『都市芸研』第二輯/梁全民氏と晋中皮影戯・木偶戯

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梁全民氏と晋中皮影戯・木偶戯 インタビューを通じて

山下 一夫

1.はじめに

2001年11月に千田大介氏が行った予備調査を通して研究協力態勢を確立した、山西省孝義在住の影人作家・収集家である侯丕烈氏の紹介で*1、2002年8月21日に晋中皮影戯の老芸人梁全民氏へのインタビューを行うことができた。場所は孝義市文化局内の侯丕烈氏宅で、メンバーは氷上正・千田大介・山下一夫・戸部健、また座には侯丕烈氏も同席し、時にやや耳の遠い梁全民氏を補佐する役割も果たしていただいた。

梁全民氏は、インタビューの時点で71歳(数え年)、芸人としての活動期間は主に1950年代から1990年代にかけてであるが、解放前の事情にも精通しており、同年代以上の芸人たちがほとんど世を去った今となっては、往時の晋中皮影戯の状況を知る最後の生き証人であるといっても過言ではない。梁全民氏の経歴については、すでに高巨寿氏「挑簽伝人―四訪皮影木偶操作老芸術家梁全民先生」(『中国社科成果要覧』、中国文史出版社、2001年)に紹介があり、また孝義皮影戯の戯班や芸人の師承関係についてはいわゆる新編地方志の『孝義県志』(孝義県地方志編纂委員会編、海潮出版社、1992年)に詳細な記述があって、今回の調査に際しても大いに参考となったが、実際にお話を伺ってみると、これらの先行資料にはかなりの誤りがあることも判明した。以下、インタビューをもとに、氏の経歴から劇団の推移、往時の上演状況や習俗などについて追っていきたい。

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梁全民氏による木偶戯の上演

2.解放前

梁全民氏は、1932年に孝義県後義馬村で生まれた。父の梁栄龍氏は後述する馮庭栄氏に師事した皮影芸人で、祖父も業余の皮影戯楽師であったというから、皮影戯芸人の家庭で育った訳である。幼少の頃の孝義は日本軍・国民党・共産党の三つの勢力が対峙する激戦区で、梁全民氏自身も1943年に解放区であった介休県鉄南区から国民党支配下の鉄北区の共産党地下組織へ文書を届ける伝達員をしたことがあるという。

梁全民氏はその後皮影戯芸人となるよう勧められたこともあって、1948年に父の師でもある馮庭栄氏のもとへ正式に弟子入りした。この際は「学徒文約」を結び、保証金として三十石の黄米を払った。馮庭栄氏は孝義県石像村の人で、幼名を洞厮といい、若い時に陝西の碗碗腔芸人について芸を学んだのだという*2。梁全民氏が加わった頃には七・八人のメンバーからなる「二義園」という戯班を率いていたが、これはもと「二義軒」と称し、昼間は山西梆子木偶戯を、夜は孝義碗碗腔皮影戯を行っていた。その頃孝義の碗碗腔皮影戯には馮庭栄氏の他に王宝棟氏*3、于吉栄氏*4、張万年氏*5、高井栄氏*6などの流派があったが、もう一つの皮影戯声腔である皮腔はこのころすでに衰退していた*7。ただ、時に請われて皮腔を唱うこともあり、そのため梁全民氏は皮腔皮影戯も覚えたという*8

3.解放後

1949年3月、共産党が皮影芸人を集めて四つの小組からなる「孝義市皮影宣伝組」を組織し、第一組には那鵬飛氏*9、第二組に趙嘉賓氏、第三組に温世宏氏*10、第四組に馮庭栄氏*11が配属された。梁全民氏は師匠の第四組に入り、『小二黒結婚』『白毛女』『血涙仇』『王貴与李香香』などの現代皮影戯を上演したという。1951年には太原市政府の要請で第二組が太原に移され、「太原市月影劇団」となった。「月影」とは、碗碗腔皮影の別名が「月調」と称することに因んでいる。梁全民氏は、ここで父とともに1954年まで太原に派遣されている。なお、この太原の劇団は後に「太原市碗碗腔劇団」となり、碗碗腔の「人戯」化が行われている*12

続く1952年から1956年にかけて、小組は十一に発展し、1956年には宣伝組も「孝義皮影木偶劇団」に改称されている。同時期には北京でも「徳順皮影戯社」が「北京宣武皮影木偶劇団」となっているので、恐らくこれは全国的に行われた政策であると思われる*13。ちなみにこの頃、梁全民氏より三歳年下の任常来氏が那鵬飛氏の弟子として入団し、それから芸人になるまでの数年間、炊事や掃除、師匠の身の回りの世話などをしたという。任常来氏は後に馮庭栄氏の外甥女でやはり皮影芸人の趙梅琴氏と結婚し、梁全民氏と共に劇団を担ってゆくことになる。

さて、1958年に梁全民氏は孝義皮影木偶劇団の団長に就任した。同年、孝義県は介休県・霊石県と合併して「介休県」となり、劇団の十一の小組は九個へと減らされたという。後にはさらに三小組となって、団員の大幅なリストラも断行された。そうした中、劇団は経済的に困窮したせいもあって、ここで二つの改革を行っていく。

一つは、皮影戯の影人の改良である。以前は7寸のものが用いられていたが、これを1尺へ、次に1.2尺へと改変していき、さらに2尺のものを三人で操作する実験も行われた。これは恐らく、解放後行われる様になった劇場における上演が、旧来の戯台に比べて規模が大きくなったことに対応するためだと思われる。影人が大きければ、それだけ遠くまで見え、一度に多くの観客を対象とすることができるからである*14。もう一つは、木偶戯の導入である。宣伝組として発足して以来、劇団は皮影戯を専門に行う団体として活動してきたが、1956年に芸人の王紹禺氏の提唱で木偶戯も行うようになり*15、さらに1960年に梁全民氏らが広州に赴いて孫悟空などの木偶、芭蕉扇などの道具、さらに曲譜や劇本を全部で4000元で購入、それをもとに神話木偶戯として『西遊記』関連演目の上演を行った*16。幸いにもこれは好評で、以後劇団は主軸を木偶戯に移していく*17

ちなみにこの頃、梁全民氏は鍼灸による感冒治療の際に感染症を引き起こし、以後両手の中指が曲がって伸ばすことが出来なくなってしまったという。

4.文革前後

1961年に三県合併は解消、「介休県」が再び孝義県・介休県・霊石県へ分割され、前二者が皮影木偶劇団をそれぞれ一つ所有することになり、また劇団で行った改革が功を奏したこともあって、上演は再び活況を呈するようになっていった。しかし文化大革命が始まると、せっかく軌道に乗せることができた神話木偶戯は禁演となり、上演は『紅灯記』などの様板戯に固定された*18。さらに1969年には劇団が解散となり、梁全民氏も団長をやめることになる。団員たちは劇団の道具が批判の対象となるようなものを含んでいることもあって、すべて処分することを主張したが、梁全民氏が懸命に反対したため、お陰で売却を免れたという。

1972年に劇団が復活し、神話木偶戯『三打白骨精』の上演を許された。これは1960年に導入された『西遊記』関連演目の一つである。また従来、劇団では下から棒で操作する「杖頭木偶」が行われていたが、ここで上から糸で操る「提線木偶」に変更した。前者に比べて後者の方が一回り大きいため、これも恐らくは劇場等での上演を考慮した改変と思われる。この形式は4年間続けられたが、木偶の操作方法が大きく異なるため上手くいかず、結局その後杖頭木偶に復したという。

5.八十年代以後

1984年に中国木偶皮影協会・国家文化部芸術局・山東省文化庁の合同主催による「中国木偶精英薈萃大賽」が広州で行われ、劇団は新団長の武俊礼氏のもと、梁全民・任常来両氏による木偶戯『走雪山』を上演、精英奨を獲得する。また1989年には、省文化庁副庁長の郭士星氏をリーダーとする「中国山西皮影木偶芸術団」メンバーとして、任常来・趙梅琴夫妻など11人とともに、同じ石炭産地であることから山西省と友好関係にあるイギリス・ダービー州を訪問し、皮影戯『収五毒』『張羽煮海』、木偶戯『走雪山』、『酔戯嫦娥』(『八戒下凡』の第一場)などを上演、好評を博したという。

しかし帰国後、劇団は経済的に困窮し、団員には給料も出ない状況となった。そのため、梁全民氏らはやむをえず農村や個人宅での出張上演(「走村跑戸」)を行い、慶事での上演で日銭を稼いでいったという。1990年代前半は、改革開放政策が軌道に乗って生活水準が向上した結果、テレビや映画などが普及して各地で伝統演劇が没落していった時期であり、この点では孝義も例外ではなかったのであろう。社会主義の規制が弛んだお陰で復活した民間の慶事活動によって糊口をしのいだというのも皮肉な話である。

なお、1991年に「孝義市木偶皮影芸術博物館」が成立、梁全民氏はここで皮影関係資料や、それぞれ二、三時間上演可能な台本200種を整理し、また戯台や契約文書などの「二義園」関係資料や、文革後用いられた提線木偶を展示品として提供している。

現在、梁全民氏はすでに劇団を引退しており、近年は舞台に立つ機会も少なくなっているが、それでも1999年8月28日(農暦七月十七)に張壁村の第二届文化節として開かれた張壁古堡の廟会では、境内の可汗王祠において皮影戯『収五毒』『董家橋』、木偶戯『走雪山』を上演し、好評を博している。家族は男の子が二人、女の子が四人いるが、孫娘が一人天津の舞踏学校に通っているのを除けば、家族はいずれも皮影戯などの伝統芸能とは関わりがない仕事をしているのだという。

劇団は現在「孝義市皮影木偶芸術団」という名称になっており、団長は郝智林氏、26名の劇団員を擁し、ほとんどが梁全民氏の学生にあたる。常演演目には皮影戯『穆桂英掛帥』、木偶戯『長袖舞』『七品芝麻官』『救斐生』『花果山』『三打白骨精』などがあるという。また近年はテレビ向けの児童木偶戯に力を入れており、1998年に西安電影制片廠と共に中国最初の木偶連続テレビドラマ『英雄出少年』30集を制作したのを皮切りに、1999年に西安電影制片廠と木偶劇『坷拉伝奇』を、また太原電視台と木偶劇『双蓮伝奇』を制作、さらに2001年には劇団の自己資金で『逗逗猴』を制作している。この他、2002年のサッカーワールドカップ関連イベントとして韓国の大田で開催された国際木偶芸術節に参加、木偶戯『花果山』『長袖舞』、皮影戯『張羽煮海』『収五毒』、人偶同台戯『送妻回娘家』などを上演したという。

6.旧時における上演

梁全民氏にはまた旧時における孝義皮影戯の上演状況について色々とお話をうかがうことができた。解放前後、二義園から宣伝組のころまでは、孝義と汾陽を中心に上演を行ったが、他にも介休、平遥、霊石、祁県など、山西中部各地を巡ったという。上演は水母娘娘廟、龍王廟、関公廟、文廟など寺廟の戯台で行うことが多かった。ただし孝義旧県城の城隍廟は人戯の梆子のみで、皮影戯は行われなかった。また、農暦三月初三の「王母聖誕」の際には、辟邪のために『収五毒』を上演するなど、年間を通して廟会の行われる節日と上演演目の間に一定の関係があった。また、関帝廟では関羽が死ぬ内容の演目、三清廟では通天教主を貶める内容を持つ『封神演義』関連演目など、祀神にとって縁起の悪いものは上演が憚られた。これらはいわば廟会における「敬神戯」として上演されていると考えられるが、1950年代以降進展した農業の合作化によって、こうした「民間迷信活動」は途絶えていったという。

師匠の馮庭栄氏は文盲であったが、100以上の演目を暗記しており、当然のことながら梁全民氏は口伝によって演目を教わっていった。ただし、自身は多少読み書きができたので、備忘のために書き留めることもあったという。上演可能な演目について尋ねると、すべての名を挙げるのは不可能で、おおむね殷周から明清まですべての王朝の故事をカバーしているということであった。そこで梁全民氏に『孝義県志』759頁~760頁に載せる孝義木偶皮影芸術博物館収集の皮腔・碗碗腔・木偶それぞれの劇本目録を見せると、これは梁全民氏も参画しているはずの劇本整理作業を基礎としているにもかかわらず、梆子戯などの演目が多数混入していて、すべてが皮影戯や木偶戯の劇目であるとは見なし難いという答えが返ってきた。氏が梆子戯の演目としたものについても、或いは別の皮影戯芸人が行っていたものである可能性も捨てきれないが、ともかく以下に目録の中から梁全民氏が碗碗腔皮影戯および木偶戯であると断定したものを抜き出しておく。

碗碗腔皮影戯

祝家荘 火焔山 董家橋 収五毒 大変化 跑馬 劫駕
(以上7種は『孝義県志』では皮腔とする)

逼塵珠 九蓮珠 宝蓮珠 忠孝図 苦極図 紫霞宮 虎賁山 困淮南 遊河南 九華山 黒風山 恩陽関 景星光 玄武楼 紅灯記 桃花記 白羊河 桃山洞 両世音 大西漢 女忠孝 双報恩 十万廟 観音堂 五女興唐卒花宮 李能打老婆 禿子尿床
(以上28種は『孝義県志』でも碗碗腔とする)

木偶戯

薬王巻 蟠桃会 遊宮 通天河 火焔山 三打白骨精 八戒下凡 八戒過海 嫦娥奔月
(なお後四者は解放後の作)

碗碗腔皮影戯では『孝義県志』所載皮腔35種・碗碗腔61種の中から35種、木偶戯は同じく10種のうち9種という結果であった。また、碗碗腔皮影戯の演目には、上に見えない三国演義や薛家将、および楊家将などの関連演目や、また皮腔皮影戯で行われるとされた『西遊記』『封神演義』などもあるということであった(特に後者は六十八本の長大なテキストを上演するのだという)。なお解放後はご多分に漏れず、「封建的」「迷信的」とされた演目は行われなくなっている。

また、影人の材料には黒牛の皮が最も好まれ、一つの戯班には最低でも250個の頭と150個の身子、および幾つかの布景(建物・家具・山水などの舞台背景)が必要であるという*19

上演に際しては、解放前は「写頭」なるものが戯班と観衆=契約者との間に入って上演の手配などを行ったという。いわゆる「経紀人」に相当するのだろうが、連想されるような「黒社会」との関係はないということだった。上演費用は現金か物品で支払われたが、後者によることが多かったという。博物館に所蔵されている旧時戯班で用いられた「合同」とよばれる契約文書には、油や茶葉など様々な項目が立てられているが、これはそれらが契約時に費用に充てられることを表している*20

また解放前は、碗碗腔皮影戯芸人の職業神、いわゆる「祖師爺」として、「苗荘王」が祀られたという。現在、博物館の敷地内に移築されている旧時の皮影戯戯台でも、後台に苗荘王を祀った霊牌が供えられている(写真参照)。なお皮腔皮影戯の祖師爺は黄竜真人、木偶戯は陳平、人戯である梆子戯は老郎神(一般に唐の玄宗とされる)であるとされる。苗荘王については、博物館の展示室内にある解説文「碗碗腔皮影戯祖師爺苗荘王」では以下の様になっている。

興隆国の苗荘王には、金蓮・玉翠・妙善の三人の姫がいた。苗荘王は妙善に婿をとらせ国政を司らせようとしたが、妙善は仏教を好み、観音菩薩の導きによって香山寺で出家し、尼となった。その後、妙善は病気となった苗荘王のために眼と手を切断して薬を作ってこれを救った。そこで苗荘王は妙善を千手千眼菩薩に封じ、誕生日である2月19日に国を挙げて祀ることにしたほか、家臣の段標に命じ紙で妙善の人形を作らせ、幻灯に照らして娘を偲んだ。さらに苗荘王はこれに飽きたらず、妙善の出家の経過を物語にして、影人を作り段標に国中で上演させた。これが皮影戯の始まりであり、上演した内容は『三皇姑出家』または『大香山』と呼ばれる。このため芸人たちは苗荘王を祖師爺として祀っている。

一見して明らかな様にいわゆる香山観音故事に基づいており、また後半は唐の玄宗が楊貴妃を追慕するため影人による上演を行ったという皮影戯起源説話が流用されている(なお、苗荘王は『香山宝巻』や『南海観世音菩薩出身修行伝』などのテキストではふつう「妙荘王」と表記される)。苗荘王を祖師爺とすることは山西省南部でも行われており*21、また陝西省華陰県皮影戯や北京西派皮影戯などが観音を祖師爺としていることとの関連も推測される。

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苗荘王の霊牌

7.おわりに

インタビューの後、「孝義市木偶碗碗腔専場文芸晩会」に参加し、現在劇団で常演される木偶戯演目や、皮腔の吹唱による「輝煌孝義」を鑑賞し、また翌日には博物館で梁全民氏および劇団員による碗碗腔皮影戯『収五毒』や木偶戯『走雪山』の上演を鑑賞した。この二度の観劇によって、孝義の皮腔、碗碗腔、木偶戯それぞれについて、実際の上演状況を把握することができた。またいずれも後台の見学を許され、人形の操作方法や楽器演奏などについても実際に見ることができた。ちなみに梁全民氏は、既に引退して久しく、喉も壊しているということだったが、その上演は大変すばらしいもので、参加メンバーは一様に感銘を受けたものである。

さて、今回のインタビューによって、梁全民氏の経歴を主軸に、解放前から現在に至る山西中部の皮影戯および木偶戯の状況について、先行する幾つかの資料についての誤りを訂正しつつ、その概観を得ることができた。これによって、山西中部の都市および農村における巡回上演という形態を基礎とする当地区の皮影戯が、共産党による社会主義思想の宣伝および統制という観点からの組織化、またこれと密接な関係にある木偶戯化および人戯化、さらに文革期の休止を経て復興を見ながらもその後直面しつつある新時代への対応など、幾つかの方向性の中で、演目や上演形態などを変化させながら展開していった状況を了解することができるであろう。

今後の課題としては、以下の二点が挙げられる。まず第一に、今回行った梁全民氏へのインタビューや山西省戯劇研究所所蔵資料調査によって概略を知ることができた皮影戯や木偶戯の個々の演目について、上演台本に即したより詳細な研究が必要となろう。影巻については、山西省戯劇研究所と孝義皮影木偶芸術博物館が共同整理を進めていて、間もなく『山西地方戯曲匯編・皮影戯巻』として出版されるとのことであり、研究を進める条件が整いつつある。また次に、山西南部や陝西東部など、隣接する地域の皮影戯についてもさらに調査を行う必要がある。その結果を従来の北京皮影戯や唐山皮影戯などについての研究成果と合わせることで、それぞれの地域的偏差や普遍的特色などを析出し、中国の皮影戯が通俗文学史および芸能史の上で果たした作用について、明らかにすることが可能となろう。

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梁全民氏インタビュー風景

*1 侯丕烈氏については、千田大介「山西皮影戯研究の現状と課題」(『中国都市芸能研究』第一輯、中国都市芸能研究会、2002年所収)を参照されたい。
*2 『孝義県志』には、「1922年に馮庭栄氏の弟馮庭義氏が陝西へ碗碗腔を学びに行き、四年後に帰郷して兄弟で新義園という戯班を始め、一時は隆盛を極めたが、1929年に解散し、二人は別の戯班に入った」という記載がある。また二義園についても、「同治年間より武姓の芸人によって代々行われた皮腔の戯班で、1930年代に衰退して半農半芸となり、解放後解体した」としている(いずれも675~676頁)。梁全民氏によれば、二義園という屋号はもともと売却されたものであり、また六代続いた武姓の芸人というのは確かにいたということなので、あるいはこのころ馮庭栄氏は購入した二義園という名称を用いて戯班を運営していたということかもしれない。
*3 『孝義県志』によれば、王宝棟氏は碗碗腔戯班「義盛園」の班主だった金庫之氏の弟子で、1936年に逝去。
*4 『孝義県志』によれば、于吉栄氏は王宝棟氏と同じく金庫之氏の弟子で、師の死後「義盛園」の班主となったが、1931年に逝去し、戯班も解散したという。
*5 『孝義県志』によれば、張万年氏は碗碗腔戯班「大成園」の班主だった張林保氏の弟子で、1947年に逝去。
*6 『孝義県志』によれば、高井栄氏は張万年氏と同じく張林保氏の弟子で、一度解散した「大成園」を1933年に復興させ、抗日戦争期に山西省西北部で活動。1953年に逝去。
*7 ただし『孝義県志』では、解放前夜に活動していた「皮腔」の劇団として、碗碗腔を兼ねる李正有・郝如山両氏らの「五美園」とともに、梁全民氏のいた「二義園」を挙げている。670頁参照。
*8 高巨寿氏前掲論文は、梁全民氏を皮腔皮影戯が専門の芸人であるかのように記しているが、こうした点から見て訂正されるべきであろう。
*9 『孝義県志』によれば、那鵬飛氏は「義盛園」の于吉栄の伝人。
*10 『孝義県志』では、高井栄氏率いる「大成園」が1947年に孝義に帰郷し、「三隊」に改組されたとしている。ただし梁全民氏によれば、各小組は党が芸人を選んで組織化したもので、既存の戯班の枠組みを継承した訳ではないという。
*11 『孝義県志』では、皮腔の戯班「善清班」が「四隊」に改組されたとしている。
*12 『中国戯曲志山西巻』(中国戯曲志編輯部編、文化美術出版社、1990年)521頁によれば、1956年に趙嘉賓氏らを負責人として「太原市碗碗腔劇団」が成立し、また張思聡・王万万「孝河義水灌奇葩―孝義碗碗腔概述」(『山西劇種概説』、山西人民出版社、1984年)によれば、1959年に「人戯化」を行って皮影戯による上演を止めたという。さらに、『中国戯曲志山西巻』514頁には、1970年に太原市晋劇団など四つの晋劇団と合流して「太原市実験晋劇団」となったと記されている。また『中国戯曲志山西巻』507頁によれば、孝義でも碗碗腔の「人戯化」が図られ、皮影木偶劇団とは別に中路梆子の劇団を基礎とする「孝義県碗碗腔劇団」が成立、1959年に最初の公演を行っている。
*13 千田大介「北京西派皮影戯をめぐって」(『近代中国都市芸能に関する基礎的研究』、平成九~十一年度科学研究費基礎研究(C)成果報告書、2001年)、90頁参照。
*14 影人の大型化は、戦後になって唐山皮影戯や台湾高雄皮影戯などでも行われており、各地で同様に進行した事態であることを伺わせる。
*15 解放前は多くの戯班で昼間は梆子による木偶戯を、夜は碗碗腔皮影戯を上演するという形態を取っており、宣伝隊に改組されてから皮影戯のみの上演になっていたのを、ここでもう一度復活させたということだと思われる。ただ、張思聡・王万万「金斗山澗蔵古花―孝義皮腔概述」(『山西劇種概説』、山西人民出版社、1984年)では、1958年に劇団は皮腔や碗碗腔による木偶戯の上演を始めたとも記しており、この間の経過についてはなお不明な点も残るが、これについては今後の課題として行きたい。
*16 なお、解放以前の木偶戯では、蘇州に木偶を買い付けに行っていたという。また、現在では劇団所属の李世偉氏が製作を行っており、劇団は木偶の造型レベルの高さによっても知られる様になっている。
*17 『孝義県志』677頁では、劇団は1962年にこのうちのひとつ『三調芭蕉扇』によって省の調演に参加したのを機に、皮影戯の上演をやめて木偶戯の上演に特化したとしている。
*18 なお、高巨寿氏前掲論文には、「1964年、孝義皮影木偶劇団は、梁全民氏と任常来氏の主演で革命現代木偶戯『劉四姐』『飛奪芦定橋』を上演した」とある。
*19 なお、博物館で所蔵する影人を見せてもらったところ、皮腔皮影戯で用いられる影人は碗碗腔皮影戯と異なり、頭部と身体が一体で、それぞれが一定の登場人物に特化したものとなっていた。したがって、ここで梁全民氏が言っているのも、碗碗腔戯班における状況であると思われる。
*20 千田大介「山西皮影戯研究の現状と課題」68頁「合同」の写真を参照。なお、これらの項目を「上演にかかる油、茶葉などの消耗品の分量を記入する」ものとしているが、訂正する必要があろう。
*21 墨遺萍『蒲劇史魂』(山西省文化局戯劇工作研究室、1981年)21~22頁参照。なお、墨遺萍は妙荘王について、郭郎、唐玄宗、呂洞賓などに同定を試みつつ、結局は不明であるとしている。