『都市芸研』第十一輯/皖南大影とその特色

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皖南大影とその特色――現地調査を通じて――

千田 大介

1. はじめに

中国の皮影戯は河北・山西・陝西など北方のものが著名であるが、長江以南の華中・華南地域にもいくつかの場所で行われている。安徽省南部、いわゆる皖南地方もその1つである。

皖南地方は歴史的に中国の経済・文化の中心地であり続けた江南地方の後背地であり、例えば文房四宝の名品、宣紙・徽墨はいずれも皖南の産であり、安徽歙州の硯も端渓に次ぐものとして知らていることは、そうした地域性を物語るものである。演劇についても、明代にはいわゆる徽調が知られ、清代にも徽班が活発に活動しそれがやがて皮黄戯・京劇の成立に結びつくなど、皖南地方は江南地方さらには全国に演劇文化を発信する1つの基地となっていた。

皖南地方は19世紀半ば、太平天国に伴う連年の兵乱および疫病・飢饉などによって人口の9割以上が失われ壊滅的な被害を受ける。太平天国の敗亡後、清朝政府は皖南地方復興のために、湖北・河南から大々的に移民を募集した。この移民によって皖南地方の社会は新たに構築されることとなり、言語・生活習慣から文化に至るまで、それまでと様相を一変させる。皖南地方の皮影戯も、そうした移民活動の結果として湖北・河南からもたらされたものである。

演劇などの文化の伝播は平時においては商業活動によって媒介されることが多いが、しかし演劇・芸能の歴史をひもとくと、災害・飢饉・戦乱などによる移民の発生が新たな劇種形成の契機となっている例が数多く見いだせる。皖南の皮影戯はその具体例となるものであり、研究を通じて中国演劇史理解に1つの新たな事例を加えることが期待できる。また、太平天国後には広く江南各地で移民が受け入れられており、そのことが清末以降の皮黄戯や各種芸能の流行に何らかの影響を与えていると考えられる。皖南の皮影戯への研究を通じて、そうした問題を考察する上での視座を提供することもできよう。

かかる問題意識から、筆者は科研費研究「近現代中国における伝統芸能の変容と地域社会」を通じて、安徽省宣城地級市の皮影戯について研究してきた。本誌前輯に掲載した「皖南皮影戯と河南・湖北皮影戯」(以下、前稿)は、主に文献調査結果を中心に皖南皮影戯について検討し、太平天国移民によってもたらされた河南・湖北の複数の皮影戯がやがて現地性を獲得して皖南皮影戯としての特色を備えたと思われることを解明したものである。

本稿では、2010~12年にかけて夏期に実施した現地調査の結果を踏まえて前稿を補足・修正しつつ、皖南の皮影戯、特に宣州近辺で現在行われている皮影戯について、その特色および形成をより具体的に解明したい。

1.2. インフォーマント

筆者は宣城での皮影戯調査をこれまでに4回実施している。

  • 2009年8月19日~22日
  • 2010年8月21日~23日
  • 2011年8月6日~9日
  • 2012年8月7日~12日

このうち2009年は予備的な調査で、2010年以降が科研費による本格的な共同調査になる。調査日程については、本誌各号の報告をご参照いただきたい。

この間、数名の芸人にインタビューを行った。そのうち本稿で言及する人について、経歴などを簡単にまとめておく。いずれも農業の傍ら皮影戯を演ずる、アマチュアの皮影芸人である。

呉金陵

安徽省宣城市蘆渓村在住。1937年生。父は江蘇省宿遷県の出身で、生活に行き詰まり宣州にやってきた。小学校卒業後、半年農村中学で学んだ。16歳で中国青年団に加盟、20歳で入党する。団支部組織委員、文教衛生委員、專職教導員、宣伝委員などをつとめた後、生産大隊に戻り会計をつとめる。1963年、大隊の会計を兄に譲り、杜中清に弟子入りし皮影戯を学ぶ。

呉金陵氏
方宗唐

安徽省宣城市麻姑山茶場在住。1944年生。小学校卒業後、中学で1年半学ぶ。1962年、楊正発に弟子入りし、1963年より皮影戯を演ずる。1978~80年、生産隊の小隊長をつとめる。1971年より自らの劇団を持つ。

方宗唐氏
陳景華

宣州水東鎮陳村在住。1933年生。一族は太平天国以前から同地に居住しており移民ではない。私塾に2年通った後、中華人民共和国建国にともない小学校で2年間学び、後に夜間学校に通う。22歳より花鼓戯を学び、1957年に父母が死去して後、弟子入りして皮影戯を学ぶ。同年、宣城文芸骨幹訓練班に参加、戻って発展農村クラブに所属する。後に宣城県花鼓戯劇団に所属。1978年、改めて殷明双に弟子入りし皮影戯を学ぶ。

陳景華氏
徐永春

寧国市大山村在住。1952年生。12歳より皮影戯を学ぶ。父・祖父なども皮影戯の芸人であった。

何沢華

1968年生。代々皮影芸人の家に生まれる。初中卒。西安にて影人彫刻を学ぶ。皖南皮影博物館館長。同博物館は何氏が地方政府の資金援助を受けて開設したものである。何氏が収集した皮影戯関連資料を展示するとともに、観光客に簡単な上演を見せ、影人などの記念品を販売している。博物館を称するものの、専門の研究員・学芸員を置いて資料整理や研究を進める機関ではない。

何沢華氏

1.3. 皖南で行われる皮影戯の種類

皖南とは安徽省の長江以南の地域を指す呼称であり、馬鞍山・蕪湖・銅陵・宣城・黄山・池州の6つの地区級市が含まれる。そのうち皮影戯が行われているのは、宣城市に属する宣州・郎渓・寧国・涇県・広徳の5つの県級行政区である。前稿で明らかにしたように、宣城では太平天国の乱の戦禍とそれに伴う疫病の流行などによって人口の9割以上が失われ、戦後、大量の移民を受け入れることで復興が図られた。このため、湖北移民が多数を占めた宣州・郎渓・寧国一帯には湖北系の皮影戯が、河南移民が多数を占めた広徳には河南系の皮影戯がそれぞれ伝播し、旧時、多くの劇団が存在し活発に上演が行われていた。

宣城地図(捜狗Mapより)

宣州一帯には湖北系の皮影戯が伝播したが、湖北省には清代後期以降、多種多様な皮影戯が行われていたことが知られており、皖南で行われているのが湖北のどの地域に起源する皮影戯であるのかが問題になる。

湖北では多くの皮影戯が行われていたことが知られ、影人のサイズによって大きく以下の3種に分類される*1

影人サイズ材質流行地域
大皮影2尺2寸(73cm)牛革荊州・雲夢・黄陂・孝感・黄崗・武漢
中皮影56cm牛革漢口・鄂東・鄂北
小皮影1尺(33.3cm)未記載襄陽・穀城・竹山・竹渓

以上の分類を、前稿では文献資料によって補足・考察したが、行論の都合上、その結論をかいつまんで紹介しておく。

江漢平原各地の武漢以西、荊州市・荊門市一帯では清代中期以前から皮影戯が行われており、歌腔・荊河戯などの地方戯の声腔を用い、大型の影人を用いる。

清末民初以降、武漢・仙桃・荊州・荊門一帯では、漁鼓調を歌う皮影戯が盛行した。沔陽皮影戯・漁鼓皮影戯などと称され、二尺程度の大きさの影人(中皮影)を用いる。

武漢市以北の江漢平原から大別山南麓にかけての地域で行われる皮影戯は、東郷皮影戯と西郷皮影戯とに分類され、前者がより小型の影人を用いる。このうち西郷皮影戯の流行地域は黄陂・孝感から武漢市にかけてで、孝感市雲夢県では現在も複数の皮影茶館が営まれている。影人の大きさからして、東郷皮影戯は中皮影、西郷皮影戯は大皮影に分類される。

湖北省西北部の十堰市一帯では、山二黄を歌う皮影戯が行われている。影人は陝南皮影戯に似て小型で、小皮影と称される。

皖南に伝播した皮影戯が湖北のどの地域に起源するのかについては、皖南皮影戯博物館の所蔵に空臉・実臉の大ぶりな影人が多数含まれていることから、広漢平原一帯の複数の系統の皮影戯が流入していたことがわかる。また何沢華2010によれば、皖南皮影博物館館長であり、宣州における皮影戯の現在唯一の「箱主」でもある何沢華氏の祖先は、湖北随州の出身で雲夢の皮影戯を学んでおり、現在、宣州で上演に使われている影人も西郷皮影戯系のものである。

一方、皖南地方の新編地方志には以下のような記述も見える。

安徽南部で流行しているのは大小2種で、小影は京徽調を歌い、大影は民間の小調や花鼓戯を歌い、演じながら歌い、時に幇腔も使われる。寧国県で流行する皮影戯は、多くが大影に属する。*2《宁国县志》p.689)

湖北皮影戯の流行地域であった寧国で旧時、大・小二種の皮影戯が行われてことがわかるが、ここでいう「大影」・「小影」は具体的にいかなる系統の皮影戯を指すのであろうか。インタビューでは以下のような証言が得られている。

答:専ら二黄を歌う皮影戯(の影人)は空臉のものだ。我々安徽の広徳県には以前、この類の劇種があった。やはり皮影戯で彼らは二黄を専門に歌っていた。彼らの皮影戯は空臉で、我々の皮影戯より小さかった。この種の輪郭を切り抜いた皮影戯を「小影子」、我々のものを「大影子」と呼んだ。
問:それならば、空臉の皮影戯は外来のものなのか。
答:やはり湖北から伝わったものだが、空臉のものは専ら二黄だけを歌い、我々の皮影戯の節回しの方がより複雑だ。―中略―
問:二黄と皮影調はどちらが古いのか。
答:似たようなものだ。二黄は今ではなくなってしまい、我々も二黄を歌わない。皮影戯を学び始めた後も二黄を学んだことはない。
問:あなたの師匠の頃には二黄を歌っていたのか。
答:私の師匠も歌ったことはない。私の師匠はこのあたりに住んでいたので、歌ったことがない。
問:皮影戯芸人が二黄を歌わなくなったのはいつ頃か。
答:50年代に少なくなり、なくなった。二黄を歌う老芸人が死去し、後を継ぐものがいなかったからだ。*3 (2012年8月10日午後、呉金陵)

「大影子」は彼らが演ずる湖北の西郷皮影戯の流れをくむ皮影戯を指す。「小影子」は二黄を歌ったとされるが、これは上掲『寧国県志』の「小影は京徽調を歌」う、という記述とも合致する。つまり「小影子」はより小型の影人を用い、皮黄系の声腔を持つ皮影戯であったことになる。河南南部に皮黄腔を歌う皮影戯はないので、湖北から伝来したという証言は妥当であろう*4

湖北の皮影戯でこれに該当するものとしてまず考えられるのが小影戯である。前稿でも述べたように、湖北省北西部十堰市の山間部で行われている小影戯の声腔は山二黄、即ち漢調二黄である。ただし、小影戯に使われる陝南皮影戯に似た風格の小型の影人を、筆者は何沢華氏の収蔵品から見いだすことができなかった。

一方、前述のように何沢華氏の収蔵品には武漢以西地域のものと同様の空臉の影人が数多く含まれる(左図参照)。また前稿で述べたように、武漢以西の仙桃・荊州・荊門などの地域では、清末から民国年間にかけて中皮影を用いる道情皮影戯が勃興し流行するが、それ以前には漢劇系の地方戯の声腔を用いる皮影戯が盛行していた。漢劇は皮黄系の劇種であるので、それらの皮影戯も皮黄腔を歌っていたことになる。

皖南皮影博物館の展示

以上を総合すれば、湖北の武漢以西の地域では旧時、漢劇系の声腔を歌う空臉の中皮影が流行しており、それが皖南地域に伝播していた蓋然性が高いと思われる。しかし、新編地方志の演劇関係の記事をそのまま信用するのはいささかためらわれ、また湖北皮影戯に関する先行研究も乏しいので、現時点では推測に留めておきたい。

いずれにせよ、太平天国後の移民の入植に伴い、宣州一帯には湖北各地から複数の皮影戯が流入したが、やがて二黄を歌うものが淘汰され、現在では雲夢一帯の西郷皮影戯に起源する皮影戯のみを残していることがわかる。

また以上から、新編地方志の記述、

歌われる曲調は、他の皮影戯と異なり、曲調は京劇・徽劇の劇団に起源するもので、節回しは高らかかつゆったりとして、常に京胡・京二胡・笛子・嗩吶と打楽器の伴奏が付く。聞いてみると、京劇のようだが京劇とは異なり、独自の味わいがある。*5《郎溪县志》p.799)

は、伴奏に打楽器のみを使う(後述)西郷皮影戯系ではなく、二黄を歌う皮影戯のことをいっていることがわかる。前に引いた『寧国県志』で大影が優勢であるとしているのと対照的であり、郎渓と宣州・寧国とで湖北移民の出身地構成が異なっており、それに伴い伝来・流行した皮影戯にも差異が生じたものと思われる。

一方、河南系の皮影戯は主に広徳県で行われている。前稿で楊躍庭1988に河南省信陽の羅山・光山両県から伝播したと見えることを紹介したが、広徳の皮影芸人・蔣道根氏へのインタビューにおいても同様の証言を得ている。

問:あなた方の皮影戯はどこから来たのか。
答:河南だ。我々の皮影戯は河南から天秤棒で担いできたものだ。
問:河南のどこか。
答:河南の羅山県だ。*6 (2012年8月8日午前、蔣道根)

蔣道根氏

これまで筆者は先行文献などに従い、宣城地区で行われる皮影戯を皖南皮影戯と呼んできたが、以上のように同地区では発祥地と風格の異なる皮影戯が併存しており、これを1つの名称でくくるのには無理がある。このため以後は、湖北雲夢の西郷皮影戯系の皮影戯を皖南大影、二黄を歌う皮影戯を皖南小影、広徳で行われる河南系の皮影戯を広徳皮影戯と、それぞれ区別して呼ぶことにする。

本稿ではそれらのうち、宣州・寧国・郎渓一帯で行われている皖南大影について、インタビューの結果を踏まえて詳細を明らかにしたい。

2. 皖南大影の劇団と上演

2.1. 劇団と劇団構成

皮影戯では、人形・道具を所有する「箱主」が即ち劇団長となるケースが多いが、現在、皖南大影の箱主は皖南皮影博物館の何沢華氏のみである。しかし、このような状況に至ったのはつい最近のことのようだ。

問:1971年に上演しはじめたとき劇団はあったのか。
答:あった。自分の劇団を持っていた。
問:どのようなメンバーがいたのか。
答:沈家英・陳美勝・鄒市貴だ。我々は4人だった。
問:道具は誰のものだったのか。
答:私のものだ。私が自分で作ったのだ。
問:今でもあるのか。
答:無い。売り払った。昨年でやめたので、売り払ったのだ。*7 (2011年8月9日午後、方宗唐)

2010年までは方宗唐氏も箱主であったことがわかる。芸人の高齢化につれて、皮影戯が衰えつつある状況がうかがえる。

前稿で皮影劇団の人数が4~5人であると述べたが、劇団の人数、および詳細な役割分担については先行文献に見えなかった。インタビューでは、以下のような証言を得た。

問:皮影戯はおよそ何人で上演するのか。
答:多くて5人、一般に4人だ。
問:これらの人員はどのように役割分担するのか。
答:3人が前で、2人が後ろだ。前の3人は2人が歌いながら演じ、1人が休憩する。後ろの2人は1人が打鑼、1人が打鼓だ。
問:前の2人に役割分担があるのか。例えば、どちらが男を歌い、どちらが女を歌うなど。
答:これは臨機応変にしており、決まってはいない。
問:皮影戯の中の人物は決まった人が歌うのか。誰でも歌ってよいのか。
答;決まりはない。誰が歌ってもよい。―中略―
問:男にはどのような役回りがあるのか。女にはどのような役回りがあるのか。
答:男には文官・武将・小丑・小生・老生がある。女には老旦と小花旦がある。*8 (2012年8月11日午前、方宗唐)

皖南大影の鑼鼓(2009年8月21日)

問:この(上演料の)金はどのように分けるのか。
答:4人だ。1つの組は4人で、まず5株に分ける。―中略―影幕・皮影・鑼鼓などの道具が半株、主唱が1株半、残りの3人が1人1株だ。道具の半株が、彼ら3人の中の1人だったら、その人は道具の半株と合わせて1株半もらえる。それからその中には副唱がいる。副唱は主唱の後ろで歌う手助けをする。もしも副唱の能力が比較的高くて、主唱と大差なかったら、副唱と主唱の取り分は改めて決めることになる。例えば、主唱が1.3株、副唱が1.2株のように。もしも道具が主唱であったら、道具の半株と合わせて、主唱が2株になる。
問:この方法は一貫して変わっていないのか。
答:変わっていない。現在までこうなっている。
問:皮影戯を演ずるとき、歌うのは最大2人なのか。
答:2人が歌う。前の主唱が1人で手が回らず、疲れたとき、主唱が茶を飲んだり煙草を吸っているときには1人の副唱が手伝い、一時交代する。特に立ち回りを演ずる時には、1人では手が足りないので、副唱の手助けが必要になる。残りの2人は、1人が打鑼、1人が打鼓だ。
問:京劇には生・旦・浄・丑があるが、皮影戯にもあるのか。
答:ある。皮影戯にもある。同じだ。
問:京劇では役回りごとに歌う人が分かれているが、皮影戯はどうか。
答:皮影戯の凄いのはそこだ。1人があらゆる役回りを歌う。
問:主唱・副唱は男女いずれでもよいのか。
答:90年代以降になって、稀に女性が歌うようになったが、以前はみな男が歌っていた。(2011年8月8日午前、陳景華)

*9

*10

問:あなた方は1回400元の上演料をどのように分けるのか。
答:我々の分け方は、箱子が10から20元、箱子の中は皮影戯の道具だ。我々は1劇団が一般に4人、ときに5人で、残りは山分けにする。
問:あなた方は主唱と副唱を分けないのか。
答:今は歌える人が多くない。我々が一緒に上演に行く4人は、歌も楽器もみなできるので、山分けにするのだ。
問:午前中、陳さんにインタビューしたところ、金を5株に分けるといっていたが、どうか。
答:それは昔のことで、今はない。改革開放の2年間のことだ。5株に分けるときは、前(の2人)が2株半、後(の2人)が道具と合わせて2株半だ。それは以前のことで、ここ4・5年はそんなことはない。
問:解放前も同様か。
答:そうだ。解放前は5株に分けた。陳さんの言うとおりだ。
問:京劇には生・旦・浄・丑があるが、皮影戯にもあるのか。
答:ない。我々はみな1人で歌う。我々は多種多様な調子を歌う。女も歌うし、男も歌う。みな1人で歌う。ただ節回しが違うだけだ。
問:通常は主唱が1人で歌うのか、それとも主唱と副唱がどちらも歌うのか。
答:前には主唱と副唱がいる。一般に主唱は弟子を1人連れており、以前は弟子が入門したてで歌えなければ、師匠が2株取り、弟子は半株をもらった。後に弟子が進歩したら、師匠が1株半、弟子が1株もらう。さらに後になって弟子も師匠と同じように歌えるようになったら、陳さんが言っているように改めて取り分を決める。以前は「江湖に老少なし、金儲けは腕次第」といったものだ。水準に達していれば、それにふさわしい金が得られる。実力で金を稼ぎ、実力で飯を食うのだ。(2011年8月8日午後、呉金陵)

*11

*12

以上を総合すれば、皖南大影の劇団は一般に4~5人で組織される。役割は、スクリーン寄りの前方が主唱・副唱、スクリーンから遠い後方が打鑼・打鼓となる。5人の場合は前方に1人追加される。原則としてあらゆる影人・役回りの操作と歌唱・セリフを主唱が1人で担当する。副唱は主唱の助手にあたり、大人数が登場する場面で主唱の手が足りないときなどに操作・歌唱・セリフを手助けする。主唱の弟子がつとめるケースが多い。現在、湖北の西郷皮影戯は2人だけで演じる方式に簡略化されているので、4~5人で上演する古来のスタイルはむしろ皖南大影に保存されていることになる。

上演料金の分配は、一般に以下の比率であった。

箱主:1割、主唱:3割、副唱・打鑼・打鼓:各2割

中国の伝統的皮影戯では、スクリーン裏で1~2人が人形を操作し後ろに楽団を配置するのが一般的で、人数の多寡は楽器の数に左右される。皖南大影では伴奏楽器が打楽器だけであることが多いので、関中皮影戯や冀東皮影戯に比べて少人数での上演が可能になっている。1人が全ての役回りを兼ねて歌唱する方式も、冀東系などを除く多くの皮影戯と共通している。

2.2. 上演価格と上演頻度

インタビューでは、皮影戯の上演価格についても質問した。

問:あなたが弟子入りしたばかりのころ、1回の上演は幾らだったか。
答:弟子入りした頃の上演料金は安かった。20元だ。1日20元。
問:あなたが弟子入りしたのは何年か。
答:1978年。―中略―
問:80年代になって、価格は変わったか。
答:変わった。80年代には40元に値上がりした。―中略―
問:90年代の価格はどうか。
答:また値上がりして、60元に値上がりした。1日1晩、午後から夜までだ。
問:その後はどうか。
答:その後また値上がりした。後に80元になり、今は100元だ。*13 (2011年8月8日午前、陳景華)

問:あなたが63年に皮影戯を学び始めたころ、1回の上演は幾らだったか。
答:あの頃は午後に1度2時間演じて、20元だった。あの頃の金は現在よりも価値があった。―中略―
問:改革開放後は1回の上演で幾らだったか。
答:やはり60元で3日だった。3日というのは3回だ。その後、徐々に高くなり、80元、100元、今では我々は1回の上演で400元、3回で1,200元になる。ここ3年のことだ。現在、大工は1日160元だが、我々はそれに及ばない。我々は5人で、時にはさらに人を増やすからだ。ただ、我々に上演を依頼するとき、我々の食事と宿泊は招聘した人持ちになるが。*14(2011年8月8日午後、呉金陵)

文革前、1回20元だったのが、改革開放後にはインフレの進行に伴って価格が上がっている。価格は、以前に調査した陝西各地の皮影戯とほぼ同額である。

上演頻度については、1960年代以降の状況について情報が得られた。

問:1962年から64年の2年間は上演に出る機会が多かったか。
答:1年12ヶ月で4ヶ月しか上演しなかった。
問:4ヶ月毎日上演したのか。
答:毎日上演した。百花斉放以後はいつも上演した。
問:上演時期は何月から何月か。
答:上半期は旧暦の正月。2月、下半期は11・12月だ。百花斉放後はちょうど反対に、1年のうち8ヶ月上演し4ヶ月休んだ。改革開放後だが、皮影戯について細かく紹介しよう。皮影戯は四季の上演に分かれ、四季戯という。旧暦の正月・2月を太平戯、5・6月を青苗戯、8・9月を穀麦戯、11・12月を接年戯と呼ぶ。1年にこの8ヶ月上演する。*15(2011年8月9日午後、方宗唐)

問:文革が終わったばかりの頃、毎年およそどのくらい上演したか。78・79年頃、1年にどのくらい上演したか。
答:正式上演が復活したばかりの頃、我々はとんでもない人気だった。しばしば複数の場所が奪い合い、あるところが箱子を奪っていき、あるところが鑼鼓箱を奪っていきといった具合に、大繁盛だった。当時、テレビが少なく、農村には年寄り世代が多かったので、これを見るのが好きだった。正月から初めて、田植えまで上演し続けた。田植えが終わったらまた上演に出かけ、稲穂が黄色くなるまで上演して稲刈りに戻った。米を収穫したら、冬物野菜を種まきして、また上演に出かけ、12月20日を過ぎまで上演してから家に帰って年越しした。*16 (2010年8月22日午後、陳景華)

問:ここ数年、毎年何回上演しているか。
答:一般的に1年に40回から50回くらいで、あまり多くない。現在、毎年減っている。*17(2010年8月22日午前、何沢華)

答:80年代以前には、1年で10ヶ月上演した。正月にも上演した。後に年寄り世代の人が多く世を去り、若者が後を継いだが、若者はテレビ・映画ばかり見て、皮影戯を見たがらない。現在、我々の県城では多くの商業施設や企業の開業時に我々を上演に招請する。今年は県城で2・3回上演し、県城の酒造工場で10日間上演した。*18 (2012年8月10日午後、呉金陵)

方宗唐氏のいう「百花斉放」とは、改革開放のことである。中華人民共和国成立後、1960年代にはやや下火となった皮影戯が、文革終了後、伝統文化復活の流れとともに一気に人気を博したことがわかる。また、全国各地の皮影戯・伝統芸能と同様、テレビなどの近代的娯楽の普及に伴い、近年、皮影戯の人気が落ち込んでいることもわかる。

なお、文革中にも一部地域では伝統的皮影戯が密かに演じられていたようだ。

問:あなたたちは文化大革命のときにも上演したか。
答:文化大革命のときにも上演したが、すべて密かに上演したものだ。国に知らせずに農村でこっそり上演した。あのころは(正式に)上演できなかった。
問:文革中、あなた方はどんな内容を演じたのか。
答:楊家将など、唐宋元明清の歴史が一般的だった。農村の庶民の求めるものを演じた。*19(2011年8月9日午前、徐永春)

徐永春氏の居住する寧国北部から宣州南部にかけての一帯は山地であり、山間部に農村が点在している。それぞれの農村が比較的隔絶された環境にあるので、秘密の上演もやりやすかったのであろう。

2.3. 太平戯

前稿でも述べたように、皖南大影は、農村で祈福・厄払いを目的に上演する「太平戯」を、上演文脈における特色とする。老芸人へのインタビューを通じて、太平戯の儀礼について、詳細が明らかになった。

問:太平戯を演ずるとき、初めに何をしなくてはならないのか。どのような手順なのか。
答:まず位牌を書いて台に置く。それから線香を焚き蠟燭をともし、爆竹を鳴らす。それから神戯を演ずる。
問:神戯では具体的にどういった神を演ずるのか。
答:天官・三仙(福仙・禄仙・寿仙)・鍾馗(馗星)・童子・五路財神だ。その他はみな位牌に書く。
問:位牌にはどういった神を書くのか。
答:玉皇大帝・観音大士・当地土地・八紮大王・北極仙翁・仙姑老太・四海竜王だ。
問:神戯を演ずるとき、神は位牌の上にいるのか。
答:いない。かれらは位牌の上にはいない。神戯を演ずる時には彼らの人形を取り出して演ずる。1人の神につき2枚の表と1本の線香を焚く。
問:神戯の中の5人の神仙は、神仙ごとにそれぞれ1つの劇があるのか、それとも1つの劇にこれら5人の神仙が出てくるのか。
答:この5人の神仙(の影人)を全て取り出さなくてはならず、歌っては次のものに取り替える。天官が退場しない場合、その他の神(の影人)は天官の前で一節歌わなくてはならない。彼らは天官に拝謁しようとするからだ。天官には香机があり、天官はあらゆる神戯を歌い終わった後、最後に歌わなくてはならない。
問:位牌を書いて神戯を演ずる、この過程にどのくらいの時間がかかるのか。
答:1時間半から2時間で、一般に2時間前後だ。我々が普段上演するときには、一般に午後いっぱいで神戯を演じ終え、夜は別のものを演ずる。夜は大本を演ずるのだ。上演場所にかかわらず、初めに神戯を歌わなくてはならない。
問:位牌を書いて線香を焚くのは、あなたたちが行うのか、それとも現地の村人が行うのか。
答:位牌は我々が書き、線香は村人が焚く。
問:これらが終わったら、大本を演じ始めるのか。
答:そうだ。大本を演じ始める。―中略―
問:全ての劇を演じ終えた終わりのときにも儀式があるのか。
答:儀式がある。
問:その儀式は何というのか。
答:送神という。
問:送神ではどのように見送るのか。
答:具体的な操作は、一番最後に我々がいくつかの影人を取り出して上演する、同時に村の人が余った表・香・爆竹および位牌を十字路に持って行って焼くと、終わりになる。
問:この過程におよそどのくらいの時間がかかるのか。
答:これは最後の夜のことで、我々がその村での上演を終えた最後に締めくくるときで、およそ十数分だ。
問:なぜ十字路に持って行って焼くのか。
答:位牌の上の神は異なる方位に住んでいるので、十字路で焼くのだ。
問:もしも村に十字路がなかったらどうするのか。
答:十字路がなかったら村の外の広い道に持って行って焼く。送神のときには1人の芸人が村人とともに行かなくてはならない。我々のこの劇は、別の場所に演じに行った場合、現地に廟があり中に神像があったら、現地の神も一緒に位牌に書かなくてはならない。
問:位牌に書くだけなのか。現地の廟に行って神像を招かなくてよいのか。
答:持ってこない。名前を位牌に書くだけだ。
問:位牌の置き方にはどんな順序があるのか。
答:順序がある。1人目は玉皇大帝、その次が観音大士・四海竜王・当方土地・八紮大王・北極仙翁・仙姑老太だ。もしも現地に廟があったら最後に当地の菩薩を付け加える。
問:位牌を並べるときに、位牌の向きにはどのような決まりがあるのか。
答:我々の地方では位牌を戯台に向けて置く。戯台の向かい側に置く。(2012年8月10日午後、呉金陵)

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問:太平戯を演ずる前の接神では、どういった神を迎えるのか。
答:玉皇大帝・当方土地・観音大士・四海竜王・火官大帝・牛馬二王だ。
問:これらの神仙は位牌に書いてあるのか。
答;そうだ。位牌に書いておく。
問:神戯を演ずるときにはどの神を演ずるのか。
答:天官・福仙・寿仙・禄仙だ。
問:五路財神のような神仙は演じないのか。
答:演じる。しかし重要なのはこの4人でその他の神は演ずる時に持ってくることもある。縁起の良い話をする。例えば五路財神を演ずるときには、招財進宝を歌うという具合だ。―中略―
問:昨日呉さんにインタビューしたとき、神戯を演ずる時には3枚の表を焼き1本の線香を焚くと聞いたが、こちらでも同じなのか。
答:それは『封神榜』を演ずるときだ。『封神榜』は現在のテレビドラマのようなもので、演じるのに48日必要で、一般の農村では資金が足りない。―中略―
問:なぜ『封神榜』を演ずるときには神ごとに3枚の表を焼き1本の線香を焚くのか。
答:神が封じられ位に帰するからだ。『封神榜』では将軍を斬って神に封ずるので、斬られた人は神に封じられる。だから表を焼き線香を焚くのだ。3枚の表でその人物が位に帰するのを見送る。もしも表が無ければ位に帰することができない。バスに乗るときに切符がないと乗れないのと同じだ。―中略―
問:青苗戯・求雨戯も太平戯に属するのか。
答:太平戯だ。太平戯は総称であって、中は青苗戯・求雨戯などに別れる。
問:穀麦戯・接年戯なども太平戯に属するのか。
答:そうだ。みな太平戯に属する。
問:送神のときには何か儀式があるのか。
答:位牌と焼き終わっていない表と線香を全て村境の外に持って行って焼く。―中略―
問:それらを十字路に持って行って焼く、という説はないのか。
答:あるが、少ない。それは許願戯で太平戯に属し、平安を求めるが、神は四方八方からやって来ているからだ。十字路で焼くのは、良くないものを送り出すからだ。
問:送神のときには芸人が行くのか、それとも村民が送りに行くのか。
答:村の中の班長が送神しに行く。芸人は行かない。(2012年8月11日午前、方宗唐)

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前稿でも触れたように、現地調査では初めの接神の儀式のみを見学し得たが、まさしく呉氏のいう手順どおりに行われていた。紙の位牌に書かれる神の名称については、両氏の話が食い違っている。現地調査で見学した2度の太平戯の写真を参照するに、2009年は、

玉皇大帝・観音・火官大帝・四海竜王・当方土地

太平戯接神儀礼の位牌(2009年8月21日)

2011年は、

観音・火官大帝・五路財神・四海竜王・当方土地

太平戯接神儀礼の位牌(2011年8月8日)

となっているので、完全に固定されたものではなく、上演の文脈や芸人によって出入りがあるようだ。送神の儀礼についても、両氏の理解はほぼ一致するものの、細部が若干異なっている。

また太平戯は必ずしも厄払い的文脈に限定されるものではなく、青苗戯・求雨戯・穀麦戯・接年戯・許願戯など、何かを神に祈る文脈で行われる上演の総称であることがわかる。

なお、2009年に太平戯上演を見学したとき、接神の際にスクリーンの後ろに米を盛った茶碗を置き、上に卵を載せていた。その意味について方氏に質問した。

問:この舞台裏の米と卵は何をしているのか。
答:これは一品当朝という。我々の老師匠の位牌が、卵の茶碗に挿してある。
問:その老師匠は誰を指すのか。
答:杭州鉄板橋鼓板仙師だ。
問:それはあなた方の祖師爺か。
答:そうだ、祖師爺だ。
問:茶碗の中の米と卵はどういう意味か。
答:米は食料で、五穀豊穣を象徴する。卵は元宝で、招財進宝を象徴する。
問:鼓板仙師に関する伝説や記録はないのか。
答:ある。私の師匠が持っていたが、今はない。なくしてしまった。だから私は知らない。*27(2012年8月11日午前、方宗唐)

一品当朝

杭州鉄板橋の鼓板仙師なる祖師爺を祀るものであった。鼓板仙師は他の皮影戯などには見あたらず、いかなる神仙であるのかわからない。解明は今後の調査に期したい。

3. 皖南大影の演目

3.1. 演目と台本

皖南大影のレパートリーは、何沢華2010によると以下の通りである。

封神榜・水滸・西游記・隋唐・楊家将・岳飛伝・天地宝図・月唐・李自成・七俠五義・義気図・公案・包公大審・鍘皇親・響金鐘・十把穿金扇・金鐲玉環記・西廂記・珍珠塔・双失婚・三巧配・天仙配・夫妻観灯・女駙馬・五女拝寿・白蛇伝・盗紅令・十勧世人・禁賭・銀合太子走国・兵吞六国・緑牡丹

他地域の皮影戯と同様、講史ものが多いが、俠義公案ものも目立つ。また、『天仙配』・『夫妻観灯』・『女駙馬』は黄梅戯、『五女拝寿』は越劇のレパートリーとして知られるものである。

また、以下のような現代劇があるとする。

東郭先生和狼・半夜鶏叫・小芳招親・採蘑菇・老鼠嫁女・二小放牛郎・学雷鋒・頼寧之歌

革命現代劇のほか、『東郭先生和狼』・『採蘑菇』・『老鼠嫁女』といった60年代以降に編まれた児童劇も含まれている。

台本資料は何沢華氏が多数収集しているが、整理・公開されていない。また、台本を個人で保有している老芸人もいる。全体に資料へのアクセシビリティは悪い。

3.2. 「紀字頭」

皖南大影の台本については、インタビューで以下のような証言を得ている。

問:あなた方は演ずる時、台本を見ながら歌うのか、それとも何も見ずに暗記して歌うのか。
答:大人物や正義の人物、例えば都の朝廷の大官や皇帝・大臣・大将の歌詞はみな決まりがあり、固定の歌詞で、いずれも師匠から教わったものだ。小人物・兵士・道化などはその場で表現する。
問:何氏は多くの台本を持っているが、ああいった台本はいつ見るのか。リハーサルの時に見るのか、それとも上演の前に見るのか。
答:台本は小説から書き写したもので、小説は字が小さすぎるので、例えば『三国』であれば、『三国』のもとの小説を持ってきて、毛筆で大きな字で写して机の上に置いて読みやすくする。しかし、一字一字をもれなく写すのではなく、簡単に、ただあらすじだけを抜き書きする。
問:この台本、あるいは台本の歌詞は、弟子入りして皮影戯を習うときに暗記するのか。
答:皇帝・大臣といった大人物にはみな固定の歌詞があり、師匠から固定のパターンを学ぶ。これを「紀字頭」という。大人物ごとに固定の紀字頭がある。
問:あなた方は台本の内容を暗記するのか。
答:そうだ。紀字頭を暗記するのだ。*28(2011年8月8日午前、陳景華)

問:あなたが皮影戯を学び始めたとき、師匠から台本を口伝されたか。
答:された。師匠は台本のここでは何調を歌い、あそこでは何調を歌うかを教えるだろうが、同時に自らの水準に拠らねばならない。
問:あなたの師匠の当時の台本は?
答:私の師匠は当時、台本を持っていなかった。私の師匠の弟弟子は将軍を歌っていたが、私の師匠は後台で、彼は字をあまり読めなかったので、小本しか歌えず、全て暗記していた。師匠の弟弟子は私の師匠の異父兄弟で、彼ら2人は一緒に皮影戯を学んだ。師匠の弟弟子は字が読めたので、箱主にもなった。彼の台本はその師匠から徐々に伝わったものだ。私の台本は、一部は小説から書き写したもので、一部は師匠の弟弟子が集めたものだ。*29 (2012年8月10日午後、呉金陵)

皖南大影の台本は、物語の梗概の手控えに過ぎず、人物ごとの歌詞や台詞が全て記された一般的な台本とは異なるという。上演に際して芸人は、暗記している一定の歌詞「紀字頭」から、物語の登場人物やシチュエーションにふさわしいものを選んで歌うのである。

例として、何沢華氏所蔵の『三国』台本の1頁を以下に引く。筆者が句読点を施すとともに、明らかな誤りを正した。

IMG_0320.jpg

21官度之戰

上玄德,在汝南自歎。(下)。袁紹與謀士沮授、逢紀、審配商議起兵攻許昌。(謀士)田豐在獄中上書諫阻,妄興大兵恐有不測。袁紹怒要斬,眾官告免。親統大軍七十萬,帶(謀士)許攸(字)子達、沮授、逢紀、審配,(將)張郃、高覽、韓猛押糧,淳于瓊、眭元進、韓莒子、呂威璜、趙睿武陽扎雲。(沮授)要堅守,(紹)大怒(說)與田豐一黨。令鎖禁軍中,破曹後與田豐一同治罪。(小報)夏侯惇大驚,修書告…

登場人物名および物語の展開がわかる程度に簡略化されており、歌詞は一切書かれていないし、セリフやト書きもごく一部に留まっており、台本と呼ぶのがためらわれる、まさしく手控えと呼ぶべきものである。

こうした台本のあり方も、起源は湖北に求められる。

伝統雲夢影戯には完全な台本はなく、あるのは各演目の梗概を書いたもので、芸人たちはこの種の台本を「水路子」と呼んでいる。これと対応する「肉本子」は各種歴史演義小説のことで、芸人がこの種の小説を読む目的は、読んだ後にその中の人物の物語や筋立てを皮影戯台本に改変することにある。*30 (李恵2011、p.217)

皖南大影の特色が西郷皮影戯を受け継いでいることがわかる。

こうした方式には、芸人が小説を読んで梗概と人物・シチュエーションを把握し手控えを作れば、比較的簡単に皮影戯で上演することができる、すなわちレパートリーを増やすのが容易であるというメリットがある。これは後述のように皖南大影の伴奏が打楽器のみであり、管・弦楽器とメロディーを事前に合わせる必要がないからこそ可能になっている。

一般に伝統劇は都市化し洗練が進むにつれ、即興性が薄れて歌詞が固定化され、細やかな芸に興味が移っていく。京劇にしても、かつては興が乗った俳優が歌詞を延々と引き延ばして一時間も歌い続けた例が知られているが、隆盛に従って歌詞が固定化され流派が生まれ、俳優による歌唱の微妙な差異が鑑賞されるようになる。一方、演目により歌詞が固定されない皖南大影のような劇種では、観客による芸人の歌唱技術や上演技術の比較に一定の限界があり、ある程度以上繊細に芸を磨き上げるニーズは発生し得ない。

その意味で皖南大影は雅文化を指向する京劇を初めとする都市の伝統劇とまさしく対極にあり、むしろだからこそ旧時、小説・演劇・芸能が物語をいかに媒介したか、また伝統劇台本がいかに制作されたかを考える上で、大きな示唆を与えているといえよう。

4. 皖南大影の声腔

4.1. 声腔と板式

皖南大影の声腔については、先行文献に具体的記述が見えない。

答:これは皮影戯と呼ばれるが、しかしさまざまな腔調を歌う。九腔十八調がある。
問:曲牌は多いのか。
答:ある。他に多くの小曲があり、多種多様な調性がある。
問:皮影戯の九腔十八調にはどのような板があるか。
答:揺板・倒板が最も多い。原板はめったに歌わない。ほかに二晃板も歌う。
問:それならば快板のようなものはあるか。
答:ある。皮影戯では快揺という。*31(2011年8月8日午後、呉金陵)

九腔十八調とは、腔調や曲牌・小曲の数を具体的に表したものではなく、概数であろう。

答:我々の皮影戯は皮影調で、一般に銅鑼・太鼓の伴奏のみで、結婚や大学合格などの慶事の際には嗩吶も用いる。―中略―
問:二黄と皮影調の他に何があるか。
答:時には民間小調も使う。やはり銅鑼・太鼓の伴奏だ。
問:民間小調の伴奏は銅鑼・太鼓しか使わないのか。
答:使うことは使うが、民間小調はほとんど歌わない。みな皮影戯の中に差しはさんで歌うので、その他の楽器はなく、一般に銅鑼・太鼓だけを使う。*32(2012年8月10日午後、呉金陵)

問:実臉の皮影戯の腔調は何か。
答:湖北腔だ。略称は打腔だ。―中略―
問:湖北腔にはどんな板式があるのか。
答:―中略―揺板・導板、他に陶腔・悲腔がある。悲腔が皮影戯で最も重要なものだ。
問:この4つの板式にはどんな違いがあるのか。
答:揺板は比較的速く、主に武戯に用いられる。導板はといえば、戦争中に大将が敗れて元帥が急行してきたとき、高腔高調で歌って彼を呼ぶ。この種の腔調を「老撥子」という。導板はあまり使われない。速度はとてもゆっくりだ。陶腔が主要な曲調になる。当地では普遍的な節回しで、喜ばしくも悲しくもない比較的平坦な節回しで、速度も普通だ。悲腔は戦いに敗れたとき、あるいは心を痛めることがあったときに歌われる。速度は遅く、上演時には慢板と呼ぶ。
問:歌詞はどうなっているのか。
答:歌詞は、一句七字だ。この七字を均等に並べなくてはならない。
問:曲牌はあるのか。
答:曲牌はない。
問:湖北腔以外の腔調もあるか。
答:皮影戯には湖北腔以外はない。
問:皮影戯ではどんな楽器を使うのか。
答:鑼(大鑼・小鑼)・小・鼓(皮鼓・板鼓(京劇と同じ))・雲揚板(京劇と同じ)だ。(2012年8月11日午前、方宗唐)

*33

*34

両氏の説明には食い違いが見られ、受け答えからして声腔・腔調・曲牌・板式などの概念が理解されていない可能性も高いので、慎重に検討する必要がある。

皖南大影の声腔の名称については、呉金陵氏が皮影調、方宗唐氏が湖北調、略称打腔とする。また、板式が存在することから、声腔は板腔体に属することがわかる。主要な板式は、呉氏が倒板、方氏が陶腔・悲腔であるとするが、あるいは同じものを指すのかも知れない。漢字を確認しながらインタビューしたのであるが、彼ら芸人の間でも漢字表記が共有されていないものと思われる。インタビューで挙がった板式の名称は以下の通りである。

導板・倒板・陶腔・原板・二晃・快揺・揺板・悲腔

ところで、皖南花鼓戯の主腔は淘腔・北扭子・四平・悲腔の4種からなるが*35、淘腔と悲腔の名称が皖南大影と重なっている。しかし皖南大影と皖南花鼓戯の声腔が異なることは、複数のインフォーマントが指摘している。この問題の考察にあたっては、まず皖南大影・皖南花鼓戯の故地である湖北の皮影戯・地方劇について検討する必要があろう。

4.2. 打鑼腔

前述のように皖南大影は、湖北の雲夢を中心とする地域で行われる西郷皮影戯に起源するが、西郷皮影戯に関する先行文献は多いとはいえず、なおかつ音楽に言及するものは極めて限られる。欧陽秀美2005では、旧時の西郷皮影戯は民間小調の打麦号を主とし後に楚劇・漢劇の影響を受けたとする*36。一方、李恵2011は、西郷皮影戯の音楽を芸人が皮影腔と呼んでいること、現在、各茶館で演じられる皮影戯の音楽は改革を経て楚劇・漢調・花鼓などを融合した曲調になっているとするが*37、声腔や板式の詳細には言及しない。

筆者が何沢華氏より入手した湖北雲夢皮影戯の無形文化遺産申請資料には以下のように見える。

皮影の唱腔。雲夢皮影は西郷高腔に属し、音調は高らかで、音を伸ばすところでは多く裏声に繋げる。清代中葉に江西移民がもたらした戈陽腔の影響により成立した。高腔は1人が歌って一同が和するもので、管弦を用いず、銅鑼・太鼓などの打楽器の伴奏だけを使うので“打鑼腔”とも称する。初期の雲夢皮影戯は4~5人の劇団で、スクリーンよりで歌い人形操作をするのは1人だけで、奥では鑼・鼓・梆を3~4人が叩く。*38

西郷皮影戯の声腔は弋陽腔に起源する高腔で、別名が打鑼腔であるという。

湖北地図(捜狗Mapより)

ここに言及される打鑼腔は、伝統劇の声腔の1つで板腔体に属し、湖北各地の花鼓戯や採茶戯で用いられている。鄂東の労働歌や民間歌曲が、高腔の流れを汲む清戯や漢調などの影響を受けて形成された。鑼鼓の伴奏のみで管弦を用いないことから打鑼腔と称される*39

劇種主要唱腔
楚劇迓腔・仙腔・悲腔・四平・応山腔・十枝梅
荊州花鼓戯高腔・悲腔・圻水・圻水敗韻・四平・打鑼腔・還魂腔
東路花鼓戯東腔・対腔・二行・火攻・嘆腔・四平・二高腔
黄梅採茶戯七板・二行・火攻・花腔・高腔・還魂腔
陽新採茶戯北腔・漢腔・嘆腔・四平
襄陽花鼓戯桃腔・漢腔・四平
遠安花鼓戯桃腔・漢腔・南腔・四平
随県花鼓戯蛮調雅腔・四平・大悲・牌子腔
鄖陽花鼓戯八岔
打鑼腔系劇種主要唱腔表(『中国戯曲志』湖北巻p.207より)

雲夢県が属する孝感地区・黄陂地区一帯で行われている楚劇も花鼓戯の一種で打鑼腔を歌う。清末民初には哦呵腔・黄感花鼓などと称されていたが、1926年に楚劇と改称されたものである。道光年間の『漢口竹枝詞』に記載が見えることから、形成時期は19世紀半ば以前にさかのぼる*40

一方、同地域には高腔に属する清戯も行われていた。清戯は打楽器の伴奏のみで幇唱を用いるが、長短句の聯曲体でレパートリーも南戯の伝奇である*41。西郷皮影戯にせよ皖南大影にせよ、斉言句の歌詞の板腔体であるから、その声腔が高腔系の清戯よりもむしろ板腔体の黄孝花鼓と近縁であることは自明である。

事実、打鑼腔が含む複数の腔調には、皖南大影との共通が見いだせる*42。悲腔は、嘆腔・嘆調・大悲・漢腔・打鑼腔などとも称され、楚劇・荊州花鼓戯・東路花鼓戯・陽新採茶戯・襄陽花鼓戯・遠安花鼓戯などで用いられる。二晃は、東路花鼓戯・黄梅採茶戯で用いられる二行が訛ったものではなかろうか。陶腔は、襄陽花鼓戯・遠安花鼓戯などに見られる桃腔であろう。

以上から、皖南大影の声腔である湖北調は即ち打鑼腔であり、方氏がいう略称の打腔は、それが縮まったものであることがわかる。また、前掲申請資料で打鑼腔を高腔の別称であるとしているのはいささか正確性に欠け、西郷皮影戯・皖南大影の打鑼腔は黄孝花鼓戯などからもたらされたものであると考えられる。

ところで、襄陽花鼓戯の桃腔について、以下のような記述も見られる。

太平天国の失敗後、襄陽花鼓戯の桃腔・四平は鄂北の随州・応山などの地の移民とともに皖南に伝わり、変化して皖南花鼓の淘腔、北扭子が成立した。*43(『中国戯曲志』湖北巻p.94)

随州・応山は西郷皮影戯の行われる孝感市と境を接しているが、襄陽花鼓戯は鄂東から伝播したものとされるので、孝感を経由してもたらされたことになる。現在、楚劇で桃腔は用いられないが、おそらく清末、黄孝花鼓の段階では存在しており、旧時の西郷皮影戯の音楽はその影響を受けていたのであろう。以上から、皖南大影と皖南花鼓戯はいずれも打鑼腔を用いているが、両者の音楽的差異は、湖北の異なる地域から伝播したこと、および皖南地域でそれぞれが独自に発展した結果として生じたものと推測される。

翻って皖南大影の音楽に関するインタビュー結果について考えるに、呉氏・方氏の証言には、腔調と板式の名称が混在しているものと思われる。おそらく、

  • 腔調:陶腔・悲腔・二晃
  • 板式:導板・倒板・原板・揺板・快揺

ということになろう。

ところで花鼓戯の上演人数については、「七慌八慢九停当」(荊州花鼓戯)、「七緊八慢九稍停」(皖南花鼓戯)の説があるというが*44、同様の説は北京・山西・陝西など各地の皮影戯にも見られる。これはおそらく、旧時七~八人の人数で演じられていた武漢以西地域の皮影戯から花鼓戯が取り込んだものであろう。これも清末の湖北において、皮影戯と花鼓戯が密接な関係にあったことを示している。

4.3. 皖南大影への花鼓戯の導入

前稿でも触れたように、皖南大影は湖北から安徽に伝来した後、花鼓戯を取り込んでおり、それが湖北西郷皮影戯との大きな差異であると考えられる。

問:あなたたちは現在、花鼓戯を演ずるのか。
答:花鼓戯は民間小調だ。我々皮影戯の中に持ってくると、「加演」と呼ばれる。
問:なぜ加演というのか。
答:我々の上演が終わった後、観衆が帰ろうとせず、もっと見たがったら、花鼓戯を追加するのだ。
問:加演はみな花鼓戯なのか。
答:みな花鼓戯を歌う。その他の芝居の一段だ。
問:加演で花鼓戯を歌う形式は、いつ頃始まったのか。
答:これは今では既に改良されていて、以前は我々が芝居を演じ終えて、観客が帰らない場合に、我々は花鼓戯を追加上演していた。今は改良されて、初めから加演を歌い、民間小調を歌うが、農村の農家の女性に配慮するためだ。彼女たちは歴史劇がわからず、花鼓戯を好む。
問:何年から花鼓戯が皮影戯の上演に付け加えられたのか。
答:1962年頃に始まった。
問:62年にどの劇団が花鼓戯の加演を始めたのか。
答:わからない。
問:いつから花鼓戯が初めに歌われるようになったのか。
答:最近、2008年だ。以前は最後に歌われていたが、皮影戯は大戯であり神戯であり太平戯であって、花鼓戯は以前は風流戯であったから、初めに歌うことを許されなかったのだ。
問:今に至るまで、皮影戯で花鼓戯を歌うのは、全て加演だけなのか。
答:全て加演だ。皮影戯は一種の伝統戯で、演ずるのは王朝の歴史だ。花鼓戯は臨時のものだ。*45(2012年8月11日、方宗唐)

花鼓戯の導入は中華人民共和国成立後の1962年のことであるようだ。皖南大影への花鼓戯導入は、従来の声腔に花鼓戯が導入され混じり合ったわけではなく、従来の声腔とは別に花鼓戯の皮影戯版が作られ、付け加えられる形で導入されたことがわかる。また、花鼓戯はあくまでも添え物として扱われており、皮影芸人は一段低い存在であると認識していることがうかがえる。

問:以前、皮影戯では皮影戯だけを演じ、花鼓戯や黄梅戯は演じなかったのか。
答:そうだ。演じなかった。―中略―
問:農民たちはどのようなときに皮影戯の上演を求め、どのようなときに花鼓戯の上演を求めるのか。
答:皮影戯は一般に40歳以上の男や老人が好む。歴史物語で、歴史書のように徹底的に追究するからだ。若い女性や娘さんたちはわからないので、花鼓戯を好む。花鼓戯は喜劇性を帯びていて、おもしろいので、彼女たちは好むのだ。*46 (2011年8月8日午前、陳景華)

花鼓戯が女性客を意識して導入されたことがわかる。また、花鼓戯のほか黄梅戯も導入されているとする。

皖南花鼓戯は太平天国後の移民が湖北から持ち込んだ花鼓戯や、河南羅山県・光山県から持ち込んだ灯曲などを元に形成された小戯である*47。草台班が中心で多くは農村で行われていたが、光緒21(1895)年頃にはプロ劇団も成立している。中華人民共和国成立後、1950年代には郎渓を皮切りに広徳・寧国・宣城などにも県劇団が成立し、都市部でも上演されるようになった。

旧時、花鼓戯の芸人は「二蓬子」と称される京徽班(京劇劇団)との合同公演を行っていた。そこではまず京戯(南派京劇)が演じられた後に花鼓戯が演じられており、初めの京戯上演を「送先生」と称していた。送先生とは、男性を送り出す、という意味であると思われ、上演の眼目である京戯の終了後に女性たちが花鼓戯を楽しんでいたことを物語る。この京戯と花鼓戯との関係は、皮影戯と花鼓戯との関係とまさしく合致するものであり、皮影戯への花鼓戯の導入がこうした人戯の上演のあり方に影響を受けた可能性を示唆している。

5. おわりに

以上、これまでの現地調査インタビューおよび関連文献資料への検討を通じて、皖南大影の特色を明らかにしてきた。改めてまとめておこう。

劇団:1劇団4~5人で組織され、伴奏は銅鑼・太鼓各1名のみで管・弦楽器を持たない。
上演文脈:太平戯と呼ばれる、厄払いや祈願の文脈での上演が大半を占める。
台本:物語のあらすじの覚え書きに過ぎず、役回り・シチュエーションごとの決まり文句の歌詞を覚えておき、それを場面に合わせて選択して歌う、「紀字頭」と呼ばれる上演方式を持つ。
声腔:打鑼腔で、板腔体に属し、湖北の花鼓戯・採茶戯などと同系のものである。

これらのうち特に注目されるのは「紀字頭」であろう。この種の即興的な演劇の構成方法の存在は、従来、注目されてこなかった。しかし、例えば京劇の歌詞には、叙事的に物語を進める非定型のものがある一方、叙情的に歌い上げる場面では、同じ比喩的表現が多くの劇の歌詞に使われている。聯曲体の戯曲についても、文人による伝奇では独自の表現が重視されるが、一方で弋陽腔系伝奇などの通俗的作品など類型的表現が多用されるものもある。民間の下層知識人や芸人の手になる戯曲では、むしろ表現は類型的になるのであり、劇作は我々が想像するほど難しいものではなかったと思われる。そして、即興性が高いことから一見後進的に見える「紀字頭」は、かかる類型的表現をシステム化しているという点において、むしろ通俗芸能のあり方として一種高度に発展したものであると評価することも可能である。

ところで中国の伝統劇は、例えば関中地方に起源する梆子が山西に伝播して晋劇などに、河南に伝播して豫劇に、河北に伝播して河北梆子にそれぞれ変化したように、ある地域に発祥したものが別の地域に伝播し、言語・音楽などが現地化した結果、新たな劇種として自立することにより発展・多様化してきた歴史を持つ。一方、皮影戯に関しては中国の先行研究を見る限り、劇種概念の定義が今ひとつ厳密ではない。このため、ある地域で行われている皮影戯が「地域名+皮影」で呼称されるとき、それが独立した皮影戯の劇種であるのか、あるいは隣接地域の皮影戯劇種がその地域で行われているに過ぎないのか、判然としないことも多い。この点は、研究を厳密化する上でもう少し注意が払われるべきであろう。

翻って皖南大影を考えるに、それは本来、湖北の西郷皮影戯が太平天国移民とともに伝播したものであった。皮影戯としての特色の多くを引き継いでいるが、一方で1960年以降、皖南花鼓戯や黄梅戯の加演が始まるなど、独自の発展も見せている。一方、本家の西郷皮影戯の音楽は、楚劇・漢劇などの影響を受けて一新されており、本来の打鑼腔は皖南大影にしか残っていない。上演文脈についても、皖南大影は太平戯を特徴とするが、西郷皮影戯は茶館での上演を主体とするようになっており、大きく食い違う。相互の交流がなされないままにかかる大きな差異が生まれているのであるから、皖南大影は一個の独立した皮影劇種であると認められよう。

また、皖南および湖北における皮影戯と花鼓戯との関係、皖南大影における祖師爺など、多くのあらたな問題点も浮上している。広徳皮影戯に関する現地調査の成果も、本稿では紙幅の関係上割愛せざるを得なかった。これらについては、今後の課題としたい。

なお、皖南における現地インタビューの全貌については、2013年度に口述記録集を刊行予定であるので、ご参照いただきたい。

参考文献一覧

論著
  • 江玉祥 1999 《中國影戲與民俗》,淑馨出版社
  • 欧陽秀美 2005 〈云梦皮影 乐声灯影里的落寞〉,《文明》2005年第3期,pp.96-111
  • 何沢華 2010 《第三批省级非物质文化遗产项目代表性传承人推荐表》
  • 李恵 2011 〈湖北云梦茶馆影戏研究〉,《中国皮影戏的渊源与地域文化研究》,大象出版社
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  • 《中国戏曲志》湖北卷 中国戏曲志编辑委员会,文化艺术出版社,1993
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新編地方志
  • 《郎溪县志》 郎溪县志地方志编纂委员会,方志出版社,1998
  • 《宁国县志》 宁国县地方志编纂委员会,三联书店,1997
  • 《广德县志》 广德县地方志编纂委员会编,方志出版社,1996

* 本稿は日本学術振興会科学研究費補助金「近現代中国における伝統芸能の変容と地域社会(平成22~24年度、基盤研究(B)、課題番号:22320070、研究代表者:氷上正)による成果の一部である。


*1 江玉祥1999所引、楊泰山〈江汉平原皮影的造形特色及其它〉による。
*2 在皖南流行的有大小两种,小影唱京徽调,大影唱民间小调或花鼓戏,边演边唱,时有帮腔。在宁国县流行的皮影戏多属大影。
*3 答:专门唱二黄的都是镂空的。我们安徽广德县以前有这种剧种,也是皮影戏,他们专门唱二黄,他们的皮影都是镂空的,比我们的皮影小一些,这种镂空的叫“小影子”,我们的叫“大影子”。/问:这样说的话,镂空的影人属于外来的吗?/答:也是湖北带过来的,只不过镂空的是专门唱二黄的,我们皮影戏的腔调要复杂些。―中略―/问:二黄和皮影调哪一个年代比较久一点?/答:都差不多。二黄现在没有了,我们不唱二黄,开始学戏就没学过二黄。/问:你师父的时候有没有唱二黄?/答:我师父他也没唱过,我师父就在这一片的,也没有唱过。/问:二黄是什么时候开始皮影戏艺人都不唱了?/答:五几年以后就很少了,就没有了,因为唱二黄的老艺人去世以后没有接班的。
*4 前稿では小影戯が河南系のものであると推測したが、訂正する。
*5 其演唱曲调与其他影子戏不同,曲调来源于京徽剧团,行腔高亢悠扬,常以京胡、京二胡、笛子、唢呐和打击乐伴奏。听起来似京非京,别具韵味。
*6 问:你们的皮影是从那来的?/答:河南,我们的皮影就是从河南用担子挑过来的。/问:河南什么地方?/答:河南罗山县。
*7 问:1971年又开始唱的时候有班子吗?/答:有。我有自己的班子。/问:有哪些成员?/答:沈家英、陈美胜、邹市贵,我们四个人。/问:道具是谁的?/答:我的。我自己做的。/问:现在还有吗?/答:没有,卖掉了。去年开始不干了,就卖掉了。
*8 问:皮影戏一场大概有多少人演出?/答:最多五个,一般有四个人。/问:这些人员是怎么分工的?/答:三个在前面,两个在后面。前面三个人,有两个人边唱边演,一个人休息,后面两个人,一个人打锣一个人打鼓。/问:两个人在前面有分工吗?比如说谁唱男的谁唱女的?/答:这是机动灵活的,没有规定性。/问:皮影戏里的人物是由规定的人来唱吗?还是都可以唱?/答:没有规定,都可以唱。作为皮影戏的艺人,跟花鼓戏不一样,花鼓戏唱的时候“目中无人”,我们皮影戏唱的时候要“目中有人”,就是艺人要表现出影人的特色和戏的情意,花鼓戏没有。我们的腔调相当多,有九腔十八调。―中略―/问:男的有哪些角色?女的有哪些角色呢?/答:男的有文官、武将、小丑、小生、老生。女的有老旦和小花旦。
*9 问:这个钱怎么分呢?/答:四个人。一个小组是四个人,五股帐(钱分成五股份)―中略―荧幕、皮影、锣鼓这些道具算半股帐,主唱是算一股半,还剩下三个人,每个人一股。这些道具的半股肯定是他们三个人当中的一个,那这个人加上道具的半股就一个半股了。然后这其中有个副唱,副唱就是在主唱后面帮他唱的,如果副唱的能力比较强,跟主唱差不多的话,副唱和主唱的股份就要重新分股,比如主唱拿1.3那他就要拿1.2。如果工具算主唱的话,再加上工具的半股,主唱就是两股。/问:这个方法一直都没有变化吗?/答:没有变。一直到现在还是这样。
*10 问:演皮影戏的时候唱的人最多是两个人是吗?/答:两个人唱。前面主唱一个人唱来不及,比较吃力,累的时候,主唱在喝茶抽烟的时候就需要一个副唱帮他唱,接替一下,特别是唱武场,演出打仗的时候,一个人忙不过来,就需要副唱帮忙。还剩下两个人,一个是打锣一个敲鼓。/问:京剧有生旦净末丑,皮影戏有吗?/答:有,皮影戏也是有的,一样。/问:京剧里每个角色唱什么有分,皮影戏呢?/答:皮影戏厉害就厉害在这,一个人唱所有的角色。/问:主唱副唱男的女的都可以吗?/答:九十年代以后才有少数女性唱,以前都是男的唱。
*11 问:你们这一场400块钱怎么分呢?/答:我们分成是,箱子是10块到20块,箱子里面就是皮影戏的道具,我们一班一般都是四个人,有时候五个人,剩下的钱平分。/问:你们不分主唱和副唱吗?/答:现在唱的不多,我们一出去四个人,也能唱也能打,都会,所以钱平分。/问:上午我们采访陈师傅,他说他们的钱分五股帐,你知不知道?/答:那是以前,现在没有。那是在改革开放那两年当中。五股帐是前面两股半,后面两股半,前面演唱的两个人两股半,后面两个人带道具是两股半,那是以前,最近三四年中都没有这种。/问:解放前也是吗?/答:对,解放前是五股帐,跟陈师傅讲的一样。
*12 问:京剧的话有生旦净丑,那皮影戏有吗?/答:没有,我们都是一个人唱。我们唱各种各样的音调,女的也是我们唱男的也是我们唱,都是一个人唱,只是腔调不同。/问:通常是由主唱一个人唱还是主唱副唱都唱?/答:前面有主唱和副唱,一般主唱带着一个徒弟,以前徒弟刚入门不会唱,师父拿两股,徒弟得半股,以后徒弟进步了,师父得一股半,徒弟得一股,再到后来徒弟也能唱了和师父差不多了,那就像陈师傅说的要重新分股了。过去我们有句俗语,“江湖无老少,各人挣钱各人要”只要你有这个水平,你就能拿这个钱,凭本事拿钱,凭本事吃饭。
*13 问:你刚拜师父的时候,一场演出是多少钱?/答:刚拜师父那时候,戏价很便宜,是20块钱,一天20块钱。/问:你拜师父的时候是哪一年?/答:1978年。―中略―/问:到了八十年代,价格有没有变?/答:有,八十年代戏价就涨到40块钱了。/问:到了九十年代价格怎么样呢?/答:又涨了,涨到六十块钱了,一天一夜,下午唱完晚上。/问:以后怎么样?/答:以后又涨了,后来八十块,现在一百了。
*14 问:你63年开始学习皮影戏的时候,唱一场多少钱?/答:那时候下午唱一场两个小时,20块钱。那时候钱比现在值钱。―中略―/问:改革开放后,一场戏要多少钱呢?/答:也是60块钱三天,三天就是三场。到以后就慢慢增加,后来80块,然后100块,现在我们唱一场是400块,三场就是1200了,现在就是这三年来。现在木匠是160块钱一天,我们没有,我们五个人,有的时候还加人,不过请我们唱,我们吃饭住宿都是请我们的人支付的。
*15 问:1962年到64年这两年中除去演出的机会多吗?/答:一年12个月只演4个月。/问:4个月每天演出吗?/答:每天演出。百花齐放以后就经常演出了。/问:演出时间是几月份到几月份?/答:上半年的农历正月、二月,下半年的冬月、腊月(农历十一月、十二月)。百花齐放后正好相反了,一年唱8个月休息4个月。改革开放以后关于皮影戏我详细给你们介绍下吧,皮影戏分为四季班子,叫四季戏。农历正月二月叫太平戏,农历五月六月叫青苗戏,农历八月九月叫谷麦戏,农历冬月腊月叫接年戏,一年唱这8个月。
*16 问:文革刚结束的时候,每年大概演多少戏?七八、七九年,那个时候一年演多少场?/答:刚开始正唱的时候,我们才红的不得了啊,往往几个地方抢,有的地方抢箱子,有的地方抢锣鼓箱,都很俏。那时候电视少,在农村老一辈多,喜欢看这个东西,从正月开始,一直唱到插秧。插完秧又出去唱,唱到稻子黄就回来收稻子。稻子收好以后,种下五季,还出去唱,一直唱到腊月二十几回家过年。
*17 问:那这几年每年有几次演出?/答:一般的来说,一年有个四、五、六十场左右,不是很多,现在每年都在减少。
*18 答:在80年代以前,一年要唱十个月,正月也唱。后来老的一代很多人都去世了,年轻人当家,年轻人都看电视电影,都不爱看皮影戏。现在我们一年唱两三个月。现在我们县城很多商场开业,单位开张也请我们去唱。今年在县城演了两三次了,县城酒厂我们去唱了十天。
*19 问:你们文化大革命的时候也唱吗?/答:文化大革命的时候也唱,都是偷着唱。不给国家知道,在农村偷着唱,那时候不给唱。/问:在文革期间你们都唱些什么内容?/答:杨家将、一般就是唐宋元明清的历史,农村的老百姓需要什么我们就唱什么。
*20 问:过去唱太平戏的时候最开始要做什么?程序是怎么样的?/答:先把牌位写好放在台案上,然后烧香点烛,爆竹一放,就开始唱神戏。/问:唱神戏具体要唱哪些神?/答:天官、三仙(福仙、禄仙,寿仙)、钟馗(馗星)、童子、五路财神。其他的都是写在牌位上的。/问:牌位上的有哪些神呢?/答:玉皇大帝、观音大士、当方土地、八扎大王、北极仙翁、仙姑老太、四海龙王。/问:唱神戏中的神有在牌位上的吗?/答:不在,他们都不在牌位上。唱神戏的时候要拿他们的影子出来表演,唱一个神要烧三张表和一根香。
*21 问:唱神戏中的五位神仙,是每个神仙都有一个戏,还是一个戏里面包括了这五位神仙?/答:这五位神仙(的影人)都要拿出来的,唱一下再换下一个。天官不走,其他的神(的影人)要在天官面前唱一段,他们都要来见天官,天官有一个香案,天官要在所以神戏唱完后最后一个唱。/问:从写牌位烧香到唱神戏,这个过程大概要多长时间?/答:一个半小时到两个小时,一般在两个小时左右。我们平时唱戏,一般一下午把神戏唱完,晚上再唱其他的,晚上就是唱大本了。不管在什么地方唱戏,首先都要唱神戏。/问:写牌位烧香是你们来做还是当地村民来做?/答:牌位是我们写,烧香是村里的人烧。/问:这些做完,就开始唱大本了是吗?/答:是的,开始唱大本。―中略―
*22 问:整个戏唱完,结束的时候有没有什么仪式?/答:有仪式。/问:这个仪式叫什么?/答:叫送神。/问:送神是怎么送的?/答:具体操作就是到最后我们拿几个影人出来表演,同时由村里人拿着剩下的表,香,炮还有牌位到十字路口烧掉就结束了。/问:这个过程大概要花多长时间呢?/答:这是在最后一个晚上,我们在这村子里唱完了最后结束的时候,大概十几分钟。/问:为什么要拿到十字路口烧掉呢?/答:因为这个牌位上的神住在不同的方位,所以要在十字路口烧掉。
*23 问:如果有的村没有十字路口怎么办?/答:没有十字路口就拿到村外的大路上烧掉。送神的时候还要去一位艺人和村民一起。我们这个戏,如果去别的地方唱,当地有庙宇里面有神的话,要把当地的神一起写在牌位上。 /问:只是写在牌位上吗?要去当地的庙宇把神像请过来吗?/答:不拿过来,写个名字也个牌位。/问:牌位在摆放上有没有什么次序讲究?/答:有次序的。第一位是玉皇大帝、然后是观音大士、四海龙王、当方土地、八扎大王、北极仙翁、仙姑老太,如果当地有庙宇最后加上当地的菩萨。/问:摆牌位的时候,牌位的朝向有什么规矩吗?/答:我们这个地方牌位要对着戏台放,放在戏台的对面。
*24 问:唱太平戏之前要接神,接的是哪些神?/答:玉皇大帝(天皇)、当方土地、观音大士、四海龙王、火官大帝、牛马二王。/问:这些神仙是写在牌位上的吗?/答:对,要写在牌位上。/问:唱神戏的时候要唱哪些神?/答:天官、福仙、寿仙、禄仙。/问:五路财神这样的神仙唱不唱?/答:唱,但是主要的就这四个,其他的神在唱的时候也会带到。讲好话,比如唱五路财神的时候,唱招财进宝等。―中略―/问:昨天我们采访吴先生的时候,他说唱神戏的时候要烧三张表和一根香,这里也是这样的吗?/答:那是唱封神榜的时候,封神榜相当于现在的电视连续剧,要唱48天,一般农村唱不起。―中略―
*25 问:为什么唱封神榜的时候需要唱一个神烧三张表和一跟香呢?/答:因为封神归位。封神榜里斩将封神,斩了以后把他封为神,所以要烧表和烧香,三张表送他归位,他没有表的话归不了位,就像现在坐公交车,没有票就坐不了车一样。―中略―
*26 问:青苗戏、求雨戏也是属于太平戏吗?/答:是太平戏,太平戏是笼统的名称,里面分青苗戏、求雨戏。/问:谷麦戏,接年戏这些都是属于太平戏的吗?/答:是的,都是属于太平戏。/问:送神的时候有什么仪式吗?/答:把牌位和没烧完的表纸和香全部拿到村界外烧掉。―中略―/问:有没有一种说法是把这些东西拿到十字路口烧掉?/答:有的,很少。那是许愿戏,属于太平戏,求太平,因为神来自四面八方,在十字路口烧是为了将不好的东西送走。/问:送神的时候是艺人去送还是村民去送?/答:村里面每个小组的领头人去送神,艺人不去。
*27 问:请问这个后台上米和鸡蛋是干什么的?/答:这个名字叫一品当朝,是我们老师父的牌位,插在鸡蛋碗里。/问:这个老师父指的是谁?/答:杭州铁板桥鼓板仙师。/问:是你们的祖师爷吗?/答:是的,祖师爷。/问:这里面的米和鸡蛋是什么意思?/答:米是粮食,代表五谷丰登,鸡蛋是元宝,代表招财进宝。/问:关于鼓板仙师有没有什么传说或者记载?/答:有,在我们师父手里有,现在没有了,丢了。所以我不知道。
*28 问:你们唱的时候是边看剧本边唱,还是什么也不看,自己记着唱?/答:大人物、正派人物,像京城的朝中的大官、皇上、大臣、大将的唱词都是有规定的,固定的唱词,都是师父传教的。小人物、小兵小丑都是靠临场发挥。/问:比如说何先生那边有很多剧本,那些剧本是什么时候看的呢?排练的时候看的,还是演出之前看的吗?/答:剧本是从小说上抄下来的,因为小说的字太小,比如说《三国》,把三国原来的小说拿来,用毛笔抄下来放大放在桌子上便于阅读,但不是一字不漏的抄下来,简单的,只是摘抄下主要情节。/问:这个剧本或是剧本里面的唱词,是拜师父学皮影的时候背的吗?/答:像皇帝大臣这些大人物的都有一个固定的唱词,从师父那学的固定的模式,叫纪字头,每个大人物都有他固定的纪字头。/问:你们是要把剧本上的内容背下来?/答:是的,纪字头都要背下来的。
*29 问:你开始学皮影戏的时候,有没有师父口传的剧本?/答:有的。师父会教剧本这个地方要唱什么调,那个地方要唱什么调,同时也要根据自己的水平。/问:你师父当时的剧本呢?/答:我师父当时没有剧本。我有一个师叔是唱将,我师父在后台,因为他认识的字少,只能唱小本,全部要靠脑子记下来,我这个师叔跟我师父是同母异父的弟兄,他们俩一起学的皮影戏,我师叔识字,领到一担箱,他的剧本是从师爷那慢慢传下来的。我的剧本一部分从小说上抄的,一部分从我师叔那收集的。
*30 传统云梦影戏是没有完整剧本的,有的是没出息的梗概,艺人们将这种剧本称为“水路子”。与之相对的“肉本子”是各种历史演义小说,艺人阅读此类小说的目的就是在阅读后,将其中的人物故事情节改编成影戏剧本。
*31 答:我们这虽说叫皮影戏,但我们演唱有各种各样的腔调,有九腔十八调。/问:有很多曲牌吗?/答:有,还有很多小曲,很多各种各样的调门。/问:皮影戏的九腔十八调主要是什么板?/答:摇板,倒板最多。原板唱的很少,还有二晃板也唱。/问:那有没有类似于快板的?/答:有。这个叫快摇。
*32 答:我们皮影戏是皮影调,一般只有锣鼓伴奏,有喜事比如结婚或者考上大学的时候也用唢呐。―中略―/问:除了二黄和皮影调还有其他的?/答:有时候带一点民间小调,也是用锣鼓伴奏。/问:民间小调只用锣鼓伴奏吗?/答:用也用,民间小调唱的很少,都是在皮影戏中间穿插着唱,所以没有带其他的乐器,一般都只用锣鼓。
*33 问:不是镂空的这种腔调是哪一种腔调?/答:湖北腔,简称叫打腔。―中略―/问:湖北腔有什么样的板式?/答:―中略―有摇板、导板,还有陶腔、悲腔,悲腔在皮影戏中是最主要的。/问:这四个板式有什么样的区别?/答:摇板比较快,主要用于武戏。导板的话,比如战争中,大将打败了,元帅急到了,用高腔高调唱出把他唤起,这种腔调叫“老拨字”,导板很少用到,速度特别的慢。陶腔是本腔,本地一种比较普遍的腔调,不喜也不悲比较平的腔调,速度也一般。悲腔是打仗失败或是有伤心的事情才唱,速度慢,唱戏的时候叫慢板。
*34 问:唱词怎么样?/答:唱词是七个字一句,这七个字要摆的均匀。/问:有曲牌吗?/答:没有曲牌。/问:除了湖北腔以外还有别的腔调吗?/答:皮影戏里只有湖北腔,其他没有了。/问:皮影戏里的乐器有哪几种?/答:锣(大锣、小锣),小鑔,鼓(皮鼓、板鼓(和京剧里一样))、云扬板(和京剧里的一样)。
*35 《中国戏曲剧种大辞典》p.589。
*36 p.102。
*37 p.220。
*38 皮影唱腔。云梦皮影属西乡高腔,音调高昂,甩腔多用假嗓衔接。清中叶受江西移民带来的戈阳腔的影响而行成,高腔,一唱众和,不用管弦,只用锣鼓击乐伴奏,故又称“打锣腔”。早期的云梦是四至五人班,前台演唱操纵只1人,后台锣鼓梆由三到四人敲打。
*39 《中国戏曲志》湖北巻p.199。
*40 以下、楚劇に関しては《中国戏曲志》湖北巻による。
*41 《中国戏曲志》湖北巻p.67参照。
*42 《中国戏曲志》湖北巻p.207参照。
*43 太平天国失败后,襄阳花鼓的桃腔、四平随鄂北随州、应山等地移民传至皖南,流变形成皖南花鼓的淘腔、北扭子。
*44 いずれも《中国戏曲剧种大辞典》による。
*45 太平天国失败后,襄阳花鼓的桃腔、四平随鄂北随州、应山等地移民传至皖南,流变形成皖南花鼓的淘腔、北扭子。
*46 いずれも《中国戏曲剧种大辞典》による。
*47 以下、皖南花鼓戯については、《中国戏曲剧种大辞典》による。