でて、「面に芝居がある」ようになるのだ。両眼による表現がなければ、決して面に芝居をみることはできない。周信芳の目つきは大変すぐれている。彼を持ち上げるものはみな「背に芝居あり」というのが好きなようだが、私は「周信芳の目は語ることができる」とのたとえには及ばぬと思う。瑞徳宝によると、譚鑫培がもともと「烏龍院」を演じようとしなかったのは、自身の目が小さすぎて眼力が足りないことを知っていたからだという。惜姣が「宋江よ、宋江、私はあんたみたいなまぬけを……」というせりふを言うときの、(宋江の)こなしでの目つきは廬台子(勝奎)に及ばない。だから、廬台子が死んで何年も経ってから譚ははじめてこの劇を演じたのだという。周信芳の眼は、喜・怒・哀・楽の外にも、驚き・おだやかさ・落ち着き・荒々しさ、全てを説明することができる。ただ惜しいことに、斜視が非常に多い。

(「談周信芳之好処(下) 六、眼神」 『十日戯劇』
第2巻第15期 1939年6月30日)

先の文章に較べると、その題名が示すように周信芳の演技を肯定的にとらえようとする姿勢が現れている。張古愚による周信芳評価の転向がこの三年の間に行われたのかどうかは、未だ想像の域を出ない。ただ、少なくとも京派のみ支持する「劇評家」らの文章に見られた「正宗」意識から解き放たれつつあることは見てとれる。彼のような伝統劇の素養を備えた人物の手になる、長所短所を厳密に分析した文章は、熱狂的なファンや逆に反感を持つ人間が書いたものとは異なり、冷静かつ的確である。ゆえに、周信芳の演技が当時どれほどの水準に達していたのか、我々に信頼に足る情報を提供してくれる資料と見なすことができよう。余談ながらこの時期になると、まだ表現的にはいくぶん硬いものの文章に白話が用いられ、決まり文句的なことばに頼った表現も、残滓が全くないわけではないがかなり減少している。こうした文体の変化は、劇評から具体的な情報を読みとるためには言うまでもなく歓迎すべきことである。

張古愚の二篇の文章から見出せるのは、周信芳が京劇専門家を自認する人々に迎合したのではなく、彼の演技スタイルそのものが彼らにも受容されるようになった、ということであろう。高義龍氏が述べた「屈服する」ということばは、それまで規格外のものとして否定的にとらえるしかなかった周信芳の演技術-しぐさ、表情、科白、歌唱、いずれも同時代の京劇界においては、確かに群を抜いて個性的なものである-をも評価しうる感覚を、評者側が持つに至ったことを示している。こうした現象がもたらされた背景には様々な要素が存在しているが、その中から考えられることを述べてみたい。まず、本来「伝統演劇」京劇に対する思い入れが北京ほど強烈ではないはずの上海で、正統性や規範に縛られるのはごく一部の層だったはずである。圧倒的多数は新奇なもの、個性の強いものに注目していたはずであり、事実、周信芳が専門誌においても評価を得始めた時期に、評劇や越劇など新興の地方劇が都市部観衆の支持を得て大発展を遂げている。このように大衆の持つ、地方劇の「わかりやすさ」を受容するような空気は、言うまでもなく視覚を通じた直接的な理解を身上とする海派京劇にも共通して見られるものであり、それらを支持する熱気が京劇の正統性・様式性に拘泥する層を突き動かすに至ったのであろう。最後に、先の『戯劇週報』「麒麟童専号」から次の文章を紹介してみたい。

我々のこうした熱烈な「麒芸」への賛美が、「譚派を範とする」老先生方の反発を引き起こすことはよく分かっている。彼らは激しく拒絶し、「三生有幸」*10を蛇蝎のように恐れる。しかし、これはどうしようもないのではないか?私は老譚(鑫培)を崇拝もせず、感服もしない、というわけではない。だが、老譚がすばらしいといっても、彼はもうこの世にいないのだ。我々が必死に彼のあんなところやこんなところがいいと言ったところで、いったい何の意味があるというのか。私は老譚がどんなにすばらしかったかを述べるより、現在彼の後裔を名乗る一群の人々がなんの進歩もなく、演技はわかりにくく、ただ目を閉じて顔をしかめて舞台で唱うだけというありさまで、譚派の名誉を汚していることを、ハッキリ訴えたい。芝居を語ることに、どうして他のこととの違いがあろうか?我々はなぜ、過去を捨て去らずに未来を捨て、そして現実をとらえようとしないのか?……

(梯公「麒専雑感」 『戯劇週報』第1巻第6期 1936年11月14日)
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1995年発売の絵はがき

これはある種極端な物言いのようではあるが、芸を保守することが逆に京劇の生命力を損なってしまうという考えは、こと上海にあってはすでに広く受け入れられていたのである。実際は、伝統劇専門家が賞賛した譚鑫培や梅蘭芳とて、そもそもは前時代の演技に大幅な改革を加えたもの*11であり、特に後者には登場当初に異端視する声も一部存在した。そうした声は、俳優の個性・演技の熟練・観衆の嗜好とがかみ合った時に圧倒される。周信芳もまさにそのような時期を迎え、各レベルの受容者からの安定した評価を得て、解放を迎えることになったのである。以上、今回はごく一部を紹介したに過ぎないが、周信芳に関する1930~40年代の資料は相当数残っている。こうした文字資料から各々の演目における演技内容の詳細を再構築することを、今後の課題としたい。


*1 伝承者が極めて少なく、注目度が低いという事情をまず考慮すべきだが、筆者の個人的経験として、周信芳ではなく他の北方老生を研究するよう、現地の京劇関係者に勧められたことを紹介しておきたい。
*2 唐白弢『富連成三十年史』(白化文修訂、2000年同心出版社。原著は1933年出版)「搭班学芸之学生」
*3 周信芳の魯粛については、楊貌「麒派魯粛」(『周信芳芸術評論集』1982年中国戯劇出版社315~316頁、原載『新民晩報』1961年6月13日)に紹介されている。
*4 ただし『封神榜』に関しては、同誌第1巻第9期(1929年3月10日)に周信芳の伯邑の演技に関する文章が掲載されている。さらにこれに先立つ1928年8月30日の『申報』に、劉豁公は「天蟾舞台『封神榜』之特色」という一文を寄せている。
*5 『潘金蓮』の演劇としての形態については、拙論「欧陽予倩『潘金蓮』論」(『中国学志』同人号 1998年、大阪市立大学中国学会)を参照。同時代の記録には「京劇」「話劇」双方の呼称が用いられるが、田漢は「新歌劇」と称した。
*6 『梨園公報』の周信芳執筆記事目録等に関しては、本文中に紹介の拙論「周信芳と『梨園公報』」を参照。
*7 1997年8月同氏へのインタビューによる。
*8 原文は「除三害」、同名の演目にかけたもの。
*9 本来、曲芸の名称として蓮花落が指す範囲は幅広いが、ここでは東北の蓮花落から発展し、上海でも人気を博した評劇を指すと思われる。
*10 『蕭何月下追韓信』で周信芳扮する蕭何が逃亡した韓信に追いついた際の唱い出しの句で、ここに来ると必ず劇場中の観客が合唱したという。
*11 註6参照。周信芳は『梨園公報』創刊から「談譚劇」という文章を「士楚」名義で連載、譚鑫培の革新性を説き、その演技をなぞり死守することに終始する一群を厳しく非難した。