『都市芸研』第二輯/書評:王安祈著『當代戲曲』

Top / 『都市芸研』第二輯 / 書評:王安祈著『當代戲曲』

書評:王安祈著『當代戲曲』

「就是這悠忽的嗓音讓我迷戀了三十年」 三民書局、2002年

平林 宣和
http://wagang.econ.hc.keio.ac.jp/~chengyan/images/ddxq.png

今春、早大演劇博物館演劇研究センター主催の国際研究集会に、本書の著者である王安祈教授をお招きし、三日間にわたる講演、講義をお願いした。王教授は台湾大学中文系出身で、現在は清華大学中文系で教鞭を執られているが、『明代戯曲五論』、『明代伝奇之劇場及其芸術』など、古典戯曲に関する著作が数多あり、日本では主に正統派の古典戯曲研究者として知られているように思う。しかし一方、王教授はここ二十年ほどの間に多くの戯曲作品を世に送り出した劇作家でもあり、かつまた幼時より京劇に親しんできた根っからの戯迷でもある。その演劇に対する愛情とこだわりは、講義の際の口吻から十分にうかがい知ることができ、出席した日本人研究者たちに深い印象を残した。その講義の折、王教授より筆者に贈られたのが、著者の近著『台湾京劇五十年(上・下)』、および今回書評の対象とする『当代戯曲』である。

『当代戯曲』には自序として、「就是這悠忽的嗓音譲我迷恋了三十年」という著者のエッセイが採録されている。大陸の京劇俳優杜近芳をめぐって綴られたこのエッセイには、直に接することのかなわない大陸の京劇俳優に対して台湾の人々が長らく寄せていた憧憬、著者のことばで言えば執着が、十二分に込められている。俳優の名前すらろくにわからず、ただレコードを聴くばかりであった戒厳令下の様子から、九十年代初頭に両岸の文化交流が始まり、その流れに乗って台湾を訪れた杜近芳本人を直接目にすることになった著者の感懐までを記すこの文章は、海峡で隔てられつつも京劇という共通項で繋がれた人々の、長年にわたるひそかな交流の軌跡を描き出している。日本での講義の折に我々が感得したのも、まさにここに描かれた感懐の流露であり、そしてまたそれこそが本書を執筆せしめた原動力であると、ほかならぬ著者自身が語っている。

本書は全554頁に及ぶ大著であり、認識篇、評析篇、劇作篇という三つの大きなパートに分かれている。このうち約半分の頁数を第三部の劇作篇が占めており、六本の劇作品(『春草闖堂』、『西施帰越』、『曹操与楊修』、『阿Q正伝』、『李世民与魏徴』、『閻羅夢』)と唱段選編十六本を収めている。また第二部の評析篇は、本書で扱われる各作品に対する独立した評論十七編によって構成される。一方冒頭の認識篇は、第一章:何謂「当代戯曲」、第二章:当代戯曲的発展-大陸的戯曲改革(上)、第三章:当代戯曲的発展-大陸的戯曲改革(下)、第四章:当代戯曲的発展-台湾的戯曲創新、という四つの章を含み、著者が当代戯曲、すなわち1949年以降に編まれた戯曲作品群を、どのような位相の元に認識しているかが、年代順の作品分析という形で語られている。本書のコンセプトを体系的に述べている部分であり、残りの二つのパートもここで記述される著者の認識の枠組みを土台として、有機的に構成されていると言ってよいだろう。今回の書評では、主にこの第一章の内容を概説し、そこに含まれる興味深い問題のいくつか指摘しておきたい。

なお、本書の記述の対象は、京劇のほかさまざまな地方劇に及ぶが、著者自身冒頭で断っているように、長年著者が最も身近に接していた劇種である京劇が、勢いその論及の中心となっている。また、「当代」に対する「伝統」として比較の基準とされるのは、元雑劇や明清伝奇といったいわゆる古典戯曲ではなく、それらに取って代わる形で勃興した「花部乱弾」、特に清末民初に大衆娯楽として巷間で行われていた、改革を施される以前の「伝統的」京劇である。

認識篇の第一章において、著者はまず「当代戯曲」を論究の対象とした本書の意図を語っている。当代ということばが一般的に意味する通り、「当代戯曲」とは1949年以降に改編、創作された個々の劇作を指すが、これらの作品群は従来、古典戯曲研究からもまた現代文学研究からも、論究の対象とはされてこなかった。また演劇史研究の分野においては、たとえ当代戯曲への言及はあっても、その記述は演劇の上演を構成する様々な要素に拡散しており、劇作それ自体に関する論究は質量ともに十分なものとはいえない。その空白を埋めるのが本書の第一の任務であり、演出や演技、舞台美術などへ気配りはあっても、あくまで個々の劇作こそが本書の論究の対象である、と著者は明確にその企図を述べている。こうした方針のもと、著者によって選別された作品群に対し、俳優中心から劇作(編劇)中心、さらには演出(導演)中心へ、という一連なりの筋道に従い、二十世紀後半の当代戯曲の歴史が描き出されるのである。

認識篇第二章は、延安時代から文化大革命期まで、すなわち新時期以前の大陸における「戯曲改革」の流れを、個々の作品に即して追っている。1949年以前の延安時代まで遡るのは、ここで上演された京劇『逼上梁山』が毛沢東の賞賛を受けたことを契機に、俳優の技芸よりも劇作の主題こそが重要であり、しかもその主題は劇作家の個性風格ではなく、あくまで共同体の政治意識の発露でなければならない、という以後の創作を強力に方向付けるテーゼが明確に姿を現したと著者が見ているからである。また同時期に、「旧瓶装新酒」とは異なる創作方法を採った新作現代戯『難民曲』が創演されたことも、以後の「当代戯曲」の方向を定める一つの先駆けであったとしている。

続く建国直後の状況については、俳優(の技芸)中心から劇作中心への移行が進みつつも、両者が並存していた時代として位置づけられている。ここで具体例として挙げられるのは、『三岔口』、『秋江』、『雁蕩山』、『将相和』、『楊門女将』、『九江口』、『白蛇伝』など、われわれ外国の観客にはとりわけ馴染みの深い作品群である。『三岔口』、『秋江』に関しては、政治思想を背景とした劇作中心への移行という趨勢がありながらも、俳優個人の技芸を存分に発揮できる改編伝統演目も存在を認められていたことの実例として挙げられている。他方『雁蕩山』のように、演出と音楽とがあらかじめ厳密に設計され、俳優が個人の芸を自由に発揮する余地が大幅に狭められた演目も出現し、そこに従来の俳優中心の創作システム崩壊の兆しがあると著者は指摘している。とはいえほぼ同時期に創作された『将相和』のように演じる俳優ごとに台本が異なるという例もあり、その点ではまだ過渡期段階にあったというのがこの時期に対する著者の観察である。

一方范鈞宏改編による『楊門女将』では、歌唱によって構成される叙情のピークと物語=叙事のクライマックスとが一致しない、という従来の特質を改めて、叙事のクライマックスに歌唱を置く、劇作上「冗長さのない緊密な」構成が実現されており、ここに著者はこの時期における劇作家の創作上の主体性を見出している。とはいえ、政治思想が主題とならざるを得ない時代にあって、劇作家の個性は劇作の構成上の工夫以外にその発露の場はなかった、という限界もまた同時に指摘される。

続く文化大革命期のいわゆる様板戯に関しては、音楽と演技に多少の新味はあるものの、劇作の構成というレベルにおいては、先行の『楊門女将』に代表される一連の作品群の特質を、ほぼそのまま受け継いでいると著者は見ている。つまり『楊門女将』と様板戯は、歴史劇と現代戯という差、さらには時代背景の違いがあるとはいえ、いずれもこの時期の新編・改編作品の非伝統的特質を共有しているというわけである。この点に変化が訪れるのは、いわゆる新時期以降の作品群においてである。

文革終了後、いわゆる新時期の作品群については、劇作中心という流れが定着し、さらに演出中心の時代へと進んでいく一つの階梯として捉えられている。『曹操与楊修』、『荒誕潘金蓮』、『美人児涅槃』、『西施帰越』、『徐九経昇官記』など、数多くの作品が分析の対象となるが、この時期の作品に顕著な特質として、著者は「変容する個」を挙げている。『楊門女将』など文革前の作品においては、登場人物の持つ価値観は極めてはっきりしており、劇中何が起ころうと彼らの信念は基本的に揺るがないままである。ところが新時期の作品群に登場する人々は、確固たる人生観、価値観を持てず、現実の複雑さにたじろぎ、善悪の絶対的基準を見出すことができない。こうした揺らぎは、反封建その他政治思想を主題とするという束縛が解け、政治の場から引き離された個としての人間の探求という新たなテーマが、劇作家たちに与えられたことによって生じたと著者は考える。伝統的な劇作の枠組みに加え、政治的主題の強制的付与からも距離を置くことのできる環境が出現し、ようやく劇作家がその構想を十分に表現できる劇作中心の時代が確立した、というわけである。

さらにこうした作品が生まれた80年代から続く90年代へと時代が移ると、今度は演出家の活躍が目を引く一連の作品群が現れる。著者が挙げる『夏王悲歌』、『徽州女人』といった作品は、劇作そのものよりむしろ上演時の演出がその成功を左右しており、著者はここにおいていよいよ演出家中心の時代が到来したと見ているのである。これに加え、新時期の作品の上演をめぐっては、伝統演劇俳優へのスタニスラフスキーシステム(以下スタシスと略)の浸透という現象が観察されるとする。従来の伝統演劇においては、俳優と登場人物の間に「役柄(行当)」、さらには「流派」という中間項が存在していたが、スタシスの浸透によってそれら中間項が消滅し、結果として「変容する個」を演じることが以前より容易になったというわけである。そもそもスタシス風の「深入角色」ということばは、それ以前からいつの間にか伝統演劇の俳優達に共有されるようになっており、その時点においてすでに彼らの「演じる」行為に対する意識に一定の変化が見られた、という指摘も同時になされている。

このように50年代から80年代に至る移行期間を経て、俳優→劇作→演出という具合に当代戯曲の中核が遷移しており、そのプロセスの中で、「役柄」、「流派」といった従来の演技のフレームもまた崩れていった、というのが本書全体を通底する著者の観察である。

第四章は台湾、特に「雅音小集」が生まれた1979年以降から今日に至るまでの状況を追っているが、これについてはもう一方の新著である『台湾京劇史五十年』に詳細に述べられているので、ここでは大陸と同様な変遷がありつつも、政治環境の激変に伴う劇団のリストラや、あるいは演劇の本土化に対する希求など、台湾独自の文脈による個別の展開があったということのみを指摘しておく。

以上、認識篇を読んで考えることは様々あるが、まず挙げられるのは、著者の指摘するように、大陸の京劇がここで記述される幾多の変遷を確かに経てきていることを、今回あらためて実感させられたという点である。新時期の作品に関しては、筆者もほぼ同時代的にそれらのいくつかを目にしているので、具体的な変化の一例として比較的認知しやすい。しかしそれ以前の『将相和』や『楊門女将』、『雁蕩山』などのお馴染みの「伝統的」演目については、何かが違うという漠然とした印象はあっても、こうした流れの中に位置する個々のポイントとして指摘されない限り、なかなかその特質を見極めるのは難しいのではないだろうか。50年代から60年代初頭にかけて創作、改編されたこれらの演目が共通に持つスリムさ、清潔さ、さらにはある種の物足りなさの正体が、本書を読むことによって随分判然としたように思われる。また、俳優たちへのスタシスの浸透についても、実際に舞台を見る中で恐らくそうではないかと思うことは幾度もあったが、古典から当代に至る膨大な戯曲作品に精通した著者による指摘を読んで、あらためてその事実を確認することができたように思う。これらの点については、著者と認識を共有することに何の躊躇もないといっていいだろう。

一方、俳優→劇作→演出という変遷過程が、果たしてここで描かれるように理路整然と進んでいったのか、という点に関しては少々疑問が残る。著者自身も文中で、演出家中心という仕組みが完全に定着したかというとおそらくそうはなっていない、と述べているが、政治意識からの離脱という点も含め、やはりそれほどリニアな進化論的変化を遂げているとはいえないように思う。特定の流派を継承する芸達者な俳優を中心としたスターシステムは今も健在だし、毛沢東の文芸講話や以後の三併挙といった方針も、かなり建前化しているとはいえ政策的には依然として維持されているのである。俳優→劇作→演出という変遷過程が一部の作品群から読み取れるのは確かなのだが、一方でそこには、著者の劇作家、あるいは観客としての希望的観測という側面も多分に含まれているのではないだろうか。大陸の当代戯曲をめぐる現実は、ここで描写されるよりも隨分多面的かつ複層的であるように思われる。

また「伝統の束縛を突破」して「新たな創造」を行う、という類の言説に対する楽観的信頼も、少々気になるところである。ノベルティの追求、すなわち芸術は日々新しく、いかなる時も前衛たるべきだとする発想は、近代以降に顕著なものであり、元を正せば西欧の一部に生まれたローカルな考え方でしかない。大陸の人々に比べると多少トーンが落ちるとはいえ、伝統に対する考え方としては少々不自然に思えるこうした言説への半ば無条件の信頼が、著者においても観察できるように思うのである(むろん一方で我々の伝統に対する考え方も同様に俎上に載せなければならないし、また中国文化圏においてはジャンル間の分業が日本のようには機能しないという文化的な相違も意識すべきであろう)。

とはいえ、本書の行論によって読者の眼前に披露される著者の驚くべき情報処理能力にはやはり舌を巻かざるをえないだろう。これだけ膨大な素材を一つの筋道の上に次々と並べていく力量は見事というほかはないし、しかも古典戯曲に対する確実かつ豊富な知識がその背景としてあるため、中国の戯曲において何が新しくまた何がそうではないか、という指摘には実に説得力がある。さらに論究の対象とされた各作品についても、その新しさをただ賞賛するばかりではなく、及ばないところは何のためらいもなく切って捨てている。そうした著者の筆鋒は誠に鋭く、序文を寄せた大陸の劇作家陳亜先も、実はその作品を本書の中で「推陳未必出新」とかなり厳しく評されている。しかしながら、こうした評価には人を納得させるだけの十分な根拠があり、かつまた我々が目睹したように、著者には演劇に対する人並み外れた愛情と、深い学識に基づく学問的誠実さがある。そうした著者の人となりが文面から伝わってくるが故に、陳亜先もその評価をむしろ「快」としているのであろう。今回はいろいろな偶然が重なって著者本人との邂逅の機会を得られたが、以後また直接お目にかかり、上記の疑問点など話し合ってみたいと考えている。

なお、今回書評の対象とすることは出来なかったが、昨年出版された『台湾京劇五十年(上・下)』(国立伝統芸術中心、2002年)は、戦後の台湾京劇の五十年に及ぶ歴史を詳細に追った労作であり、今後台湾京劇史研究のために必ず備えるべき新たな古典的著作といってよいと思う。