『都市芸研』第十七輯/台湾皮影戯『蘇雲』考

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台湾皮影戯『蘇雲』考

山下 一夫

1.はじめに

台湾の影絵人形劇――皮影戯には「上四本」と呼ばれる演目がある。『蔡伯喈』・『孟日紅割股』・『白鶯歌』・『蘇雲』の四つのことで、かつては「もしこの四本ができないなら、皮影戯をやろうと思ってはいけない」*1と言われたほど重要な演目であった。

筆者は前稿においてその一つである『白鶯歌』を検討し、これが明代の弋陽腔伝奇『鸚鵡記』に由来すること、テキストが広東省東部の正字戯『鸚歌記』と近似すること、「上四本」の枠組が弋陽腔諸腔の「江湖十八本」の延長線上にあることを指摘した*2

『蘇雲』以外では、『蔡伯喈』と『孟日紅割股』については、すでに林鋒雄氏や鄭守治氏の詳細な研究がある*3。しかし『蘇雲』については、鄭守治氏が広東省東部の陸豊皮影戯『羅衫記』との類似性に触れている程度で*4、詳しい分析は行われていない。

そこで本稿ではこの『蘇雲』を取り上げ、その内容について検討した上で、陸豊皮影戯との比較を行い、そこから台湾皮影戯成立の問題について考察してみたいと思う。

2.『蘇雲』と『白羅衫』伝奇

現在台湾で活動している4つの劇団(東華皮影劇団・永興楽皮影劇団・復興閣皮影劇団・高雄皮影劇団)では、すでに『蘇雲』の上演は行われていないが、管見の限りでは以下数種の台本が残されている。

①復興閣皮影劇団抄本

劇団の張命首氏が1982年に書写したもの。筆者は未見だが、かつて復興閣皮影劇団所蔵の皮影戯台本を調査した陳憶蘇氏が、その内容を以下のように纏めている*5

(科挙に合格した)蘇雲が、妻の鄭氏とともに蘭渓県に赴く途中、強盗の徐能に襲われる。蘇雲は川に突き落とされるが、運良く陶公に命を助けられる。鄭氏は徐能に捕まってしまうが、徐能の弟の徐用によって密かに逃がされ、尼寺に逃げ込んで蘇雲の子を産む。しかし尼寺に赤子がいてはまずいというので、蘇雲が赴任の際に母親から贈られた羅衣で包み、柳の木の下に棄てる。ところが(追ってきた)徐能が赤子を拾い(徐継祖と名付けて)育てる。19年後、徐継祖は科挙試験を受けに行く途中、張氏(蘇雲の母)に偶然出会い、(息子夫婦が行方不明になったという)不幸な境遇を聞き、また(自分が包まれていたのと同じ)羅衣を入手する。科挙合格後、(役人として赴任した先で)鄭氏が訴えを起こす。徐継祖は自分自身の出生と符合することに気づき、調べを進めた結果、真相が明らかとなって、一家はめでたく再会を果たす*6

②合興皮影劇団抄本(合興本)

図1 合興本

解散した合興皮影劇団の張福丁氏の旧蔵本で、現在は皮影戯館に所蔵されている。書写年代は不明。以下の齣から構成される。

蘇雲登臺/分羅衣/徐能坐營/討魚遇救/放走鄭氏/朱大娘投井/投庵產兒/蘇霓尋兄/玄女指引/冒雪登途/尉卷江南/鄭氏告狀/草房午夢/詰問乳父/陳情/進府/擒仇會親/思歸大會

③永興楽皮影劇団抄本(永興楽本)

図2 永興楽本

劇団の旧蔵本を元に、張新国氏が2014年に書写したもの。以下の齣から構成される。

蘇雲越任/分羅衣/徐能坐營/蘇雲赴任/遇救/徐用放走/放走鄭氏/投井/投庵產兒/蘇霓尋兄/遇救/玄女指引/繼祖勤路/汲水會孫/鄭氏別尼/尉卷江南/鄭氏告狀/草房午夢/詰問乳父/蘇雲陳情/江都府門/擒仇會親/思歸

④クリストファー・シッペール(Kristofer Schipper)所蔵抄本

オランダの研究者、シッペール氏がかつて台湾で収集し、現在は福州大学に置かれている、皮影戯台本コレクションの一部。「施博爾収蔵台湾皮影戯劇本」*7のASML.Ⅰ-1-092、093、094。未見。

筆者が目睹することができたのは②と③で、以下、両者を元に『蘇雲』のテキストについて検討してゆきたいと思う。

『蘇雲』の物語の元になっているのは、明・馮夢龍『警世通言』巻十一の「蘇知県羅衫再合」で*8、これが『太平広記』巻百二十一「崔尉子」(出典は『原化記』)の崔氏の物語からの換骨奪胎であることはすでに指摘がある*9。この小説は『白羅衫』の題で明代に戯曲に改編されていて、『曲海総目提要』巻十六に以下のように記されている*10

明代の人の作で、作者名は分からない。蘇雲の物語を演ずる。小説「蘇知県羅衫再合」に基づき、登場人物の名前や内容などはいずれも同じである。(劇中では、蘇夫人は子どもを産んだ後、王尚書の家に引き取られてその家の娘の乳母となり、その後徐継祖が王尚書の家の庭園を訪れた際に告訴状を出しているが、これは小説とは異なる。また『太平広記』の「崔尉子」の物語と内容が酷似している。)明の永楽年間のこと、涿州の蘇雲は進士に及第し、蘭谿県尹に任じられ、妻ととともに赴任した。途中、船が黄天蕩まで来たところで、船引きの徐能に襲われた。徐能は蘇雲を縛って水中に投げ込み、妻を奪って家に戻り(場所は儀真県の五壩)、老婢の朱媼に面倒を見させた。しかし徐能の弟で義士の徐用が、徐能が賊たちと酒を飲んでいる隙に、裏門から鄭氏を逃がした。朱媼も一緒に行きたいというので同行させたが、夜の間に五、六十里も進んだため、朱媼は疲れて歩けなくなり、井戸に身を投げて死んだ。空が明るくなってきたので、鄭氏が近くにあった庵の門を叩くと、尼が出てきて迎え入れたが、鄭氏はちょうど産気づき、厠で子どもを産み落とした。しかし鄭氏は追いかけてきた賊に場所を知られるのを恐れ、羅衫でその子を包み、中に金釵を入れた上で大柳村の路上に捨て、当塗県の慈湖老庵で出家した。鄭氏を見失った徐能は捨てられた赤子を拾い、徐継祖と名付け、自分の子として育てた。その後徐継祖は成長し、十五歳で郷試に合格した。次の会試を受けに行く途中、涿州で老婦人と出会った。老婦人は徐継祖を見て涙を流したので、不思議に思ってわけを聞くと、老婦人は次のように言った。「私は張氏と申します。子どもが二人いて、長男は蘇雲と言い、蘭谿県尹に任じられましたが、川で賊に殺されました。そこで次男の蘇雨に調べに行かせましたが、同じく蘭谿県で亡くなりました。(蘇雲が旅立ってから三年経つのに便りが無かったため、母親は弟の蘇雨を蘭谿まで調べに行かせた。蘇雨は後任の高知県の取り計らいで城隍廟に寓居したが、程なくして病気で死んだ。)今、あなたの顔が長男とあまりにもそっくりだったので、思わず涙がこぼれたのです。」徐継祖は嘆息し、その夜はこの老婦人の家に泊まった。翌日、徐継祖が出発しようとしたところ、老婦人は徐継祖に羅衫を贈って言った。「私のところには以前、白い羅衫が男用と女用の二着あり、模様も同じでした。女用は長男の嫁に与えましたが、男用は折り畳んでいる時に明かりが急に落ちてきて、襟に穴が開いてしまったため、不吉だと思って長男には与えませんでした。あなたは長男とそっくりなので、あなたに贈りたく思います。会試に合格したら、申し訳ありませんが、蘭谿で事の次第を調べて、私に教えてください。」そう言い終わると老婦人が泣き崩れたので、徐継祖もたいそう悲しんだ。徐継祖は会試に合格して進士になり、中書舍人に任命された。二年後、監察御史となり、勅命を奉じ南京まで監査に赴いた。ついでに故郷に帰省しようと思ったところ、途中で蘇夫人の鄭氏に出会い、訴状を受け取った。訴状を読んでみると、訴えられているのは徐能だった。徐継祖は涿州の老婦人の言葉を思い出し、これはもしかしたら自分のことではないかと疑った。確かに子どもの時、学友がいつも自分のことを継子だと言っていたからである。老僕の姚大なら事の次第を知っているだろうと思い(姚大の妻は徐継祖の乳母だった)、呼び出して詰問すると、姚大は洗いざらい告白し、姚大の妻のところから自分が包まれていた羅衫も入手した。一方、川に突き落とされた蘇雲は、安徽出身の陶某に助けられたが、その後離ればなれになってしまった。数年後、三家村で教師になり、しばらくそこにいたが、辞めて村を離れた後、常州の烈帝廟で神籤を引いたところ、「金陵の豸府で肉親と再会する」という籤語を得た。(烈帝は、姓は陳、名は杲仁である。隋末に沈法興部将となったが、乱を起こした罪で切腹させられ、腸を水に晒して死んだ。唐以降は神として祀られ、その廟は「西廟」、あるいは「陳司徒廟」と呼ばれ、その神籤は験があるとされた。)そこで蘇雲は南京に赴き、操江林都御史に訴状を出したが、林都御史はこれを徐継祖に渡した。徐能は自分が監察御史の父親になったと得意げになり、むかし蘇雲夫妻を襲った賊たちと一緒に役所に行き、徐継祖と酒を飲もうとしたところ、徐継祖によって全員捉えられた(趙三、翁鼻涕、楊辣嘴、范剥皮、沈鬍子らである。)蘇雲の証言により、かれらはみな罪を認め、死罪となったが、徐用だけは釈放された。徐継祖は蘇雲を父親として拝し、蘇雲は初め信じなかったが、徐継祖が証拠として羅衫を出すと、ようやく自分の子と認めた。そこで庵まで鄭氏を迎えに行き、上奏して自らの名前を蘇泰と改め、伯父の蘇雨を弔い、祖母を引き取った。また、以前徐能が使っていた船は、王尚書の船が盗まれたものだったが、すでに賊は裁きにあったということで、王尚書はお咎め無しとなった。王尚書は感激し、娘を徐継祖に娶せた*11

『曲海総目提要』の記述と完全に同内容の戯曲は現存していない。現在見ることができる伝奇作品は以下の通りである。

①『古本戯曲叢刊三集』所収鄭振鐸旧蔵抄本『羅衫記伝奇』全三十一齣、存二十八齣(鄭本)*12

図3 『古本戯曲叢刊三集』所収鄭振鐸旧蔵抄本『羅衫記伝奇』

小説「蘇知県羅衫再合」の内容や『曲海総目提要』の記述と比べると、まず目に付くのは蘇雲が陶公ではなく、山賊の劉権に助けられている点である。例えば、第十八齣には以下のようにある*13

私は蘇雲である。劉権によってここで拘禁されている。母親や兄弟が家でつつがなく暮らしているのかどうか解らず、また身ごもった妻は賊に攫われたままで、無事かどうかも解らない。心配でたまらず、毎日ため息をつくばかり。劉権はあれこれと私を厚遇しているが、何とか故郷に帰ろうとしても、あちこちに見張りが立っているので、逃げようにも逃げられない*14

実は劉権は蘇雲を襲った徐能の兄貴分で、徐能は徐継祖の科挙合格を知らせに劉権のもとに行くと、蘇雲がいることが分かって驚く(第二十二齣)*15

私はあの日、川で蘇雲を殺したはずなのに、座上にいるのは明らかにあいつだ。ああ、亡霊が出てきたとでも言うのか*16

そこで徐能は軍師の張勝を使って蘇雲を殺そうとするが、たまたま蘇雲と寝場所を交換していた劉権を誤って殺してしま う*17

[浄]蘇先生、(先ほどの話は)信じなくても構わないが、寝床を私とあなたとで交換しないか。[生]別に構いません、私が大王様の部屋に行って寝れば良いのですね。…(略)…[丑登場]今生のことは前世の報い、必ずかれの命を取りましょう。[殺す仕草]蘇雲が死んで嬉しい限り、私はこっそり山を下りるとしよう*18

劉権が死んだことを知った山賊の手下たちは、蘇雲に寨主の地位を継ぐよう懇願するが、蘇雲は皆に山から下りるよう言い、自分は南京に赴き、その後は小説と同じく徐継祖と出会う、という流れになる*19

[衆]蘇の旦那様、山には一日たりとも主を欠かせません。大王様が死んだ今、私どもは蘇の旦那様に寨主となっていただきたく思います。[生]何を言う、私はずっとやつの囚われの身で、逃げようにも逃げられなかっただけだ。今、幸いにも大王には天誅が下ったのだから、我々は故郷に帰れば良いだけだ*20

②『綴白裘』所収『白羅衫』散齣

綴白裘』には『白羅衫』と題する折子戯が5つ収録されているが、以下のようにいずれも上の鄭本と字句・内容が共通している。ここから、『羅衫記伝奇』はまた、『白羅衫』とも題されたことが解る。

  • 「賀喜」:鄭本第二十齣
  • 「井會」:鄭本第二十一齣
  • 「請酒」:鄭本第二十五齣
  • 「遊園」:鄭本第二十六齣
  • 「看状」:鄭本第二十八齣

③中国芸術研究院所蔵清内府抄本『白羅衫』全三十一齣

④中国芸術研究院所蔵懷寧曹氏旧蔵抄本『白羅衫』全三十一齣

いずれも未見だが、①同様に全三十一齣であること、また①と字句が共通する②が『白羅衫』と題していることから、①の鄭本と同系統のテキストであることが予想される。

⑤傅惜華旧蔵嘉慶二十三年維揚蔣韻蘭抄本『白羅衫伝奇』全九齣

図4 傅惜華旧蔵抄本『白羅衫伝奇』

鄭本と字句は共通するが、分量がかなり圧縮されており、短時間での上演のために改編されたテキストだと思われる。鄭本との対応関係は以下の通り。

  • 第一齣「攬載」:鄭本第五齣
  • 第二齣「拜別」:鄭本第三齣
  • 第三齣「設計」:鄭本第六齣
  • 第四齣「劫舟」:鄭本第七齣
  • 第五齣「撈救」:鄭本第八齣
  • 第六齣「逼婚」:鄭本第九齣
  • 第七齣「養子」:鄭本第十齣
  • 第八齣「賺盜」:鄭本第十一齣
  • 第九齣「重圓」:鄭本欠落部分

なお、封面には「白羅衫伝奇共八折」とあり、その下には次の十二の齣題が記されている。

攬載 拜別 設計 殺舟 撈救 逼婚 釋放 養子 拾子 賺盜 重圓 報冤

「殺舟」は実際には第四齣「劫舟」となり、また「釈放」の題から推測される内容は第六齣「逼婚」に、「拾子」の題から推測される内容は第七齣「養子」に、「報冤」の題から推測される内容は第九齣「重円」に含まれている。この抄本は欠葉があるようには見えず、またストーリーも完結しているので、封面で「共八折」としたり、実際には存在しない齣の題があったりするのは、恐らく元のテキストを短縮する作業の痕跡を反映しているものと思われる。

以上からすると、①~⑤はすべて「蘇雲が劉権に捕らわれる」という場面を持つ、同系統のテキストだと考えられる。また、崑曲*21や京劇*22などにも『白羅衫』と題する演目があるが、いずれもこの場面を有し、唱詞も一致するものが多いため、その影響下にあるテキストと分かる。しかし台湾皮影戯『蘇雲』にはこの場面が無く、唱詞も共通点がないので、これとは全く異なる系統のものと推測される。

上四本のうち残りの三作は、明末の散齣集に収録される弋陽腔テキストにいずれも対応するテキストがある。

  • 『蔡伯喈』→明・高明『琵琶記』(『新選南北楽府時調青崑』、『新鍥梨園摘錦楽府菁華』、『新鍥精選古今楽府滾調新詞玉樹英』、『梨園会選古今伝奇滾調新詞楽府万象新』、『精刻彙編新声雅襍楽府大明天下春』、『鼎鍥徽池雅調南北官腔楽府点板曲響大明春』、『鼎刻時興滾調歌令玉谷新簧』、『新刊徽板合像滾調楽府官腔摘錦奇音』、『新刻京板青陽時調詞林一枝』、『鼎雕崑池新調楽府八能奏錦』、『新鋟天下時尚南北徽池雅調』、『新鋟天下時尚南北新調尭天楽』)*23
  • 『孟日紅割股』→明・無名氏『葵花記』(『新選南北楽府時調青崑』、『新鐫楽府清音歌林拾翠』、『鼎鍥徽池雅調南北官腔楽府点板曲響大明春』、『聴秋軒精選万錦嬌麗』)
  • 『白鶯歌』→明・無名氏『鸚鵡記』(『群音類選』、『新選南北楽府時調青崑』、『新鍥梨園摘錦楽府菁華』、『新鐫南北時尚青崑合選楽府歌舞台』、『梨園会選古今伝奇滾調新詞楽府万象新』、『新鋟天下時尚南北新調尭天楽』)*24

また三作は各地の弋陽腔諸腔「江湖十八本」に同様の演目が見いだされる。例えば松陽高腔では以下の通りとなる(下線部)。

琵琶記』・『芦花記』・『合珠記』・『白鸚哥』・『韓十義』・『黃金印』・『葵花記』・『双貞節』・『三元坊』・『白蛇記』・『繍花針』・『判烏盆』・『白兔記』・『鯉魚記』・『賀太平』・『九竜套』・『三状元』・『売水記』*25

これは前稿で検討したとおり、台湾皮影戯のこれらの演目が弋陽腔の系統に属するためであるが、『白羅衫』だけは明末の散齣集に収録されていないだけでなく、各地の弋陽腔諸腔の「江湖十八本」にも見いだすことができない。さらに「兄弟劇種」であるはずの広東の正字戯の「卅六真本」でも、他の三本は確認できるのにも関わらず、『白羅衫』と同内容の演目は含まれていない*26。そのため『白羅衫』は、「上四本」の他の三作とは性質が異なるものであることが想像される。

3.『蘇雲』と陸豊皮影戯『羅衫記』

「1.はじめに」で触れた通り、台湾皮影戯『蘇雲』については、すでに鄭守治が陸豊皮影戯『羅衫記』との類似点を指摘している。氏は『蘇雲』中の唱詞を一つ挙げ、これを『羅衫記』中の唱詞と比較した上で、以下のように述べる*27

以上の字句や意味は基本的に同じで、順番などが多少異なるだけである。『羅衫記』は陸豊皮影戯の常演演目で、1960年代以降、海豊白字戯劇団が改編を行い、現在に至るまで上演している。『羅衫記』はまた潮劇の伝統演目でもあり、1960年代以降今に至るまでやはり改編・上演が行われている。漳州皮影戯にも伝統演目『白羅衣』(すなわち『羅衫記』)がある*28

図5 陸豊皮影戯『羅衫記』

ここで言及されている陸豊皮影戯については、すでに千田大介の論考がある*29。広東省陸豊市一帯に分布する影絵人形劇で、現地の人戯である正字戯・白字戯と音楽や演目などで共通点を有し、台湾皮影戯とも親縁関係にある劇種である。

陸豊皮影戯『羅衫記』については、陸豊皮影劇団の蔡娘仔(1924-2006)の手に成る抄本が現存する*30。書写年代は不明で、題簽には「伝統白字皮影戯劇本羅衫記」とある。

図6 陸豊皮影戯『羅衫記』・合興本『蘇雲』・永興楽本『蘇雲』

本テキストを台湾皮影戯『蘇雲』と比べると、確かに氏の指摘の通り、多くの点で字句が共通している。例えば陸豊皮影戯『羅衫記』では、徐能の元から逃げる途中、自殺した朱媼を鄭氏が嘆く場面は以下の通りである。

云魂散風波敲,要驚得我云消魂散上九省,爾今歸上三生路,淚之成血,要救我今招(朝)。唔,罷了,朱大娘,念我鄭氏命苦,是我命中自盡,作乜火及于爾了朱大娘。只正是:城門火未盡,池來魚遭煙。
(魂が消し飛ぶほどの波風が立った、ああ、驚きのあまり私の魂は天まで飛ばされ、今やあの世に旅立ちそうで、涙は血となって流れる、今日私を助けるために、ああ、朱大娘よ、私鄭氏はつらい運命にあり、私の方が自ら命を絶つ運命だったのに、私のせいで朱大娘に火の粉が降りかかってしまった。城門の火いまだ尽きざるに、池では魚が煙に遭う、と言うように。)

合興本『蘇雲』でここに対応するのは「朱大娘投井」の以下の部分である*31。一見して字句に共通点が多いことが分かる。また比較することにより、陸豊皮影戯『羅衫記』の「云魂」は、恐らく「魂魄」の誤写であることも分かる。

平日地風波起,驚的我魂消魄散上九天,渺渺茫茫歸泉也,淚珠成血條,要救我金朝。唔,大娘,鄭氏之苦,是我交己之做,作乜移禍與爾了大娘。城樓火未燒,池內魚先殃。
(平穏な日々に波風が立った、驚きのあまり私の魂は天まで飛ばされ、ぼんやりとあの世に旅立ちそうで、涙は血となって流れる。今日私を助けるために、ああ、大娘よ、私鄭氏の辛い運命は、私が自分で受けるものなのに、災いを大娘に移してしまった。城楼の火いまだ焼けざるに、池の内の魚先に殃いす、と言うように。)

永興楽本『蘇雲』でここに対応するのは「投井」の以下の部分である*32。字句は合興本とほとんど変わらない。

&lang(zh-Hant){平日地風波起,驚得我魂消魄散上九天。渺渺茫茫歸泉也,淚珠成血。要救我今朝,唔,大娘,鄭氏之苦,是我交己之做,作乜移禍與爾了大娘。城樓火未燒,池內魚先死。
(平穏な日々に波風が立った、驚きのあまり私の魂は天まで飛ばされ、ぼんやりとあの世に旅立ちそうで、涙は血となって流れる。今日私を助けるために、ああ、大娘よ、私鄭氏はの辛い運命は、私が自分で受けるものなのに、大娘に災いを移してしまった。城楼の火いまだ焼けざるに、池の内の魚先に死す、と言うように。)

この部分だけを見ると、確かに鄭守治氏の言う通り、台湾皮影戯『蘇雲』と陸豊皮影戯『羅衫記』は「字句や意味は基本的に同じ」ということになる。しかし他の部分を検討すると、両者の間には実は大きな差異が存在していることが分かる。

第一に挙げられるのは、鄭氏が産んだ子どもの無事を祈る場面である。まず、陸豊皮影戯『羅衫記』では以下のようになっている*33

老天,念我鄭氏,產下一兒,眾年師來扶養,迫我將兒來。倘若皇天上保庇,保庇好來收留,未知何日報仇冤。
(天よ、私鄭氏は子どもを産みましたが、私のことは引き取るので、赤子は追い出すよう言われました。もし天がお守りくださるのなら、どうかこの子を引き取ってください。この恨みはいつ晴らすことができるでしょうか。)

鄭氏はここでは天(皇天)に祈っているが、合興本『蘇雲』の「投庵産児」でここに対応する場面では九天玄女に祈っており、また台詞も長くなっている*34

[白]鄭氏產下一子,誰知寺中不容,迫我抱出,如之奈何,到只乃是九天玄女廟,不免入內,祈禱九天玄神罷。[科]拜告神祈,可憐母子無所依,一家遭磨難,今朝產嬰兒,望爾暗中相保庇。月缺花殘,始雨狂風,勢得無奈折命分,未知何日得相見。
([言う]鄭氏は子どもを生みましたが、寺には置いておけないので、赤子を抱いて出て行かされました。いったいどうしたものでしょう。ここは九天玄女廟、中に入って九天玄神にお祈りするとしよう。[しぐさ]神様、哀れな母子は寄る辺が無く、一家は災難に遭いました。今日産んだ赤子のことを、どうか陰ながらお守りください。家族は散り散りとなり、嵐の中に身を置くことになって、どうすることもできません。いつ再会することができるでしょうか。)

永興楽本『蘇雲』でここに対応するのは「投庵産児」の以下の場面で、「未知何日報冤仇」の句は合興本よりもさらに陸豊皮影戯『羅衫記』に近い*35

[白]鄭氏產下子,雖知寺中不容,迫我抱出,到只乃是九天玄女廟,不免入內,禱祝九天玄神。(旦)拜告神祈,可憐母子無所依,一家遭磨難,今朝產嬰兒,望爾暗中相保庇,月缺花殘,始雨狂風,勢得無奈折東西,未知何日報冤仇。
([言う]鄭氏は子どもを生みましたが、寺には置いておけないとはいえ、赤子を抱いて出て行かされました。ここは九天玄女廟だわ、中に入って九天玄神にお祈りするとしよう。神様、哀れな母子は寄る辺が無く、一家は災難に遭いました。[旦]今日産んだ赤子のことを、どうか陰ながらお守りください。家族は散り散りとなり、嵐の中に身を置くことになって、どうすることもできません。この恨みはいつ晴らすことができるでしょうか。)

台湾皮影戯『蘇雲』には他にも様々な場面で九天玄女が登場する。陸豊皮影戯『羅衫記』では、小説「蘇知県羅衫再合」同様、蘇雲は単に陶公に救われるだけだが、台湾皮影戯『蘇雲』では蘇雲が「十九年名が埋もれる厄」があると告げられ、その間は九天玄女の加護で「隔海之地」(海に隔てられた場所)に住む陶公に匿われる、という設定になっている。例えば、合興本『蘇雲』の「草房午夢」では以下のように描写されている*36

[生白]呀。我方纔小睡之間,又是九天玄女,托我一夢,說我一十九年之厄,今日已滿,本要歸家,又是隔海之地,又說賜我魚船一隻,方能過海。我想離此江邊不遠,不免近前看來。[科]呀,果有魚船一隻,在許江邊,此乃是神仙指引無差,不免就此起身。[科]到是我差了,陶公父子,救我數載,做乜一旦不辭而去。呵是了,待伊回來,去亦未遲。[科]實是難待,呵是了,今乃清明佳節,陶公父子祭掃回來。不免贈詩一首,粉壁之上,待伊回來,方知我的恩怨。
([生言う]私が先ほど居眠りしていると、またも九天玄女が夢枕に立ち、十九年の厄は今日で終わりになったと言った。家に戻るべきだが、ここは海に隔てられた場所だ。しかし九天玄女はさらに、私に漁船を与えるので、それで海を渡ることができるとも言った。ここは河辺に近いので、行って見てみることとしよう。[しぐさ]あっ、確かにそこの河辺に漁船がある。これは神の導きに間違いない。さっそくここから出発することにしよう。[しぐさ]私が間違っていた、陶公父子は私を何年も助けてくれたのに、どうして何も言わずに立ち去ることができるだろうか。そうだ、かれが戻って来てから出発しても遅くはない。[しぐさ]待っているのはつらい。そうか、今日は清明節だから、陶公父子は墓参りに行ったのだな。それならかれに贈る詩を壁に書き付けておこう。かれが帰ってきたら、私の感謝の気持ちが分かるだろう。)

永興楽本『蘇雲』「草房午夢」もほぼ同文である*37

[雲醒白]我小睡之時,聽見九天玄女,托我一夢,夢我一十九年埋名之厄,今日已滿了,本要歸家,又隔海之地,又說賜我魚船一隻,方能過海。離此海邊不遠,不免近前看來。果然魚船一隻,乃是神仙指點無差,不免就此起身。[科]到是差了,陶公父子,救我數載,一旦不辭而別而去。呵是了,待我待伊回來,去也未遲。[科]呀,實是難待,呵是了,今乃是清明佳節,陶公父子祭掃來回。不免向前題詩一首,粉壁之上,待伊回來,方知我得恩。
([蘇雲が目覚めて言う]私が先ほど居眠りしていると、またも九天玄女が夢枕に立ち、十九年の名を隠す厄は今日で終わりになったと言った。それならば家に戻るべきだが、ここは絶海の地だ。しかし九天玄女はさらに、私に漁船を一隻与えるので、それで海を渡ることができるとも言った。ここは海辺に近いので、行って見てみることとしよう。確かにそこの河辺に漁船が一隻ある。これは神の導きに間違いない。さっそくここから出発することにしよう。[しぐさ]私が間違っていた、陶公父子は私を何年も助けてくれたのに、どうして何も言わずに立ち去ることができるだろうか。そうだ、かれが戻って来てから出発しても遅くはない。[しぐさ]ああ、待っているのはつらい。そうか、今日は清明節だから、陶公父子は墓参りに行ったのだな。それなら詩を壁に書き付けておこう。かれが帰ってきたら、私の感謝の気持ちが分かるだろう。)

陸豊皮影戯『羅衫記』には、蘇雲が「隔海之地」に逃げる部分は無い。しかし台湾皮影戯『蘇雲』はこれがかなりの分量を占め、そもそも題名からして徐継祖ではなく蘇雲の方に力点が移っている。

台湾皮影戯は「潮調」、すなわち「潮州の音楽」を用いるので、広東省潮州に由来することは間違いない。それなら例えば、中国側でもともと皮影戯の蘇雲の物語に幾つかのバリエーションがあり、その中で九天玄女が登場し蘇雲の場面が多いバージョンがたまたま台湾に伝わり、そうでないバージョンが現在陸豊で行われているだけ、と仮定することもできなくはない。しかしそう考えるには、台湾皮影戯『蘇雲』はあまりにも作為的すぎる側面がある。

『蘇雲』合興本の最後で、徐能一味が裁かれた後、徐継祖が陶公に褒賞を与えようとする場面に、陸豊皮影戯『羅衫記』には無い以下のような表現がある*38

[科]另收書一封,去到日本港口,且陶公父子,到只同享榮華。
([しぐさ]さらにもう一通手紙をしたためて日本の港に送り、陶公父子をこちらに呼び、ともに栄華を分かち合ってもらおう。)

永興楽本にも以下のようなほぼ同様の表現がある*39

(雲白)收書一封,令人帶去日本港口,請陶公父子到來,同受榮華。
([蘇雲が言う]さらにもう一通手紙をしたためて、人をやって日本の港まで持って行かせ、陶公父子を呼び、ともに栄華を分かち合ってもらおう。)

「日本の港」と言っているのは、明らかに日本の台湾支配を反映しているので、ここは明らかに皮影戯が台湾に伝わってから付加された表現であろう。ここから台湾皮影戯『蘇雲』は、中国側で行われていたままのテキストではないことが分かる。そうすると、九天玄女の登場や、蘇雲の「孤島」での一段など、陸豊皮影戯『羅衫記』に見えない他の部分も、同様に台湾で成立したものではないだろうか。

かつての潮州府の港である汕頭市に、「白花尖廟」という大きな九天玄女廟がある。これは潮州移民の柳錫旺氏が香港に作った「百花尖廟」の分祀で、やはり潮州移民の陳錫謙が1992年に新しく建てたものである*40。潮州本土では韓愈や宋大峰、あるいは三山国王などの信仰が一般的で、九天玄女の廟はあまり見あたらないが*41、この例は香港の潮州移民の間で九天玄女が信仰されたことを示している。おそらく移民たちは、故郷を離れるにあたって九天玄女に無事を祈り、移民先でも信仰を保持したのだろう。

台湾に九天玄女廟は多くなく、仇徳哉による1980年前後の統計では全体で13しかない*42。注目すべきは、皮影戯劇団が集中する高雄市北部海岸地域の近く、高雄市茄萣区に九星壇という九天玄女廟があることである。廟内の「九星壇沿革誌」には以下のように記されている*43

本九星壇は前清初期の創建である。呉姓の住民の先祖が中国大陸から台湾に迎え、最初は港仔埔の呉姓の家の中で祀っていた。以前、港仔埔の住民はみな漁業に従事していたが、九天玄女娘娘神はとりわけ霊験があらたかで、漁民を庇護し、災いから救い、事業を振興させ、男の子が生まれ、一年中災難が無く、一年間慶事ばかりとなった。現在に至るまですでに二百年の歴史がある*44

筆者は別稿で、皮影戯の上演が集中しているのが高雄市南部の漁港であること、それらは劇団が集中する高雄市北部の漁港とも繋がっていること、さらにこれら地域の皮影戯は「消えた潮州移民」の文化だった可能性があることを指摘した*45。これを踏まえると、上の「九星壇沿革誌」で九天玄女を高雄市北部の漁民を守る神としていることは示唆的である。恐らく、現在の高雄市北部にかつて潮州移民がやって来て皮影戯文化をもたらし、漁業に従事しながら香港のグループ同様に九天玄女信仰を保持していたものと思われる。そうすると、「日本の港」に手紙を送るという表現から考えても、陶公父子が住んでいる「隔海之地」は台湾を指し、蘇雲の境遇は台湾の潮州移民の状況に重ねたものと解釈できるのではないだろうか。

4.おわりに

広東省東部に「正字戯」と「白字戯」という伝統演劇が分布している。正字戯は正字、すなわち「中州話」を中心とし、これに潮州語を混ぜて上演を行う、弋陽腔諸腔の一種である。また白字戯は潮州語のみで上演する後発の土着演劇であるが、役者は基本的に正字戯も兼ね演じている。両者の関係は旧時の北京における崑曲と京劇に似ており、正字戯はすでに単独では存続が難しくなっていて、白字戯に寄りかかっているのである。そのため陸豊市・海豊県では両者を別劇種としているが、潮州市では両者を合わせて「潮劇」と呼んでいる。

陸豊皮影戯は白字戯に属するが、人戯の白字戯と同じく正字戯も行うため、個々の演目がどちらに属するのかが見えづらくなっている。しかし1960年代に『羅衫記』が人戯の白字戯に移植されたことから考えると、この演目は白字戯の系統で、それはこれを基礎として発展した台湾皮影戯『蘇雲』も同様である。白字戯は土着の新興演劇であったために、演目は弋陽腔諸腔の一種である正字戯とは異なるソースを持ち、また演目の内容も可変性が大きかった。陸豊皮影戯『羅衫記』と台湾皮影戯『蘇雲』の間に、物語の発展の状況を見て取ることができるのは、そのためである。『蘇雲』は、台湾に渡った芸人たちが元の物語を現地の状況に合わせて発展させた演目だったのだろう。一方、台湾皮影戯の上四本のうち、他の三種はいずれも正字戯に属する演目である。この点から考えると、台湾皮影戯も陸豊皮影戯同様、正字戯と白字戯を兼ねた劇種であり、両者の一体化が起こった段階の皮影戯が中国から伝わって、現地で独自の発展を遂げたもの、と言うことができる。

なお陸豊皮影戯の白字戯の演目は、人戯の白字戯と完全には一致していない。鄭守治氏の言う、1960年代に陸豊皮影戯の『羅衫記』が陸豊市・海豊県の白字戯や潮州市の潮劇に移植されたという話は、逆に言えば人戯の白字戯にはもともと『羅衫記』が無かったことを表している。同一の声腔を行うはずの人戯と人形劇の間で演目が異なるという現象は、陝西省の秦腔(人戯)と碗碗腔(皮影戯)など、他地域にも例があるが、広東省東部でこれが発生した理由については、なお検討の余地が存在する。この点については、また稿を改めて考えたいと思う。

*本稿は日本学術振興会科学研究費補助金「近現代中華圏の伝統芸能と地域社会~台湾の皮影戯・京劇・説唱を中心に」(平成27~30年度、基盤研究(B)、課題番号:15H03195、研究代表者:氷上正)による成果の一部である。


*1 「這四本你若不會,就別想做皮影戲。」(永興楽皮影劇団張歳の発言、「高雄市皮影戯館」Webサイト掲載インタビュー映像、http://kmsp.khcc.gov.tw/home02.aspx?ID=$4012&IDK=2&EXEC=D&DATA=75&AP=$4012_SK-39、2019年1月3日確認。
*2 山下一夫「台湾皮影戯『白鶯歌』と明伝奇『鸚鵡記』」、『中国都市芸能研究』第十五輯、2017年、pp.5-30。
*3 林鋒雄、「論台湾皮戯『蔡伯皆』」(『漢学研究』19-1、2001年、pp.329-353)および鄭守治「全本『葵花記』戯文輯考」(『韓山師範学院学報』2010-5、pp.683-689)。
*4 鄭守治「台湾皮影戯“潮調”劇目、唱腔淵源初探」、『正字戯潮劇劇本唱腔研究』(中国戯劇出版社、2010年)、pp.171-192。
*5 陳憶蘇『復興閣皮影戯劇本研究』(国立成功大学歴史語言研究所碩士論文、1992年)、p126。
*6 蘇雲偕妻鄭氏在赴任途中遇強盜徐能,蘇雲被綑落江中,幸被陶公所救。鄭氏被捕擄,後為徐用所放,在庵中產兒,尼姑庵中無法收留,鄭氏便以臨別時母親所贈之羅衣裹兒,棄之柳蔭下。此兒被徐能所拾並撫養成人,十九年後徐繼祖赴考時曾遇張氏(蘇雲之母),明其不幸境遇且獲贈當年所留下的另一件羅衣,高中後逢鄭氏告狀,徐繼祖乃對自己的身世起疑,進而追查,終於真相大白,闔家團圓。
*7 施博爾『民俗曲芸』3、1981年、pp.30-87。
*8 『古本小説集成』影印兼善堂刊本、上海古籍出版社、1990年。
*9 譚正璧(編)『三言両拍資料』上、上海古籍出版社、1980年、pp.272-280。
*10 人民文学出版社、1959年、pp783-786。なお当該箇所は『伝奇彙考』に見えないので、康熙年間に成立した『楽府考略』に基づくものと思われる。
*11 係明時人所作,未知誰手,演蘇雲事。本之小說,曰:〈蘇知縣羅衫再合〉,姓名事蹟皆符。(劇中以蘇夫人產子之後,收生媪引入王尙書家,為其女之乳母,其後徐繼祖遊尙書園,蘇夫人突出告狀,此節稍異。徐用為僧,亦係添出,餘並相同。又《太平廣記》中崔尉子事,絶相似。)涿州蘇雲,明永樂間登進士,除授蘭谿尹,挈妻赴官。舟至黃天蕩,船戶徐能行劫,縛雲投水中,掠其妻鄭氏還家,(在儀眞五壩。)使老婢朱媼守之。徐能弟徐用者,義士也,乘能與衆賊飮,令鄭氏從後門出。朱媼願與同去。夜走五六十里,朱媼不能前,投井而死。時天色微明,路旁有茅庵,鄭氏叩門求暫息,尼出延入,而鄭適分娩,遂於廁屋中產一子。恐賊踪跡得之,以所衣羅衫裹其兒,衫內插金釵一股,棄於道,地名大柳村。鄭氏乃削髮於當塗縣慈湖老庵中,徐能追鄭不及,得其子,撫為己子。及長,名曰徐繼祖,年十五,即發鄕榜。會試經涿州,人馬俱疲,入一室,見老婦,求飮。老婦見繼祖,不覺淚下。怪問之,對曰:「老身張氏,有二子,長子蘇雲,職受蘭谿尹,喪於江盜之手。使次子雨往探,又沒於蘭谿。(蘇雲去三年。家中無信。母使其弟雨往探。後任高尹。送寓城隍廟。未幾病亡。高為殯殮。停柩于廟中。)今見君面貌與長子無二,不能不感傷也。」繼祖亦為歎息,是夕宿老婦家,明日將行,老婦取羅衫一件相贈,曰:「老身有兩白羅衫,男女各一,花樣皆同。女衫與兒婦矣,男衫摺疊時燈煤忽墜,領燒一孔,嫌其不吉,未與兒服。今見君如見吾長子,故以此相送。春闈得第,煩君使人於蘭谿探一實信,寄與老婦。」言訖痛哭,繼祖亦不勝感傷。會試登進士,授中書舍人。居二年,擢監察御史。奉差往南京刷卷,就便省親歸娶。道至當塗,適前蘇夫人鄭氏來訴寃,繼祖取狀觀之。所吿者,即徐能也。繼祖因思涿州老婦之言,心疑其事。且少時同學常笑己非親生子,此惟老僕姚大知之。(姚大妻,繼祖乳母。)因呼詰問,僕不敢隱,具以實吿,遂幷得所裹羅衫於大妻。先是蘇尹被沉,為徽客陶某所救,流離數載,敎學三家村。久之別去,過常州,求籤於烈帝廟,有骨肉團圓金陵豸府之語。(按烈帝姓陳,名杲仁,隋末為沈法興部將。法興作亂,杲仁自剖其腹,以水滌腸而死。唐以後崇祀加封,廟曰西廟,又曰陳司徒廟。籤最靈驗。)即往南京,投狀于操江林都御史臺下,林與繼祖言及之,會徐能自以御史之父,揚揚自得。與賊前同謀害尹者俱抵署中。繼祖與聚飮。令人盡擒之。(有趙三、翁鼻涕、楊辣嘴、范剝皮、沈鬍子等。)以蘇尹證,諸賊皆俛首伏罪,遂並誅之。獨釋徐用,乃拜跪呼蘇尹為父。初不敢承,出羅衫為據,始知果為己子。於是以羅衫往迎鄭氏於庵,因上疏復姓名曰蘇泰。葬其叔蘇雨,且迎祖母就養。初徐能所操舟,乃王尙書舟也,後盜已誅,不株累王氏。尙書感之,因以愛女妻繼祖。
*12 文学古籍出版社、1957年。
*13 巻上四十四葉。
*14 我蘇雲,被劉權羈留在此,不知母親兄弟在家安否如何。妻子懷孕,被盜擄去,不知生死。教我曉夜縈牽,愁腸割肚,總付之長嘆而已。今劉權雖百般厚待我,到底不設一謀,幾次要討回故鄉,爭奈他分付各處把守,不能得脫。
*15 巻下十四葉。
*16 我江中當日,曾害一蘇雲。座上分明是那人,咦,莫非眼底見冤魂。
*17 巻下十六~十七葉。
*18 [淨]蘇先生,你不信也罷,我與你換了睡如何。[生]這個何妨。待我到大王房中去睡就是了。…(略)…[丑上]今生事,前世孽,管教伊一命絕。[殺介]且喜蘇雲已死,我悄悄下山去罷。
*19 巻下十八葉。
*20 [衆]蘇爺,山中不可一日無主。大王既死,小的每願立蘇爺為寨主。[生]說那里話來,我一向被他羈囚,恨無雙翅。今幸天敗,你我還鄉有日了。
*21 張弘(改編)「白羅衫」、王文章(主編)『蘭苑集萃 五十年中国崑劇演出劇本選』第三巻(文化美術出版社、2000年)、pp.451-481。
*22 曾白融(主編)『京劇劇目辞典』(中国戯劇出版社、1989年)、pp.932-933。
*23 土屋育子「『琵琶記』テキストの明代における變遷――弋陽腔系テキストを中心に――」(『研究論文―教育系・文系の九州地区国立大学間連携論文集―』第3巻第1号、2009年、pp1-20。
*24 山下一夫「台湾皮影戯『白鶯歌』と明伝奇『鸚鵡記』」、pp20-21。
*25 山下一夫「台湾皮影戯『白鶯歌』と明伝奇『鸚鵡記』」、p29。
*26 田仲一成『中国地方戯曲研究』、汲古書院、2006年、p742。
*27 鄭守治「台湾皮影戯“潮調”劇目、唱腔淵源初探」、p182。
*28 以上各句的用語、意思基本相同,只是順序有小差異而已。《羅衫記》是陸豐皮影的常演戲碼,1960年代至今為海豐白字戲劇團改編、演出。《羅衫記》為潮劇傳統劇目,1960年代至今仍有改編、演出。漳州皮影也有傳統劇目《白羅衣》(即《羅衫記》)。
*29 千田大介「陸豊皮影戯初探」、『中国都市芸能研究』第十四輯、pp.33-60、2016年。
*30 鄭守治氏より複写をご提供いただいた。ここに記して感謝申し上げる。
*31 第十六葉。
*32 第十三葉。
*33 第五葉。
*34 第十九葉。
*35 第十六葉。
*36 第四十七葉。
*37 第三十六葉。
*38 第七十三葉。
*39 第五十二葉。
*40 保定道教網・白花尖大廟、http://www.bddaojiao.com/ArticleContent.asp?cid=3128&lmid=116、2019年1月3日確認。
*41 例えば清・康熙年間の『澄海県志』巻九「寺観」・巻十「古蹟」を見ても、現在の汕頭地区に九天玄女廟は見当たらない。
*42 仇徳哉『台湾廟神伝』(著者自印、1979年)pp.355-357および仇徳哉『台湾之寺廟与神明』(台湾省文献委員会、1983年)第四冊pp.132-133。
*43 高雄市茄萣区和協里港埔二街1号,中央研究院人社中心地理資訊科学研究専題中心、文化資源地理資訊系統、http://crgis.rchss.sinica.edu.tw/temples/KaohsiungCity/chieding/121514-JXT、2019年1月3日閲覧)。
*44 本九星壇創建于前清初期,緣由吳姓祖先從大陸迎奉來台,安祀於港仔埔吳姓家宅。古時港仔埔住民,均以靠海捕魚為生,九天玄女娘娘神尤顯赫、廣庇漁民、解厄度劫、事業振興,家口添丁、四時無災,八節有慶,迨今已歷二百年矣。
*45 山下一夫「台湾南部における影絵人形劇の上演について――中元節を中心に」、『中国都市芸能研究』第十六輯、2018年、pp.30-57。