『都市芸研』第九輯/東北皮影戯研究のために

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東北皮影戯研究のために――凌源および哈爾浜

山下 一夫

1.はじめに

中国各地で行われている影絵人形劇――皮影戯は、人間が上演する演劇である「人戯」とともに地方劇を構成するだけでなく、また語りものや唱いものといった講唱文学と演劇との間を結ぶ芸能としても位置づけることができる。したがってその検討は、古典小説・伝統演劇・講唱文学といった中国俗文学の分野において重要な部分を占めるはずであるのにもかかわらず、従来さまざまな理由により停滞ないしは偏向が生じてきたと言えよう。

中国において最初に皮影戯が学問的に取り上げられたのは1930年代のことで、北京における中国民俗学の隆盛を受け、李家瑞氏や顧頡剛氏らによって着手されたが、かれらが主な対象としたのは、河北からやってきて東城を中心に上演を行っていた冀東皮影戯であった。北京にはほかに旗人相手の堂会を中心に活動する西派皮影戯もあったし、また北京以外の場所にも当然皮影戯は存在していたが、北京で常設公演を行い、また書写テキストを作成する冀東皮影戯は、アクセスのしやすさ、台本の集めやすさという点で都合が良かったのである。これは、本邦における皮影戯研究を開拓した印南高一氏や澤田瑞穂氏も同様であった。

これら初期の皮影戯研究の偏向は、もちろん当時の環境を考えれば致し方のないことではあったが、結果として冀東皮影戯があたかも中国の皮影戯の代表であるかのように受けとめられたのは問題だった。これに対し、北京西派皮影戯の研究によって、他地域の皮影戯との比較検討の必要性を説いたのが千田大介氏で*1、以後筆者は氏とともに山西の皮腔皮影戯・碗碗腔皮影戯、陝西の碗碗腔皮影戯・弦板腔皮影戯・道情皮影戯、浙江の海寧皮影戯などの調査研究を行った。

これによって、冀東皮影戯の属する梆子腔の系統は比較的後発で、従来行われていた皮影戯を淘汰する形で東へと広がっていったものであること、また大部の書写テキストを有し、これを見ながら上演するというその特性は、他地域の皮影戯においてはあまり一般的でないこと、さらに戦後の歴史や上演環境・分布状況などの点では、地域を越えて共通する要素が存在することなども了解するに至った。

昨年来、さらに新たな調査対象として安徽の皖南皮影戯にも着手したが、その一方で、これまで他地域の皮影戯を対象に行った調査で得た知見を生かし、かつそれを再検討するために、皮影戯研究の出発点である冀東皮影戯についても、立ち返って研究する必要性を実感した。そこで検討の対象としたのが、今回取り上げる東北皮影戯である。

東北皮影戯は大きく分けて以下の4種があるとされる。

  • (一)遼寧省西部の遼西皮影戯
  • (二)遼寧省南部の遼南皮影戯
  • (三)吉林省西部の吉林皮影戯
  • (四)黒竜江省中部の竜江皮影戯

これらはいずれも冀東皮影戯の勢力下にあり、また現地の方言や音楽と結合し、独特の風格を有していると言うが、具体的にどこがどう違うのか、詳しいことはあまりよく解っていない。また、地域によっては現在でも上演活動がさかんに行われているのにもかかわらず、冀東皮影戯の「本拠地」ではないという理由もあって、唐山や楽亭などと比べて注目されず、あまり調査・研究が進んでいない。

そこで本稿は、(一)に属する遼寧省凌源と、(四)にあたる黒竜江省哈爾浜を対象に、入手した先行研究や2010年夏期に実施した予備調査をもとに、今後の本格的な実地調査に向けて問題点を整理し、現段階における中間報告とするものである。

2.凌源皮影戯

凌源は遼寧省朝陽市の西端に位置する県級市である。西側は河北省承徳市平泉県と、内モンゴル自治区赤峰市寧城県に接しており、いわば三省の境界地点にあたる。交通が不便な山間部に位置し、また今なお外国人未開放地区であるということもあって、他地域に比べるとあまり開発は進んでいない。しかしそのおかげでというべきか、市文化局の説明によれば、現在でも農村を中心に20弱の皮影戯劇団が活動しているという。

朝陽市永興皮劇団

2010年の夏に訪問した朝陽市永興皮劇団では、一尺八寸(約60cm)とかなり大きな影人を使用していたが、団長の馬金武氏によれば、戦後は一尺から一尺二寸のサイズが一般的だったのに対し、この十年ほどで観客数が増加したため、改良したのだという。また、氏は1990年代になってから皮影戯上演を学んだということだったが、各地の皮影戯が芸人の後継者不足に悩まされている中で、比較的稀なケースであると言える。こうした点からも、凌源の特異性が了解される。

凌源皮影戯の研究は、すでに現地研究者の韓琢氏によって強力に進められている。氏は1938年生で、1958年に凌源文化館に入り、1980年には館長に就任、1998年の定年後も顧問として留まり、一貫して凌源皮影戯の研究に従事してきた。いわば行政畑で一般の上演を管理する立場にある人物であるが、自らも皮影戯の愛好者であり、請われて劇団で伴奏を務めたこともあるという。1980年代には郭永山氏ら凌源の老芸人に対して聞き取り調査を実施し、さらに全国をまわって各地の皮影戯を視察して膨大な資料を集め、『凌源皮影音楽簡介』*2および『凌源皮影戯唱腔選』*3を公刊した。なお2010年の調査で氏と面会した際には、手術直後ということであまり体調がすぐれない様子であったが、今後の調査に対する協力を快く引き受けていただいた。

韓琢氏(中央)

韓琢氏の著作では、凌源皮影の唱詞として七字句・十字句・三趕七・五字錦・搭拉句子などを挙げているが、これらはいずれも冀東皮影戯に見られるものであり、また文化館で収集した以下の凌源皮影戯演目のリストを見ても、冀東皮影戯との共通点が多い。こうした点から、現在の凌源皮影戯は河北の冀東皮影戯が流入したものとみて、まず間違いないだろう。

『凌源皮影音楽簡介』

(一)伝統演目

俠義縁、画中縁、聚虎山、五峰山、大崑山、落虎山、鶏爪山、金鞭記、双魁伝、双名伝、松棚会、天門陣、紫金鐘、鎮冤塔、天縁配、奇忠烈、鎖陽関、乾天剣、青雲剣、文武縁、劫竜山、双岔山、泰華山、赫陽山、天汗山、西遊記、精忠伝、双失婚、五峰会、竜鳳図、糸絨帯、鮫綃帳、小英傑、小西涼、神武関、双峰剣、鴛鴦剣、金石縁、五祥山、雲竜山、青峰山、丹鳳山、四平山、双鎖山、五虎伝、興竜伝、分竜会、楊辞宋、珍珠塔、党人碑、梅花亭、桃花扇、招賢強、竜鳳剣、霊飛鏡、真仮縁、金頂山、長寿山、両狼山、臥鳳山、鶏宝山、血書記、三賢伝、飛竜伝、群仙会、鳴冤閣、大金牌、二度梅、碧玉鐲、鉄丘墳、平西冊、双掛印、虹霓剣、全家福、乾坤帯、蕉葉扇、大八義、封神榜、天竺国、鉄弓刑、血書詔、三国、百花亭、顛倒配、牛馬灯、九頭鳥、対雀屏、天縁夢、英唐国、破澶洲、香錦帕、竜門陣、薄命図、少西唐、九件衣、金玉梅、十道関、蝴蝶杯、下滄州、反漢図、満春園、楊家将、李自成、飛虎夢、江東橋、定唐、仙桃会、碧玉釧、玉琥環、紫荊関、楊家将、回竜閣、破孟州、打登州、盗馬関、五竜島、鷹爪王、瓊林宴、太極鐲、降竜夢、珠宝釵、反西涼、十五串、全忠義、漁家楽、九更天、反唐、降魔陣、陰陽陣、包公案、訪煤窯、全林寺、瓦崗寨、鑌鉄鐧、呼家将、告御状、回竜衣、贈金鐘、金光陣、双竜伝、綠牡丹、界牌関、群羊夢、升仙伝、鬥牛山、双俠配、三省荘、両界山、五鳳楼、隋唐伝、雷峰塔、白蟒山、金玉釵、五竜会、斑竹剣、風雲会、臥竜崗、老西唐、炎天雪、双祠堂、翠峰山、忠節義、滑台関、九虎山、鴛鴦扇、警忠夢、鶏鳴山、英雲夢、竜安府、双鳳山、双鳳奇縁、吳越春秋、泥馬渡江、雪月双珠、金滕玉箸、燕飛女俠、薛礼征西、鉄樹開花、薛剛追印、還俗登第、劉秀走国、燕王掃北、白玉蝴蝶、姜朋征西、唐王征東、盛世奇縁、秦英征西、空函認義、紅娘女俠、岳雷掃北、夢想奇縁、五色祥雲会、蘇景竜征南、岳天剛掃北、十二金銭鏢、楊満堂掃北

(二)現代戯および単折戯

血涙仇、苦菜花、李双双、紅雲崗、采蘑菇、掃塵記、唐業成、頌王傑、双槍記、三世仇、搬家、倆隊長、焦裕禄、三月三、買牛記、高玉宝、海霞、一家人、探家、追驢、探家記、学雷鋒、酒禍、火焰山、宝蓮灯、杜十娘、王秀蘭、小女婿、杜鵑山、画皮、銀鎖記、劉胡蘭、洞庭湖、熬五関、平原槍声、結婚前後、双喜臨門、竜馬精神、烈火金剛、小兵張嘎、南海長城、搶険救井、驕傲白鵝、箭桿河辺、南方来信、大年三十、蘆湯火種、紅梅迎春、紅石鐘声、行動之前、紅螺仙子、解放錦州、抗属婦女、山荘紅医、解放述陽、中心逃獄、解放会川、迎風飛燕、鞭打蘆花、小保管上任、智取威虎山、張金彩帰隊、小二黑結婚、三打白骨精、費玉容刺虎、老倆口学毛選、野火春風斗古城

なお、凌源皮影戯の起源については、遼寧省文化庁のサイトでは乾隆38年(1773)の序がある哈達淸格撰『塔子溝紀略』に以下の記述があるとし、ここから凌源皮影戯は「すでに三百年の歴史がある」とする*4

塔子溝庁が初めて建てられたとき、影戯はすでにたいへん盛んだった*5

ただ、筆者の見た遼海叢書所収本では以上の記述は確認できない*6。サイトでは出典となった巻数が挙げられておらず、また韓琢氏も著作の中でこの資料については触れていないので、誤伝である可能性が高いと思われる。塔子溝は凌源の旧称で、清朝が駐屯施設として塔子溝庁を設置したのは乾隆5年(1740)のことであるが、この段階ではまだ凌源への入植は本格化しておらず、この時すでに皮影戯が当地で盛んだったということも考えづらいし、仮に行われていたとしても、乾隆年間にはまだ冀東皮影戯は形成されていないので、現在の凌源皮影戯との直接的な繋がりは無いだろう。

問題は、冀東皮影戯がいつ凌源に流入したかである。これについて手がかりとなるのが、韓琢氏の「凌源皮影芸人小伝」に載せる、戦後の県劇団の中心メンバーとなった佟敏と郭永山についての以下のような記述である。

 佟敏。1921年生。河北省青竜県王子店郷の人。皮影戯芸人を輩出する一族に生まれ、祖父の佟秀章について皮影戯を学び、父の佟鳳洲と三人で皮影劇団に所属。生活の糧を求めて一家で1937年に凌源にやってきて、その後定住。1949年に朝陽街で皮影社を設立、1957年に成立した凌源県皮影組に参加。

 郭永山。1914年生。遼寧省凌原市刀爾登郷の人。1933年に、万里の長城に沿って移動していた任八老爺班(護城班)を刀爾登郷に招き、かれらとともに皮影戯班を設立。1957年に成立した凌源県皮影組に参加。

いずれの記述も、満洲国時代になってから移動劇団が外地から凌源に流入・定住したという点で共通している。もちろん、その後定住しなかっただけで、それ以前にも移動劇団が上演しに来たことはあっただろうが、少なくとも解放後の凌源の皮影戯は、満洲国時代に外地から流入した冀東皮影戯が基礎となっているということが言えるだろう。なお、冀東皮影戯の「本拠地」の一つである唐山の県劇団も、同じようにもとは満洲国時代に万里の長城付近で移動上演を行っていた長城影社や抗日影社が前身であり、成立状況について言えば凌源皮影戯とあまり大差ない。ただ、唐山は早くから「抗日」を掲げていたという点が大きく異なっており、これがあるいは戦後、唐山の県劇団が、共産党によって中国の皮影戯を代表する団体であるかのように扱われた理由となっているのだろう。

さて、戦後の凌源皮影戯の歴史も他地域と同じく、「共産党の指導」のもと、一方で県劇団が組織されて党の政策宣伝を担い、また一方ですべての地域に「人間が演じる演劇」を作る政策により皮影戯の人戯化が行われる、という流れで捉えることができる。

まず県劇団については、前述した佟敏・郭永山の伝記で触れた、1957年に組織された凌源県皮影組がこれにあたる*7。かれらは1959年に現代劇『新婚之夜』『紅衛星上天』を発表、1960年には凌源県曲芸団皮影隊の一隊と二隊に改組され、現代劇『双月重円』などを上演したが、文化大革命が始まると解散を命じられ、台本は燃やされた。また人戯化については、県劇団とは別に李鳳儒氏や周墨昌氏の「凌源県三道河子業余劇団」が担当し、1954年に皮影戯台本『馬潜竜走国』の一段「姚憲殺妻」を人戯として上演することに成功した。この新劇種は凌源影調戯と命名され、文化大革命中も様板戯の上演を行い、その後1980年代まで存続したが、現在ではすでに消滅したと考えられる*8

さて、文化大革命後、凌源では早くも1972年に皮影戯上演の復活が策定され、唐山で皮影戯を学んだ芸人の于振声氏を中心に「三皇廟村皮影団」が組織されて、『杜鵑山』、『竜江頌』、『紅灯記』、『紅雲崗』などの革命演劇を上演した。また1979年の朝陽市第一届皮影戯匯演開催を機に、旧県劇団のメンバーを中心に「凌源県皮影代表団」と「刀爾登郷皮影隊」が組織され、その後この三者が凌源の公的な劇団として活動していくことになる。

なお、1990年代以降は経済発展により全国的に皮影戯が衰退した時期であるが、凌源では逆に官主導で皮影戯の振興が大々的に推進されている。1991年に凌原市政府が中心となって遼寧省第一届皮影調演を開催、1992年には文化庁が凌源市を「群衆皮影芸術活動基地」に、また1996年には文化部が凌源市を「中国民間芸術之郷(皮影芸術)」と命名、さらに2005年に凌源皮影戯は国家級非物質文化遺産に指定されている。もちろんこうした動きは、この時点で影箱*9が25、芸人が212名(うち市内に100人前後)存在するという、衰えることのない皮影戯人気が支えている。市当局は我々外国人による皮影戯調査にも極めて協力的であり、今後本格的な調査を期待できるものと思われる。

3.竜江皮影戯

竜江皮影戯も、冀東皮影戯の勢力圏だと言えるが、冀東から遠く隔たった黒竜江省に位置するという地理的環境のために、凌源とは大きく状況が異なっている。内容的には、哈爾浜市の北側にある綏化市望奎県を中心とする「江北影」と、哈爾浜市の南側にある双城市に由来する「江南影」、および旧時に哈爾浜城内で行われた「老奤児影」の三種類が存在する(なお、ここで言う「江」とは、松花江のことである)。

まず、望奎県の江北影は、韓世昌「望奎県皮影芸術」によれば以下のような経過を経て形成されたものだという*10

 同治4年(1865)に、瀋陽以西から移民してきた皮影芸人の斉忠孝・韓福・頼継弓らが影箱を2つもたらしたことで始まり、さらに1900年から1920年の間に、何洪飛・周景山・趙清水・李世英の4つの影箱が相次いで流入した。1950年に芸人の張学文が灤州皮影戯と東北皮影戯を融合させた「両口水」を創始した。芸人はいずれも観音を祖師爺としている。

この記述から、望奎への皮影戯の伝来は、同治年間と清末民初の二回の波があったことが想像される。後者については、同時期に冀東皮影戯が東北地方の各地に伝播しているので、これもその一つと考えるのが妥当だろう。問題は同治年間に伝来したとされる皮影戯である。解放後に張学文氏が灤州皮影戯と融合させた「東北皮影戯」がこれにあたると思われるが、そうすると逆にいえばこれは冀東皮影戯では無いことになる。ここで注目されるのが「観音が祖師爺」という点で、これは北京西派皮影戯と共通する。北京西派皮影戯は琢州影とも呼ばれ、冀東皮影戯の一派である北京東派皮影戯よりも古層に属する。ここから、望奎に同治年間に伝来したとされるのも、同じく冀東皮影戯伝来以前の古層に属する皮影戯であり、同地では新旧両層がごく最近まで併存していたと推測されるのである。

次に、双城市の江南影については、それぞれ内容の異なる「東派」と「西派」の二種類がある*11。まず東派は、双城の県城の東側にある東官所(現在の東官鎮一帯)を根拠地とし、「流口影」または「溜口影」と称される。光緒21年(1895)に満人の馬徳華・趙国海・于才子らがもたらし、満八旗の軍中を中心に上演を行ったことが始まりだという説と、嘉慶年間に吉林将軍富俊が双城に派遣されてきた際に満八旗の皮影戯を持ち込んだという説があるが*12、共通するのはどちらも満洲旗人との関連を挙げていることである。また「溜口影」とは、書写テキストを持たず、記憶に頼って上演する形態を指しているのだろうが、これも望奎の皮影戯古層と同じく、北京西派皮影戯を連想させる。

また、もう一方の西派は、双城の県城の西側にあった西官所(現在の団結満族郷一帯)を根拠地とし、「翻書影」とも称される。道光30年(1850)に張振江・馮兆祥・郭武生らが河北皮影を持ち込んだものだという伝承があるが、この三人の弟子に「三清」(王連清・王品清・王尚清)・「三広」(鄭広福・鄭広成・鄭広和)・「温家三父子」(温徳発・温玉成・温長淮)といった芸人がおり、さらにそのまた弟子の王鳳閣たちは戦後省劇団で活動した世代であることを考えると、多めに見積もったとしても第一世代は道光年間には届かない。こうした点から、西派は恐らく望奎の皮影戯新層同様、清末民初の頃伝来した冀東皮影戯の系統だと思われる。

そして三つめの老奤児影は、唐山商人の蒙本天が1925年に哈爾浜市に連れてきて、そのまま城内の茶社などで戦後まで上演を続けた、張栄久ら九名の芸人から成る「王華班」を指す。かれらが行ったのは、唐山出身ということからも解るように、もちろん冀東皮影戯である。

以上の点からすると、竜江皮影戯には恐らく満洲旗人が持ち込んだ北京西派皮影にも連なり得る古いレイヤーと、清末から民国にかけて流入した新しい冀東皮影戯のレイヤーとが存在することが推測される。こうした状況は、千田大介氏「華北旧皮影戯初考」で説かれた以下のような観点を補強するものとな る*13

 河北・東北・内蒙古などの地域には、清代後半以降に冀東皮影戯が流入する以前から皮影戯が行われていた。それらは、台本を暗記する「流口影」、三四人規模の劇団、「抱本」方式による上演など、共通する特色を備えていた。そして、これらの特色は、冀東皮影戯よりもむしろ北京西派や山西・陝西皮影戯と共通するものである。

上記論文で検討された「福影」は現在すでに消滅してしまったが、竜江皮影の古層は、以下に述べる解放後の状況から考えて現在でも命脈を保っているものと思われるため、今後の実地調査による解明も期待できるだろう。

さて、解放後の1951年に、江南影西派の第二世代にあたる双城の温長淮の劇団が哈爾浜市に呼ばれ、松江省皮影戯実験工作隊に改組されて、城内に定住して党の宣伝工作を担うこととなり、さらに1954年には「黒竜江省木偶皮影芸術劇院」となった。この省劇団は、竜江皮影の新古二層のうち、冀東皮影戯の系統を中心に組織されたものと言うことができるが、古層の芸人も加わっている上、1954年の改組の際に瀋陽皮影戯の芸人・高殿卿が劇団の中心に据えられ、さらに伝統演目を廃止して『禿尾巴老李』・『東郭先生』・『鶴与亀』などの新作劇へシフトしたため、この時点で江南影西派本来の特徴は相当希薄になったと見るべきであろう。その後省劇団は文化大革命でいったん活動を停止した後、1972年に「哈爾浜市民間芸術劇院皮影劇団」の名で復活し、さらに1984年には「哈爾浜児童芸術劇院皮影劇団」となって現在に至っている。

一方の、戦前から城内で上演を行っていた張栄久らの劇団は、1957年に哈爾浜曲芸団皮影隊へ改組され、しばらくは伝統演目の上演を行っていたが、1965年に解散を命じられ、メンバーは全員ドラム缶工場での労働に従事することとなり、老奤児影は消滅した。また、1950年代には哈爾浜市でも他地域と同じく人戯化が進められ、新劇種の「竜江劇」が立ち上がったが、母体となったのは二人転と拉場戯で、竜江皮影戯はメロディの一部が「影腔」の名で採用された程度に留まり、積極的には関わることは無かったようである。

今回の調査では、省劇団を定年退職した老芸人の于久文氏を訪問した。氏は現在「久聞民間芸術工作室」を開き、「満族旗人皮影芸術」の教授と上演を行っているが、中身はやはり戦後の省劇団の児童劇が中心である。また高殿卿氏の娘で、やはり省劇団を定年退職し、現在は自らの劇団「黒竜江華芸皮影団」を運営している高淑芳氏にも今後の調査協力を依頼しているが、状況は恐らく于氏と同様であろう。戦前から活動した世代はすでに世を去り、現在存命中の「老芸人」は、主には文革後に省劇団で活動した世代であることを、調査の際には念頭に置く必要がある。

于久文氏(中央)

4. おわりに

本稿で検討してきた事例を踏まえ、今後東北皮影戯の調査・研究を進めるにあたっての課題として、以下三点を挙げておきたい。

(一)音楽や演目の検討による、東北皮影戯の史的展開の解明。具体的には、恐らくは満人たちの間で行われ、北京西派皮影戯などとも繋がりがあることが予想される古層皮影戯の解明と、清末以降流入してきたと思われる新層の冀東皮影戯の伝播状況の検討が挙げられる。ただ、これまでの経験から言えば、先行研究の段階では当然のこととして了解されていた事項でさえも、現在の当事者にはもはやおぼつかなくなっていることが多いので、実地調査によって新たな歴史的伝承を掘り起こすことは期待できない。むしろ現有のデータをもとに、音楽や演目などについて再検討し、また満洲開拓史の分野における研究成果なども参照することで、当地における皮影戯の形成・伝播について考察を積み上げてゆくという手法を採ることになるものと思われる。

(二)農村部における上演実態の調査。東北皮影戯の上演については、その形態から願影・会影・喜影に分類して説明しているものがあるが*14、その際にどのような演目が選ばれるのか、またそれらが具体的にどのような動機・環境・人的ネットワークによって上演されているかといった点について、詳細に検討する必要がある。幸い、調査地として選んだ凌源や哈爾浜については、現在でも農村部で上演がさかんなので、現地研究協力者を介して実地調査を行うことが可能であると思われる。

(三)省劇団・県劇団の歴史。筆者が皮影戯の研究を始めた1990年代とは異なり、現在では省劇団や県劇団で文革後を中心に活動してきた世代が定年を迎え、存命の関係者の中で最高齢になりつつあるという状況にある。それは竜江皮影戯だけでなく、凌源皮影戯についても同様で、例えば2008年に国務院が公布した第二批国家級非物質文化遺産リストで「凌源皮影戯第一批省級代表性伝承人」として挙げられているのは、伝統演目の継承者ではなく、文革後に現代戯を上演した于振声氏となっているのである。筆者はこれまで、伝統演目のテキストを重視する立場から、党による制約が存在しなかった民国期をいわば「無菌状態」に見立て、そちらを主眼に置くという態度を取ってきたが、すでに解放後の省劇団や県劇団自体が「歴史」となった今、そこでどのようなことが行われたのか、調査・記録し検討しておくことも必要な段階に来ているのだろう。

*本稿は日本学術振興会科学研究費補助金「近現代中国における伝統芸能の変容と地域社会(平成22年度、基盤研究(B)、課題番号:22320070、研究代表者:氷上正)による成果の一部である。


*1 千田大介「北京西派皮影戯をめぐって」(『近代中国都市芸能に関する基礎的研究』成果報告論文集(平成九-十一年度科学研究費基盤研究(C)、課題番号:09610462、研究代表者:岡崎由美)2001年)66-95頁。
*2 朝陽地区文化局劇目室、1984年。
*3 朝陽地区文化局劇目室、1984年。なお巻末に「凌源皮影芸人小伝」が付されている。
*4 「凌源皮影」(遼寧省文化庁,2009年8月12日)http://www.lnwh.gov.cn/detail32/10933.html
*5 塔子溝庁初建之時,影戯已大盛気。
*6 遼海書社、民国20年(1931)鉛印。
*7 なお、1958年の時点で凌源の人口は40万以下だったが、戯班はこの県劇団も含めて約120あり、芸人は専属・半農半芸・アマチュアあわせて700人以上存在していたという。
*8 『中国劇種大辞典』(上海辞書出版社、1995年)329頁、および『中国戯曲志・黒竜江巻』(中国ISBN中心、1994年)57-58頁。
*9 影箱とは皮影戯の人形1セットの入った箱のこと。これがあれば上演することができるので、その数は劇団数とほぼ同じと考えることもできるが、参加する芸人は固定メンバーではなく、流動的である。
*10 『黒竜江省芸術史集成資料匯編』第八期(黒竜江省芸術研究所、1986年)所収。
*11 魏力群『中国皮影芸術史』(文物出版社、2007年)66頁、江玉祥『中国影戯与民俗』(淑馨出版社、1999年)134頁による。両書の記述はおそらく田国忠・呉徳政「双城皮影簡史」(『中国戯曲志黒竜江巻資料匯編』第三集、1986年)に依るものと思われるが、未見。
*12 趙鳳山「談東北地区満族皮影」(『満族研究』1996年第1期)76-77頁。
*13 『近代北方中国の芸能に関する総合的研究~京劇と皮影戯をめぐって』、平成14-16年度科学研究費基盤研究(B)研究成果報告論文集、2005年、30-42頁。
*14 高中興「解放前的東北皮影戯」、『黒竜江文志資料』第八輯(黒竜江人民出版社、1983年)117-123頁。