『都市芸研』第六輯/陝西省南部における道情皮影戯の分布と伝播

Top / 『都市芸研』第六輯 / 陝西省南部における道情皮影戯の分布と伝播

陝西省南部における道情皮影戯の分布と伝播

山下 一夫

1.はじめに

中国に「道情」という芸能がある。おおまかにいって、「道教的な内容」の物語を「漁鼓」と「簡板」という楽器を用いて上演するというものだが、内容的には以下の三種類がある。

  1. 韻文道情。道士が韻文を歌う一種の小曲である。講唱文学は一般的に、長短句による「楽曲系」と斉言句による「詩讃系」のどちらかに分類されるが、この韻文道情はその両方に跨っている。これは「道士が歌えば」、いわば何でもこの韻文道情というカテゴリーに入ってしまうので、他の講唱文学とはすこし扱いが異なってくるためである。実際、宋代には「鼓子詞と同じである」という記述があるが*1、これはつまり「鼓子詞」を道教文脈で上演すれば「道情」になってしまう、ということを意味している。また、金元代には全真教の祖師たちがさかんに道情の創作を行い、全国を遊行して漁鼓と簡板を用いた上演をして回ったが、この二種の楽器を使うのは、おそらくこの頃から始まるものと思われる。なお、現在では全真教の道士たちによる上演は行われなくなっている。
  2. 説唱道情。おそらく1から発展し、韻文と散文を交互に演ずる説唱芸能である。韓湘子故事・荘子嘆髑髏故事など、「道教的」な物語を行う。上演形式としては以下の二種類がある。(a)上演者一人が唱う形式。上演者は道士ではないが、寺廟で上演が行われるなど、なお宗教的文脈を残す。漁鼓と簡板を用いる。(b)一人が唱って数人が唱和する形式。上演者は、「経典」を参加者全員で「唱和」しているという感覚で行っているものと思われ、芸能というより、いわば民間信仰的な「宗教活動」であると考えられる。
  3. 戯劇道情。漁鼓と簡板を用いる伝統演劇の一種。2から発展したものと思われるが、上演者はもはや「ただの芸人」であり、道教や民間信仰の担い手による「宗教活動」ではなくなっている。中国全土に様々な種類のものが存在しているが、2から受け継いだ漁鼓と簡板による上演というスタイルと、韓湘子故事・荘子嘆髑髏故事の演目とを持っていることが共通点としてあげられる。逆に言えば、この二つの要素を持つことは「道情」であることのメルクマールとなる。

さて、陝西省では、上に挙げた三つの中で言えば3に属する、道情による皮影戯(影絵芝居)が数種行われている。本論文は、うち調査を行った陝西省南部―「陝南」の状況について検討し、合わせて陝西省全体の皮影戯の分布と伝播について考えてみたいと思う。

2.商洛道情

商洛道情皮影戯は、洛南県と商洛市の県境付近が中心地で、かつては商洛市(以前の商県)・洛南県・丹鳳県・鎮安県・山陽県・商南県・柞水県の、「地級」の商洛市の全域で行われていた。また、関中地区の臨潼にも流入し、関中臨潼道情皮影戯を形成している。

起源については、「白米虫」という人物を創始者とするという伝承が行われている。商洛の道情皮影戯芸人である李仁杰が「我知道的商県皮影戯」で述べているところによれば、以下の通りとなる。

明末清初に、「白米虫」というあだ名の独り者の男性が(原籍が臨潼県回回道の人で、小さい頃から商洛の某所で道情皮影戯の上演を覚えた)、洛南と商県の境界にある薬子嶺一帯にやって来て居を構え、貧しい子供を何人か弟子に取り、繁忙期には農作業をし、普段は皮影戯の稽古をした。「白米の蒸し飯」が大好物だったので、現地の人々はかれを白米虫と呼んだのである。白米虫の皮影戯班ができたことで、現地の人々に無限の楽しみがもたらされ、上演地域も次第に広範囲になってゆき、洛南・商県の四方数十里の地では非常に人気となった。白米虫が亡くなった後、弟子たちはかれを薬子嶺に埋葬した*2)。

「明末清初」というのは、民間芸能がその起源を語る際によく行うレトリックなので、多少割り引いて考える必要はあるだろう。また「商洛の道情皮影戯」が、「商洛の某所で道情皮影戯の上演を覚えた人物」によって「創始された」とするのは矛盾する言い方であるが、おそらくこれは無理に商洛のオリジナルの芸能であるとしたいためにこうした表現になったものと思われる。重要なのは「白米虫」の原籍が「臨潼県回回道」であるという部分である。これについて、楊翰青の「談陝西皮影道情・介紹商県道情的源流」で、商洛の道情皮影戯芸人である李仁述が、父でやはり皮影戯芸人であった李興臣から聞いた話として紹介されているものでは、以下のようになっている。

商県の道情はすでに320年の歴史がある。明末の崇禎年間に、関中の「白米虫」というあだ名の人物が、商県にやって来て道情を伝えた(これ以前には老乱弾が唱われていた)。それから道情はこの土地に根を下ろし、発展し始めた。この人物は現地で亡くなり、商県の東郷拌湯嶺路の側の川辺に埋葬された。以前は、道情芸人やあらゆる伝統演劇の芸人がここを通りかかると、焼香をして故人を偲んだものである*3)。

こちらでははっきりと白米虫が関中からやってきて道情を伝えた、としている。なお、「崇禎年間」というのも「明末清初」と同様、あまり信用の置けるものとも思えず、民国期の芸人が焼香をしたというのだから、単に伝説上の人物というよりも、かれらと師弟関係の系譜が繋がる時代の人間と考えた方が自然だろう。そして、『中国戯曲志・陝西巻』「道情」には以下のように記述されている。

咸豊・同治年間(1851-1874)に、関中の臨潼行者村の道情芸人である白米虫が(米を食べるのが好きなため、「白米虫」と呼ばれた)、商県に南下し、小磨溝の王彦杰の祖父の家にやって来て、戯班を作って弟子を取った。これによって道情は商洛地区に流入した*4

実際、商洛で皮影戯の戯班が活動していたことが確認できるのは同治年間以降なので、白米虫の実際の生存年もおそらくその頃であろうと思われる*5。いずれにしても、商洛道情はこのころ白米虫によって関中の臨潼から伝えられたものと思われる。

さて、商洛道情皮影戯で行われている演目について、前出の李仁杰は以下のように述べている。

皮影戯の伝統演目は、「空から飛んできて霧の中へ消え、天高く飛び地面の下を行く」といった類の神話的演目が多い。例えば、以下のようなものが挙げられる。『封神演義』劇の『陰門陣』『黄河陣』『七剣書』、『西遊記』劇の『白鼠洞』『毛臉羽』『火焰山』『黑水河』『通天河』、神鬼劇の『升天橋』『迂蓮橋』『定風珠』『韓湘子翹課』『杭州売薬』『八仙台』『漢天城』『五雷陣』『九源山』『蘭関山』『楊堂咬布袋』『捥芝山』『牡丹山』『罵閻王』『蛟龍駒』『閻岔山』、民間伝説の劇だと『三英図』『訪江南』『金鐘記』『訪蘇州』『百花庵』『征湖北』『騙馬記』『紅灯記』などがある*6

商洛道情皮影戯は、「神話的演目が多い」という点で、「道情」本来の「道教的要素」を残していると言える。特に『韓湘子翹課』などの韓湘子故事の演目を有しているというのは重要な点であろう。

音楽面については、2007年度の調査報告で概観したとおり*7、「漁鼓と簡板」を使っており、なおかつメインの唱い手に対して他の上演者たちが和する、「幇腔」を行っていることが観察される。「幇腔」は弋陽腔系演劇などにも認められる要素であるが、道情のそれは説唱段階における参加者の「唱和」に由来しているものと思われる。

3.安康道情

安康道情は、安康市の安康市・洵陽県・白河県を中心に、漢中市や関中地区でも行われ、さらにかつては四川省北部地域などにも流入していた。

起源については、商洛における白米虫に似て、「頼世魁」なる人物によって創始されたという伝承が行われている。前出の楊翰青は以下のように述べている。

安康道情の老芸人である唐全理・劉金有が先人たちから伝えられた話によると、二百年前には安康の皮影戯も碗碗腔だったが、頼世魁の皮影戯班から道情に変わったのだという。頼先生は安康八区奈家湾の人で、何種類かの腔調を演じることができ、人戯の役者の出身であった。当時、かれが率いる道情皮影戯班のメンバーは全員頼家の同族子弟であったが、かれ以降安康には道情の種子が伝えられ、現在に至るまで五世代二百年の歴史を持 つ*8)。

「二百年」という言葉を信じれば乾隆末年のこととなるが、「五世代」だとするともう少し時代は下り、商洛と同様に同治年間ごろのものとなるはずである。現在行われている碗碗腔皮影戯と同じものなのかどうかは検討の余地があるにしても、道情が碗碗腔に取って代わったというのは注目すべき記述だと思われる。また、黄笙聞は以下のように述べている。

万暦年間に安康には頼世魁の著名な戯班があった。すなわちこの頃には、(道情が)皮影の形式で陝西省南部や陝西省北部に伝わり、様々な流派を形成し始めていたのだといえる。…各地の皮影戯で言えば、関中地域が根拠地で、安康や商洛はいずれも秦嶺を越えてこれが直接南に伝わっていったものである*9

「万暦年間」という記述ももとより信ずるには足りない。むしろここでは、関中の道情が安康に伝わった、ということが重要であろう。先ほど見た記事と合わせれば、商洛と安康の道情皮影戯はいずれも関中地域から、おそらく同治年間ごろに伝わって現地化したものだということになる。一つの劇種を単一の人間が「創始」したとは考えづらいが、少なくとも当該地域にその劇種を持ち込んだキーパーソンが存在したことは確かだろう。それが、商洛では白米虫、安康においては頼世魁であったものと思われる。

さて、安康道情皮影戯の演目について、『中国戯曲曲芸詞典』では以下のように述べられている。

演目は四、五百存在し、秦腔や漢調二黄、漢調桄桄の常演演目とほぼ同じである*10)。

また、『中国戯曲志・陝西巻』では以下のように言う。

伝統的な演目は千二百あまりあり、多くは歴史物語に取材した劇や民間説話による劇で、神仙道化を題材とする劇は多くはない。演目の特徴としては、本戯が多く、折戯は少ないという点にある。『粉妝楼』『文天祥』など、十何日も上演可能な連台本戯もある。文戯は歌に重点があり、韻文はきらびやかで美しく、また武戯は上演技術に重点がある。常演演目に、『大鬧紅灯』『広寒図』『荆釵記』『五侯山』『六巧図』『雄黄剣』『反冀州』『黄花舗』『筆硯仇』『快活林』『盤蛇山』『張良売布』などがある*11

2006年度の調査報告で述べたように*12、音楽面では商洛と同様に「漁鼓と簡板」を使い「幇腔」を行うのだが、演目は伝播の過程で秦腔・漢調二黄・漢調桄桄などの影響を受けたのか、「神話的」なものは少なくなっており、商洛とはあまり重ならない。特に韓湘子故事が常演演目の中に見あたらないことは注意が必要であろう。自らが「道情」であるといういわば「証拠」の一つを、安康道情は失ってしまっているのである。

4.陝西省の皮影戯

さて、陝西省の皮影戯は、地域で分けるとおおよそ以下のような分布となっている。

陝北:陝北道情
関中:碗碗腔、華県老腔、阿宮腔、弦板腔、秦腔
西部:灯盞頭碗碗腔、隴東道情
漢中:灯影腔
南部:安康道情、商洛道情、漢調二黄

道情皮影戯は、安康道情と商洛道情のほか、さらに陝北道情と隴東道情が存在するが、前者は山西省および甘粛省から流入したもの、後者は甘粛省から流入したもので、いわば「外来種」である。

関中で行われている皮影戯のうち、分布が最も広範囲に亘るのは碗碗腔であり、その範囲は、西部にまで延びて灯盞頭碗碗腔まで及んでいる。碗碗腔は「西路秦腔」の別名があり、おそらく(やや古い)秦腔の亜種の類であろうと想定される。安康で道情が行われる以前に碗碗腔が行われていたというのが事実とすれば、その伝播は一度だけに留まらず、何度かの波があったものとも考えられるが、現在行われているのは基本的には光緒年間に爆発的な流行を見て各地に定着したものと考えられる(こうした状況は、隣の山西省においても同様である)。

また、阿宮腔は「北路秦腔」の別名があり、やはり秦腔の亜種の一つと見なしうる劇種だが、注目すべきはその形成過程で道情皮影戯の影響を受けたと言われていることである。商洛道情も安康道情も関中から伝わったことを考え合わせれば、現在では行われていないが、かつては関中に広範囲に道情皮影戯が存在していたことが想定されるのである。それが、その上に新興の碗碗腔と秦腔の波が被って消滅してしまったのであろう。これに対して、商洛や安康は山間部であったために、古い層である道情が残ったものと考えられる。

しかし、関中から完全に道情皮影戯がなくなってしまったという訳ではない。幇腔という点で言えば、関中の多数の皮影戯の中で、弦板腔が唯一幇腔を用いた上演を行っている。弦板腔も清末に出現した新興の皮影戯で、阿宮腔と同様に形成過程で道情の影響を受けたとされているが、秦腔の一種とは見なされておらず、位置づけが難しい劇種である。幇腔という点で考えれば、弦板腔こそはかつて行われていた関中道情皮影の生き残りで、「漁鼓と簡板」も「韓湘子故事」も捨ててしまって新劇種となったものと言えるのではないだろうか。

5.おわりに

華県の老腔は、その名が示すとおり碗碗腔の流行を見る前から存在していた比較的古い皮影戯である。おそらく地理的な要因もあって古層が残存したものであろう。そうすると、非常に雑多に見える陝西省の多数の皮影戯は、既存の「道情皮影」と「華県老腔」の上に、秦腔系「レイヤー」が重なったもの、というように整理して考えることができるのではないだろうか。すなわち、一つには「碗碗腔」の爆発的拡大を生み、もう一つには秦腔系を元に「道情皮影」の影響を受けた「阿宮腔」や、「道情皮影」が「非道情化」した「弦板腔」などを生むという段階を経ることで、現在の分布が成立していったものと考えられるのである。

そうすると今度は、その秦腔系「レイヤー」が一体どこから来て、人戯の秦腔とどういう関係を持つものであるのかということが問題になってくるが、これについては今後の課題としたいと思う。

  • 本稿は、日本学術振興会科学研究費・基盤研究B「近現代華北地域における伝統芸能文化の総合的研究」(2005~2007 年度、課題番号:17320059、研究代表者:氷上正)による成果の一部である。

*1 宋・周密『武林舊事』巻七に以下のようにある。「後苑の小使いが三十人、息気を整えて道情を唱ったところ、陛下が言った。それは、張倫が撰したところの鼓子詞であろう、と。(後苑小廝兒三十人、打息氣唱道情。太上云、此是張倫所撰鼓子詞。)」
*2 明末清初,有个外号叫“白米虫”的单身汉(原属临潼县回回道人,从小即在商洛某地学会演唱道情皮影戏),飘落到洛南和商县交界的药子岭一带安了窝,又收了几个穷孩子为徒,忙时务农,平时学戏,由于他最爱吃“白米蒸饭”,所以当地群众都叫他白米虫。白米虫的皮影戏班成立后,给当地群众带来无限欢乐,演出地域也愈来愈广阔,在洛南、商县方园数十里地非常红火。白米虫去世后,他的徒弟们把他埋在药子岭。(李仁杰口述、段德功整理〈我知道的商县皮影戏〉,《商县文史资料》第四辑,1987年,106頁。
*3 商县道情,已有三百二十年的历史,约在明末崇祯年间,有外号“白米虫”者,关中人,到商县传授道情(以前唱的老乱弹),从此道情在商地扎根生长发展起来。此人临终死于当地,埋葬于商县东乡拌汤岭路旁河边。过去道情艺人,以及所有戏曲艺人,路过至此,均焚香纪念。(杨翰青〈谈陕西皮影道情・介绍商县道情的源流〉,《陕西省第一届皮影、木偶戏观摩演出大会会刊》第9期,1956年,3頁。
*4 咸丰、同治年间(1851—1874),关中临潼行者村道情艺人白米虫(因爱吃大米,故名“白米虫”),还南往商县,以小磨沟王彦杰祖父家为基地,组班授徒,使道情传入商洛地区。(《中国戏曲志・陕西卷》,125頁。)
*5 例えば、『中国戯曲志・陝西巻』では、同治七年に張天泰が始めたもののほか、幾つかの皮影戯班の名前が挙がっている。詳細は以下の通り。同治七年(1868),洛南桑岭兴办的张天泰班,历时较长,共经四代。除此,还有洛南灵口的张福海班,兑山的刘中喜班,保安的赵朝娃班、张西云班,永丰的谢德班,石门的樊虎娃班,及商县的李柯义、王彦杰、李兴臣、杨江湖、杨花蜡班等。光绪八年(1882),丹凤竹林关徐明启办的成顺班,后历徐崇福、徐盛荣等辈,先后相传五代,其艺术造诣及影响,久为民间所传颂。
*6 皮影戏的传统剧目多为空里来、雾里去、天上飞、地下行的一些神话剧目。如:封神戏里的“阴门阵”、“黄河阵”、“七剑书”;西游戏中的“白鼠洞”、“毛脸羽”、“火焰山”、“黑水河”、“通天河”;神鬼戏里的“升天桥”、“迂莲桥”、“定风珠”、“韩湘子逃学”、“杭州卖药”、“八仙台”、“汉天城”、“五雷阵”、“九源山”、“兰关山”、“杨堂咬布袋”、“捥芝山”、“牡丹山”、“骂阎王”、“蛟龙驹”、“阎岔山”;民间风情戏“三英图”、“访江南”、“金钟记”、“访苏州”、“百花庵”、“征湖北”、“骗马记”、“红灯记”等。(李仁杰前掲論文、110頁。)
*7 「2007年夏期皮影戯調査概要」(本誌所収)参照。
*8 据安康道情老艺人唐全理、刘金有等根据先辈传说,在二百年前时,安康的皮影,还是碗碗腔,自赖世魁领皮影班始改为道情。赖先生是安康八区奈家湾人,会几种腔调,是大舞台演员出身。那时他领的皮影道腔班所有一切人员均系赖家同族子弟,从此安康传下了道情种子,于今五代已有二百年的历史。(杨翰青前掲論文、4頁。
*9 万历年间就有安康赖世魁的著名戏班。自然在此前后,也就以皮影形式相继传遍陕南、陕北,开始形成各个流派。…若按路线划分,当以关中为基地,安康、商洛都属逾秦岭直接南传。(黄笙闻〈陕西道情戏〉,李汉飞编《中国戏曲剧种手册》,中国戏剧出版社,1987年,200頁。)
*10 剧目约有四、五百个,大都与秦腔、汉调二黄、汉调桄桄常演剧目相同。(《中国戏曲曲艺词典》,上海辞书出版社,1981年,236頁。
*11 传统剧目有一千二百余本,多为历史故事戏和民间故事戏,神仙道化题材戏不多。剧目特点是:本戏多,折戏少,还有连台本戏《粉妆楼》、《文天祥》等,可演十几天。文戏重唱工,词藻秀丽,武戏重表演技巧。常演剧目有《大闹红灯》、《广寒图》、《荆钗记》、《五侯山》、《六巧图》、《雄黄剑》、《反冀州》、《黄花铺》、《笔砚仇》、《快活林》、《盘蛇山》、《张良卖布》等
*12 「2006年夏期皮影戯木偶戯現地調査要録」(『中国都市芸能研究』第五輯、2006年)参照。