『都市芸研』第五輯/湖南影戯研究の現状と課題

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湖南影戯研究の現状と課題

千田 大介

はじめに

湖南は、長江以南でもっとも影戯が盛んな地域の一つであるとされる。また、湖南省木偶皮影芸術劇院も名を知られており、現代皮影戯の名作として知られ、唐山など各地の皮影劇団が上演する「鶴与亀」は同劇院がオリジナルであるなど、全国的な影響力も持っている。それとは裏腹に、湖南影戯*1に関する研究は、冀東・陝西・四川などの皮影戯に比べて充分とは言い難く、ましてその地域文化的な意義や中国影戯全体における位置付けは必ずしも明らかになっていない。

湖南は清代後期、「湖広、四川を填たす」と言われ、四川や陝西に移民を供給したことが知られている。人口の移動は文化の移動をも伴うのが常であり、また四川・陝西で皮影戯が盛んに行われていることを考えれば、湖南影戯の詳細を解明することは、湖南の地域文化にとどまらず、清代後期にそれらの地域で影戯が隆盛した歴史的・社会的背景を考察する上でも大きな意味を持つものと思われる。

かかる問題意識から、本稿では、湖南影戯に関する先行研究・文献を調査し、2004年12月に筆者が湖南省木偶皮影芸術劇院を訪問・聞き取り調査した内容と併せて整理する。この作業を通じて湖南影戯研究の現状と課題とを明らかにしたい。

なお、本稿では湖南の伝統影戯を主たる考察の対象とし、解放後の湖南省木偶皮影芸術劇院の成立と同劇院による影戯改革については、必要に応じて一部言及するのみにとどめた。

1.湖南影戯の資料

1-1.先行研究

〈湖南戲劇概況〉(卓之,《劇學月刊》3卷7期,1934)

題名通り、湖南省の伝統演劇の情況を概説したもので、影戯・木偶戯などの人形劇についても記載がある。湖南影戯が祭祀儀礼の文脈で多く上演されることを指摘し、劇団の構成・音楽・上演コストなどにも言及する。一頁ほどの概説ではあるが、民国時期の湖南影戯に関する同時代的記録はこれがほとんど唯一であり、資料的価値は高い。

《中國影戲與民俗》(江玉祥,淑馨出版社,1999)

《中国影戏》(四川人民出版社,1992)の改訂版にあたる同書は、全国の皮影戯について網羅的にまとめたほとんど唯一の研究書であり、当然のことながら湖南影戯にも言及する。

まず、「第四章 清代影戲鳥瞰二、清代影戲的特徵(2)悅動聽的影戲唱腔」(pp.116)で、湖南影戯の音楽について言及し、「第五章 民國年間的皮影戲二、迷惘的鄉村燈影戲(1)農村影戲班的起伏7.湖北湖南」(pp.140)では、解放前の湖南影戯の劇団・芸人の数を挙げるが、いずれも数行だけの簡略な記述である。

第七章 中國影戲的流派及其分布地域三、中國影戲的類型、特徵及其分布地域(六)湘贛影系」(pp.205)では、湖南影戯の分布地域・影人の造形・舞台・劇団組織・音楽などについて、やや詳細に述べる。「第八章 中國的紙影戲二、近代紙影戲的分布及其現狀2.湖南的紙影戲」(pp.213)でも一項を割いて、影人の材質の変化とその原因のほか、献神戯・還願戯などの上演文脈や劇団の構成といった上演形態にも言及する。記述が複数箇所に分かれており、しかも相互に関連していないのは、少々わかりにくい。

このほか、「第六章 新中國的影戲」にも、解放後の影戯改革に関連して、影戯匯演などに湖南省木偶皮影芸術劇院皮影劇団(以下、省皮影劇団)が参加した記録が数カ所に見えるが、いずれも上演の詳細には踏み込んでいない。

同書の湖南影戯に関する記述は、四川・冀東などの部分に比していかにも簡略であり、また情報のソースが、独自の調査の結果であるのか文献資料によるのかが明記されないという問題もあるものの、湖南影戯研究の出発点として必読の書籍であると言えよう。

《中国曲艺志》湖南卷(新华出版社,1992)

《中国戏曲志》《中国曲艺志》とは、現代中国における伝統演劇・芸能を省市区ごとにまとめた網羅的な百科全書であり、研究の基礎となるものである。しかし、影戯・木偶戯は、一種、演劇と説唱芸能の中間的形態であったことが災いしたものか、《中国戏曲志》でも《中国曲艺志》でも扱われていない。

湖南影戯に関しても、《中国戏曲志》には関連項目は立てられていない。しかし、《中国曲艺志》では〈漁鼓〉の項に影戯への言及が見られる。湖南では漁鼓芸人が清末民初に影戯の演じ方を学び、影戯と漁鼓を兼ねて上演するようになったからである。漁鼓は道情に起源する説唱芸能で、湖南全域で行われる。特に湘南地域(衡陽以南)では、漁鼓芸人の90%以上が、影戯芸人を兼ねるという。

このため、同書には影戯が漁鼓に及ぼした影響についての言及が見られるし、また道情の音楽やレパートリーなどに関する解説は、そのまま影戯にも当てはめて考えることができる。

《皮影生涯三十年》(李军,1999.10)

図1 《皮影生涯三十年》

出版社・ISBNが明記されない内部出版物である。李軍氏は、元湖南省木偶皮影芸術劇院編劇(後で詳述)。同書は氏の論文・台本・エッセイなどを集めたもので、特に解放後の湖南省皮影劇団の人形・台本などの改革について詳細な記述が見られる。また、氏が創作した児童劇台本《采蘑菇》《聪明的伊敏》《火焰山》《永路和小叫驴》を収録する。伝統皮影戯に関する記述は少ないものの、中華人民共和国成立後における湖南影戯改革の具体的証言として重要である。

《影戲說》(劉季霖,好文出版,2004.3)

劉季霖氏は北京皮影戯の芸人であるが、文革前の時期に指導のために湖南省木偶皮影芸術劇院に出向した経験を持つ。「第七章:皮影人的幾種不同的風格」の中で、湖南における影戯の分布・影人の制作方法・音楽および解放後の改革などについて概説する。湖南では影人を“紙菩薩”と呼ぶとの指摘が見える。

《皮影之旅》(魏力群,中国旅游出版社,2005.1)

魏力群氏は、河北師範大学芸術設計学院教授で、主に工芸美術の方面から皮影戯に関する資料の収集・研究を行っている。同書は氏の現地調査経験を軸に、各地の皮影戯について豊富な図版と共に紹介したものであり、湖南影戯についても、〈湖南皮影风采依旧〉の一項を立てている。

魏氏は、湖南影戯が明万暦年間から光緒二十二(1896)年にかけて非常に盛んに行われていたとし、その流行地域や劇団構成・レパートリー・影人の材質・解放後の活動、さらに台本の種類などについて、望城・衡陽の芸人を訪問した経験に基づいて概説する。

一般向けの書籍であり、また魏氏の専門が工芸美術であることもあって、同書の記述は文献資料や先行研究への言及が少なく厳密性に欠けるものの、湖南影戯の現状を具体的に知ることができる貴重な記録である。

〈湖南影戏形成时间考略〉(李躍忠,《衡阳师范学院学报》第26卷第1期,2005.2)

解放後の湖南影戯に関する単独論文は非常に少なく、管見の限りではこの論文しかない。李躍忠氏は、湖南科技大学人文学院講師で、伝統演劇民俗を専攻するという。

同論文は、湖南皮影戯の形成時期に関する先行諸説をまとめ、それが1855年以前であった可能性を指摘するものである。しかしながらその行論は、民国時期の地方志に祭祀儀礼における木偶上演への言及があり、木偶と影戯が近縁の芸能であることをまず傍証として掲げ、更に1955年に北京で開催された木偶・皮影匯演の際の常任侠の、展示された山西孝義・湖南紙影などの影人は百年以上前のものである、との発言から、1955から100を減じて1855という年代を導き出したものであり、説得力に欠ける。なお、同様の言及は、江玉祥《中國影戲與民俗》(pp.214)にも見える。

●「中国影戯調査報告」(稲葉明子,早稲田大学演劇博物館『演劇研究センター紀要Ⅰ早稲田大学21世紀COEプログラム〈演劇の総合的研究と演劇学の確立〉』,2003.3)

「湘贛影系」以下に衡陽・衡山・澧県の影戯劇団を訪問した記録が見え、影戯とその上演について概述する。しかし、事前の資料調査が行われた形跡もなければ、インフォーマントの氏名・経歴すらも明記されないなど聞き取り調査方法にも多くの欠陥があり、学術調査報告の体をなしていない。

1-2.文史資料

筆者が探し得た湖南影戯関連文史資料は、以下の三編のみである。冀東・陝西などの地域に比べて極めて少ない。

〈翟翊与木偶皮影艺术〉(何德润,《长沙文史资料》第8辑,1989.6)

翟翊は安徽涇県の人。長沙で育ち、上海美術専門学校に進む。解放後、1951年に湖南軍区文工団に配属され、「鶴与亀」などの舞台美術を担当し、後に省皮影劇団の中核として活躍した。

〈长沙皮影戏的起源及其发展〉(张文祥,《长沙市西区文史资料》第7辑)

清末民初以来の長沙影戯の歴史・上演について述べる。解放前の劇団や芸人・レパートリー・上演情況などについて具体的に記述し、また抗日戦争期から解放後の省皮影劇団の成立に至る過程について詳述する。

〈话说望城皮影戏〉(木火,《望城文史》第六辑,1990.12)

望城は、長沙市の北西40kmほどのところにある。長沙では、“河西班子、瀏陽鞭子”と呼ばれ、河西、すなわち望城の影戯はよく知られていたという。解放前の同地の影戯の特徴、および邢氏班子の歴代の芸人について紹介し、また、開放後、省皮影劇団に参加した夏少春・何徳潤らの略歴を紹介する。

1-3.新編地方志

1980年代以降に陸続と刊行された新編地方志では、大半が文化・民俗などの章を設けて、伝統芸能について言及している。その記述は時にステレオタイプであり、また厳密性に欠けるなどの欠点を有するものの、ある地域にいかなる伝統芸能が存在するのかといった概略を知るためには有用である。

湖南の新編地方志で影戯について言及するものは、筆者が早稲田大学中央図書館の蔵書を調査した限りでは、以下の通りであった。湖南省北部から順に並べてある。

岳陽市《临湘市志》(湖南出版社,1996.5)
《汨罗市志》(方志出版社,1995.11)
《平江县志》(国防大学出版社,1994.7)
常徳市《澧县志》(社会科学文献出版社,1993.8)
益陽市《益阳县志》(湖南人民出版社,1995.5)
《益阳地区志》(新华出版社,1997.1)
《桃江县志》(中国社会出版社,1993.5)
長沙市《长沙县志》(三联书店,1996.10)
《望城县志》(三联书店,1995.7)
湘潭市《湘潭县志》(湖南出版社,1995.12)
《韶山志》(中国大百科全书出版社,1993.7)
《湘乡县志》(湖南出版社,1993.12)
娄底市《娄底市志》(中国社会出版社,1997.7)
《涟源市志》(湖南人民出版社,1998.7)
珠洲市《珠洲县志》(湖南出版社,1995.8)
《醴陵市志》(湖南出版社,1995.2)
《攸县志》(中国文史出版社,1990.5)
衡陽市《衡阳市郊区志》(湖南出版社,1997.1)
《南岳区志》(岳麓书社,2000.9)
《衡阳县志》(黄山书社,1994.12)
《衡南县志》(中国社会出版社,1992.12)
《耒阳市志》(中国社会出版社,1993.2)
永州市《祁阳县志》(社会科学文献出版社,1993.9)
郴州市《永兴县志》(中国城市出版社,1994.6)
《资兴市志》(湖南人民出版社,1999.7)

大半が影戯の存在に言及するだけで、上演や劇団等の詳細を記述するものは一部に限られる。

1-4.映像資料

《小儿皮影剧选萃》(湖南金蜂音像出版社,ISRC CN-F08-99-0021-0/V.J8)

図2 《小儿皮影剧选萃》

VCD。湖南省木偶皮影芸術劇院による皮影戯〈采蘑菇〉〈没有牙齿的老虎〉〈聪明的阿凡提〉〈小猫咪咪做好事〉〈皮得与狼〉〈鹤与龟〉を収録する。題名通り、いずれも子供向けの演目である。残念なことに、録音・録画情況が劣悪である。

2.湖南影戯の概要

2-1.湖南省木偶皮影芸術劇院と李軍氏

筆者は、2004年12月20日に湖南省木偶皮影芸術劇院を訪問した。同劇院は長沙市内韶山北路の東塘立体交差北に位置する。訪問時には事務棟が建て替え工事中で、事務所は韶山北路の反対側の古びた雑居ビルに入居していた。

筆者が訪問したとき、皮影劇団は香港の小学校訪問公演中で、あいにく不在であった。同劇団では香港の小学校と契約し、毎年、文化教育などの目的で皮影戯の上演と影人の製作・操作実習に訪問しているとのことである。このため、皮影戯の上演を見ることはできなかったが、練習所では同劇院木偶劇団の内部匯報演出が行われており、見学することができた。

木偶劇団の上演は総合バラエティー形式で、劇団員によるコント・立ち回り・歌謡曲・詩の朗読・若手女子メンバーによるダンスなどが盛り込まれており、木偶戯は童話劇と伝統的な杖頭木偶の上演がそれぞれ一作ずつ演じられたに過ぎない。地方における伝統劇団の機能およびニーズを如実にあらわした内容であると言えよう。

木偶劇団の上演を見学した後、元同劇院編劇である李軍氏に、湖南影戯の概況についてインタビューすることができた。李軍氏は、当時75歳、湖南省邵陽の出身である。氏の《皮影生涯三十年》によれば、国共内戦期に解放軍に参加、解放後は小中学校の教師を務めていたが、後に新聞のレイアウトデザイン、映画関係の仕事などを経て、1962年に湖南省木偶皮影芸術劇院の配属となり舞台美術を担当、主に影人や背景の美術設計・台本創作などにあたった。現在は同劇院を定年退職している。

図3 李軍氏

以下、李軍氏へのインタビューに基づき、それに前掲各資料に記載される情報を合わせて対照・検討することで、湖南影戯の概要をまとめる。

2-2.湖南影戯の現状

李軍氏によれば、省皮影劇団は湖南の伝統的な影戯を基本的に継承していない。解放後に成立した同劇団では、観摩大会や地域を越えた劇団の交流を通じて各地の皮影戯の長所を吸収し、独自の皮影戯スタイルを確立したのだという。《皮影生涯三十年》〈翟翊与木偶皮影艺术〉などに、解放後の同劇団が新時代にふさわしい国際的レベルの新たな芸術を目指した情況が記されている。伝統保護の観点からすれば残念なことではあるが、時代の制約としか言いようがない。

一方、農村には現在でも数百の劇団が存在し、伝統的スタイルでの上演を続けているという。湖南省は、湘北(常徳・岳陽)・湘東(長沙・株洲・湘潭)・湘南(衡陽・郴州・永州)・湘西(湘西土家族苗族自治州・懐化・張家界)に分けられるが、影戯の流行地域は、湘北・湘南・湘東に限られる。すなわち、土家族などの少数民族が居住する地域である湘西では影戯は行われていないという。

図4 影戯の記載のある新編地方志・文史資料の分布

先に掲げた、影戯に関する記載が見える新編地方志や文史資料の分布は図4の通りであり、確かに湘西が空白となっている。これらの分布地域は、長江・洞庭湖・湘江等の水系に沿っており、旧時、水運路線に沿って影戯が広がったことが推測される。

湖南影戯の形成については、李軍氏からは特に話はなかった。《中國影戲與民俗》では、

湖南の皮影芸人の伝説によれば、長沙皮影は清の光緒二十二(1896)年に始まる。*2

とし、〈湖南影戏形成时间考略〉もこの説を踏襲するが、これはあくまでも長沙影戯に限った言い伝えであり、湖南影戯の成立時期と必ずしも一致するとは限らない。事実、新編地方志には、より早い時期に影戯が伝播したとする記述が見られる。

清の同治二(1863)年、湖北天門県の皮影戯芸人・魯光雄が、水害のために家族を引きつれて岳陽市熊市草鞋嶺に非難してきて、現地で農業を営む臨湘白羊田南冲村の民・易在官の父親と懇意になり、住み着いた。これより易在官は魯光雄に随って皮影戯の演じ方を学んだ。八月の収穫後、易父子は原籍の地に戻り、皮影戯が臨湘に伝わった……。*3《临湘市志》

清の同治年間初めに、長沙・寧郷から伝わった。*4《汨罗市志》

清の咸豊年間、中路鋪・花石・株洲の三ヶ所にそれぞれ一つずつ皮影戯の劇団があらわれた……。*5《湘潭县志》

《汨罗市志》・《湘潭县志》によれば光緒年間より前には湘東に影戯が存在していたことになる。また、《临湘市志》の記述は具体性があり、災害にともなう移民が芸能伝播の一つのパターンであることを考えると、ありそうな話である。

湖南、とりわけ湘東地方は、明末の客家流民の反乱・李自成の乱、そして清朝による南明政権征討・三藩の乱など、たび重なる戦乱とそれに伴う虐殺などを経て、四川・陝西などと同様に人口が著しく減少している。特に農村の荒廃が甚だしく、村々から人影が消え失せ、地主は都市に居住して不在地主化したという。人口が回復するのは三藩の乱が平定され社会が安定した康煕年間中期以降であり、江西・広東・福建などから大量の移民が小作農として流入したことによる*6。このような歴史的経緯を考えると、影戯のような主に農村で行われる民間芸能が明代以前から脈々と受け継がれてきたとは考えにくく、湖南影戯の起源がそう古くないことは確かであろう。

湖南への影戯の伝播ルートは、江西影戯が湖南から伝播したものであるといい*7、また湘西では影戯が行われないから、長江水系経由の北ルート、広東から北漸する南ルートのいずれかということになるが、清代における影戯の流行地域、あるいは湖南で清末に漢劇(現在の湘劇の乱弾)が流行していることなどを考えれば、北ルートであった蓋然性が高い。

今後、清代後期における湖広地域の災害・移民の状況を子細に調査することで、あるいは情報ソースが明らかでない新編地方志の記述の信憑性を確認し、湖南への影戯伝播時期を解明する端緒が得られるかもしれない。

2-3.影人

湖南各地で用いられる影人は、基本的に同種のものである。影人は紙で制作する。身子は紙を何層にも貼り合わせた厚紙を二枚重ねて輪郭を切り抜き、間に着色した薄紙を挟む、いわゆる“夾紙”の技法によって制作される。この製法には、輪郭がスクリーンの向こうからもはっきり見えるという長所がある。《中國影戲與民俗》は、湖南影戯芸人の伝説として、長沙で光緒二十二(1896)年に影戯が始まった当初は、牛皮を切り抜いて影人を作っており、模様は粗く着色しなかったが、光緒三十一(1905)年に陳敏欽という芸人が紙影に改めたものであるという。ここでいう牛皮は、湖南で一般的な水牛の皮のことを指す。江玉祥氏および劉季霖氏は、水牛皮は牛皮に比べて厚く、色も濃く、弾力に欠けるため、影人の材料には適さないことを指摘している。

湖南影戯の影人は大きさが一尺余り、頭が“七・八分臉”で、顔が斜め前を向き両目が描かれる点に特色がある。他地域では、冀東・東北皮影戯の浄や丑の一部に七分臉が用いられるくらいで、人の顔を真横から見た“五分臉”が一般的である。また頭は、顔や目・眉の輪郭だけを残して切り抜いた“空臉”ではなく、紙を顔の形に切って目鼻を描く“実臉”である。《中國影戲與民俗》によれば、民国初年に芸人が湖南影戯を改善していく過程で編み出された製法であり、1930年代以降、頭にはセルロイドが用いられるようになった。《平江县志》は1973年より厚手のセロハンが導入されたとする。他地域では、唐山市皮影劇団でも現在、セルロイドの頭を一部の影人で用いている。

李軍氏によると、湖南木偶皮影芸術劇院では紙影の粗雑な風格を嫌い、各地の皮影戯の長所を寄せ集めて新たな影人スタイルを編み出し、素材も水牛皮に改めたという。図5は同劇院のパンフレットであるが、ここで使われている影人は五分臉であり、デザインには陝西皮影戯の影響が鮮明にあらわれている。なお、《皮影生涯三十年》には、陝西調査旅行を通じて現地の皮影戯を学習した経緯が記されている。また、このような経緯から、紙影の保存については全く考慮されなかった。

図5 湖南省木偶皮影芸術劇院パンフレット

もっともこれは省皮影劇団の話であり、農村では現在でも紙影が使われているという。このことは《皮影之旅》によって確認できる。

なお、湖南紙影影人の画像資料を収めた図版は、管見の限りでは見あたらない。《皮影之旅》は紙影の写真を載せるが、小さくて印刷もさほど鮮明ではない。また、筆者は長沙随一の骨董街・清水塘路を探してみたが、影人を扱っている店は見あたらなかった。北京・冀東・陝西などでは、影人はコレクターズアイテムとして美術・骨董市場に流通しているが、湖南の情況は些か異なるようである。

図6 長沙影戯影人(《皮影之旅》より引用)

陝西・山西・北京西派など、多くの地域の皮影戯では、人馬が一体化した騎馬影人、いわゆる“馬上樁”が用いられるが、李軍氏によると湖南影戯では使用されない。馬上樁は南宋代の『百宝総珍』に記載され、古くから使われているが、冀東皮影戯では民国時期に廃止され、また陝西皮影戯の上演でも人戯と同様に刀槍を馬に代えるケースがあるように、次第に廃れる傾向にある。現在の湖南影戯は、成立時期が清末で比較的新しいと考えられるので、おそらく人戯の視覚的影響が当初より強かったのであろう。

影人は、身子と頭のみならず、盔頭も交換可能な構造になっているという。これは、他の地域の影戯では一部の特殊効果用の影人にしか見られず、湖南影戯独自の特色であると言ってよかろう。

また、影絵を映し出すスクリーン・影幕には紙が使われる。

2-4.音楽と上演スタイル

湖南各地の影戯は、用いられる影人は基本的に同じだが、腔調はそれぞれの地域の地方戯の影響を受けており、異なっている。主に、花鼓戯・湘劇などの音楽が用いられるという。

新編地方志の記載は以下の通り。

澧県の皮影戯は当地の言語および荊河戯の音楽・節回しで唱われる。*8《澧县志》

節回しには多く潭劇の弾腔が用いられる……。*9《益阳地区志》

多く常徳漢劇の弾腔が用いられ、個別に花鼓の節回しが用いられるものもある……。*10《益阳县志》

節回しは多くが湘劇のもので、時に花鼓腔のものも見られる。*11《桃江县志》

正本の……節回しは南北路を主とする……。*12《长沙县志》

南北路とは、湘劇で用いられる四種の声腔のうち乱弾、すなわち徽調・漢劇に由来する皮黄腔を指す。

正戯の上演は湘劇の演目であり、雑戯は花鼓戯の折子戯である。*13《醴陵市志》

節回しは、花鼓戯と歌劇の成分を吸収している……。*14《衡阳县志》

演目と節回しは、多く祁劇を踏襲し、稀に花鼓調も用いられる……。*15《祁阳县志》

演目・声腔は湘劇と基本的に同じである……。*16《湘潭县志》

漁鼓・小調が主に唱われ、湘劇の南北路や花鼓の灯調と融合している……。*17《永兴县志》

文史資料では、〈话说望城皮影戏〉

正戯は湘劇の形式で演じられ、雑戯は花鼓戯の形式で上演される。*18

と見える。

以上から、荊河戯・潭劇・常徳漢劇・湘劇・花鼓戯・祁劇および漁鼓など、当地の伝統劇・芸能の音楽が影戯に用いられている情況が確認できる。

また、《中国曲艺志》湖南巻によれば、漁鼓は影戯の影響を受けて唱腔を豊富にしている。衡山漁鼓では〔道腔〕・〔紅納襖〕・〔清江引〕などの唱腔と曲牌が、衡陽でも〔小旦腔〕・〔小生腔〕などの声腔が影戯から移植されたといい、それらの地域の影戯が、板腔体を主としつつ曲牌も合わせ用いていることがうかがえる。

李軍氏によると、湖南影戯では伝統的に説唱を重視し、上演(影人の操作)を軽視していた。これは、陝西皮影戯などとも共通する特色である。しかし、解放後、省皮影劇団では改革を重ねて、視覚面を重視するようになった。同時に、灯火も50年代に蛍光灯に改められ、また背景も導入された。

劇団の体制は、一般に一劇団三人であり、一人が人形操作、一人が文場、一人が武場を担当する。文場には、二胡・嗩吶・月琴などがつかわれ、歌唱者は一人に限定されない。また、皮影と木偶を一つの劇団が兼ねて演じる、いわゆる“皮影木偶両下鍋”は湖南影戯には見られないという。《中國影戲與民俗》や新編地方志の記述でも、劇団の人数は2~3人、多くて5~6人とされており、華北各地の皮影劇団が7~9人構成であるのに比べて簡便である。

2-5.上演演目

湖南影戯の演目・台本も、音楽と同じく、湘劇・花鼓戯などと同じものが使われる。レパートリーの中心は、歴史物語や民間伝説である。また、レパートリーに無い演目のリクエストがあった場合、故事のあらすじを調べて、そこから劇団員3人が協力してただちに台本を仕立てあげる、アドリブ的な上演もあったという。

文献資料によると、湖南影戯のレパートリーはいくつかの種類に分かれる。《长沙县志》によれば、

毎回の上演には、登台・正本・雑戯の三段がある。登台と正本には『陳橋立帝』・『王英下山』・『珍珠塔』・『紅綾帕』・『下河東』など30あまりの演目がある。……雑戯の内容は比較的卑俗で、『送郎』・『望郎』・『送飯』・『洗菜心』・『打酒』などの小調がある。*19

“登台”と“正本”は湘劇・乱弾の曲調によって歴史物の大戯を上演し、“雑戯”は通俗的な小戯を上演していたとする。また、〈长沙皮影戏的起源及其发展〉では、

演目は整本に『封神伝』・『水滸伝』・『岳飛伝』・『楊家将』・『薛仁貴征東・征西』・『五虎平南』などがある。……折子戯として上演することもできるし、ほかに雑戯を加えることもでき、全ては招請側の注文による。一本だけを演じることも、二本続けて演ずることもある。……長沙の皮影戯には確かに独自の特色がある。その特色は正本の演目ではなく、最も技巧が凝らされているのは短編の演目、『五更勧夫』・『山伯訪友』・『小姑賢』・『討学銭』・『哪咤鬧海』・『漁翁戯蚌』などにあると、一般に見做されている。*20

“整本(正本)”と“雑戯”に分類し、前者が連台戯としても上演可能な長編演目で大半が歴史もの、後者が短編演目であるとする。《中國影戲與民俗》は“大本”・“小本”と称するが、前者を連台戯、後者を折子戯とする点は同じである。

文献資料には、影戯の台本スタイルの区別に言及するものが見られる。《皮影之旅》によれば、

湖南の影戯台本は二種類に分かれる。一つは伝来した手書き本で、“朝本”とも言う。役柄に分かれた対話、歌詞やセリフなどが書かれており、そのほかの指示は見られない。もう一つは“塔橋本”といい、非常に簡単で、ただ物語のあらすじが書いてあるだけで、具体的な歌詞は無く、芸人がその場でパフォーマンスする、口伝の台本である。*21

《中国曲艺志》湖南卷では、“搭橋本”を“橋本”と称する。

(漁鼓芸人たちは)皮影芸人が“橋本”を書くやり方に倣って、簡略な字句で各種長編小説から借用してきた物語のネタを記録・整理し、物語を覚える手助けとした。それは伝統劇の台本や民間の刻本とは異なり、まず芸人が小説や物語を理解し、ストーリーの要諦や人物の性格を把握したあとで、簡潔な言葉の四字句で書いた種本である。*22

“搭”は動詞であるから、名詞としては“橋本”のみの方がふさわしかろう。

李軍氏の言う、あらすじを調べて直ちに台本を仕立て上げる、というのは、この“橋本”を指すものと思われる。伝統劇の歌詞は、大半が決まり文句でできているので、ある程度の量の歌詞が頭に入ってさえいれば、あらすじに随って即興的に台本を仕立てることも難しくなかった。京劇でさえ19世紀後半頃は多分に即興性を残しており、名優が客の反応が良いため、あるいは他の俳優の到着が遅れたために歌詞を水増しして長時間歌ったというエピソードが、複数残っているほどである。

《中国曲艺志》によれば、漁鼓の芸人は“橋本”に基づき、おきまりの歌詞やセリフ・“呆句子”を大量に運用することによって、その場で即興で歌詞を作って歌うといい、影戯も同様の上演方式を取るものと思われる。だとすれば、魏力群氏が「口伝の台本」とするのは妥当ではないことになる。

全国の影戯では、北京西派が東派から“流口影”と呼ばれ、口からでまかせを唱うと蔑視されたことが知られるが、実際には口伝台本で唱われるものであった。完全な即興で唱われるものは管見の限りでは他に見られず、湖南影戯独自の特色であると言えよう。ただ、以上の資料からは、“橋本”を見ながら演じるのか、或いは上演前に見てストーリーを頭に入れるのかが判然としない。

また清末、冀東皮影戯が台本を見ながら上演するようになった、すなわち“看書影”化したように、識字層に属する影戯の芸人が増加する。湖南影戯の“橋本”も文字媒体に基づいて上演するものであるから、やはり民間芸能の芸人の教養面での向上を表す事例と見ることができよう。

《中国曲艺志》は、比較的教養のある漁鼓芸人が“橋本”を元に再創作し、歌詞・セリフを固定化した“鉄本”の存在にも言及する。それらは歌辞が凝らされており、印刷出版されたものもあるという。《皮影之旅》では、一般の台詞や歌詞全て記された台本を“朝本”と称している。《中国曲艺志》は主に衡陽市一帯の漁鼓・影戯芸人について述べているので、或いは長沙との地域性の違いに起因するのかもしれない。

伝統的な湖南影戯の台本は、省劇団には所蔵されていないという。図書館・文化館などが所有している可能性はあるものの、新編地方志などに記載は見えず、資料へのアクセスは相当に困難であると思われる。

なお、現在の湖南省皮影劇団では、解放後の改革を経て、児童戯・動物戯がレパートリーの中心になっている。前述のように李軍氏の《皮影生涯三十年》に、それらの台本が収められている。

2-6.上演の文脈

李軍氏によれば、湖南影戯は、旧時、都市・農村を問わず、慶事の際に上演されることが多かった。慶事のある家が影戯劇団を呼んで、場を盛り上げるのに用いた。一方、葬式での上演は、行われることはあるが、少ない。廟会での上演については、そもそも南方には廟会が少ないので余り演じられない、とのことであった。このほか、農村では、春、田植え(插秧)の際に上演する風習もあった。

まとめれば、湖南影戯の上演文脈は、堂会・祭祀・農事の三つに分類され、また家が招請する小規模な上演が多かったことになる。

先行資料では〈湖南戲劇概況〉が上演文脈について詳しい。

影戯劇団の湖南における地位は、花鼓劇団に遠く及ばず、おおよそ酬神・還願の道具に過ぎない。(中略)普段はいつも寺の中で演じているが、旧暦の中元節になると、住民がおおく祖先を祀るために上演するので、影戯劇団は非常に忙しくなる……。*23

ここではもっぱら家庭における祭祀的な文脈での上演に言及する。一方、「普段はいつも寺の中で演じている」というのは、寺廟の境内が旧時、各種芸能が集まる娯楽スポットであったことを考えれば、都市部で上演場所を半ば固定した影戯の商業公演が行われていたことを指すものと解される。

また、《皮影之旅》は以下のように記す。

これらの地方では、しばしば皮影戯の上演がある。例えば(旧暦)二月二日の“土地戯”、三月十五日の“財神戯”などである。このほか町中や田舎では、ある家で火事がおこると、2本の影戯を上演して火神に供える。農村では秋の収穫後、“禾苗戯”を上演する。農閑期には、整本を上演する……。*24

“土地戯”・“財神戯”などに言及しているが、上演の場所が寺廟であるのか一般の家屋であるのかが明確でないため、廟会戯に分類してよいものか、判然としない。農村での上演にも言及するが、収穫後とする点、田植え時とする李軍氏との食い違いが見られる。全体としては、祭祀的な文脈における上演が多いように見受けられる。

各新編地方志の記述は、以下の通りである。

結婚・葬式・慶事の日に、多く皮影劇団を招いて上演する……。*25《平江县志》

多く民間の慶事・還願・敬神などの活動で上演され る。*26《澧县志》

農村では誕生祝い・慶事あるいは祈神・還願で、しばしば皮影劇団を招いて上演する。*27《益阳县志》

清代および民国時期、農村では多く酬神・還願に用いられた。*28《长沙县志》

一般に農民の慶事あるいは迷信の還願の際に上演され る……。*29《韶山志》

多く酬神に用いられる。*30《醴陵市志》

農家では消災還願、六畜の興旺祈願、特に家畜に疫病が流行ったときには必ず影子戯を演ずる。*31《衡阳市郊区志》

しばしば人々の嫁取り・嫁入り・三朝・周歳・引っ越し・誕生祝いなどの慶事で1~2晩上演される……。 *32《南岳区志》

多くが家庭における堂会・祭祀を主要な上演文脈としている点で一致する。

以上のような影戯の上演文脈は、陝西など他地域の皮影戯にも共通するものであるが、これは商業公演を除けば人戯とも同じであり、影戯が人戯の代替品として受容されたことを示唆する。一般に影戯は、上演に必要な人数が少なく道具・設備も簡便であるために上演コストが安く、それゆえ経済力に劣る都市住民や農民に受容される傾向がある。湖南影戯についても、李軍氏によれば戯価は現在の農村影戯で百元以内、民国時期は〈湖南戲劇概況〉によれば「洋二三元不等」であり、情況は変わらない。

なお、湖南省木偶皮影芸術劇院では、文革以前から都市の劇場公演が中心となっており、インテリや労働者が主な観客であった。しかし、1980年代以降、テレビ・映画の普及によって劇場から締め出されてしまい、現在は中学生以下の児童生徒を対象とした、学校における上演が中心になっているという。また、授業の内容を皮影戯で説明する“課本戯”を創出し、教師や児童生徒の好評を得ているそうである。

おわりに

以上、先行文献調査および李軍氏へのインタビューを通して湖南影戯に関して得られた知見をまとめた。湖南影戯の概略については、以上で概ね把握できたと言って良かろう。一方で、ソースによる情報の食い違いや、必要な情報の欠落も見られ、解明すべき課題が明らかになった。それには、以下の諸点が挙げられる。

  • 湖南における影戯上演および劇団・芸人の現状の把握
  • 湖南への影戯の伝播・形成時期、および湖南各地への伝播時期・経路の解明
  • 湖南各地の影戯の、上演方式・上演文脈と宗教的・社会的背景
  • 湖南影戯台本の収集と、他の伝統芸能のテキスト・小説などとの比較検討
  • 湖南影戯音楽の記録と整理

これら諸課題の解決には、地方志や新聞資料などの文献調査もさることながら、現地調査による芸人へのインタビューや文献資料・博物資料収集が欠かせない。今後、機会が得られたならば、現地研究機関や研究者と連係しつつ調査を実施し、湖南影戯研究を深化させていきたい。

*本稿は、日本学術振興会科学研究費・基盤研究B「近現代華北地域における伝統芸能文化の総合的研究」(2005~2006 年度、課題番号:17320059、研究代表者:氷上正)による成果の一部である。


*1 湖南では後述のように紙製の影人が使われているため、以下、皮影戯ではなく影戯と呼ぶ。
*2 &(zh-tw){據湖南皮影藝人傳說,長沙皮影戲始於清光緒二十二年(1896)。};(pp.214)
*3 清同治二年(1863),湖北天门县皮影戏艺人鲁光雄,因水灾带着全家逃难到岳阳熊市草鞋岭,与在当地种田的临湘白羊田南冲村民易在官的父亲结识后就住下来了。从此,易在官就随鲁光雄学演皮影戏,到八月秋收后,易家父子回原籍,皮影戏便传入临湘……。
*4 清同治初年由长沙、宁乡传入。
*5 清咸丰年间,中路铺、花石、株洲三地各出现一副皮影戏担子……。
*6 《中国移民史・第六卷》〈第七章 东南棚民与客家:湘东、浙江和皖南〉(曹树基、福建人民出版社、1997)参照。
*7 劉季霖氏による。
*8 澧县皮影戏用地方语言、荆河戏的音乐唱腔进行演唱。
*9 唱腔多用潭剧弹腔……。
*10 多用常德汉剧弹腔,个别亦用花鼓唱腔……。
*11 唱腔多为湘剧,间或也有唱花鼓腔的。
*12 正本……唱腔以南北路为主……。
*13 上演正戏为湘剧剧目,杂戏为花鼓戏中的折子戏。
*14 唱腔吸收花鼓戏和歌剧成分……。
*15 剧目唱腔多袭用祁剧,偶尔用花鼓调……。
*16 剧目、声腔和湘剧基本相同……。
*17 以唱渔鼓小调为主,融以湘剧南北路和花鼓灯调……。
*18 正戏以湘剧形式表演,杂戏以花鼓戏形式表演。
*19 每场戏有登台、正本、杂戏三段。登台和正本有陈桥立帝、王英下山、珍珠塔、红绫帕、下河东等30多个剧目。……杂戏内容较为俗俚,有送郎、望郎、送饭、洗菜心、打酒等小调。
*20 节目整本有《封神传》、《水浒传》、《岳飞传》、《杨家将》、《薛仁贵征东、征西》、《五虎平南》等……也可以演散折戏,外加杂戏,均由主家照点。有的只演一本戏,也有连台演两本戏。……长沙皮影戏确有它的特色,一般认为它的特色并不在于几部正本节目上,技巧最精彩的是,一些小节目如《五更劝夫》《山伯访友》《小姑贤》《讨学钱》《哪咤闹海》《渔翁戏蚌》等小型节目。(一部括弧を補った)
*21 湖南的影戏剧本分两种:一种是流传下来的手抄本,又叫“朝本”,其中有角色对白、唱念之词,无其他提示。另一种叫“搭桥本”,非常简单,只有故事情节的梗概,无具体词曲,由艺人现场发挥,属口传心授的剧本。(pp.69)
*22 他们开始模仿皮影艺人写“桥本”的办法,用简略的文字记录整理从各种长篇小说借鉴来的故事题材,以便于对故事情节的记忆。它不同于戏曲剧本或民间刻本,而是由艺人先熟悉小说、故事,掌握情节要领、人物性格,再采用简练的语言,以四字句写成底本。(pp.70)
*23 影戲班在湖南地位,遠不及花鼓班,大概用為酬神還愿之工具而已。……平日常演於各寺庵內,為每屆舊歷中元節,則居民多演以祀祖,該項戲班異常忙碌……。};
*24 在这些地方,常有皮影戏的演出,如二月初二的“土地戏”,三月十五的“财神戏”等。另外在街巷乡间,如某家失火,就演两本影子戏以谢火神:农村秋收后,就演“禾苗戏”。农闲时,就演整本……。
*25 每遇婚、丧、喜庆之日,多请皮影戏班演出……。
*26 多为民间喜庆、还愿、敬神等活动演出。
*27 农村中每逢寿诞喜庆或祈神还愿,常请皮影戏班演出。
*28 清代和民国时期,农村多用以酬神、还愿。
*29 一般在农户喜庆或迷信还愿时演出……。
*30 多用于酬神
*31 农家为消灾还愿,祈求六畜兴旺,特别是家畜瘟疫流行时,必唱影子戏。
*32 不时为人们的收亲、嫁女、三朝、周岁、搬新居、寿诞等喜庆唱一至两晚……。