『都市芸研』第一輯/山西皮影戯研究の現状と課題

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山西皮影戯研究の現状と課題—孝義・太原調査ノート

千田 大介

1.はじめに

皮影戯、すなわち影絵人形芝居は、歴代の資料が乏しい上に、民国時期以降、北京などの大都市部からはほとんど姿を消してしまっため、研究者の注目を浴びることは稀であった。しかし、皮影戯は中国における通俗文芸の黎明期である宋代には早くも文献にあらわれ、以後、元明清を経て現代に到るまで各地に流行し、文化史的に大いに影響力を発揮した演劇であったと思われるので、それを研究することで中国通俗文学史、および現代の伝統演劇・文芸に関する新たな知見を得ることができよう。

かかる観点から、筆者はこれまで中国都市芸能研究会の一員として北京西派皮影戯および冀東皮影戯に関する調査を進め、文献資料の収集やインタビューを通じて一定の研究成果を上げるに到った。その成果をまとめたのが「北京西派皮影戯をめぐって」(平成9-10年度科学研究費基盤研究(c)成果報告書『近代中国都市芸能に関する基礎的研究』、2001)である。

しかし、皮影戯の通俗文学史的および伝統演劇史的作用を明らかにするためには、独り北京皮影戯を対象とするのみでは不足であり、各地の皮影戯との比較対照を通じて、それぞれの地域的な特性および中国皮影戯の普遍的な特色を解明する作業が必要であることは、論を俟たない。

皮影戯は中国のほぼ全土に分布しているが、これまでの研究を通じて北京西派皮影戯との共通点が看取されるという情報がインフォーマントから得られているものに、山西皮影戯がある。山西は伝統地方劇やさまざまな演劇関連文物の宝庫として知られるが、例えば、明代には山西の楽戸が北京の演劇文化を支え、清代には山陝商幇の援助のもと梆子腔が北京に流行したとされるように、隣接する北京・河北地域にさまざまな文化的影響を及ぼしている。従って、皮影戯についても同様の関係が存在した蓋然性が高く、北京皮影戯との対照研究材料として好適であると考えられる。

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山西省地図

中国では、近年、文史資料や戯曲志・新編地方志などの編纂を通じて、各地の伝統演劇・芸能に関する情報の蓄積・整理が進んだおかげで、概略的な知識は比較的容易に得られるようになった。しかし、それらには必ずしも我々の知りたい詳細な情報が含まれておらず、また、台本などの関連資料を目にすることもできない。特に、山西省は経済的に立ち後れた地域であるため、紙媒体・電子媒体による情報発信が北京や江南地域に比べて少なく、現地調査による資料収集は欠かせない。

筆者は、2001年11月中旬から下旬にかけて、山西省中部、孝義市一帯に流行する所謂晋中皮影戯に関する予備的な現地調査を実施し、関連施設を訪問して現地研究者への聞き取り調査を実施するとともに、太原の山西省戯劇研究所を訪問した。以下、その結果を総合し、今後の調査に向けて山西皮影戯研究の現状と課題とを明らかにしたい。

2.山西皮影戯関連文献資料

2.1.山西皮影戯の系統

山西は中国戯曲演劇史上、極めて重要な地域である。宋金には諸宮調が流行し、金末に雑劇が形成されているし、その当時から清代に到る戯台や墳墓のレリーフなどの戯曲資料も大量に現存している。また、現在でも各地にさまざまな伝統地方劇が伝承されている。

山西に流行する皮影戯は、大きく二つの系統に分かれる。一つは晋南皮影戯で、汾河下流域の侯馬・曲沃を中心とする臨汾盆地と運城盆地とに分布する。黄河を隔てて接する陝西東部、渭南地域と極めて密接な交流があり、晋南皮影戯の影人造形・音楽などは、陝西東路皮影戯、すなわち碗碗腔皮影戯とほぼ同じであるとされる。

一方、晋中皮影戯は、太原盆地南端の晋中地域に流行し、その中心地は現在の孝義市である。同地の皮影戯には、清代以前から伝わる土着の皮腔(もしくは皮影腔)皮影戯、清末民初に陝西系の皮影戯が流入した碗碗腔皮影戯の二種類がある。

2.2.文献資料

2.2.1山西皮影戯総論

以下、筆者がこれまでに知り得た晋中・晋南を含む山西皮影戯関係の文献を列挙し、その内容についてごく簡単に紹介する。山西皮影戯を研究する上で、第一に参照すべきは、

  • 『中国戯曲志・山西巻』(中国戯曲志編輯部編、文化芸術出版社、1990)

である。『中国戯曲志』(以下『戯曲志』)は「人戯」、すなわち人が演ずる劇のみを取り扱うため、皮影戯や木偶戯など「偶戯」には原則として項目を立てていない。このため、皮影戯が盛行する地域である河北・陝西等の巻にも皮影戯の項目は立てられていない。独り山西巻にのみ皮影戯関連の項目が見られるのは、解放後、皮影戯が人戯に改変上演されたからである。

同書は、「孝義碗碗腔」「孝義皮腔」の項目で、晋中皮影戯の歴史や劇団組織・上演方式・音楽などを総合的に解説する(詳細については、インタビュー結果とあわせて後述する)。また同様に、晋南皮影戯が解放後人戯に発展した「曲沃碗碗腔」の項目でも、陝西皮影戯が清末に進出したという晋南皮影戯の歴史に言及する。現在のところ全国の皮影戯を網羅的に扱った唯一の専著である

  • 江玉祥『中国影戯』(四川人民出版社出版社、1992)

およびその台湾版で、若干の増補がなされている

  • 江玉祥『中国影戯与民俗』(淑馨出版社、1999)

は、当然のことながら山西皮影戯にも言及する。記述は、第四章「清代影戯鳥瞰」、第五章「民国影戯的衰落」、第八章「中国影戯的流派及其分布地域」などの各章にわかれ、それぞれ1~2頁を割いている。全国の皮影戯を概述する一環としての言及であるため、記述は必ずしも詳細ではない。

  • 張一、朱景義「山西皮影」(『文史知識』1989年第12期)

晋中・晋南皮影戯の影人、音楽、劇団と流行地域などを概説する。

2.2.2晋南皮影戯

晋南皮影戯のみを扱った文献には、以下のものがある。

  • 行楽賢「晋南皮影芸術雑談」(『民族』1989年第9期)

見開き2頁ほどの記事だが、晋南皮影戯が南北二路にわかれ、臨汾盆地の曲沃・新絳を中心とする地域に流行する北路は碗碗腔を用いること、運城盆地の夏県を中心に流行する南路は眉戸や蒲州梆子を交えること、レパートリーや音楽の概説、更には上演コストが低く地域に経済状況に合致していること、小唐王(五代後唐の李存勗)を祖師爺とすること、および上演に関する習俗などを、幅広く紹介する。

  • 常志武「悠雅委婉的曲沃碗碗腔」(『山西劇種概説』、山西人民出版社、1984)

曲沃碗碗腔戯の概説で、その前身である晋南皮影戯にも言及している。内容は『戯曲志』山西巻とほぼ同じ。この他、江玉祥『中国影戯与民俗』巻末に付された参考文献一覧には、影人作家兼収集家として著名な侯馬市文化館の廉振華氏による新聞・雑誌記事を多く著録しているが、ここでは割愛する。以下の文献は、江氏の目録に未収録である。

  • 王沢慶「抄本皮影戯《西廂記》浅析」
  • 行楽賢「河東木偶、皮影探源尋流記」

いずれも、傅仁傑・行楽賢主編『河東戯曲文物研究』(中国戯劇出版社1992)に収録される。前者は侯馬で発見された、皮影戯版『西廂記』の紹介。後者は、木偶戯・皮影戯の音楽、上演形態などを概述したもの。文史資料には以下の二編が見える。

  • 段士樸「曲沃的木偶・皮影」(『曲沃文史』第四輯、中国人民政治協商会議曲沃県委員会文史研究館編、1989)
  • 馮安沢「皮影画家廉振華」(『侯馬文史資料』第三輯、中国人民政治協商会議山西省侯馬市委員会文史資料研究委員会編、1988)

前者は晋南曲沃の木偶戯と皮影戯の概況を概説したもの。清末から民国・解放後に到る上演情況や劇団の変遷、レパートリーなどが略述され、また1981年に曲沃の下裴荘郷裴南荘三益橋西橋南側で発見された金代の墳墓から、影人と演劇人物の壁畫が発見されたとの情報が得られる。後者は、廉振華氏の略歴紹介。

  • 曹暁芳「山西侯馬皮影戯考察報告」(『交響-西安音楽学院学報』第19巻第1期、2000)

曹氏は執筆時、同学院修士課程在籍。現地調査をふまえて、侯馬皮影戯の音楽や上演方法を詳述する。

2.2.3晋中皮影戯

次に、晋中皮影戯関連の文献資料を見ていこう。

  • 『孝義県志』(孝義県地方志編纂委員会編、海潮出版社、1992)

いわゆる新編地方志である。皮影戯関連の記事は、主に巻二十九「文化」*1以下に収められる。記載内容は多岐にわたる。晋中皮影戯の歴史・声腔に関する解説の内容は『戯曲志』とほぼ同じであるが、劇団名や人名、更には歴代の戯班や皮影芸人の師承図を掲載するなど、極めて詳細。皮影戯の台本については、『封神演義』『西遊記』や解放後の新編劇の制作過程、後述する孝義市皮影木偶芸術博物館に収蔵される皮腔影戯・碗碗腔影戯の伝統台本目録などを収める。晋中皮影戯を研究する上で、現在最も重要な文献である。

  • 張思聡、王万万「孝河義水潅奇葩-孝義碗碗腔概述」(『山西劇種概説』、山西人民出版社、1984)
  • 張思聡、王万万「金斗山澗蔵古花-孝義皮腔概述」(同上)

皮腔・碗碗腔のそれぞれの歴史・音楽的特色等を解説したもの。内容は『中国戯曲志』に近いが、楽譜を載せる。

  • 侯丕烈「山西民間皮影」(『山西民間芸術』山西人民出版社、1991)

山西の民間美術に関する写真集に付される解説文。署名は無いが、今次の調査で侯丕烈氏の文章であることを確認した。晋中皮影戯について、歴史、レパートリー、音楽、美術などを総合的に概述する。

  • 侯丕烈「中国皮影戯的発祥地在孝義」(『中国社科成果要覧』中国文史出版社、2001)

中国皮影戯が春秋時代、孝義に於いて卜子夏等によって創始されたとの説を述べるが、妥当性は低いと言わざるを得ない。

  • 侯丕烈「山西皮影的造形芸術特色」(『栄宝斎』中国美術出版総社、2000年第6期)

晋中皮影戯の背景・影人について、デザイン・紋様などの観点から解説したもの。

  • 高巨寿「挑籤伝人-四訪皮影木偶操作老芸術家梁全民先生」(『中国社科成果要覧』中国文史出版社、2001)

孝義の老芸人である梁全民氏が、1999年8月に山西省介休市の張壁古堡の戯台で行った皮影戯上演の報告。梁氏の略歴、孝義皮影戯の解放後の変遷と現状について略述する。

2.2.4図版・映像

山西皮影戯を扱った図版資料には、以下のものがある。

  • 『中国美術全集・工芸美術編12』(人民美術出版社、1988)
  • 『山西民間芸術』(山西人民出版社、1991)
  • 『中国民間美術全集・4 山西』(人民美術出版社、1993)
  • 『中国民間美術全集・12 遊芸編・木偶皮影巻』(山東教育出版社・山東友誼出版社、1995)
  • 『中国郷土芸術』(新世界出版社、2000)

映像資料に以下のものがある。

  • 『山西皮影戯』(VCD)(金卡文化事業公司、1995)

台湾のパソコンソフト情報誌の新譜VCD情報に掲載されていたが、未入手。

以上の先行研究によって、山西皮影戯の概略と研究史上の問題点について把握することができる。しかし、いずれも概説のレベルにとどまっており、台本資料や学術的な聞き取り調査記録などの基礎文献資料、あるいは上演の情況を示す博物資料などに関する情報は十分とは言い難く、文献間の相互矛盾も見られる。山西皮影戯を研究する上での現地調査の必要性が理解されよう。

3.孝義予備調査

3.1.調査日程

今次の調査は、大学祭期間を利用した短期間のものであり、しかも今後の本格的調査に備えた現地情報の収集と人脈形成とに目的があったため、比較的強行日程で各地を回ることになった。行程は以下の通り。

2001.11.17北京到着
2001.11.19夜、空路太原に
2001.11.20午前:孝義に移動
午後:孝義市皮影木偶芸術博物館見学
2001.11.21午前:侯丕烈氏訪問
夜:介休へ
2001.11.22午前:張壁古堡、后土廟戯台見学
午後:太原に移動
2001.11.23午前:山西省戯劇研究所訪問
2001.11.24朝:北京に移動

以下、今後の調査のための備忘として、交通機関について記しておく。

北京-太原間は石家荘経由で高速道路が開通しており、北京の西南郊外、三環路沿いの麗澤橋長途汽車站から高速バスがかなりの本数出ている。所要時間は約6時間。北京-孝義の長距離高速バスも運行しているようだ。鉄道の場合、北京-孝義の直通便は無い。太原行きは一日数便出ているが8~10時間かかる。今回は時間の都合上、飛行機を利用した。北京-太原には中国東方航空の夜便が、太原-北京には同じく朝便が就航している。所要時間は約1時間。太原武宿空港から市街までは、タクシーで30分ほど。

太原から孝義などの呂梁地区に向かうバスは、汾河の西岸、南内環西路沿いの長途汽車西站から出る。マイクロバスが一時間に一本程度運行しているので、特に予約の必要はなかろう。

なお、今回、孝義に一泊しかできなかったのは、孝義市が未解放都市であったためである。筆者はそれと知らずに宿泊したため、二日目にホテルの部屋に訪れた現地公安の係員に調書を取られ、即刻孝義を退去することを命じられた。孝義を訪問する際には、あらかじめ旅行証を取得しておくか、汾陽・介休などの近隣開放都市に宿泊する必要がある。

3.2.孝義市皮影木偶芸術博物館

今回の孝義訪問は、同博物館に関するWebページを見かけたのが一つのきっかけであった。孝義到着後、長途汽車站で市街地図を求めたが市販されていないようで、見あたらなかった。しかし、一時間も歩けば一周できるほどの規模の小都市であるため、博物館を発見するのは容易であった。

孝義市皮影木偶芸術博物館は、市の長途汽車站から介休方向に3分ほど歩いたところにある。隣には、皮影木偶芸術学校が併設されており、見学中も博物館の敷地内で学生が楽器の練習をしていた。

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孝義市皮影木偶芸術博物館

普段は訪れる人も少ないと見え、外にチケット販売所も見えないし開館時間も明示されていない。昼過ぎに訪ねたら係員が昼休み中であるために門が閉まっており、夕刻に再度足を運ばねばならなかった。門を入って右の事務室でチケットを購入すると、係の女性が鍵を持って展示室を開けながら案内してくれた。普段は、訪れる人も少なく展示室も閉じられているのである。

博物館は寺廟様式で、左右の廂房と中央の堂房からなる。係の女性の話によると、建物自体は新しく、1980年代後半の竣工。それから十数年たつが、未だに正式公開されていないとのことである。

入って右手の廂房には、孝義出土の青銅器や仏像、明清代の民具、古建築の模型などが展示される。しかし、管理状態はお世辞にも良いとは言い難く、展示物には埃が積もっていた。

博物館の奥は塀によって仕切られ、その手前には当地の名産である琉璃瓦の塔が二つ建っている。塀の奥は戯台の展示場である。計五基の戯台が展示されており、いずれも孝義市内で実際に使われていた戯台を移築したものである。そのうち正面の一基は大型の人戯の戯台、残りの四基は小型の皮影戯専用の戯台である。木偶戯の戯台も兼ねているものもある。皮影戯は道具が少なく巡回公演に適していることがメディアとしての特長の一つであり、移動式のスクリーンに投影して上演するのが一般的で、北京・冀東で専用戯台が設けられた例を筆者は寡聞にして知らないが、しかし、河北省蔚県留荘鎮白中堡門外の観音廟には明代の木偶・皮影専用戯台である「灯影戯台」が存在するように*2、全国的には皮影戯の盛行した地域では専用戯台が設けられることもあったようだ。

皮影戯戯台はいずれも幅は4~5m。後台は地面より階段四段分、80cmほど高くなっており、スクリーン部分の下縁は都合地面から120~50cmほどの高さになる。影人・木偶の視認性を高めるための設計であろう。扉の隙間から後台を覗くと、椅子や机が設置され、左右に渡された針金には楽器が懸けてあり、かつ電灯も備わっていた。実演可能な状態に維持されているようだ。

中央の大型の人戯の戯台も、中央だけを区切って戯棚を組めば、皮影戯の上演が可能であるという。

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皮影戯台(中は木偶戯台兼用)

奥に向かって左側の廂房は、演劇関連の展示室になっている。

皮影戯は棟がいくつかに区切られた、最も奥寄りの部屋に展示されている。スクリーンに投影する形で孝義の影人・背景を展示するとともに、奥には実演用のスクリーンも設けられている。

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影人の展示

また、皮影戯関連資料として、劇団が皮影戯上演の依頼を受け付けるために作成した契約文書とその版木が二種類展示されている。一つは五美園、もう一つは二義園のものであり、『孝義県志』によると、いずれも解放時期まで存続した皮腔皮影戯の劇団である。契約書には、劇団の物品に損害が生じた際の賠償責任、上演費用の支払い責任が明記され、上演の期間や劇団の上演にかかる油、茶葉などの消耗品の分量を記入するようになっている。契約書は二段組みで上下同じ内容であり、契約成立時には切り離して双方が保管したものであろう。

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合同

皮影戯上演時、点戯に使用されたと思われる戯目単も二種展示されている。いずれも折本型式。一つは、『孟津県』『澠池県』『穿心釘』『上崑崙』など、晋中皮影戯のうち皮腔の中心レパートリーである『封神演義』ものが列記され、一方には『困淮南』『観音堂』『龍鳳鐶』『宝連珠』等の碗碗腔皮影戯の演目がならぶ。

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戯目単

中ほど、木偶戯の展示室には、当地の木偶のみならず、全国の木偶が集められている。五美園の可搬式の木偶戯台も展示される。さらに正門よりには、晋劇・蒲劇など人戯の展示室があり、臉譜・衣装などが展示されている。また、院子中央の堂房には、テレビ放送用の木偶戯の大がかりな舞台セットが展示されている。

以上のように、未だに正式オープンはしていないとはいえ、皮影木偶芸術博物館は規模が大きく、しかも現地に密着した独特の展示内容をもっている。今回は館長が不在だったこともあり、台本など皮影戯関連の収蔵品や博物館の活動に関する詳しい説明を聞くことができなかったが、この点は次回以降の現地調査の課題としたい。

3.3.侯丕烈氏訪問

博物館見学後、侯氏を文化館に訪ねたが、おり悪く会議のために不在であり、二日目の午前中に再訪することとなった。

3.3.1.侯丕烈氏略歴

侯丕烈氏より頂いた手製の冊子『侯丕烈皮彫作品』によると、侯氏は1939年、平遥の生まれ。三歳で孝義に移り、大学卒業後、太原で美術関係の仕事をつとめた後、1975年に孝義文化館に配属された。影人の収集家として知られ、収蔵点数は5000点にものぼり、『中国美術全集』等にも収蔵品を提供している。また、影人作家でもあり、呂梁地区より「呂梁人民芸術家」、UNESCOより「一級民間工芸美術家」の称号を受けている。伝統的な影人のみならず、西洋絵画風の鑑賞用影人をも制作している。

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侯丕烈氏
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侯氏所蔵明代紙窓影影人(『中国美術全集』)
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皮影ベートーベン

侯氏はまた晋中皮影戯研究の第一人者であり、数々の関連著作があることは第一章に述べた通りである。侯氏によれば、既に『山西皮影芸術』という大著を書き上げて、原稿を数年前に山西人民出版社に渡したのだが、資金的問題からか、未だに刊行されていないとのことである。

今回の訪問での聞き取り時間は二時間ほど。予備調査であるので、晋中皮影戯のアウトラインを把握することに重点を置いた。以下、その聞き取り調査の結果を、『孝義県志』『中国戯曲志』山西巻などによって適宜補足しつつまとめる。

3.3.2.晋中皮影戯概説

●歴史と現状

孝義は「皮影之郷」の称があり、古くから皮影戯が盛んに行われていた。侯氏は春秋時代に孔子の門人である卜子夏らによって晋中皮影戯が創始されたとの説をとなえるが、石碑や出土資料によって孝義における皮影戯の存在が確認できるのは、金元代以降である。前掲『中国戯曲志』山西巻は、1980年に元大徳二年の古墓から嗩吶を吹く童子の傍らに影人を操る童子が描かれていたという*3。侯氏によるとその墓は工事の際に発掘されたもので、取り壊されており現存しない。また、壁畫の写真も、機材が揃わなかったために撮影されていないが、複数の作業に従事した人への聞き取り調査を通じて、実在したことを確認しているという。

また、侯氏は元明代のものとされる影人を所蔵しており(前ページ図参照)、それは『中国美術全集』工芸美術巻にも収録されている*4。侯氏の部屋には、自身の手になるそのレプリカが飾られている。

清末民初には、碗碗腔皮影戯が陝西から晋南を経由して孝義に伝播し、定着した。このため、現在の孝義皮影戯影人の造形は、陝西皮影戯に似通っている。

皮影戯上演は、解放前は非常に盛んで、孝義市内だけで50~60の民間劇団があり、その大半は専業劇団だった。劇団の活動範囲は孝義にとどまらず、汾陽・介休・平陽さらには太原など、広く太原盆地各地に及んだ。戯台も多数建設され、孝義市内に存在した計120基の古戯台のうち、12基が皮影戯専用戯台であった。現在、民間劇団は梁全民氏を団長とする皮腔を主体とする劇団を残すのみで、しかも団員はいずれも高齢である。公営劇団は、文化館と皮影戯博物館に一つずつ存在する。一方、晋南皮影戯の劇団は、既に消滅しているという。

●音楽

晋中皮影戯に用いられる唱腔は、三つの系統に分かれる。

皮腔(皮影腔)は、孝義に古くから伝わる皮影戯の声腔で、嗩吶を主伴奏楽器とし、京劇の吹腔に似る。紙のスクリーンを使うことから紙窓影とも称される。『戯曲志』によれば、皮影腔は板腔体に分類される。徴調式で、平板・流水などがあり、七字・十字上下句方式を基本構成とする。侯氏によれば、板式はシチュエーションによって、演唱者が決定するという。『戯曲志』によれば、伴奏楽器には小嗩吶・笙・呼胡などの吹奏楽器、亮鑼・二捂眼・馬鑼・鐃鏺・木頭などの打楽器がある

。碗碗腔は別名月調、紗のスクリーンを用いることから紗窓影とも称される。清末民初に陝西から流入した。『戯曲志』は同治年間頃とするが、『孝義県志』は光緒七年に介休の人・金庫之が碗碗腔皮影戯を学び、孝義で義盛軒影班を組織したのが始まりであるという。碗碗とは鐃鏺の一種で、「ウォーン、ウォーン」という独特の響きを持つ。『孝義県志』によれば、徴調式で、平板・流水・介板・滾板の四種が主に用いられる。伴奏楽器は、中路梆子とほぼ同じで、碗碗のほか胡胡・月琴・二弦・節子などを用いる。

もう一つは、晋劇すなわち中路梆子である。「山西皮影」によれば、皮影劇団が日中演ずる木偶戯が晋劇型式を採用する。

●劇団構成

劇団員の構成については、「七緊八慢九消停」との言葉があるように、十人未満程度の規模が一般的である。このうち、人形の操作を担当するのは二人で、一人が主演、一人が助手である。一人が最大五体の影人を担当できるので、一度に合計十人がスクリーン上に登場できる。なお、影人はスクリーンに投影した後、動きがない場合は竿を固定しておけばよいので、一人が同時に五体を操作するわけではない。

行当は、生旦浄丑全てを一人の男性の役者が声色で演じわける。『戯曲志』曲沃碗碗腔項では、この型式を「抱本」と称している。筆者が文献調査したところでは、北京および冀東系の皮影戯を除く大半の皮影戯がこの型式を採用しており、また木偶戯でも、例えば台湾の布袋戯は伝統的なものからテレビの霹靂布袋戯に到るまで声は一人が演ずるように、大半が同様の型式を採用する。全国的に見れば、行当ごとに歌唱者を分ける北京および冀東系皮影戯がむしろ特殊なのである。それ以外の劇団員は、楽隊および帮唱を担当する。

また、晋中皮影戯では、多くの劇団が昼は木偶、夜は皮影戯を演じていた。所謂「木偶皮影両下鍋」であり、同様の例は清末・民国時期の北京皮影戯などにも見られる。

灯光は、旧時は一つの麻油灯だけを用いた。そのため、投影された映像は朦朧としており、格別の視覚的効果があった。

●上演

一年のうちで皮影戯が上演される時期は、秋の収穫後および節句の日に多かったという。これは冀東皮影戯などとも共通するが、皮影戯には農村上演が多いことを考えれば、農閑期に公演が集中するのはごく自然なことである。

旧時は、城内・農村を問わず、皮影戯の上演は無料で公開されていた。侯氏も少年時代には、しばしばそのような皮影戯を観覧したという。これは、皮影戯の上演コストが安く、一つの家の資金だけでも劇団を招くことができたからであり、晋劇などの人戯はコストが高いため、有料の公演を見るか、あるいは村中で金を出し合って劇団招くのが一般的であった。皮影戯は、解放前では一公演が五塊大洋、現在でも500元程度であるという。上演は、一般に夜の八・九時に始まり、十二時ころまで続く。

●レパートリーと台本

晋中皮影戯のレパートリーは、皮腔と碗碗腔とで違いがある。皮腔では、『封神演義』ものをはじめとする神道戯が主要なレパートリーを占めている。『封神演義』は一か月に及ぶ連台上演も可能であるという。晋中皮影戯が祖師爺とする黄龍真人は、『封神演義』の登場人物であることからも、晋中皮影戯における『封神演義』の占める地位の高さが窺える。『孝義県志』によれば、清末に孝義の僧侶・道士が協力して、私塾の教師などに書かせたものである。一方、碗碗腔では、歴史もの・武侠ものなどの武打戯、およびストーリー性のある故事戯が中心であった。

台本は、旧時は暗記して上演したが、今は冀東皮影戯のように、見ながら上演する。

晋中皮影戯関連の台本資料は、皮影戯博物館が100部あまりを収蔵している。前述のように、その一覧は『孝義県志』に収録されている。映像資料に関しては、市販のものは見あたらないが、山西省文化庁が1985年頃、40日にわたって皮影戯公演を撮影したことがあるという。しかし、その映像資料が現在どのような状態におかれているのかは、わからない。今後、太原における調査が必要となろう。

3.4.小結

わずか二日間の孝義滞在ではあったが、博物館の見学、侯氏へのインタビューを通じて、晋中皮影戯の現状、資料の収集・整理情況に関する基礎的な情報を得ることができた。また、侯氏に、今後の研究活動への協力をインフォーマントの紹介を含めて要請し、快諾を頂いたので、本格的な現地調査を実施する基盤を確立できたと思う。

4.山西省戯劇研究所

侯氏へのインタビュー後、前述の事情によって介休市に移り、そこで張壁古堡と后土廟戯台を見学した。張壁古堡は介休の東南郊外の山あいにある明清代の堡塁跡で、城壁や地下の洞窟陣地・関帝廟・劉武周廟などが残っている。隋末の群雄である劉武周を祭るのは、介休で尉遅敬徳を包囲した李世民は、その旧主であった劉武周を謀殺して首級を示し尉遅敬徳を降伏せしめたという『大唐秦王詞話』『説唐』等に見える虚構の物語に基づいている。戯台も二つ現存し、現在でも秧歌戯などが上演されるという。梁全民氏も、1999年にここで皮影戯を上演している*5。また、后土廟戯台は介休市街にあり、壮麗な建築である。2002年に全国重点保護文物に指定されている。

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介休張壁古堡戯台
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介休后土廟戯台

太原に帰着した翌日、山西省戯劇研究所を訪問した。研究所は、山西省人民政府から南に下る桃園南路にある。突然の訪問で勝手のわからぬまま研究所の建物に入り、廊下ですれ違った人に侯氏より紹介された羅仁佐氏の所在を尋ねると、親切にすぐ裏の公寓まで案内してくれた。案内してくれたのは、実は同研究所研究員の謝玉輝氏であり、羅氏の部屋で、お二人から皮影戯関連資料の整理情況についてうかがうことができた。

山西省戯劇研究所は、約50人のスタッフを抱えており、うち研究員が4名、副研究員が6名いる。しかし、皮影戯を専門に研究する研究員は居ないとのことである。

同研究所は、山西省各地の地方劇に関する資料を多数収蔵し、『山西地方戯曲匯編』などの資料を発行している。当然、皮影戯の台本も多数収蔵しているのだが、近年の組織改組の影響で、それら台本資料の閲覧は非常に困難になっているという。

しかし、2002年には『山西地方戯曲匯編』の最新刊として、木偶戯・皮影戯台本の専輯を二冊組で刊行し、主要な台本資料を収録する予定であるという。謝氏によると、木偶と皮影は共通の台本を使用するが、それは侯氏へのインタビューにもあったように、大半の劇団が所謂「木偶皮影両下鍋」であったためであろう。余談であるが、同研究所も予算の確保には大いに頭を痛めており、『匯編』として出版したい資料は多数所蔵しているが、予算が確保できた年にだけしか刊行できないとのことである。

皮影戯の上演情況であるが、山西省で皮影戯の劇団が残っているのは、やはり孝義だけである。謝氏によると、曲沃に劇団があるとの未確認情報があるという。

今回は、皮影戯関係の資料確認だけを目的に、事前の準備をせずに訪問したため、山西の地方劇に関して踏み込んで話すには到らなかった。しかし、謝氏とは、同研究所と中国都市芸能研究会とが研究情報の交換などの交流を進めていくことで一致したので、今後、更に具体的問題について共同で検討する機会もあろう。

おわりに

今回の山西現地調査では、孝義市の皮影戯博物館および侯丕烈氏訪問を通じて、孝義皮影戯の現状と文献資料・老芸人の所在を確認することができた。また、山西省戯劇研究所訪問を通じて、現地の研究機関との関係を確立し、今後の現地調査・研究活動を実施する上で、老芸人や現地研究者の紹介などの協力を得られる目途がついた。これによって、山西省太原盆地における大小都市や農村を結ぶ芸能ネットワークの様態を、皮影戯を核として解明するための研究基盤を確立しえた。

はじめにも述べたように今回の山西行の目的は、中国都市芸能研究会が今後実施する予定の山西現地調査のための予備調査であったので、目的は果たせたと言ってよかろう。

一方、聞き取り調査結果や先行研究文献の詳細な検討を通じて、従来の研究の遺漏や矛盾点が浮上している。それらの解明が、今後の現地調査の課題となろう。

  • ※本稿は、平成14年度科学研究費補助金(基盤研究(B)(1))「近代北方中国の芸能に関する総合的研究-京劇と皮影戯をめぐって-」(課題番号:14310204、研究代表者:氷上正)による研究成果の一部分である。

*1 当該部分は、編撰:王万万、審修:曹振武。
*2 『中国影戯』p.60。
*3 皮影戯壁画が確認された古墓については、各文献で食い違いが見られる。「金斗山澗蔵古花-孝義皮腔概述」は、1950年に元大徳二年の古墓から皮影戯的な造形の侍衛の側面像の壁画が、1979年に金正隆年間の古墓から同様の侍衛の壁画が、更に1980年に北宋末期の古墓から影人をあやつる児童の壁画が発見されたとする。一方、江玉祥『中国影戯』は独自の聞き取り調査をふまえて、1955年に古墓から八体の影人の壁画と「元大徳二年」「五月 楽影伝家、共守其職」などの題記が発見されたとする。諸説の是非の解明は、今後の課題としたい。
*4 この影人については、華慈祥(上海博物館 助理研究員)「明代山西孝義武将紙窓影人真偽考述」(『東南文化』1999年第4期)で偽造説が提出されている。同説では、明代の武装と同影人のデザインが付合しないことが主要論拠となっているが、作品のデザイン・工芸的な評価とリアリズムの問題を混乱している部分も見受けられ、ただちに妥当な説であるとは認めがたい。しかし、江玉祥『中国影戯』も言うように、一般に明代影人と呼ばれるものは、収蔵者の意見以外の明証を欠くものが大半であるのが現実であり、当該影人の製作年代についても、今後、注意深く調査する必要があろう。
*5 前掲、高巨寿「挑籤伝人-四訪皮影木偶操作老芸術家梁全民先生」による。