『都市芸研』第十四輯/陸豊皮影戯初探

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陸豊皮影戯初探

千田 大介

1.はじめに

中国の影絵人形劇、影戯*1は、河北・陝西など北方地域でとりわけ盛んであるが、長江以南の地域でも、湖南・安徽・浙江などで行われている。陸豊皮影戯もその一つであり、現在、華南地方で行われている唯一の影戯でもある。陸豊は広東省東部、汕尾市に属する県級市で、広州と潮州のほぼ中間に位置する。方言はいわゆる福佬話、すなわち閩南語に属する。

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陸豊から広東省潮州・福建省漳州・泉州そして台湾などの閩南語圏では、かつて同じ系統の影戯が行われていたが、現在では陸豊皮影戯と台湾皮影戯だけが演じられている。江玉祥はこれらの影戯を「潮州影系」と総称しており、多くの先行研究がその名称を踏襲している。しかし、潮州という呼称を冠することは、あたかも同地の影戯が潮州で形成されたかのような印象を与えるが、後で見るように、潮州が影戯の一つの中心地であったことは確かであるものの、同地で形成されたか否かさだかではない。影戯の名称は一般に流行している地域名を冠して呼ばれるので、「閩粤台影戯」と称するべきだが、台湾皮影戯は閩南・粤東から伝播しているので、台湾を入れずに「閩粤影戯」と称するのが妥当であろう。陸豊皮影戯・潮州紙影戯・台湾皮影戯などは、閩粤影戯の下位分類ということになる。

本稿は、科研費研究「近現代中華圏の伝統芸能と地域社会~台湾の皮影戯・京劇・脱唱を中心に」の展開にあたり、台湾皮影戯の源流である大陸の閩粤影戯に関する先行文献の整理・検討を行い、その実態と現状を明らかにするとともに研究状況を把握することを目的とする。そこからさらに、閩粤影戯の特徴と形成・伝播・変容の過程、および陸豊皮影戯・潮州紙影戯と台湾皮影戯との関係などに関する研究課題の析出を試みたい。

なお、本稿は台湾皮影戯の比較対象としての閩粤影戯・陸豊皮影戯の状況把握に目的がある。このため、台湾皮影戯研究には言及せず、また台湾皮影戯との比較検討については稿を改めて論ずることとする。

1.2.閩粤影戯・陸豊皮影戯の主要先行研究

閩粤影戯および陸豊皮影戯に関する先行研究は、中国の他の地域の影戯と同様、さほど多くない。この点は、学術論文・書籍のみならず、フィールドワークを踏まえた修士・博士論文が多数公開されている台湾皮影戯と、大きく状況が異なる。

中国における影戯研究のメルクマールとなった江玉祥1992・1999は、「潮州影系」という語を創始するなど影響力は大きいが、同地域の影戯に関する記述そのものは多くない。「第四章清代影戲鳥瞰」で、清代の文献を引きつつ光緒年間の紙影戯の隆盛に言及するが、「第五章 民國年間的影戲」には極めて簡単な言及しかない。このほか、「第七章 中國影戲的流派及其分佈地域」で広東・福建・台湾のみならず東南アジアで行われていること、アメリカ・シカゴのフィールド自然史博物館に影人の収蔵があることに言及している。

閩粤影戯に関する研究は、近年、地域的にも近い中山大学のグループによって展開されている。康保成等2005は、陸豊皮影戯に関する、おそらく初の学術論文である。中山大学のグループによる陸豊現地調査の結果を踏まえており、同地の影戯の概況が的確に纏められている。ただし、陸豊皮影戯の社会経済的環境―コスト・上演頻度といった点に関する聞き取りが行われた形跡がなく、研究方法が明確ではないなど、若干の物足りなさもある。

閩粤影戯の専著としては、鄧琪瑛2009・2010が挙げられる。鄧琪瑛は福建省出身で中山大学の博士課程を修了している。鄧琪瑛2009は福建・広東・台湾の「潮州影系」を同種の影戯としてひとくくりに扱っている点が特色である。しかし、清代中期に分化し近代以降全く異なる社会環境に置かれてきた大陸と台湾の影戯を区別せずいっしょくたに論ずるのは、ややもすれば断章取義的であり、また挿図の撮影地点が明記されないなど、参考資料として扱う際には注意を要する。

鄧琪瑛2009

鄧琪瑛2010は中山大学のグループによる〈中国皮影戏的历史与现状〉シリーズの一冊である。こちらは潮州・陸豊・台湾などの影戯を区別して記述している。同地域の影戯の状況が良く纏められており、閩粤影戯を研究する上で1つの出発点となる論著であるといえよう。ただし行論については、先行研究への批判が全くなされないなど、疑問も多い。例えば同書では、潮州影戯が陝西の関中皮影戯と密接な関係にあることを強調するが、論拠は影人や劇団の呼称、楽器の共通性くらいしかなく、影人・声腔・劇団構成などの決定的差異を顧みていない。かかる論が発想された動機は、斉如山がさしたる根拠もなく皮影戯の発祥地が陝西・長安であるとの推論を述べた*2ことを無批判に受け入れ、発祥地の皮影戯と閩粤影戯とを直接結びつけようとしたことにあろう。このほか、仏教・道教との関係を論ずるが、宗教と民間信仰の差異が充分に理解されているとは言いがたく、また他の劇種・曲種との比較も皮相的である。

鄧琪瑛2010

王暁鑫等2014は研究書ではないが、陸豊皮影劇団の関係者が纏めた陸豊皮影戯の専著であり、資料的価値は高い。特に陸豊の皮影戯芸人の伝記や家系、陸豊皮影劇団の沿革や現状について詳しい。ただし、研究書ではないので記述の根拠が時に不明瞭である点に留意する必要がある。

王暁鑫等2014

このほか地方の文化工作関係者や芸人の著作も幾つかあるが、それらについては必要に応じて言及することとしたい。

ところで他の地域では、しばしば工芸美術の立場から影戯に携わっている人物がおり、また影人が蒐集対象になっていることもあり、影人の図版が刊行されていることが多いが、閩粤影戯に関しては、管見の限りでは台湾皮影戯を除き図版が刊行されていない。これは影人の造形がいささか洗練されていないことに起因するものと思われるが、影人の造形は影戯の性質を考察する上での重要な資料となるので、刊行が俟たれる。

2.閩粤影戯の種別と伝播

2.1.閩粤影戯の流行範囲と種別

閩粤影戯は前述のように、福建省泉州・漳州から広東省潮州・陸豊にかけて、および台湾南部で行われていた。閩南語が地域によってかなり異なるのと同様に、閩粤影戯も多くの支流に分かれている。

福建省の漳州一帯で行われているものは、竜渓影戯・竜渓紙影戯とも呼ばれる(竜渓は漳州市区一帯の旧称)。広東省潮州では紙影戯の呼称が一般的で、紙製の影人が用いられる。また潮州紙影戯は清末民初に木偶戯化しており、それを鉄枝木偶戯と称する(詳細は後述)。そして陸豊では皮影戯が行われている。

このように閩南・粤東では紙影戯と皮影戯が行われており、両者を別系統の影戯ととらえる意見もある。

「紙影戯」と「皮猴戯」、この二種類の呼称が同じ閩南影戯にあるのは、いささか矛盾している。紙影戯の影人は紙を彫刻して作られるが、皮猴戯の影人は主に牛の皮で彫刻される。これは少なくとも、閩南地域の影人は二種類あり、あるものは紙で作った影人を使い、あるものは皮の人形であることを示している。調査によると、陸豊地区の影人は牛の皮を彫刻したものを使っており、台湾の影人の材質も牛の皮であって、紙影は無く、二種類の影人を交えて使ってはいない。筆者が陳鄭煊氏の家で見た影人は、大多数が皮影で、紙影はほとんどなかった。ここから、紙影の潮州影系における使用率は決して高くないことがわかる。しかし、なぜ閩南影戯、ないし全潮州影系は、いずれも「紙影戯」と呼ばれるのであろうか。筆者は、「紙影戯」と「皮猴戯」は閩南に流入した異なる流派の影戯を代表しており、単なる影人の違いだけではないのではないかと疑っている。*3(张冬菜2006)

しかし実施には潮州などの紙影戯も「皮猴」などと呼ばれ、皮革の影人も存在していた。

紙影戯の俗称は「皮猴戯」、また「皮影戯」、「鉄線戯」などともいう。*4(宗文1999)

牛の皮を彫刻し、色で飾り、帝王や大臣から庶民に至るまで全て揃っている。このため、皮影あるいは皮猴と呼ぶものもいる。*5(蕭遥天1984)

人形は紙、あるいは皮革で作る。潮州には羊の皮が少ないので、多く牛の皮や豚の皮を用いる。*6(黄長怡2011、p.50)

陸豊皮影は、大半が牛の皮を彫刻し、紙の人形は比較的少ない。牛の皮が欠乏した特殊な状況になって初めて紙の人形に換えることだろう。だから紙人形は当地は行われていない。影人は自分で作ることもできるし、よそで購入してもよく、一般にはみな福建あるいは潮州から買ってくる。*7(鄧琪瑛2010、p.91)

一般に影人の材質は、現地で入手可能な素材に左右される。北方ではロバ・ラバ・牛など、大型の家畜資源が豊富であったが、南方では皮が厚くて影人には余り向かない水牛などに限られ(上に引いた資料における牛は、水牛を指す)、さらにその入手が困難である場合は、耐久性に劣る紙を使うことになる。

鄧琪瑛2010が端的に述べるように、閩粤影戯においても影人に皮革を用いるか紙を用いるかは素材の入手しやすさによって決定されていたのであり、それによって異なる系統の影戯であると認めることはできない。閩南・粤東・台湾の影戯は、同系のものが、方言や社会環境などによって差異を生じたものと考えてよかろう。

閩粤影戯には、さまざまな呼称がある。「抽皮猴」・「皮猴戯」は、皮影影人の別称にちなんだ呼び方で、「皮戯」・「皮影戯」もそれに類する。一方、「紙影」・「紙影戯」・「四字紙影」は、紙製の影人による呼び方である。「竹窓紙影」・「白竹窓影」・「陽窓紙影」は影幕―スクリーンが竹枠で紙を貼ることにちなみ、「扁身紙影」は平らな影人を用いることによる。「扁身紙影」・「扁身紙影」は鉄枝木偶戯との比較による呼称でもある。

それでは、この地域内ではいかなる経路で影戯が伝播したのだろうか。閩南竜渓影戯については、粤東から伝播したとの伝承がある。

広東の潮州・汕頭一帯から福建の詔安・漳浦などの地に伝わった。*8(陳鄭煊1991)

一方、陸豊では閩南から伝播したと説明される。

陸豊内湖の陳維厳によると、300年あまり前に、彼の祖先は閩南から皮影を携えて、3方に分かれて外に生計を求めた。1つは台湾に、1つは潮州に、1つは海陸豊にたどり着いた。陳維厳は現在、16代目にあたり、祖先の陳天隠は皮影の芸人で、甲子鎮の明末の農民蜂起のリーダー、蘇亜六と深い関係にあった。蘇亜六は皮影から白字の曲の歌を覚えたので、陸豊の民間には「蘇亜六が白字の曲を歌う―字無し」という諺がある。*9(広東文化網2004)

伝わるところによると、南宋末年、閩南の移民が皮影戯を海陸豊地区に持ち込んだという。*10(王暁鑫等2014、p.3)

「字無し(無字)」は、陸豊で行われる伝統劇・白字戯(白字は方言の意)の歌では「噯咿哎」のように音を伸ばすことが多く、歌詞が意味を持たないことを言っている。また海陸豊とは、広東省汕尾市の海豊・陸豊の総称で、海豊は陸豊の西隣である。

これだけの記述では、同地域にいかなる経路で影戯が流入し、また地域内で伝播したのかは判断しがたい。同地域内で芸人がさまざまに移動し活動していたことが知れるだけである。

2.2.潮州・漳州紙影戯と鉄枝傀儡戯

閩南粤東の影戯のうち、歴史的資料が最も豊富なのが潮州紙影戯である。

夜は影戯が歓迎された。価格が安く手間がかからず、人の動きに音楽があわさり、夜通し集まりながめ、朝になってようやくお開きになる。長官が厳禁して、喧噪な風気はようやく治まった。*11(乾隆『潮州府志』)

潮州紙影戯も良い。必ず見所がある。*12(汪鼎『雨韭盦筆記』巻二「蛇虎怪異」)

潮州郡の町中の紙影戯は夜通し唱い、その声は遠近に響き渡る。*13 同前巻三「相術」)

影戯の上演を好み、銅鑼や太鼓の音が夜通し響く。*14(『澄海県志』)

怡情 五更の寒さを覚えず、聴くなかれ釧の鳴るを 心 歓を尽くす。太息 浮生 原より戯の若し、那ぞ堪えん 戯の影中に在るを観るに。
注:潮州の人はとりわけ影戯を好む。豚の皮で人物を作り、一丈四方の台を組み、紙でその前を隔てて、灯火を後に置き、革製の人形を紙の前で操って見せる。*15(陳坤『嶺南即事詩鈔』巻五)

潮汕地域では走馬燈、および影戯が木偶戯化した鉄枝木偶戯も紙影と称されるため注意を要するが、上に掲げたものはいずれも影絵人形劇である影戯に関する記述と見てよかろう。

清代中期以降、夜通し上演されるなど潮州では影戯が盛行していた。また『雨韭盦筆記』などの記述から、潮州紙戯が城内で行われていたことがわかる。

潮州では清末民初に影戯が木偶戯化する。

竹窓紙影、別名を四字紙影という。牛の皮を彫刻し、色で飾り、帝王や大臣から庶民に至るまで全て揃っている。このため、皮影あるいは皮猴と呼ぶものもいる。上演する際には、舞台の内側に油灯を一つ置き、舞台の外側には竹の枠をしつらえ、透明な白い紙を貼りつけると、映画のスクリーンのようになり、そこに投影する。これは、竹窓という名称の由来にもなっている。…中略…
潮州竹窓紙影は清末に一変した。物好きなものがまず紙のスクリーンをガラスに変えて、皮の人形をやめて、傀儡戯を模倣した。稲藁を束ねて胴体を作り、粘土の頭を付け、足や腕は空洞で、絹で包んで繋げて、紙の手と木の足を付ける。衣装は傀儡戯のようで、背が低く、つま先から頭のてっぺんまでおよそ5寸、背中と両手に計三本の針金を通して、傀儡の糸のような操作の道具とし、円身紙影と称した。舞台の中に縫い取りの幕や竹すだれ、小さな机と倚子を置く。昔の上演では影を見せたが、今は形を見せ、まるで傀儡戯のようである。後に舞台の前を覆っているガラスも取り去り、陽窓紙影と称し、竹窓と異なることを示した。*16(蕭遥天1984)

竹の枠に紙のスクリーンで演じられていた影戯がまずガラスのスクリーンで演じられるようになったのは、スクリーンに影人を押しつけながら演ずる、影戯の操作方法を踏襲したためであると思われる。やがて、ガラスに押しつけずに舞台の奥行きを利用した演出ができるようになって、最終的にスクリーンが不要になったのであろう。こうして成立した木偶戯は、現在、一般に鉄枝木偶戯と呼ばれている。また円身紙影とも称される。

鉄枝木偶戯への転化は、昼間の上演を可能にすることが動機であったようだ。

徐さんは紙影戯の芸人だったが、昼間に紙影は上演できないので、橋の工事に参加していた。工事の仕事が終わって家に帰ると、矢も楯もたまらずに芸人仲間を呼び集め、紙を束ねた人形を影人の代わりにして、昼間に上演するという考えを話した。*17(楊清意2001、p.475)

例えば山西省孝義の劇団・二義園が、旧時、昼間に杖頭木偶戯を演じ、夜に皮影戯を演じていたように*18、北方では皮影戯と木偶戯を兼ねて演じている例が散見される。一方潮州では、影戯劇団が布袋戯・提線木偶などの既存の木偶劇を兼ねて演ずることはなく、影戯をもとにした新たな木偶戯の創出によって昼間上演を実現している。これは影戯と木偶戯の社会的地位や作用の差異を反映していると思われる。

鉄枝木偶戯は、潮州から福建省漳州に伝播している。

鉄線木偶戯は操作に使う棒が針金であることから名付けられた。鉄線戯ともいう。清代、広東省東部から伝播し、詔安・雲霄・東山・平和・漳浦などの県で行われている。*19(漳州市地方志編纂委員会1999)

またマレーシア・シンガポールなど東南アジアにも伝播しており、現地に劇団も存在するが、その流行地域は、潮劇のそれとも重なっている。おそらく廉価版潮劇としてのニーズがあったものと推測される。また、鉄枝木偶戯は陸豊や台湾では行われていない。これも福建・広東・台湾における芸能伝播の歴史やあり方の一端を伝えているものと思われる。

鉄枝木偶戯の成立後、潮州紙影戯は次第に廃れていった。

この種の影戯は目下、潮州では基本的に姿を消しており、6・70歳の老人が見たことがあるだけである。彼らはそれを「白竹紙影」と呼んでいる。*20(黄長怡2011、p.49)

漳州でも竜渓影戯が途絶えている。

1923年以降、漳州紙影戯は次第に没落していったが、主に2つの原因がある。第1に、現地が何度も南北軍閥の乱戦に遭い、世間は不景気で、紙影戯の営業も振るわず、芸人の多くが食べるために仕事を変えたからである。第2に、旧社会では芸人を軽視しており、だれも紙影戯を学びたがらず、老芸人の技術を死後、受け継ぐ人はおらず、最終的に失われてしまったからである。*21(陳鄭煊1984、p.123)

潮州・漳州では鉄枝木偶戯は現在も行われているので、影戯が取って代わられた形になっている。

3.閩粤影戯・陸豊皮影戯の特色

3.1.影人

3.1.1.素材

閩粤影戯の影人の素材については前にも触れたが、潮州・漳州では紙製が多く、陸豊では水牛の皮を使うことが多い。

多く厚紙を用いる(ボール紙あるいはクラフト紙)*22(韋珊瑜2006、p.10)

人形は紙あるいは獣皮で作る。潮州では羊の皮が少ないので、多く牛の皮や豚の皮を用いる。*23(黄長怡2011、p.50)

以上は潮州紙影戯に関する記述である。一方、陸豊では水牛の皮を一般に用いる。

陸豊皮影戯の影人と背景はいずれも皮革を材料として作られているが、とりわけ水牛の皮が制作に適している。かつては豚の皮や紙をつかったこともあるが、いずれも牛の皮の丈夫さには及ばない。*24(王暁鑫等2014、p.24)

3.1.2.サイズと行当

影人のサイズは、潮州紙影戯では30cm弱である。

人形の背丈は一尺に満たず、舞台も比較的小さいことが推して知れよう。*25(黄長怡2011、p.50)

陸豊皮影戯の方が若干小さいようである。

陸豊の以前の影人は背丈がおよそ6・7寸で、小身皮影に属する。後に拡大された。*26(鄧琪瑛2010、p.91)

冀東皮影戯・陝西皮影戯は約8寸なので、大きさはほぼ同じである。ちなみに人形のサイズは、鉄枝木偶も影戯と同様である。

人形は長さ約1尺、紙影の頭と身体は分けることができ、違う役まわりに換えることができる。頭の長さは1寸から2寸までさまざまで、粘土を彫るあるいは貼りつけて作られる。……紙影の人物造形は影戯上演芸術の主体であり、人形が上演のニーズを満たせるように、人形を頭・手・足と身体のいくつかのパーツに分ける。頭は粘土で作り色を塗り、身体は稲藁を束ねて作り、紙を切って手を作り、木を削って足を作り、舞台衣装で頭・手・足を繋げ、背と両手に一本ずつ硬い針金を取り付け、上演に用いる。……人形の役まわりは一般に生・旦・外・貼・浄・丑・末の7種である。*27(韋珊瑜2006)

ここで鉄枝木偶戯の行当―役まわりに生・旦・外・貼・浄・丑・末があることが述べられているが、陸豊皮影戯とは若干異なっている。

陸豊皮影戯の行当は公・婆・旦・花・丑の5種に分かれ、人戯と同様である(閩西および広東の漢劇の役まわり分類もこのようであるという)。*28(鄧琪瑛2010、p.91)

伝統的な陸豊皮影戯の行当には生・旦・公・婆・浄・丑・貼・外・末・雑などが含まれる。*29(王暁鑫等2014、p.49)

両者では行当の種類が大きく食い違っている。これがインフォーマントの認識の相違によるものか、あるいは流派・地域などによる差異であるのかは、今後、解明する必要があろう。

3.1.3.造形

前の引用にも見えたが、影人の首・両手に棒を繋げて操作する方法は、陸豊皮影戯も他の地方の影戯と異なるところがない。関連文献に掲載された陸豊皮影戯影人の写真で確認する限り、首に付けられる操作用の棒―命根は、体の正面側に付けられている。2本の腕は、1つの針目で、同じ場所で胴体に接続されている。

また、生・旦の影人には腕を布で作るものもある。

最も特徴的なのが生・旦の両腕が全て布で作られている点である。北方の影戯と比較すると、肘の関節が無いとはいえ、複雑で柔和かつ変化に富んだ動作が可能である。*30(鄧琪瑛2010、p.91)

鄧琪瑛2010の表紙に、この種の影人の写真が使われている。これは、他の地域の影戯に見られない、陸豊皮影戯の特色であるといえよう。

陸豊皮影戯の影人は、現在は両手・両足のものを使っているが、以前は隻腕・隻脚のものも使われていた。

三本の竹の棒で操作し、以前は隻腕・隻脚の武生の影人があったが、今では既に見られなくなっている。陳忠暁によると、当初は二本の竹の棒の影人があり、隻腕で二本足が繫がった造形であったという。*31(鄧琪瑛2010、p.92)

隻腕・隻脚の影人は、浙江や湖北の皮影戯でも使われている。

頭は真横から見た形の五分臉である。魏力群は、陸豊皮影戯は旧時、輪郭をくり抜かない実臉を用いていたとする*32。その根拠は示されていないものの、陸豊皮影戯関連文献に引かれた写真などを参照する限り、事実であると認めて問題無いものと思われる。

隻腕・隻脚、実臉といった特色は、浙江海寧皮影戯と共通する。また、北方の皮影戯では、手足の接合部分で、一方を十文字にくり抜くが、陸豊皮影戯ではそのような処理を施さない。海寧皮影戯も同様の特色を持つ。浙江・福建・広東の沿岸部の影戯の間に、継承関係あるいは影響関係があることを窺わせる。

3.2.劇団

影戯の劇団は、2・3人程度の小規模なものから9人以上の比較的規模の大きいものまで、上演の方式と地域によってさまざまに分かれる。

閩粤影戯の劇団は比較的少人数で構成される。

紙影劇団は、メンバーが少数精鋭である。以前は4~6人しかおらず、多くが充分に世慣れた老優であった。新しいの(鉄線戯)も10人余りに過ぎない。*33(宗文1999)

紙影劇団は人数が比較的少なく、操作・歌唱・楽器各3人で、しばしば操作や楽器も歌唱を兼ねる。操作は多くがさまざまな技能を身につけた老芸人で、しばしば数人が舞台の中に隠れて操作・演奏・歌唱などの役割を兼ね、甚だしきは1・2人で劇全体の生・旦・末・丑のさまざまな節回しを全て歌う。*34(韋珊瑜2006、p.11)

潮州紙影では5人前後が一般的であったことがわかる。これは陸豊皮影戯でも変わらない。

老芸人たちの回想によると、旧社会では皮影を金儲け、生活のために行っていた。当時、1つの劇団には通常5人いた。影窓は白いパラフィン紙で作られ、高さは1メートル前後、影人はおよそ7・8寸である。2人が並んで座って影窓の後で操作し、現在のように走って行ったり来たりはしない。豆油灯は2人の中間に置かれる。1人は3・4体の影人を操作できる。*35(康保成等2005、p.51)

劇団員の分担は以下のようになる。

陸豊皮影戯の上演分担は簡単である。大きく、前場(操作・歌唱)と後場(伴奏)に分かれ、1つの劇団は6・7人程度であった。2人が操作、2人が弦楽器、1人が銅鑼、1人が伴唱である。操作する者が主唱を担当し、しばしば操作する者と楽師も兼ねて唱った。*36(王暁鑫等2014、p.47)

2人が人形操作と歌唱を担当する方式を採っている。一方で、より少人数の劇団構成もあった。

彼らの大多数は半農半芸のスタイルで現れ、農閑期にアマチュアの皮影劇団を組織した。人数が少なく組織が臨機応変なので農村を行き来するのに便利で、各劇団は2・3人と1担ぎの荷物の小量の影人と道具さえあれば、農村や山地に踏み行って上演することができ、しかも謝礼が安かったので、農民たちがよく上演を頼むようになった。*37(王暁鑫等2014、p.17)

ここで「彼ら」と呼ばれているのは、1930年代に活動を始めた世代の芸人たちのことである。5人よりも更に少ない2・3人で農村上演を行っている。また、潮州では専門の影戯芸人がいたが、陸豊ではアマチュアが主体であったことがわかる。むしろそのために、現在まで命脈を保ち得たのであろう。

経験豊かな陸豊皮影戯の芸人は、一人であらゆる行当から楽器までをこなすことができた。

以前、多くの芸人は「独角影(一人影絵)」を得意とした。潮州影の「座って演ずる方式」と「独角影」には密接な関係がある。1~2人が舞台の全登場人物の操作を担当し、上演者は歌いながら操作し、異なる性格の役柄を表現する。とりわけ芸人が「独角影」を上演するときはいっそう忙しく、銅鑼や太鼓(鈸を含む)を打ち鳴らしながら、また歌い、拍子木を叩くことができた上にチャルメラを兼ね、そのほかに影人を操作し、全能だといえよう。*38(王暁鑫等2014、p.17)

大半の地域の影戯では、スクリーン裏に立つか倚子に腰掛けるかして上演を行うが、潮州紙影戯・陸豊皮影戯では、舞台裏であぐらをかいて上演する。その姿勢ゆえに足が自由になり、多くの楽器まで兼ねて演奏できるのであろう。

3.3.声腔

影戯の声腔は、一般に同じ地域で行われている伝統劇の影響を受ける。閩粤影戯についても、それは同様である。

紙影劇団と潮劇劇団いずれも潮腔を唱う。潮州紙影は長い歴史的経緯を経て、「正音」から潮腔へと変化・発展して今日に至っており、楽曲・楽器・声腔を問わず、いずれも潮劇と軌を一にしている。*39(韋珊瑜2006、p.11)

これは鉄枝木偶戯に関する記述であるが、その前身である紙影戯でも同様であったと見なしてよかろう。一方、陸豊皮影戯については、以下のように説明される。

陸豊皮影は福佬方言で歌われ、セリフも方言を使う。音楽は曲牌聯套体を主とするが、曲牌名は大部分が失われており、名前のわかるものは【四朝元】・【下山虎】・【駐云飛】・【鎖南枝】・【紅衲襖】など数曲しかない。歌唱にはいくつかの民歌・小調が使われるが、その主体は正字戯の大板曲の“言葉は易しく歌は高らか、しばしば一人が歌い一同が唱和する”である。*40(康保成等2005、p.48)

陸豊影戲は以前、正音を歌ったが、後に白字に改めた。立ち回りの劇目も正音を踏襲している。「洗叉」の儀式も正音戯に起源する。*41(鄧琪瑛2010、p.50)

正音、すなわち正字戯の音楽がベースになっていることが分かる。この点は、潮州紙影戯・鉄枝木偶戯と同様である。

粤東地域には多くの伝統劇が行われているが、正字戯はとりわけ歴史が古いとされる*42。正字・正音は官話の意味で、明の宣徳七(1432)年抄本の『劉希必金釵記』巻末に用例が見られる。曲牌聯套体で南戯の流れを汲み、弋陽腔・青陽腔さらには崑曲・乱弾などの影響を受けて変化してきた。現在は海陸豊でのみ行われている。

潮劇は曲牌聯套体と版式変化体の複合的な声腔を用い、潮州方言で演じられる。その聯曲体の部分は正字戯とほぼ同様であり、明代より粤東地域で行われていた官話を用いる南戯系の劇が、外来の声腔・劇種の影響を受けつつ、方言化することで異なる劇種に発展していったものとみてよかろう。

一方、海陸豊では方言で演じられる白字戯も行われている。やはり曲牌聯套体で陸豊皮影戯はその影響も受けている。

粤東ではこのほか、広東漢劇・西秦戯などさまざまな劇種が行われている。閩粤影戯の音楽については、今後、それら地方劇との詳細な比較検討を行う必要があろう。

3.4.演目

陸豊皮影戯の伝統演目については、王暁鑫等2014が掲げるリスト(p.62)に92種が挙げられている。そこには『三元記』・『古城会』・『呂蒙正』・『金釵記』・『高文挙』・『珍珠記』などの南戯に起源する劇目が多く挙げられている。潮劇・正字戯などでは、南戯伝記に由来する演目がレパートリーの重要な構成要素となっており、陸豊皮影戯もその影響を受けているのであろう。潮州の鉄枝木偶戯についても、「紙影の劇目は潮劇と同じである」(韋珊瑜2006、p.11)*43とされている。

潮劇や正字戯では、物語のあらすじだけ決まっており、具体的なセリフについては俳優の即興性に任せて演じられる「提綱戯」が存在する。正字戯では、武戯が提綱戯となっている*44

陸豊皮影戯では、初期の演目はいずれも口伝の提綱戯であったという。

早期の陸豊皮影戯には書面の台本がなく、完全に芸人たちの口伝に依拠して上演されるいわゆる「提綱戯」であった。*45(鄧琪瑛2009、p.108)

台本が口伝であることと、即興的に演じられることは必ずしも同義ではないので、提綱戯という語が台本が存在しない演目といういささか異なった意味にも使われていることになり、詳細に確認する必要があろう。

陸豊皮影戯の文武戯は時間帯で演じ分けられていた。

環林の卓家班は、依然として夜半までに武戯を、夜半過ぎに文戯を演ずる「半夜反」の上演形式を採ってい

る。*46(康保成等2005、p.51)

この半夜反という上演方式は白字戯に由来するものである。

官話を話すことから、物語を演じるだけで唱わない、あるいはほとんど唱わない「提綱戯」が大量に加わり、広く夜半までは提綱戯を、夜半過ぎになってから方言で唱う文戯を上演する習俗が形成された。この種の特殊な上演形式を、人々は「半夜反」とも呼んだ。*47(『中国戯曲志』広東巻、p.1653)

前述のように白字戯の提綱戯は武戯と等しい。

なお、他の芸能との関係としては、閩粤影戯の潮州歌冊との関係を鄧琪瑛2010が指摘している。その論拠は台本のスタイル・物語の共通といった点にあるが、前者は聯曲体・板腔体というスタイルの共通性として説明できるし、後者も挙げられているものの大半は清代地方戯に一般的な清代通俗小説に基づくレパートリーであるため、いささか説得力に欠ける。影戯と潮州歌冊との関係は、台本・物語の継承関係よりもむしろ、人戯・偶戯・曲芸などが共時的に存在した、その社会的関係性などの側面から考察すべき問題であると考える。

3.5.上演と風習

陸豊皮影戯の光源は、以下のように変化した。

陸豊皮影の光源は以前は豆油灯を使っていたが、後にガス灯に改められ、1949年以後、次第に電灯を使うようになった。*48(康保成等2005、p.48)

ガス灯の使用は、他の地域の影戯に見られない現象である。

農村での上演が多い中国の影戯は、農閑期に上演されることが多いが、陸豊皮影戯もその例に漏れない。

以前は農閑期であれば、必ず皮影劇団に上演を頼む人がおり、一年間途切れることがなかった。とりわけ節句での上演が多かった。もしもある村で不慮の死があると、なおさら皮影劇団を上演に招いた。このため皮影戯の上演にはしばしば、死者の供養という性質を帯びた。*49(康保成等2005、p.51)

上演にあたっては、まず儀礼が行われた。

陸豊皮影は新しい場所で上演するたびに、「洗釵」の類の「浄場」の習俗と開場戯『搬仙』の上演を行う。「浄場」のとき、全ての観衆はしばらく上演場所から離れ、上演の主催者が鶏を備えて、爆竹を鳴らし、芸人が舞台裏で銅鑼や太鼓などを打ち鳴らして駆邪を行い、その後でようやく観衆は入場を許される。『搬仙』は上演の初めに行われるしきたりの劇で、「跳加官」・「跳三仙」(福・禄・寿)の類の目出度い劇を上演する。本来は(官話の)正字(戯)で上演されるが、現在は(方言の)白字(戯)でセリフをいう。*50(康保成等2005、p.48)

かかる儀礼は、人戯などでも行われうるものであり、現地の他の劇種との比較検討が必要であろう。

陸豊皮影戯はまた、他の人戯から尊重されていた。

海陸豊地区では、皮影戯の地位が高い。上演時には、皮影劇団の上演が始まらないと、人戯の劇団は始めようとしない。このため、人戯の劇団はしばしば皮影劇団に頼んで早めに始めてもらう。*51(康保成等2005、p.48)

木偶戯は広く人戯から尊重されているが、影戯については管見の限りでは同様の例は見あたらない。あるいは、閩南・粤東の木偶戯への尊重を皮影戯が継承したものであろうか。

陸豊皮影戯の祖師爺は田元帥である。

陸豊皮影は田元帥(「田老爺」とも称する)を芝居の神として敬っている。芸人の言い伝えでは、皮影は唐朝に起源する。李世民が即位するとき、苗元帥(十八翰林の1人)という人が梨園の子弟を創始し、梨の葉で影絵を演じ、国母の病を治したことから、皮影戯が誕生した。苗元帥は後に斬首され、「苗」字から草冠を取り除いて「田」となり、そのため皮影劇団の芸人は田元帥を敬うのである。別の伝説では、唐の玄宗のころ、その配下の大将・雷万春が幼かったとき、母親が病となり、雷万春は梨の葉で影絵を演じて母を楽しませ、母親は健康を取り戻した。この後、玄宗は長安で皮影戯を上演させた。後に田元帥は軍令違反によって斬首されたので、「雷」の字から「雨」を取り除いて「田」となり、そのため後に田元帥が芝居の神となった。*52(康保成等2005、p.48)

田元帥、あるいは田都元帥は、福建・台湾地域の伝統劇の祖師爺として知られている。しかし、その起源に関する伝承について、徐亜湘1993や李喬2000は雷万春を挙げるのみで、苗元帥説の存在には言及していない。

この伝承は、北京西派皮影戯の祖師爺である観音に関する伝承を直ちに想起させる。

観音はかつて華陰県(陝西省に属する)を救ったという。あるとき、観音は華陰県にまもなく禍が降りかかることを知り、華陰県から離れたところで、仏光を幕とし、竹の葉を影とし、自ら布団に座って、勧善の物語を演じ、華陰県の民草を劇の見物に引き寄せて、災難から逃れさせた。*53(翁偶虹1985、p.192)

北京と広東とは遠く隔たっているが、木の葉を用いて演じたとしている点が一致する。布団に座るのは、陸豊皮影戯のあぐらをかいて上演する方式と似ており、他の地域の影戯には見られない方式である。

また、苗姓の祖師爺は、山西碗碗腔皮影戯などに見られる苗荘王にまつわる伝承を想起させる*54。苗荘王はすなわち『香山宝山』などに見える観音出身故事に見える妙荘王であり、やはり影戯における観音信仰を反映した伝承である。陸豊皮影戯における田都元帥の旧姓を苗とする伝承は、観音を祖師爺とする北方皮影戯の影響を受けた痕跡と見ることも可能であろう。

更に興味深いのが「大頭坎」である。

『搬仙』の後、「大頭坎」と呼ばれる役まわりが、ひとしきり順口溜を話すことになっている。「大頭坎」は頭が異様に大きく、額が突き出て、頭の後に弁髪を下げ、馬褂を着て、地主の姿をしている。順口溜は当地の村掟に関する内容で、言葉は諧謔に富んでおり、上演は滑稽である。この特殊なプログラムはその他の劇種には見えず、おそらく陸豊の皮影芸人の創造であろう。*55(康保成等2005、p.48)

丑の中の特殊な役柄で、額が芸人によって故意に誇大に変形され、頭部の半ばを占め、非常に突き出ているため、「大頭坎」と呼ばれる。それが登場する前に、芸人はわざと太鼓の曲を演奏して観客の注意を引き、通常は順口溜を語り、主に笑いを取るのに使われる。それは、さまざまな役柄を演ずることができ、ある人物に限らず、童や召使いなどの脇役をすることもできる。ときには宣伝教化の機能を担うこともあり、劇を招いた代表者に代わって木材の伐採を禁じる公約などを読み上げる。伝統的な閩南影戯にも大頭坎という役柄があり、作用も同じである。*56(王暁鑫等2014、p.33)

大頭坎(王暁鑫等2014、p.33)

影人のデザインは少々異なるものの、その機能・特色は北京西派皮影戯・冀東皮影戯の大師兄・大下巴と似通っている。

以上のように閩粤影戯には北京西派皮影戯など北方の皮影戯との意外な共通点が見出せる。これが南北影戯に共通の祖型が存在したことに起因するのか、あるいは北方の皮影戯が同地域に伝播していたこと(あるいはその逆)の反映であるのかは、今後、調査・検討する必要があろう。

3.6.劇団

陸豊皮影戯も他の地域の影戯と同様、民間における劇団と上演が風前の灯火となっている。現在、陸豊の民間皮影劇団は、卓家班を残すのみである。

衰退した状態は今でも続いており、彼らの劇団も毎年旧暦七月の中元節前後の「祭孤」活動でしか上演しない。*57(康保成等2005、p.50)

その家系は以下のようになる。

卓勤(1920年代から40年代にかけて活動)→卓幼児(1919年生。1930・40年代から70年代にかけて活動)→卓木宇(1967年生)・卓木標(1971年生)・卓建州(1973年生)。卓家三兄弟と妻子たちはいずれも皮影戯を歌うことができ、上演時に人手が足りなければ、舞台に上って歌を手助けする。*58(鄧琪瑛2010、p.95)

このほかの民間劇団としては蔡家班が知られる。

蔡錦鎮氏に提供された資料によると、その家族の伝承・家系は以下のようになる。蔡娘盼(蔡強の父。皮影戯を学んだ時期は不詳)→蔡強(皮影戯を学んだ時期は不詳)→蔡娘仔(1924~2006年。皮影戯を学んだ時期は1930年)→蔡錦鎮(1964年生。皮影戯を学んだ時期は1971年)→蔡潤韓(1994年生。現在は勉強中)。*59(鄧琪瑛2010、p.130)

蔡娘仔以降、蔡家は陸豊皮影劇団の中核を占めるようになっている。

3.7.陸豊皮影劇団

閩南粤東地方は、日中戦争および1943年の大飢饉により大きな打撃を受け、人戯・偶戯も芸人の多くが死亡し、衰退した。その後、中華人民共和国が成立すると、伝統芸能に対しても整理・保護政策が行われるようになり、同地域でも多くの公営劇団が成立した。そうした動きのなかで、1957年には陸豊皮影劇団が成立している。康保成等2005によると、その沿革は以下のようになる。

  • 1957:専業皮影劇団を組織。卓幼児、蔡娘仔、黄娘切らが参加。
  • 1966:解散。
  • 1975:復活。湖南と交流。現代劇を上演。
  • 1982:《龟兔赛跑》《鸡与蛇》を北京で上演、授賞。
  • 1984:虞哲光・林琨らの指導で《飞天》、《鸡斗》、《哭塔》、《猪八戒坐花轿》などを建国35周年で北京上演。
  • 1987:訪日公演(兵庫県)。

鄧琪瑛2009によると、陸豊皮影劇団の保留演目は、伝統劇:21種、伝統改変劇目:8種、新編劇:23種であり、新編劇の多くは文革後の児童・神話劇が占めている。これは、唐山・哈爾浜・長沙など、各地の公営有力皮影劇団と同様である。

4.陸豊皮影戯研究の課題

以上、先行文献に基づいて閩粤影戯および陸豊皮影戯について整理検討してきたが、その過程で、いくつかの検討課題をあきらかにし得たと思う。

まず中国の影戯研究の常として、先行研究では、同じ地域で行われていた人戯・曲芸などとの比較検討が不十分である。地方劇研究の成果を参照しつつ、同地域の影戯が他の劇種・曲種といかなる共存・競合関係にあったのか、その社会的機能に注目しつつ解明する必要があろう。

閩粤影戯・陸豊皮影戯の形成と伝播の過程・背景に関する研究も欠かせない。影戯では声腔・台本などが現地の伝統劇の影響を受けて変化しやすいのに対して、影人のデザインや操作方法などについては本来の性質が保存されると思われる。このため、現地調査を通じて閩粤影戯・陸豊皮影戯の影人について調査し、台湾およびその他の地域の影人と詳細に比較検討する必要がある。また、影戯の伝播については、現地の芸人の間の伝承などをより網羅的に調査する必要もある。

一方、潮州紙影戯から変化した鉄枝木偶戯は、潮州一帯で現在も行われているほか、東南アジアに伝播している。その調査を通じて、それらが影戯であった頃から継承している特質をあきらかにしうると思われるし、また他の地域への伝播についても清代から民国時期にかけての移民研究の成果を参照することで、新たな知見が得られるものと期待される。

特に、陸豊皮影戯が持つ北方皮影戯との共通要素については、清代中期に分化して独自の発展を遂げたと思われる台湾皮影戯、あるいは清末以降に東南アジアに伝わった鉄枝木偶戯との比較を通じて、かかる要素が加わった時期をある程度絞り込むことが可能であると思われる。

以上に掲げた課題について、今後、現地調査を実施しつつ研究を深化させ、閩粤影戯の特色と全国の影戯における位置づけ、いわゆる「福佬民系」の文化的特色、さらには台湾・東南アジアへの伝播の実態と移民社会における影戯の機能などについて明らかにしていきたい。

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*本稿は日本学術振興会科学研究費補助金「近現代中華圏の伝統芸能と地域社会~台湾の皮影戯・京劇・説唱を中心に」(平成27~30年度、基盤研究(B)、課題番号:15H03195、研究代表者:氷上正)による成果の一部である。


*1 影絵人形劇のうち、影人(影絵人形)の材質が皮革製品のものを皮影戯と呼び、紙製の人形を用いるものを紙影戯と呼ぶ。影戯は両者の総称である。
*2 千田大介2001参照。
*3 “纸影戏”与“皮猴戏”这两种称呼统一在闽南影戏身上,有些矛盾。纸影戏的影人用纸片雕成,而皮猴戏的影人主要用牛皮雕刻。这至少说明,闵南地区的影人有两种,有的是用纸片做的纸偶,有的是皮偶。根据调查,陆丰地区的影人是用牛皮雕刻的,而台湾影偶所用的材质也是牛皮,并没有纸影,不存在两种影人混用的情况。而笔者在陈郑煊先生家里所见的影人,大多数也是皮影,纸影很少见。可见,纸影在潮州影系的使用频率并不高。但是,为什么闽南影戏,乃至整个潮州影系,都冠以“纸影戏”的称呼?笔者怀疑,“纸影戏”和“皮猴戏”可能代表着流入闽南的不同流派的影戏,而不仅仅是影人的不同。
*4 纸影戏俗称“皮猴戏”,又称“皮影戏”、“铁线戏”等。
*5 牛皮雕之,用彩色妆饰,帝王卿相以逮四民之状毕具,因有称之为皮影或皮猴者
*6 偶像采用纸或兽皮制成。潮州鲜有羊皮,多用牛皮、猪皮。
*7 陆丰皮影,大都用牛皮雕刻,纸偶比较少见。除非在缺乏牛皮的特殊情况下,才会用纸偶替代,所以“纸偶”在当地并不流行。影偶可以自制也可以向外订购,一般都从福建或潮州买来。
*8 是由广东的潮州、汕头一带传入福建的诏安、漳浦等地。
*9 据陆丰内湖陈维严反映,约在三百多年前,他的祖先在闽南带皮影分三路向外谋生。一路到台湾,一路到潮州,一路到海陆丰。陈维严现在是第十六代,祖上陈天隐,皮影艺人,与甲子镇明末的农民起义领袖苏亚六关系甚密,苏亚六跟皮影学唱白字曲,陆丰民谚有“苏亚六唱白字曲—无字”。
*10 相传,南宋末年,闽南移民将皮影戏带入海陆丰地区……
*11 夜尚影戲,價廉工省,而人樂從, 通宵聚觀,至曉方散,惟官長嚴禁,囂風斯息。
*12 潮州紙影戲亦佳,眉目必現。
*13 潮郡城廂紙影戲歌唱徹曉,聲達遐邇。
*14 喜演影戲,鑼鼓徹夜。
*15 怡情不覺五更寒,莫聽釧嗚心盡歡。太息浮生原若戲,那堪戲在影中觀,注云:潮人最尚影戲,以豬皮為人物,結台方丈,以紙障其前最前隅,置燈於後,將皮制人物弄於紙觀之。
*16 竹窗纸影,一名四字纸影。以牛皮雕之,用彩色妆饰,帝王卿相以逮四民之状毕具,因有称之为皮影或皮猴者,演时台内置一油灯,台面装一竹框,以透明白纸糊之,如电影之银幕然,以为投影之所。此又竹窗名称之由来也。……
潮州竹窗纸影之清末而一变,好事者初改纸窗为玻璃窗,弃皮戏不用,略效傀儡戏。以稻草扎成躯干,接泥制头颅,腿臂空洞,以帛裹连之,纸手木足,戏装类似傀儡戏,身材短小,自足至顶约五寸,背后及两手穿铁线凡三条,作用若傀儡之细线,为操纵之工具,称圆身纸影。棚内并布置绣幕竹帘小桌椅。旧时表演以影现,今则以形现,一若傀儡戏矣,后并其棚前所罩之玻璃窗亦弃去,号阳窗纸影,以示别于竹窗。

*17 徐师父是一个纸影戏艺人,因白天纸影不能演出,因此前来参加修桥工作。收工回家后,迫不及待地将各艺员兄弟叫来,说出自己想由纸扎偶人代替纸影在日间演出。
*18 山下一夫2003、p.28参照
*19 铁线木偶戏因操纵木偶的操纵杆是铁枝而得名。亦称铁线戏。清代由粤东传人,流行于诏安、云霄、东山、平和、漳浦等县。
*20 这种影戏目前在潮州已基本销声匿迹,只有六七十岁的老人曾见过。他们称之为“白竹纸影”。
*21 一九二三年后,漳州纸影戏已渐衰落,主要有两种原因:一是当地数次遭受南北军阀混战,社会不景气,纸影戏的业务不好,艺人多半改业谋生。二是旧社会轻视戏班子,大家不愿意学演纸影戏,老艺人的技术,死后无人继承,结果造成失传而消逝。
*22 多用厚纸片(马粪纸或牛皮纸)。
*23 偶像采用纸或兽皮制成。潮州鲜有羊皮,多用牛皮、猪皮。
*24 陆丰皮影戏的影人和影景都以皮革为材料制成,尤以水牛皮制作为佳,也曾用过猪皮或纸质,但都不如牛皮结实耐用。
*25 偶人高不到一尺,可猜测戏台也应该比较小。
*26 陆丰过去的影偶约高六七寸,属于小身皮影,后来才加大。
*27 偶人长约一尺,纸影的头和身体可以分开,可调换成不同角色,头像长约一寸至二寸不等,采用泥土雕塑或贴塑而成。……。纸影的人物造型是影戏表演艺术的主体,为了使木偶满足表演的需要,偶人分为头、手、脚和身体几个部件,头面由泥塑成并加彩绘,身体由稻草捆扎而成,并扎纸为手,削木为足,再用戏服将头、手、足连串起来,在背后和双手各安上一根硬铁丝,做为表演之用。……偶人角色一般分为生、旦、外、贴、净、丑、末七种角色。
*28 陆丰皮影戏的行当分成公、婆、旦、花、丑五类,和人戏一样(据说闽西及广东的汉剧角色分类也是如此) 。
*29 传统陆丰皮影戏的行当包括生、旦、公、婆、净、丑、贴、外、末、杂等。
*30 最具特色的是生旦角两臂悉用布帛制成,这较之北方影戏,虽然没了肘关节,却能使动作柔和而又多变。
*31 用三根竹竿子操纵,以前有单手、单脚的武生影偶,现在已经看不到了。陈忠尧提道:早期有两根竹竿子的偶人,有一只手和双腿并连的造型。
*32 魏力群2007、p.331。
*33 纸影戏班,人员十分精干。早先只有4—6人,多为饱经世故之老优;新的(铁线戏)也不过10多人。(宗文1999)
*34 由于纸影班人数较少,操纵、演唱、乐工各三人,往往操纵者和乐师也兼演唱。操纵者多数是具有多种技能的老艺人,往往几人藏于台内兼操纵、奏乐、唱曲等任务,甚至一、二人包唱全戏的生旦末丑多种腔调。
*35 老艺人们回忆,旧社会做皮影是为了赚钱,为了谋生。那时候一个班子通常有五个人。影窗用一种白的油光纸做成,高一米上下,影身大概七八寸。两个人并排坐定在影窗后面操作不像现在这样跑来跑去。豆油火在二人中间。一个人能操作三四个皮影身。
*36 陆丰皮影戏的演出分工简单,主要分前场(操纵、配唱)和后场(伴奏),一个班子共六七个人不等,二人操纵,二人拉弦,一人锣,一人伴唱,操纵者负责主唱,往往操纵者和乐师也兼演唱。
*37 他们大多以半农半艺的姿态出现,在农闲时组成业余皮影戏班,因为人员少、组织灵活而便于走乡串镇,每个班子只要两三个人“一担挑”少量影人影具就能深入农村山区演出,而且戏金便宜,于是经常被乡民们聘请演出。
*38 过去许多艺人都擅“独角影”,潮州影的“坐演方式”与“独角影”有很密切的关系。一至两人包演(操作)整台角色,表演者边唱边操作,把不同性格的角色表现出来,尤其是当艺人演独角戏时更加忙碌,一边敲锣打鼓(包括钹),还可以一边唱曲、打板,兼吹唢呐,外加操弄影人,可谓十项全能。
*39 纸影班和潮剧班都唱潮腔。潮州纸影经过漫长的历史沿革,从“正音”演变成为潮腔,发展至今日,无论乐曲、乐器、声腔,都和潮剧同出一辙。
*40 陆丰皮影以福佬方言演唱,对自亦用方言。其音乐结构以由牌连套为主,曲牌名称大部分遗失,知名者只有【四朝元】、【下山虎】、【驻云飞】、【锁南枝】、【红衲袄】等数支。唱腔中也采用了一些民歌小调,但其主体是正字戏大板曲的“易语而歌亢,往往一唱众和。
*41 如陆丰影戏过去唱正音,后来改用白字,武打剧目也袭自正音,“洗叉”仪式也源于正音戏。
*42 以下、正字戯・白字戯・潮劇については、劉懐堂2009、『中国戯曲志』広東巻による。
*43 纸影的唱目同潮剧相同
*44 劉懐堂2009、p.65。
*45 早期陆丰皮影戏是没有书面剧本的,全凭艺人们口传心授,演出所谓的“提纲戏”。
*46 环林卓家班依然采用传统的上半夜武戏、下半夜文戏的“半夜反”演出形式。
*47 由于讲官话,只演故事,不唱或极少唱的“提纲戏”的大量加入,普遍形成上半夜演提纲戏,下半夜才演文戏唱白字的演出习俗,对于这种特殊的演出形式,人们又称它为“半夜反”。
*48 陆丰皮影的光源以往用豆油灯,后改用汽灯,1949年以后逐步使用电灯。
*49 以往只要农闲,都会有人请皮影班去做,一年不断,尤其在节日做得更多。如果某村有人非正常死亡,就更要请皮影班去演,所以皮影演出往往带有超度亡灵的性质。
*50 陆丰皮影每到一个新地方演出,有“洗钗”之类的“净场”习俗和开场戏《搬仙》的演出。“净场”时,所有观众都必须暂时退出观看场地,由演出的主持人架鸡、燃放爆竹,艺人在后台敲大锣大鼓等以示驱邪,之后才允许观众人场。《搬仙》是开台例戏,演出“跳加官”、“跳三仙”(福、禄、寿)之类的吉祥戏,本来用正字表演,现在改为念白字。
*51 在海陆丰地区,皮影戏地位很高。演出时,皮影班的鼓没有开,大戏班不敢开,所以大戏班往往要请皮影班早点开鼓。
*52 陆丰皮影供奉田元帅(或称“田老爷”)为戏神。艺人传说,皮影是唐朝来的,李世民登基时,有一个苗元帅(是十八翰林之一)创建梨园子弟,以梨叶弄影,治好了国母的病,此后就诞生了皮影戏。苗元帅后来被斩了头,“苗”字去了草头就是“田”,所以皮影班艺人供奉田元帅。另一个传说是:唐玄宗时,他手下的大将雷万春小的时候,母亲生病,雷万春以梨叶弄影娱母,使母亲恢复健康,此后唐玄宗命令在长安上演皮影戏。后来雷元帅因违犯军令被斩了头,“雷”字去了“雨”头就是“田”,所以后来以田元帅为戏神。
*53 据说观音曾渡华阴县(陕西省属)。有一次观音发现华阴县将有灾难降临,便在离华阴县很远的地方,以佛光为幕,以竹叶为影,自己坐在蒲团上,演奏劝善故事,把华阴县的百姓引来看戏,解脱了一场灾难。
*54 山下一夫2003、p.34参照
*55 《搬仙》之后,要由一个名为“大头坎”的角色,念一段顺口溜。“大头坎”头颅奇大,前额突出,后脑拖一条发辫,著马褂,作绅土状。顺口溜以当地乡约乡规为内容,语多诙谐,表演滑稽。这一特殊节目未见于其他剧种,当是陆丰皮影艺人的创造。
*56 在丑角中有一个很特殊的角色,由于前额被艺人故意夸大变形,占了整个头部的一半,十分突出,所以被称为“大头坎”。它上场之前,艺人特意击鼓奏乐以提醒观众注意,通常说一些顺口榴,主要用于插科打浑。它可以扮演多个角色,并不限于某个人物,可以做家童、奴仆等配角。有时它还承担一些宣传教化的功能,替请戏的会首宣读禁砍木的公约等。传统的闽南影戏,也有“大头坎”这个角色,作用也一样。
*57 其衰落状态至今仍在延续,他们的班子也只在每年农历七月中元节前后的“祭孤”活动中演出。
*58 卓家班世系为:卓勤(约活动于20世纪20年代至40年代)→卓幼儿(1919年生,活动于三四十年代至70年代)→卓木宇(1967年生)、卓木标(1971年生)、卓建州(1973年生)。卓家三兄弟和妻子们都会唱皮影戏,演出时如果缺少人手,就上台帮腔助唱。
*59 根据蔡锦镇提供的资料,其家族传承世系为:蔡娘盼(蔡强之父,学艺时间不详)→蔡强(学艺时间不详)→蔡娘仔(1924-2006,学艺时间为1930年)→蔡锦镇(1964年生,学艺时间为1971年)→蔡润韩(1994年生,目前正在念书)。