『都市芸研』第五輯/『宣南零夢録』訳注

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宣南零夢録

番禺 沈太侔撰
京劇史研究会訳注

凡例

  • 一、本稿は、沈太侔『宣南零夢録』(『清代燕都梨園史料』所収)の全訳である。直接内容に拘わらない題詞は省いた。
  • 一、翻訳にあたっては、底本に北京邃雅齋書店出版本(一九三四年)を用い、同書の影印本(台湾学生書局、一九六五年)、および排印本(正・続二冊、中国戯劇出版社、一九八八年)を参照した。
  • 一、原書の割り注は、( )に入れた。干支表記は、対応する年次および西暦を〔 〕に示した。
  • 一、字体はすべて常用漢字体で統一した。
  • 一、各条目の通し番号および小題は、訳者が加えた。また、訳者による補注等の注記は、〔 〕に入れ、訳文中に示した。
  • 一、演劇に関連する人名については、各条目末尾に注を付した。
  • 一、各条目末尾に担当者名を記した。
  • 一、本訳注稿は、中国都市芸能研究会有志を含む京劇史研究会(松浦恆雄・藤野真子・三須祐介・田村容子・大野陽介)による読書会の成果である。未だ不充分と思われる点も多いので、大方の批正を請う。

『宣南零夢録』序

『宣南零夢録』一巻は、亡き友・番禺の沈南野君が撰したものである。沈君は旧都に寓居すること数十年、若い頃から花柳の巷に遊ぶことを好み、太平の公子といった風があった。そのすぐれた才気と風格は、一時その右に出るものはなかった。本編は、晩年隠居してからのもので、往事の風雅な遊びぶりと、同治・光緒年間の逸聞がしたためられている。〔その文は〕仏理を論じ美女を評するにも、見識があって軽佻に堕することなく、様々な逸話を語っても〔原文「搴芳擷腴」〕、微細なところにおよびながらも節度があった。思うに、文という手段を借りて、世の有為転変を述べようとしたのであろう。沈君が亡くなってはや十年、遺稿はほとんど散逸してしまった。次渓張君はかつてその門下にあり、この原稿を大切に蔵していたが、『燕都梨園史料』を編むにあたってこれを収録し、私に一言推薦の辞を書かせ、すみやかに印刷し、世に広く伝えようとしている。このささやかな一篇は、沈君の生前の著述においては、大海の一滴、炎の光の一閃に過ぎない。未刊の著作や逸事もあるが、次渓が恩師を思うこと篤く、〔その遺業を〕進んで書き留めなければ、これと共に世に伝わることはないであろう。もし沈君がそれを知れば、どれほど悲しむことであろうか。『宣南零夢録』という題名は、沈君自身が記したものであり、今そのまま用いる。

中華民国二十三年十一月 呉江黄復序 【藤野真子】

『宣南零夢録』

01 光緒の演劇界

光緒乙亥〔元年・一八七五〕、私は十一歳で、今は亡き母に付き従って入京した。当時は三慶班・四喜班の全盛期で、池子〔土間の椅子席のこと〕は一席当十銭で六百文、後に八百文にまで値上がりした(百枚は当十銅元一枚である)。階上は一卓当十銭で六千文、後に八千文まで値上がりした(千枚は当十銅元十枚である)。官座は十八千文から二十四千文に値上がりした(劇場の両端の舞台に近いところに卓を三つ並べ板で仕切っていた。これを官座といった)〔当十銭=十銅元、一銅元=十文であり、十銅元一枚を百文と換算すると、池子は当十銭六枚で六百文、階上は当十銭六十枚で六千文、官座は当十銭百八十枚で十八千文という計算になる〕。いつも十二月になると、三慶班は『三国志』を、四喜班は『五彩輿』を演じた。どちらも役者は均しく揃っていて、ふつうは演目に必ず崑戯が一,二齣入っていた。堂会戯にはとりわけ朱蓮芬が重んじられた。光緒甲申〔十年・一八八四〕以降、崑戯が突然振るわなくなったのは、本当に不思議なことである。甲午の年に中日両国がことをかまえ〔光緒二十年・一八九四。日清戦争のこと〕、戦雲が立ちこめた。そこで亡父から電報を受けとり、家族を連れて北京を離れたのである。光緒甲辰〔三十年・一九〇四〕にはまた北京に戻った。この十年間、大きな出来事では戊戌の政変や義和団事件などから、瑣末なことでは梨園の盛衰、名優の存否などに至るまで、私はどれも聞いてよく知っている。また天津や上海の新聞を読み、あれこれと探ってみたものである。宣統庚戌〔二年・一九一〇〕、吉林を旅行し、談小蓮君と親しくなった。談君は曲律に通じていて、唱うことにすぐれ、また皮黄も嗜んだ。彼はかつて私にこう言った。「光緒庚子〔二十六年・一九〇〇〕以前は、まったくその名が知られていなかったが(私が北京にいた時、かつて譚鑫培とコオロギ相撲や乗馬を楽しんだことがある。本人の言によれば、毎日の給金は三十千文ということだったので、談君の言う通りである)、庚子の後、にわかにその名声が高まり、北京の女子供で『小叫天』の名を知らぬものはほとんどいないというほどであった。しかし、譚の顔は生気がなく、屍のようにやせ細っていた。その声を聴けば、うら悲しくか細くて、鴻や鶴の鳴き声のようだ。孫菊仙の明るく大きく調和がとれている〔原文「黄鐘大呂」〕のに比べると、譚の唱は実に悲しみ〔原文「商角」〕を帯びている。亡国の音はひどく痛ましいものなので、これは吉兆ではない。どうだろうか」。友のこの言は、不幸にも現実のものとなり、一年も経たないうちに、清朝は倒れた。近頃、世の中にはだんだん旧劇を嫌う風潮が現れるようになった。この先、中華民国の騒乱はいつ終わりを告げるのだろうか。たとえ予測できたとしても、言うのはとても忍びない。談君が亡くなって既に久しく〔底本・影印本「墓拱木已」、排印本「墓木已拱」〕(私は宣統辛亥〔三年・一九一一〕に関内に入ったが、彼は壬子〔民国元年・一九一二〕の冬、吉林で客死した)、他の人は夢うつつのまま空しく過ごしている。この世界は広いが、そのなかで世の気配を敏感に感じ取ることができる人は恐らくほとんどいないだろう。これはまた大いに悲しむべきことなのだ。

【大野陽介】
  • 【人物】
    • 朱蓮芬(一八三六~?) 旦。江蘇呉県の人。
    • 談小蓮(?~一九一二)
    • 譚鑫培(一八四七~一九一七) 老生。湖北江夏の人。
    • 孫菊仙(一八四一~一九三一) 老生。天津の人。

02 譚鑫培の華麗なる舞台世界

私は光緒甲午の年〔二十年・一八九四〕に都を出たので、庚子〔二十六年・一九〇〇〕以後、譚伶がその名を天下に轟かせているのを見ることができなかった。甲辰〔三十年・一九〇四〕に至って再度入京してからは、右耳はまだ歌を聴くことができた〔作者は耳が悪く、「聾道人」と号していた〕ので、しばしば梨園に通った。ただ譚鑫培はいつも舞台に立つわけではなく、たとえ出たとしても、良い席はなかなか手に入らないのであった。というのも私はかならず舞台の近くに座らなければ唱を聴くことができないからであった。今でも耳にした譚のさまざまな芝居が、まだ記憶の中に残っている。その年月を全て記すことはできないが、他の譚鑫培びいきにも楽しめる話であろう。譚伶は中和園〔北京市前門大柵欄東口糧食店胡同〕の中心俳優〔原文「台柱」〕であったが、丙午〔三十二年・一九〇六〕の秋冬の間は全く舞台に立たなかったため、芝居を聴きに来る者は日ごとに少なくなり、日に二,三百座程度のこともあった。十一月一日ののち、譚伶は突然やる気になって、宮中からの呼び出し〔原文「伝差」〕や堂会の時以外、演じない日はなく、これより座席もいっぱいになっていった。私のむかしの作品に「周囲に〔臨時に〕凳子を加え、一尺四方の場所が一円にも値する」というものがあるが、中和園のために作ったものである。ああ! 万人が通りを空っぽにせんばかりの盛況は、譚叫天の死後二度と見ることはなかった。世の運気は日ごとに下っていったが、それも些細なことであった。この月の十一日、譚伶と王瑶卿が『汾河湾』で共演したが、老生・青衣、みな京中第一の役者であった。そのしぐさは一挙手一投足すべてが絶妙であり、歌唱は一字一句すべてが精妙であり、この上ないすばらしさに感嘆してやまなかった。十二日に譚伶は『洪洋洞』を演じたが、これは彼の十八番であり、非常に多くの客がつめかけた。ちょうど唱っているとき、西の階上で三,四人が大きな声でかけ声をかけたが、その声は速射砲のようで、ロバのいななきかと思えば、また犬が吠えるかのようでもあり、舞台裏の人々は繰り返しこれに注意をした。譚叫天はこれに全く動じず、精一杯演じた。かけ声をかけた人々はそれを罵倒に変え、叫天を罵り、いっとき階上階下の観客たちの不平を抱くところとなった。場内はひどく混乱し、互いに罵りあい、とうとう劇は中止になってしまった。かけ声をかけていた人々は、劇場を警邏していた警官によって連れて行かれてしまったということである。これより中和園は長い間休演になった。ある有力者が湖広会館〔北京市宣武区虎坊路〕で誕生祝いの芝居〔原文「寿戯」〕を行ったとき、玉成班〔田際雲が班主の戯班「大玉成班」〕に加えて〔原文「外串」〕、譚に二本の芝居を演じるよう依頼し、昼間は『桑園寄子』、夜は『碰碑』が演じられた。宋代の賢人に曰く、「詩は窮なるを以て後に工たり」〔欧陽修「『梅聖兪詩集』序」「然則非詩之能窮人、殆窮者而後工也」。蘇軾「答銭済明書」「知詩人窮而後工」〕とあるが、私はことばを換えて「戯は哀なるを以て後に工たり」と言いたい。叫天の工は「哀」にある。この日、三麻子〔王鴻寿〕が『水淹七軍』を演じたが、また絶唱といってよいものだった。ある日、中和園で『御碑亭』が演じられ、譚鑫培が王有道に、徳俊如が柳春生に、王瑶卿が孟月華にそれぞれ扮したが、芸の力が拮抗し、一筋の不満もなく、今となっても思い出されるが、まさに「広陵散」〔琴曲の名。晋の嵇康が得意としたが、その死後伝えるものがいなくなってしまった〕となってしまった。またある日『捜孤救孤』を演じたが、譚鑫培・賈洪林がおのおの公孫杵臼と程嬰に扮し、金秀山が屠岸賈に扮するなど、名優が一つの芝居に勢揃いするのも、極めて得難いことであった。譚伶は老生の筆頭であり、もとより知らぬ者はなかったが、その歌唱法は規則を守ったものではなく、調子の高低、拍〔原文「音節」〕の長短、いずれも独自に工夫され、とらえどころのないものであった。ゆえに叫天が舞台に立つときは、すぐれた胡琴の伴奏者が必要であった。大瑣〔梅雨田〕の胡琴は、その調子・拍の高低長短によく合わせることができ、自在に操って、思いのままにならないところはなかった。叫天の唱が冴えれば冴えるほど、大瑣の胡琴もますますすばらしさを発揮する、これは中和園の二絶と言えよう。譚伶の『戦長沙』と、王瑶卿との『轅門斬子』を観に行ったことがある。辛亥革命後二十日のうちに、譚の『碰碑』を一回、『売馬』を一回観た。同行した友人某は、滑稽を好む人物で、それを披露せんという思いもあったので、感じたところを賦した。「すでに叫ぶべき天もなく、凄絶なる老いにどうして耐えられようか。思うにあのころ聴いた唱は、果たして亡国の音であった。碑はあってもそこに誰が頭をぶつけたりしようか。

鐗を質に入れても〔原文「当」〕呻吟する者もない。私もまた男児漢、銭が無いので恨みも深い」。「当」は去声に読む。「男児漢」「無銭」云々は、みな秦瓊の唱の歌詞〔『売馬』に「家住山東歴城県、秦瓊名児天下伝、我本是頂天立地男児漢。」「好漢無銭到処難、出得店門我売。」という歌詞がある〕である。
【藤野真子】
  • 【人物】
    • 譚鑫培 01参照。
    • 王瑶卿(一八八一または八二~一九五四) 旦。江蘇淮陰の人。
    • 王鴻寿(一八五〇~一九二五) 芸名三麻子。老生。江蘇南通(一説に安徽懐寧)の人。
    • 徳俊如(一八五二~一九二五) 徳珺如とも。小生。北京の人。満族。
    • 賈洪林(一八七四~一九一七) 老生。江蘇無錫の人。
    • 金秀山(一八五五~一九一五) 浄。北京の人。満族。
    • 梅雨田(一八六九~一九一四) 琴師。江蘇泰州の人。梅蘭芳の伯父。

03 亡父の遺品……戯単の草稿

亡父が庶吉士〔清代官名〕より銓部〔官吏を選考する部門〕に変わってからは粤に戻ることはなく、京官と地方官をほぼ三十年勤め上げた。公私にわたる出来事は皆これを日記に記してある。壬寅の年〔光緒二十八年・一九〇二〕に亡くなるまで、日記は五十余冊、木箱に鍵をかけてしまってあった。転居することになり、日に当てようと鍵を開けると、木箱の底の紙の束から戯単が一枚出てきた。あちこち書き直してあるが、多分初春の同郷京官の団拝時の演目の草稿であろう。つぶさにそれを見てみると、この曲天上にありて、人間にあり難しの感を強くした。ここにそれを写しておく。『連環套』(楊月楼、銭宝峰)、『黒風帕』(何九〔何桂山〕)、『辛安駅』(侯俊山)、『拾玉鐲』(田際雲)、『五花洞』(石頭〔陳徳霖の幼名〕、芷仙〔張敬福〕)、『背娃入府』(田桂鳳、趕三〔劉趕三〕)、『長板坡』(楊月楼、王三〔冰王三〕、銭宝峰、石頭、芷仙、盧台子〔盧勝奎〕)、『蕩湖船』(楊三〔楊鳴玉〕、秦雲〔陳秦雲〕、華雲〔陸華雲〕)、『審刺客』(盧台子、銭宝峰)。この行〔どこからどこまでを指すのか不明〕は消されて、『譲成都』(汪大頭〔汪桂芬〕)、『紅鸞喜』(桂鳳、趕三)、灯戯『盤絲洞』(巧玲〔梅巧玲〕、桂雲〔楊桂雲〕、紫雲〔余紫雲〕、彩珠〔孫彩珠〕、靄雲〔朱靄雲〕、月楼)と書き直してある。別の行には、「陳子芳」の三文字が書いてあり、その下には「那琴軒、溥倬雲に代わって頼んでもらい、演目はその時に決める」とあった。案ずるに、那氏は亡父と義兄弟の契りを結んだ仲で、当時はさる部の下っ端役人をしており、甚だ貧しかった。溥氏は宮家の方で、亡父と同じ部にいた。陳子芳は票友、花旦で有名だったが、まだご存命だという。この戯単は、日記に挟まっており、その年月が明らかになるはずだが、ばらばらの頁といっしょくたにしてあるのが惜しまれる。しかし、秦雲・華雲がまだ『蕩湖船』を演じているということは、その年齢がきっと十四,五才くらいのことであろう。これから推測すると、光緒壬午〔八年・一八八二〕か癸未〔九年・一八八三〕の団拝の夜の戯単であろう。いい芝居は皆、明かりが点いてから開演するのである〔宣統元年蘭陵憂患生『京華百二竹枝詞』(『清代燕都梨園史料続編』所収)第一首目の評にいう「当年戯園必遇極著名之脚色、演極得意之戯劇、始有加橙之事、今則戯園日日加橙」〕。二雲は、兄弟弟子で、秦雲は眉目秀麗、色に溺れたが、母に仕えて甚だ孝行であった。山泉、笑梅校書〔芸者〕と親しかった(笑梅は即ち「万人迷」)。毎日のように女色に耽っていたので、年季が明けてほどなくして、げっそりやつれた。華雲は年季が明けた〔原文「出師」〕あと自立するつもりでいた。最初は小生を学び、のちに武小生にかわった。私が甲午〔光緒二十年・一八九四〕に都を出たときは、華雲はまだ脇役だったが、再び入京したおりにはすでに武小生で鳴らしていた。一度は自分の戯班を作ったが、できて一年ばかりで病に倒れた。私は彼が非常に哀れに思った。秦雲は私に贔屓にされ、華雲は我が友鄒卓南君の贔屓とするところであった。若き日の風流は、思い出すだに堪えない。今頃こんな夢の残滓を拾い集めるのも、秦雲がよく親に孝養を尽くし、華雲に自立の志あるを、後世に伝えたいがためである。〔尚、この戯単については、『中国京劇編年史』五〇四,五〇五頁にて検討が加えられている。本稿は、これを参考にした〕

【松浦恆雄】
  • 【人物】
    • 楊月楼(一八四四または四九~一八九〇) 武生兼文武老生。安徽懐寧の人。楊小楼の父。
    • 銭宝峰(一八三八~一八九五) 浄。北京の人。
    • 何桂山(生没年不詳) 浄。安徽(一説に山東)の人。
    • 侯俊山(一八五三~一九三五) 芸名十三旦。梆子花旦兼武生。山西洪洞県の人。
    • 田際雲(一八六五~一九二五) 芸名想九霄。梆子花旦。河北高陽の人。
    • 陳徳霖(一八六二~一九三〇) 青衣。山東黄県の人。満族。
    • 張敬福(一八六〇~一九二一) 崑旦兼青衣。北京の人。
    • 田桂鳳(一八六七~一九三一) 花旦。北京の人。
    • 劉趕三(一八一七~一八九四) 文丑。天津の人。
    • 冰王三(生没年不詳) 丑。一八六四年春台班にて活躍。
    • 盧勝奎(一八二二~一八九〇) 老生。江西(一説に安徽)の人。
    • 楊鳴玉(一八一五~?)  蘇丑。江蘇揚州の人。
    • 陳秦雲(生没年不詳)
    • 陸華雲(一八七一~一九〇七) 小生。江蘇蘇州の人。
    • 汪桂芬(一八六〇~一九〇八) 老生。湖北漢川(一説に安徽)の人。
    • 梅巧玲(一八四二~一八八一) 花旦。江蘇泰州の人。
    • 楊桂雲(一八六一~一九一四) 花旦。安徽合肥の人。楊小朶の父。
    • 余紫雲(一八五五~一八九九) 崑旦、花旦兼青衣。湖北羅田の人。余三勝の子、余叔岩の父。
    • 孫彩珠(一八四四~?) 崑旦兼乱弾。江蘇蘇州の人。
    • 朱靄雲(生没年不詳) 崑旦。江蘇蘇州の人。
    • 陳子芳(生没年不詳) 花旦。一八九〇年成立の元明寺票房に所属。

04 梅大瑣および名伶たちとの思い出

若かりし頃とはゆく水のように過ぎてゆくものだ、幻影のような事柄は生い茂る草よりもたくさんある。昔の人の句に言う〔底本・影印本「昔人句云」、排印本「昔人句曰」〕、「夜深くしてたまたま憶う少年の事、夢に啼けば情涙 紅闌干」〔白居易『琵琶行』に、「夜深忽夢少年事、夢啼粧涙紅闌干 夜深くして忽ち夢にみる少年の事、夢に啼けば粧涙 紅闌干」という句がある〕、と。今昔の変化に対する感慨を、また一体誰が晴らすことができるだろう。昔、吉林に滞在したときには、女伶尹桂蘭をひいきにし、かつて『観劇雑詩』数十首を作り、かの都の人々の相伝えてよむところとなった。湖北省に避難するに及んでは、また女伶十三旦及び碧雲霞と男伶芙蓉草と小桂和をめで、詩を贈ること百首あまりの多きに至った。今もこれを思うに、春の夢と違わない。昔の句に「老いてなお能く狂うはただおのずから哀れなり」とあるが、七言では私の一生を尽くすに足りない。程自鏡君の佳作を読むと、「袁彦道〔袁耽、東晋の人。博打の才があり、勝ち名乗りを叫んだことで知られる。『晋書』巻八十三参照〕が雄叫びをあげたほどの勇ましさはないものの、やはり腕が鳴る。賈伯堅〔賈固、元、山東沂州の人。名妓に「酔高歌過紅綉鞋 寄金鶯児」の曲を贈ったことで知られる。『録鬼簿続編』、『青楼集』参照〕に相思の曲があるので、いまだ情を忘れられない」という。この二つの聯はまさに私にかわって言いたいことを述べ、そのまま私の一生を悼むことができる。ふと口ずさめば、どこからともなく涙が流れてくる。昔の夢は散り散りで、これを拾うに尽きることがないのは、先に述べた通りである。近頃では、ひとつの事を思い出すたびに感慨がつきない。そろそろ風月の情を捨てて、別に気晴らしを探すことにしよう。今ここに拾うのも、やはり往時のことである。梅大瑣は初めの名を竹芬といい、十六,七歳のとき、私はかつてこれを招いて酒をすすめた。やって来ると、衿を正して黙り、落ち着いていて端正で、家柄の良い才媛のようである。ひさごのように白く肥え、二つのえくぼは赤くつややかで、おしろいをつければ同好の士は「蓮の露のしたたるよう、杏の花の霞むよう」〔原文「荷露粉垂、杏花煙潤」〕の八文字をもって、その薛宝釵に生き写しなさまを言う。後に突然姿を見なくなったが、聞くところによればすでに専門を変えて弦楽器を学んでいるという。私が再び入京したときには、梅大瑣という胡弓奏者がおり、並ぶものがないというので試しにこれを聴きに行き、はじめて竹芬の新しい姿であると知った。私は京華に三十年あまり住み、私が招いたり、仲間が招いて同席したことのある諸伶は百数十人もいたものだが、今在世しているのは指折り数えられるほどである。そのほかの若干名は、夏の蝿のごとく、秋風が吹くとまたたくまに跡形もなく消えていった。故郷の先人である楊掌生〔楊懋建。道光・咸豊の間、広東梅県の人。蕊珠旧史の署名で『夢華瑣簿』『京塵雑録』などを執筆〕が「君たちは十年を一昔とする」と述べたが、まことにその通りである。名声を博した後、家名が衰えなかったものに、楊小楼・梅蘭芳・楊小朶・時慧宝・兪兄弟・朱兄弟がいるが、数人に過ぎない。時慧宝は北魏碑の書体を書き、書道がすこぶる達者である。昔の親友である隋鼎臣が宴会に招いたとき、同席した老伶は七,八人おり、陳徳霖、時慧宝もみないて、酒宴が終わりに近くなると誘い合って秦腔を聴きに行った。その日は金剛鑽の演じる『苦中苦』〔評劇『売子孫賢』の別名。成兆才が蓮花落から改編した。『中国評劇劇目集成』(瀋陽出版社 一九九三)および『成兆才全集』(花山文芸出版社 一九九四)第一巻参照〕で、声涙ともに下る熱演で、聴くものは心を痛めた。慧宝はすでに酔っていて、喝采の声を絶えず浴びせた。今、隋翁が逝去してすでに数年が経ち、このような楽しみをどうして再び得られようか。あっという間に、すでに過去のことになってしまった。人は誰が情なくしておれよう、悲しまずにおれよう。

【田村容子】
  • 【人物】
    • 尹桂蘭(女)(生没年不詳)
    • 十三旦(女)(一八九四~一九二八) 花旦。
    • 碧雲霞(女)(生没年不詳) 上海人。
    • 芙蓉草(一九〇一~一九六六) 本名趙桐珊。旦。天津市武清の人。
    • 小桂和(生没年不詳) 
    • 梅雨田 02参照。
    • 楊小楼(一八七七~一九三八) 武生。安徽懐寧の人。楊二喜の孫、楊月楼の子。
    • 梅蘭芳(一八九四~一九六一) 旦。江蘇泰州の人。
    • 楊小朶(一八八一~一九二三) 花旦。安徽合肥の人。楊桂雲の子。
    • 時慧宝(一八八一または八三~一九四四) 老生。江蘇蘇州の人。時小福の子。書道に秀でていたことで知られる(燕山小隠『近世伶工事略』、『鞠部叢刊』所収参照)。
    • 兪兄弟 兪振庭(一八七九~一九三九)・賛庭・華庭兄弟。いずれも武生。江蘇蘇州の人。 
    • 朱兄弟 朱小芬・朱幼芬(一八九二~一九三三)兄弟。いずれも旦。朱霞芬の子。
    • 陳徳霖 03参照。
    • 金剛鑽(女)(一九〇〇~一九四八) 本名王瑩仙。河北梆子旦。河北滄県の人。

05 変わり者の楊憶儂

楊憶儂は多くの役者のなかでも、飛び抜けた変わり者である。以前、西洋の食器類を数百元分も買って、車いっぱいに積み込んだ。道中知り合いに会うと、それをひとつずつ贈ってやったので、家に着く頃には、僅かに瑠璃の瓶がひとつ残るのみだったという。また、駕籠を雇って大通りを行き来したことがあるが、昂然と頭を上げてあたりを見渡すという、はなはだ傍若無人なものだった。遊び終わって家に帰り、寝室に入るやいなや、大声で召使いを呼んだ。すると色黒の醜い子供の召使いがやってきて、主人の服や靴を脱がせ、床に寝かせて按摩した。来客でいっぱいであるのに、まるで知らん振りであった。

【三須祐介】
  • 【人物】
    • 楊憶儂(生没年不詳)

06 朱素雲の交遊録

朱素雲は酒に強く、書をよくし、多くの著名人との交友もあった。江西の某君とは長いつきあいで、〔某君は〕やってくる度に必ず素雲を招いて十日間の宴席を設け、帰るときにもまた多くの贈り物をした。聞くところによると、素雲の年季が明けて〔原文「出師」〕間もないころ、某君が彼の贔屓筋となり、以来二十余年もの誼になるという。長く変わらぬ友誼の情とは、この某君と素雲のことをいうのだろうか。

【三須祐介】
  • 【人物】
    • 朱素雲(一八七二~一九三〇) 小生。江蘇蘇州の人。

07 諸芸に通じた名伶

王楞仙すなわち桂官は小生である。都の小生は小香〔徐小香〕亡き後、楞仙が第一人者であったが、後に喉をつぶしてめったに芸を披露しなくなった。そこで暇さえあれば医学書に目を通し、とりわけ外科には明るかった。また、趙仙舫は二黄の丑の名優で、俗に「大鼻の趙」〔原文「趙大鼻」〕と呼ばれ〔底本・影印本「俗呼爲之」、排印本「俗呼之爲」〕、その滑稽味は味わい深く、高尚で俗悪なところがなかった。さらに医術にも精通し、その腕前は誉れ高く、門外には称賛の扁額が多く飾ってあった。だが、王・趙の二人の役者はもう既にこの世を去ってしまった。都の名伶のなかで諸芸に通じた者はとても多い。朱蓮芬は書をよくし、朱素雲〔底本・影印本・排印本すべて「朱素書」〕もまた書の才がある。姜妙香は画芸に長じ、梅蘭芳も最近ある名伶に就いて画を学んでいる〔梅蘭芳が王夢白らに絵画を学んだことはあるが、師として挙げられている「名伶」が誰かは不明。劉彦君『梅蘭芳伝』、李伶伶『梅蘭芳全伝』他参照〕という。また、景善堂の蘭元〔名旦徐碧雲の兄で琴師の徐蘭沅のこと。景善堂は彼らの祖父・徐承瀚の堂号〕は琵琶の演奏がうまい。彼らはみな一芸に秀でているのである。われらは年老いて何を成したわけでもない。彼らの才能の前では、ただ恥じ入るばかりである。

【三須祐介】
  • 【人物】
    • 王楞仙(一八五九~一九〇八) 小生。天津市武清(一説に北京市宛平県)の人。
    • 徐小香(一八三二~一八八二) 小生。江蘇常州の人。
    • 趙仙舫(一八五六~?) 丑。陳徳霖の妹の夫。
    • 朱蓮芬 01参照。
    • 朱素雲 06参照。
    • 姜妙香(一八九〇~一九七二) 小生。河北献県の人。
    • 梅蘭芳 04参照。
    • 徐蘭沅(一八九一または九二~一九六七) 琴師。江蘇蘇州の人。

08 汪桂芬の妾宅

汪桂芬は死の数年前、上海から都に戻ると〔底本・影印本「回京」、排印本「帰京」〕、舞台に立つことを望まず、また堂会戯にも出なくなった。教場胡同〔宣武区北部、宣武門のすぐ南側に位置する〕の幾筋目かに妾宅を設け、かこっている妾はわずかに十四歳、室内の装飾の華麗さは、大きなお屋敷でもこれに勝るところはないほどなのに、桂芬はめったにやってこなかった。聞くところによると同じような妾宅が他にも五,六ヶ所あるという。豪勢かな、桂芬。楽しいかな、桂芬。このようにも楽しければ、芝居に気が向かないのは当然のことである。

【三須祐介】
  • 【人物】
    • 汪桂芬 03参照。

09 役者と観客の関係を描いた竹枝詞

楊静亭の編んだ『都門叢載』は、光緒九年〔一八八三〕に脱稿した。全八冊で、巻末に『竹枝詞』数十首が付されている。今から三十年あまり前のことで、時代も移りかわったが、たまたま客宴で戯れに一,二首諳んじたところ、多くの客が聞いたことがないということを知った。よって、いわれを明らかにし、今と昔で状況がはなはだ異なるものを選び、何首か書き移して注釈を加え、いささか話題提供の足しとしたい。これはまた都の舞台の逸話に興味を抱く人がよく知っておくべきことでもある。例えば、「詞場門」〔「詞場」は劇場を指す〕で公子を詠んだものにこう書かれている。「瀟洒な公子は書生気取り、階上に座って酔いを醒まそうとする。左右には麗人たちが肩を寄せて並んでいるが、かれらの『若だんな様』は誰なのだろう?」〔『清代燕都梨園史料』張次渓輯『北平竹枝詞薈編』に「道光二十五年楊静亭『都門雑詠』」として十首収録されている。その中に「公子」と題して「翩翩公子…」の詞がみえる。同じく「同治三年供花齋『都門雑詠』」十一首の中に「『茶票』伯軒」と題された「當十青銅…」の詞があり、一句目の「十吊三」が「八百全」となっている以外はすべて同じである〕。思うに、三慶、四喜、春台の各劇団のごく若い役者〔原文「雛伶」〕は、昼芝居が三齣演じられると、みな上下場門の簾のそばに並び立ち、階上の方を眺めるが、もし上になじみの客がいれば、登ってそのそばにかしづいて座る。往々にして客二,三人に、若い役者が多いときで二,三十人もついた。端から見てうらやむ者あり、ねたむ者ありで、当事者たちは意気揚々と自慢げにしていたものだ。実際のところ彼らの心は芝居にはあらず、トリ〔原文「大軸」〕が始まるのを待たずして、各自相携えて酒楼に行ってしまうのである。また官座〔特等の桟敷席。01参照〕を詠んだものに、「あぐらをかいて座り、赤い紙を開くとそれは細長い戯単。左右に寄り添う人は玉のようで、場内で舞台を見ている者など誰もいない」というものがあるが、先のうたの参考になるだろう。当時、各劇場の戯単は左右約二寸、上下約一寸の黄色い紙に印刷されたものであったが、この戯単が配られる前に、場内でこの日の演目を知ることができた。赤い紙に一番良い芝居何齣かが書いてあり、それを官座に示すと、金持ちの客たちは次から次へと手渡して見た。早く見たいと頼んだ者は、見終わると一,二十文を礼として渡すのだった。また座児銭を詠んだものに、「当十銅貨一吊三〔千三百文、「一吊」は一千文に相当する〕、払って芝居を観るのもよろしかろう。恨めしいのは奴らに騙されたこと、牌の隅に『小制銭』〔明代以降、官制の銭を指して「制銭」という〕と書かれている」とある。思うに、当時、各舞台の個人席は、一人あたり京蚨〔北京で通用した銭〕千三百文、すなわち現在の当十銅貨十三枚に当たる。一卓占有すると六千文だった。また、いわゆる官座は三つの卓が横に並べられたものであり、間を木の板で仕切って、各席京蚨二十四千文であった〔01参照〕。名士・商人はお客を招待するとき、必ず官座を事前に予約した。こんにちの木戸銭の値段は、当時と比べて十倍以上になっている。また、かつての名伶譚鑫培、楊猴子〔楊月楼〕、孫菊仙などは毎日わずかに三,四十千文の出演料〔原文「戯份」〕を手にするに過ぎなかったが、今ではごく普通の女伶でも毎月の給金は少なくとも二,三百元ある。〔当時の〕役者はなにゆえ不幸にも光緒年間に生まれあわせたものだろうか。

【藤野真子】
  • 【人物】
    • 譚鑫培 01参照。
    • 楊月楼 03参照。
    • 孫菊仙 01参照。

参考文献

  • 『北京市』編纂委員会編・褚亜平主編『中華人民共和国地名詞典 北京市』商務印書館、一九九一年
  • 『中国戯曲志・上海巻』編輯委員会編『中国戯曲志・上海巻』中国ISBN中心、一九九六年
  • 『中国戯曲志・北京巻』編輯委員会編『中国戯曲志・北京巻』上・下、中国ISBN中心、一九九九年
  • 黄鈞・徐希博主編『京劇文化詞典』漢語大詞典出版社、二〇〇一年
  • 王芷章著『中国京劇編年史』上・下、中国戯劇出版社、二〇〇三年