『都市芸研』第十輯/皖南皮影戯と河南・湖北皮影戯

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皖南皮影戯と河南・湖北皮影戯

千田 大介

1.はじめに

半透明になめした皮革で作り彩色した人形を、スクリーンの後ろから投影して操作し上演される影絵人形劇、皮影戯は、旧時、中国各地で行われていたが、近代化の中で次第に淘汰され、現在では経済的に立ち後れた農村部などで細々と行われているに過ぎない。本稿で取り上げる安徽省南部の地級市である宣城*1を中心に行われる皖南皮影戯も、その一つである。

皖南皮影戯に関しては、その存在こそ皮影戯関係者の間で知られているものの、皮影戯研究の金字塔ともいうべき江玉祥1992・1999が取り上げないなど、学術的な調査・研究が進んでいるとは言い難い状況にある。中国の皮影戯の全体像を把握する上で、埋められるべき欠落であると言えよう。

しかるに宣城は、明清代、徽商の1つの拠点であった安慶から水路を通じて太湖へと抜ける結節点にあたり、同地を経由して安徽の劇団が江蘇・浙江へと移動していた。また、同地に産する宣紙はつとに著名であるが、それらは文化・経済の中心地であった江南で消費されていた。つまり宣城は江南文化を支える後背地としての機能を担っていたのであり、その地域的な特性を解明することは江南の、ひいては中国の文化を支える地域間ネットワーク構造を考察する上で有益であろう。

また同地域は、太平天国に伴う戦災の甚大な被害を被り、大規模な移民によって復興がなされている。皖南皮影戯もそうした移民活動の結果、河南省と湖北省の皮影戯がもたらされ形成されたものである。中国では古来、戦争や飢饉といった人災・天災にともなう人口移動が地域文化の伝播と交流をもたらし、あらたな文化を生み出す作用を果たしてきた側面がある。皖南皮影戯は、そうした現象の実態を具体例に理解する上で、格好の対象であるとも言えよう。

かかる認識に基づき、科研費研究「近現代中国における伝統芸能の変容と地域社会」では皖南皮影戯に関する共同調査・研究を進めており、また筆者も皖南皮影戯の概略について千田大介2008で概説している。本稿では、これまでの現地調査によって得られた知見を踏まえつつ、主に先行研究・文献への検討を通じて、宣城への移民の状況と皖南皮影戯の特色について検討し、その前身である豫南皮影戯・湖北皮影戯との比較を通じて、かかる特色がいかに形成されたのかを考察する。

2.皖南皮影戯の形成と特色

2.1.太平天国後の皖南移民

広西に発祥した太平天国は、1853年に南京を落とすとそこに首都を置き天京と改称した。以後、清朝軍との戦いが10年間にわたって繰り広げられるが、皖南地方は長期間にわたり攻防戦の舞台となったため、人口が激減している。1864年に天京が陥落し太平天国が敗亡すると、両江総督の曽国藩が安徽の戦後復興に取り組み、戦乱で激減した人口を補うために太平天国の影響が比較的軽微であった河南省南部や湖北省などで安徽への移民を募った。

宣城は清代には広徳州と寧国府とに分かれていたが、このうち広徳州では、太平天国の戦争と飢饉・疫病のために人煙が絶えたという。

戦後は移民が人口の実に8割以上を大半を占めるようになっていることから、減少した人口の大半が戦災で失われていたことが知れる。

総人口土着比率(%)移民
1850309,008309,0081000
1855310,994310,9941000
18656,3265,07880.21,250
186932,71314,72045.017,993
1880129,54819,98115.4109,567
1953243,219
広徳州の人口変動(曹樹基・葛剣雄1997 p.456 による)

寧国府でも状況は大差なく、1860年代末には移民が人口の76.9%を占めている。当時寧国府に属した宣城県でも大きく人口が減少するとともに、移民が人口の9割を占めるまでになっている*2

移民は血縁関係や地縁を頼りに移動する傾向が強い。このため皖南地方でも、同じ地域出身の移民が同じ地域に集中する傾向が見える。太平天国後の皖南地域への移民については、葛慶華2002・2003・2005などに詳しいので、以下、それらに基づき宣城への移民の状況をまとめる。

宣城の移民分布(葛慶華2002による)

宣城県(現在の宣州)では、湖北移民が東部・南部の水東・新田・洪林・棋盤などの郷鎮に、河南移民が東部の洪林・丁店・建国などに分布している。

広徳県では、解散した湘軍兵士の入植に続いて、河南・湖北などからの移民が入植した。光緒年間は河南移民が3割、湖北移民が4割、江北移民・浙江移民が各1割、他の省と土着が計1割という人口構成であったのが、その後も移民の流入が続いたこともあり、民国時期には河南移民が人口の6割を占めるようになり、「小河南」との呼称が生まれた。移民の出身地は、現在の河南省信陽地区の光山・羅山・商城・固始など、湖北省では中部の荊門・鐘祥・孝感・南漳が多い。

建平県(現在の郎渓県)では、江北からの移民が最も多く、「小江北」と呼ばれている。湖北移民は県の西南部と北東部に、河南移民は北部に分布している。

寧国県では、最も早く移民に入った湖北出身者が平野部の郷鎮に居住している。このほか、安徽の江北地方や湖南・河南・浙江・福建などからの移民も多い。

南陵県は江北移民が最も多く、県城付近に集中している。このほか湖南移民が南部の丘陵地に、湖北移民が県城の北に分布している。

涇県は移民の数が比較的少なく、旌徳県については実態が解明されていない。

2.2.移民と皖南皮影戯

皖南皮影戯は、かかる移民活動の結果として、河南・湖北の皮影戯が同地にもたらされたものである。前述のように、広徳は河南移民が多かったため、皮影戯も河南のものがもたらされた。

皮影戯は、広徳の主要な劇種の一つである。県内で活動している皮影戯には、河南皮影戯のほかに、湖北皮影戯もある。南下した第一世代の芸人には、河南羅山県の張雁斌・梁字英・汪金升・汪金寬・王侉子(芸名)らがおり、張雁斌は箱主(すなわち皮影・スクリーン・道具を所有する劇団長)であった。*3 (楊躍庭1988、p.104)

皮影戯は当初、移民の居住地域で活動していたが、後に現地の住民たちもこの劇種に次第に興味を持つようになり、観衆がどんどん増え、活動範囲もますます広くなり、一つの箱(一つの劇団)だけではとても観衆の需要を満たすことができなくなった。そこで河南の光山県からまた一群の芸人たちがやってきた。余雁堂・肖軒元・彭正道・彭正義・張徳欽(又の名を張疙瘩、秀才であった)・肖侉子・李戯成らである。*4 (楊躍庭1988、p.105)

一方、湖北移民が多かった郎渓では、湖北皮影戯が主流を占めたようだ。

郎渓の皮影戯は、“湖北影子”と呼ばれている。民国22(1933)年より前に、県内の南豊郷に出現した。老芸人の楊春発(広徳の人)が、弟子に伝授したものである。*5 (『郎渓県志』p.799)

寧国も同様である。

芸人・徐雲清によれば、清の咸豊年間(1851~1861)の兵乱の後、寧国の人口は激減し移民が大量に流入した。湖北移民の中の黄・杜二人の皮影戯芸人が、県内で皮影戯を伝授し、徐雲清はその五代目の弟子である。当時はただ「求神還願」のためにしか上演されず、観客も多くなく、あまり広まっていなかった。*6 (『寧国県志』p.689)

皖南皮影博物館は宣州の水東鎮にあるが、同地は前述のように湖北移民の居住地域であり、同館館長の何沢華氏も湖北省雲夢の皮影芸人を祖とする皮影芸人の家に生まれている*7

2.3.皖南皮影戯の流行地域

皖南皮影戯は、安徽省宣城市に属する6つの県級行政単位のうち、宣州・郎渓・広徳・寧国で主に行われており、それらの地域の新編地方誌はいずれも皮影戯に関する項目を立てている。現地聞き取り調査でも、上演地域についてはほぼ同様の証言を得ている。前掲の地図と見比べれば、皮影戯の流行範囲が河南・湖北移民の多い地域と重なっているのは明らかである。逆に南陵県で皮影戯が行われていないのは、いずれも河南・湖北移民が少ないことが原因であると考えられる。

皖南皮影戯の影響は安徽省内にとどまらず、隣接地域にも及んでいたようである。

河南皮影は……江蘇・浙江・安徽が境を接する地域(宣城・郎渓・広徳・句容・溧水・溧陽・呉興・長興・安吉など)で観衆に好まれている民間の演劇形式である。*8 (楊躍庭1988、p.104)

皖南皮影戯が、宣城のみならず、隣接する江蘇南部・浙江北部でも行われていたとする。新編地方志にも、それを裏付ける記述が見える。

皮影戯 外地から伝播した。解放前および解放初期に、県境北部と西部の安徽省と隣接する一帯で行われた。内容は、神話・歴史物語が主である。廟会・新春などの時節に、村民が資金を出し合って招請して上演する。*9 (『安吉県志』p.501)

安吉は浙江省湖州市に属し、宣城と境を接している。新編地方誌の記事では「外地」がどこを指すのか明記されていないものの「安徽省と隣接する一帯で行われた」以上、安徽省宣城のことであると見なしてよかろう。その他の地域の新編地方誌などには皮影戯に関する記事が見られない。あるいはそれらの地域の皮影戯は、安徽の皮影劇団が訪問・上演していたもので、現地に皮影劇団が存在しなかったため早くに演じられなくなり、記録も残されていないのかも知れない。

2.4.皖南皮影戯の特色

皖南皮影戯で用いられる影人については、以下のような記述が見える。

影人の各種人物は、牛・羊革で作られ、彩色を施し、上演時には光線の反射を利用して影絵人形を影幕の背後から現し、正面から見ると生けるが如きである。*10 (『郎渓県志』p.799)

デザイン・サイズなど詳細は判然としない。

筆者が現地調査で確認したところでは、皖南皮影博物館に展示されている影人は、輪郭や目鼻・衣服の線を切り抜く空臉のものが大半であり、眉や額の処理、60cmを超えるサイズなど、湖北の皮影戯と共通する特徴を持っている。一方、2度の皖南皮影戯上演の調査では、頭・胴体を輪郭で切り取り、目鼻や衣服の模様はくりぬかずに描く、実臉の影人が用いられていた。湖北系の影人に比べるとやや小ぶりで、デザインは河南省南部の皮影戯と共通している。このほか、皖南皮影博物館館長の何沢華氏は西安で影人彫刻を学んでいるので、氏が近年作成した影人は陝西風のデザインである。調査した皮影戯上演では、不足した影人を新しい陝西風デザインの影人で補完していた。

皖南皮影博物館に展示されている影人
皖南皮影戯影人(2009/08/21)
皖南皮影戯影人(2011/08/08)

上演に要する人数は2人から10人前後まで、全国各地の皮影戯によって様々であるが、皖南皮影戯は比較的少人数で演ずることができる。

この種の皮影戯は、3~5人で劇団を組み演ずることができる。*11 (『郎渓県志』p.799)

現地調査の際に見学した上演はいずれも4~5人で上演されており、『郎渓県志』の記述と一致する。

皖南皮影戯の声腔に関しては、新編地方誌に以下のように見える。

歌われる曲調は、他の皮影戯と異なり、曲調は京劇・徽劇の劇団に起源するもので、節回しは高らかかつゆったりとして、常に京胡・京二胡・笛子・嗩吶と打楽器の伴奏が付く。聞いてみると、京劇のようだが京劇とは異なり、独自の味わいがある。*12 (『郎渓県志』p.799)

安徽南部で流行しているのは大小2種で、小影は京徽調を歌い、大影は民間の小調や花鼓戯を歌い、演じながら歌い、時に幇腔も使われる。寧国県で流行する皮影戯は、多くが大影に属する。*13 (『寧国県志』p.689)

いずれも、皖南皮影戯の声腔が京劇・徽劇に近い、すなわち皮黄腔であるとしている。伴奏楽器も京胡・京二胡・笛子・嗩吶と、京劇などの皮黄系伝統劇に近い。『寧国県志』では、皖南皮影戯が大影・小影の二種に分かれ、前者が小調・花鼓であったとする。影人のサイズからして、前者が湖北系、後者が河南系の皮影戯を指すものと思われる。

2.5.皖南皮影戯の上演文脈

皖南皮影戯博物館の何沢華氏によると、皖南皮影戯上演の特色は「太平戯」にある。同地域の皮影戯は主に農村で上演されるが、上演の目的は祈福・厄払いが大半であり、太平を祈る劇ということでそのように呼ばれる。実際、これまでに2度調査した皮影戯の上演は、いずれも村落で死者が相次いだ、妻が死んだなど、災厄を祓う意味を持つものであった。

太平戯では、皮影芸人が宗教的な儀式をも執り行うことを一つの特色とする。2009年8月21に調査した雲竜一隊での上演では、午後4時頃、まだ明るいうちに、芸人が方向を定めて篭に紙の位牌を貼り付けて祀り、そこに向かって曲を演奏し、神降ろしの劇を小一時間上演していた。スクリーン裏には茶碗に米と卵を盛って線香をさして供え、上演中に紙銭を焼く。周囲が明るい上に灯火も投影していないため、スクリーン越しに上演はほとんど見えず、村人も初めの数分しか見ていなかった。実際の劇の上演は日没後に始まり、一般に3日から1週間ほどの期間演じられるという。実見していないが、最終日の上演終了時にも儀礼が執り行われるという。

紙の位牌
神降ろしの上演
スクリーン裏の供え物

一方、皖南皮影戯の上演文脈に関しては、以下のような記述もある。

移民たちが劇を見るのは、労働の後の娯楽にとどまらず、時にはそれによって豊作を祈願したり厄払いをする、「青苗戯」・「求雨戯」などがあった。このため、いつも春の種まき、秋の収穫の季節になると、移民たちは皮影芸人を村に招き、豚や羊を屠って賓客としてもてなした。上演前に芸人たちは沐浴し香を焚いて皮影のお出ましを請い、礼拝してからようやく劇を始めた。*14 (楊躍庭1988、p.105)

こちらも厄払いに言及してはいるものの、それが皮影戯上演の主たる文脈であるとは書いていない。むしろ、種まきや収穫のときの上演など、祈願の意味での上演が多く、そうした習慣が河南からの移民の間に広まっていたとする。

太平戯にせよ、青苗戯・求雨戯にせよ、いずれも民間信仰的な文脈と結びついた上演という点には共通性が認められる。全国の皮影戯では、茶館など固定の上演場所での営利上演、廟会での上演、家庭の慶事での上演などが多いが、皖南皮影戯ではそうした文脈での上演が少ないのであり、かかる民間信仰の儀式と結びついた上演は、その大きな特色であると言えよう。

3.河南・湖北皮影戯と皖南皮影戯

前述のように、皖南皮影戯は河南・湖北の皮影戯が移民とともに伝播したものである。そうであるからには、皖南皮影戯の特色についても、それら地域の皮影戯に由来する可能性が高いと言えよう。そうした地域の皮影戯の特色をまずあきらかにし、それとの差異を検討することで、皖南皮影戯独自の特色がいかに形成されたのかを具体的に解き明かすことが可能になろう。

3.1.河南省の皮影戯

河南省・湖北省では、それぞれ風格の異なるいくつかの皮影戯が行われている。

河南省では、霊宝県で道情皮影戯が行われているが、陝西から伝播したもので、影人の造形は陝西皮影戯に似ており道情を歌う。

皮影戯がとりわけ盛んなのは、湖北省と境を接する信陽地区から南陽地区にかけての一帯であり、それら地域の皮影戯は豫南皮影戯と総称される。

河南・湖北の皮影戯分布状況

信陽地区では大別山脈北側の山間部各地で皮影戯が行われているが、東西二つの皮影戯に大別される。西調皮影戯(西路)は羅山・光山・新県・信陽・正陽などで行われており、大別山脈南側の湖北省大悟・随県などでも同系の皮影戯が行われている。東調皮影戯(東路)は潢川・息県・淮浜・商城・固始などで行われており、また安徽省の阜南・霍丘・金寨などにも影響が及んでいる*15

西調は方言音が湖広音に近く、旧時は糸弦とよばれており、ゆっくりとした曲調であったが、後に南調・挪調へと変化し、解放後になって京劇・花鼓戯などの音楽が移入された*16。音楽は板腔体で一部曲牌も用いており、民歌・山歌・花鼓戯などと密接な関係がある。打楽器の伴奏のほか、嗩吶の幇腔が用いられる*17。前掲楊躍庭1988によれば、広徳では羅山・光山の皮影芸人が活動していたとあるので、豫南西路皮影戯が皖南にもたらされていたことがわかる。東調は発音が中原音で、現地の田歌・山歌の影響を強く受けた板腔体の声腔を用いる。いずれも影人のデザインなどは似通っており、劇団も一般に8人で構成され、すべての役回りを男性芸人が歌唱する。また信陽の西隣にあたる南陽市桐柏でも皮影戯が行われるが、影人のデザインや音楽に嗩吶を用いていることから*18、西調皮影戯と基本的に同系のものであるとわかる。

桐柏皮影戯影人(『中国民間美術全集』山東教育出版社・山東友誼出版社、1995)

3.2.湖北省の皮影戯

湖北省の皮影戯に関して、江玉祥1999は楊泰山〈江汉平原皮影的造形特色及其它〉*19を引き、大皮影(門神譜)・中皮影(漢口皮影)・小皮影(魏譜)の三種に分かれるとする*20。それぞれの特色をまとめると下表のようになる。

影人サイズ材質流行地域
大皮影2尺2寸(73cm)牛革荊州・雲夢・黄陂・孝感・黄崗・武漢
中皮影56cm牛革漢口・鄂東・鄂北
小皮影1尺(33.3cm)未記載襄陽・穀城・竹山・竹渓

これは影人のデザインに即した分類であり、声腔や上演方式などの情報が乏しい。このため、以下では改めて、新編地方志や文史資料・論文・雑誌記事などによって詳細な情報を補い、整理しておく。

湖北省西北部、十堰市の鄖・竹山・竹渓一帯で行われる皮影戯は、使用する影人が小型でデザインが陝南皮影戯と似ており、声腔には“山二黄”を用いる*21。隣接する陝西省安康地区で行われている漢調二黄皮影戯と同系のものであろう。

襄樊市の穀城では越調皮影戯が行われていたが、民国時期に南漳県から漢劇皮影戯が伝播した*22。越調皮影戯は荊門市でも行われており、39.6cmほどの大きさの影人が用いられたという*23。この影人のサイズは、上記大・中・小皮影には該当するものがない。

西南部の恩施土家族苗族自治州の恩施・利川・咸豊・宣恩・来鳳・建始・巴東などで行われる皮影戯は、四川皮影戯が伝播したものである*24

江漢平原各地でも広く皮影戯が行われていたが、それらはいくつかの種類に分かれる。武漢以西の地域では皮影戯が清代中期以前から行われていた。荊州市・荊門地などでは歌腔を歌う歌腔皮影戯が行われ*25江陵・公安などでは荊河戯の声腔を用いる大皮影が行われるが*26、いずれも大型の影人を用いる、すなわち前述の大皮影に相当するものであり、8人以上の人数で演じられる。同じ系統の皮影戯が各地に伝播したのち、地域による方言や地方劇の影響を受けて変化したものであろう。

清末民初以降の比較的新しい時期には、漁鼓調を歌う皮影戯が興った。漁鼓を使うということは、道情であると見なしてよかろう。沔陽皮影戯あるいは漁鼓皮影戯と呼ばれ、武漢市や仙桃市(旧称沔陽)、地級市の荊州・荊門などに広がっている*27。上演人数は4・5人で2尺ほどのサイズの影人を用いる、すなわち前述の中皮影に相当する。

仙桃皮影戯影人(『民間美術』湖北美術出版社、1999)

江漢平原の武漢市以北の地域では2人(1人が影人操作・歌唱を担当し、1人が打楽器の伴奏を行う)だけで演じる皮影戯が分布している。それらは東郷皮影と西郷皮影戯とに分類され、前者の方がより小型の影人を用いる。東郷皮影は紅安・新洲から武漢市にかけての地域で行われる。西郷皮影戯の流行地域は黄陂・孝感から武漢市にかけてであるが、孝感市雲夢県でとりわけ盛んであり、現在でも複数の皮影茶館が営まれてい る*28。声腔は民間小調の「打麦号」を主とするが、後に漢劇の影響を受けた*29。西郷皮影戯は一般に雲夢皮影戯と呼ばれることが多い。上演文脈や人数などに差異があるものの、影人のデザインなどから大皮影の一種であると見なすことができよう。

前述のように、太平天国後の皖南地域への移民は、江漢平原から河南省南部にかけての地域で募集されており、その範囲はこれら皮影戯の行われていた地域と符合する。

3.3.河南皮影戯の上演文脈

前掲資料から、皖南皮影戯の青苗戯などの民間信仰的な儀式と結びついた上演は、河南皮影戯とともにもたらされた可能性が読み取れる。事実、豫南皮影戯には、似たような文脈の上演習慣が見られる。

後には多くが神にたむける「還願戯」として演じられ、皮影戯はいっそう神秘的な色彩を帯び、民間の庶民の間では「一つの影絵人形が一人の神である」、「上演が終わったら、影人の頭を抜かなくてはならない。さもないと、影人が人に変わってしまう」などと言われるようになり、皮影戯を「全神戯」と呼んだ。……古い習わしでは、皮影戯の上演を始める前に、現地の声望のある有力者や族長などが、まず「祭神」・「祭台」を行い、線香を焚き紙銭を燃やし、三叩九拜して初めて上演が始まるが、今に至るも守られている。*30 (《豫南皮影戏音乐》p.3)

皮影戯の上演が「還願戯」を中心とすること、また皮影戯の上演にあたって民間信仰的な儀礼が行われていたことがわかる。以下の記述は、よりいっそう詳細である。

「願戯」は現地の習俗で、この種の願掛けと願ほどきの儀式は皮影戯を上演する方法で行われ、しかも習慣として「願戯」は三年連続で上演しなくてはならず、間に年を隔ててはならない。*31 (陳輝・王永健2009、p.220)

陳燕2009は、「劇団にとって、十中八九の上演が願戯であり、主な収入源も願戯の上演である」*32とし、願戯の上演が以下のように行われるとする。

願戯の上演は4つの方面が含まれる。「打鬧台」・神々を迎える儀式・正戯の上演・神々を送り返す儀式である。劇団が舞台を組み立てた後にひとしきり音楽を演奏するのを、打鬧台という。打鬧台は曲だけで歌詞は無い。鬧台は長くても短くてもよく、一・二曲だけでもよいし、七・八曲を演奏してもよい。……。鬧台の後は神々を迎える儀式で、芸人が影人の扮するさまざまな神々を持って、天から降る動作を行い、舞いながら歌う。正戯の上演の長さは招請側によって決められ、一つだけであったり、二つ・三つ、さらに多くの劇を演ずることもある。一つの劇はおよそ二時間である。正戯の上演が終わった後には神々を送り返す。神々を送り返す儀式は迎える儀式よりも簡単で、香を焚き跪拝するとともに神々を送り返す動作をし、きまった歌詞を歌うと、神々を送り返したことになる。*33 (p.220)

上演の前後に、打鬧台や神々を迎え送り返す儀礼的なプログラムが演じられており、そうした儀礼を皮影戯の劇団・芸人が行っている。

楊復元1991も以下のように述べる。

解放前、開場では約20分、いわゆる「神戯」という曲を歌った(現在では、20~30分間の折子戯に改められている)。「神戯」は完全な封建迷信で、その目的は祈祷・願掛けにある。即ち主人に代わって土地爺・王母娘娘・財神爺・東王爺・閻王爺などに、天候の順調、国家安泰、吉祥如意などを祈る。*34 (p.41)

この後に続いて、神戯の歌詞も載せている。

皮影戯が民間信仰の儀礼をもかねて行うこうしたあり方は、筆者が現地調査で確認した皖南皮影戯の太平戯と同様であるばかりか、儀式の手順なども両者はほぼ同じである。皖南皮影戯の太平戯は、豫南皮影戯の願戯を受け継いだものと考えてよかろう。

一方、江漢平原の各種皮影戯に関しては、慶事や還願・厄払いなどで上演されたという記事は散見されるものの、そうした上演文脈自体は全国の伝統演劇やその廉価版たる皮影戯にごく一般的なものである。江漢平原の皮影戯はむしろ清末民初以降、茶館での上演を主体とするようになっていき、都市的な娯楽への道を歩んだことが特筆される。李躍忠2007によれば、現在でも仙桃・雲夢・天門などに皮影戯茶館が存在する。新編地方志でも「茶社・福場・空き地を上演場所とする」(『漢川県志』p.587)、「建国前、一部の集鎮の茶館で比較的流行していた」(『応城県志』p.811)、「抗日戦争時期、城関河街から中碼頭一帯に皮影茶社が4軒あった」(『穀城県志』p.381)など、茶館での皮影戯上演に言及するものが多い。

このことは清末以降の湖北経済の発展を反映するものと考えられるが、一方で、同地域の皮影戯と生活に根ざした民間信仰儀礼との結びつきがさほど強固でなかったことを示すとも解釈できよう。

4.おわりに

以上から、皖南皮影戯上演の特色である太平戯は、豫南皮影戯の願戯に起源するとみなしてよかろう。しかし、厄払いの上演に特化した太平戯と、それに限定されない願戯との間に一定の差異が存在するのも確かである。

ここで注目されるのは、前掲楊躍庭1988の「移民たちが劇を見るのは、労働の後の娯楽に留まらず、時にはそれによって豊作を祈願したり厄払いをする、「青苗戯」・「求雨戯」などがあった」という記述である。つまり、河南から伝播してきた当初は、皖南の皮影戯も願戯を上演していたことを意味し、時代が降るにつれて、娯楽や祈願といった文脈が脱落していって結果として厄払いのための上演だけが残り、太平戯へと変化していったものと考えられよう。

考えるに、皮影戯の持っていた豊作祈願や娯楽としての機能は、中華人民共和国建国後に普及した農業技術革新や、印刷媒体や音声・映像メディアなどの近代メディアによって容易に取って代わられるものであろう。しかし、生死といういまだに人智をもってもいかんともしがたい現象を前にしたとき、人は宗教・信仰などにすがらざるを得なくなる。それゆえに、皮影戯の持っていた厄払いの要素だけは他の近代メディアでもイデオロギーでもカバーすることはできず、太平戯として生き残ることになったのではあるまいか。

また、現在の皖南皮影戯は皮黄腔と花鼓を歌うが、現地調査を通じて後者は1980年代に始めて歌われるようになったことがわかっている。前掲『寧国県志』では「安徽南部で流行しているのは大小2種で、小影は京徽調を歌」うとしており、湖北大皮影よりも小ぶりな豫南系の皮影戯が皮黄腔を歌っていたことがわかる。前述のように、豫南皮影戯で歌われるのは、民歌の影響を受けた独自の声腔であり皮黄ではない。従って皮黄腔の導入は、清末以降の京劇・徽劇の流行を受けて、宣城において発生したものと思われる。願戯の太平戯化、声腔の皮黄化という2つの大きな変革によって、皖南皮影戯は豫南皮影戯とは一線を画する、独自の皮影戯劇種としてのアイデンティティを確立したと言えよう。

一方、宣城には湖北の皮影戯も流入しており、皖南皮影博物館が大量の湖北大皮影の流れを汲む影人を収蔵することから、それが盛んに行われていたことは確実である。ところが、これまでの調査で目睹した皮影戯上演は、湖北系移民が多いとされる宣州で行われているにもかかわらず、いずれも豫南系のものであった。宣城に湖北のいかなる皮影戯が伝播していたのか、またそれらの現状はどうなっているのか、こうした点については、今後の現地調査の課題としたい。

参考資料

論著

  • 《中国戏曲音乐集成河南卷 豫南皮影戏音乐》(征求意见稿) 中国民族音楽集成河南省編輯弁公室,油印本,1983.9
  • 曹樹基・葛剣雄
    • 1997 『中国移民史』第六巻,福建人民出版社
  • 陳輝・王永健
    • 2009 〈从民俗学看传统艺术之盛———关于桐柏皮影戏的文化学思考〉,《作家杂志》2009 No.9,pp.220-221
  • 陳燕
    • 2009 〈豫南皮影戏的愿戏探源〉,《河南教育学院学报(哲学社会科学版)》第28卷2009年第3期,pp.20-23
  • 葛慶華
    • 2002 〈太平天国战后皖南地区的移民活动〉,《中国历史地理论丛》第17卷第2辑,pp.89-96
    • 2003 〈近代江南地区的河南移民――以苏、浙、皖交界地区为中心〉,《史学月刊》2003年第1期,pp.102-106
    • 2005 〈太平天国战后苏浙皖交界地区的两湖移民〉,《湖南大学学报(社会科学版)》第19卷第4期,pp.97-102
  • 江玉祥
    • 1992 《中国影戏》,四川人民出版社
    • 1999 《中國影戲與民俗》,淑馨出版社
  • 李躍忠
    • 2007 〈影戏茶馆与中国影戏的生存〉,《中华戏曲》第35辑,pp.317-334
  • 欧陽秀美
    • 2005 〈云梦皮影 乐声灯影里的落寞〉,《文明》2005年第3期,pp.96-111
  • 楊復元
    • 1991 〈罗山皮影戏的发展与演变〉,《罗山県文史资料》第5辑,政协罗山县委员会学习文史委员会,pp.38-46
  • 楊躍庭
    • 1988 〈皮影戏在广德的活动〉,《广德文史资料》第2辑,政协广德县文史委员会,pp.104-108
  • 易清
    • 2009 〈民俗奇葩边缘瑰宝——记竹山皮影戏〉,《戏剧之家》2009年第6期,pp.4-9
  • 千田大介

新編地方志

  • 『宣城県志』 安徽省宣州市地方志编纂委员会、方志出版社、1996
  • 『郎渓県志』 郎溪县志地方志编纂委员会、方志出版社、1998
  • 『寧国県志』 宁国县地方志编纂委员会、三联书店、1997
  • 『広徳県志』 广德县地方志编纂委员会编、方志出版社、1996
  • 『武漢市志・文化志』 武汉地方志编纂委员会、武汉大学出版社、1998
  • 『穀城県志』 湖北省谷城县地方志编纂委员会、新华书店、1991
  • 『恩施州志』 恩施州志编纂委员会、湖北人民出版社、1998
  • 『巴東県志』 巴东县志编纂委员会、湖北科学技术出版社、1993
  • 『荊州地区志』 荆州地区地方志编纂委员会、红旗出版社、1996
  • 『江陵県志』 湖北省江陵县志编纂委员会、湖北人民出版社、1990
  • 『洪湖県志』 洪湖地方志编纂委员会、武汉大学出版社、1992
  • 『荊門市志』 湖北省荆门市志编纂委员会、湖北科学技术出版社、1994
  • 『漢川県志』 湖北省汉川县地方志编纂委员会、中国城市出版社、1992
  • 『応城県志』 湖北省応城市地方志编纂委员会、中国城市出版社、1992
  • 『穀城県志』 湖北省谷城县地方志编纂委员会、新华出版社、1991

* 本稿は日本学術振興会科学研究費補助金「近現代中国における伝統芸能の変容と地域社会(平成22~23年度、基盤研究(B)、課題番号:22320070、研究代表者:氷上正)による成果の一部である。


*1 もともと宣城地区・宣城県と、地級・県級ともに宣城が存在したが、現在、県級は宣州区に改称している。このため本文中では原則として地級を宣城、県級を宣州と呼称するが、引用資料の中には旧称のままで県級が宣城と呼ばれているものもある。
*2 曹樹基・葛剣雄1997 pp.455-458。
*3 皮影戏,是广德的主要剧种之一。在县内活动的皮影戏,除河南皮影之外,还有湖北皮影。……南下的第一代艺人,是河南罗山县的张雁斌、梁字英、汪金升、汪金宽、王侉子(艺名),张雁斌为箱主(即拥有皮影、帐幕、道具的班头)。
*4 皮影戏开始自在移民区活动,后来当地居民对此剧种也逐渐发生兴趣,观众越来越多,活动范围也越来越广大,一担箱(一个班子)已远远不能满足观众需要,于是从河南的光山县又下来一批艺人,他们是余雁堂、肖轩元、彭正道、彭正义、张德钦(又名张疙瘩,秀才出身)、肖侉子、李戏成等。
*5 郎溪皮影戏,人称“湖北影子”。民国22年(1933年)前,出现在县内南丰乡。由老艺人杨春发(广德人),带徒传艺。
*6 据艺人徐云清介绍:清咸丰(1851~1861)兵乱后,宁国县人口大减,移民大量涌入。湖北移民中黄、杜两位皮影戏艺人,在县内传授皮影戏,徐云清是其五代弟子。当时仅为“求神还愿”演出,每场观众不多,流传不广…
*7 何沢華氏作成の省級無形文化財申請書類による。なお、同書類では何沢華氏の八代前の祖先が順治年間に移住してきたとするが、約350年を経ているにしては世代数が少なすぎる。
*8 河南皮影……是苏、浙、皖毗邻地区(宣城、郎溪、广德、句容、溧水、溧阳、吴兴、长兴、安吉等)观众喜闻乐见的民间戏剧形式。
*9 皮影戏 由外地传入。解放前及解放初期,流行于县北部与西部邻皖省一带。内容以神话与历史故事为主。于庙会、新春时节,由村民集资请来演出。
*10 影子的各种人物造型,借用牛羊皮制作,施以彩绘,表演时利用光线的反射显出影子于影幕的背后,正面观赏栩栩如生。
*11 这种影子戏三五人为一班即能演唱。
*12 其演唱曲调与其他影子戏不同,曲调来源于京徽剧团,行腔高亢悠扬,常以京胡、京二胡、笛子、唢呐和打击乐伴奏。听起来似京非京,别具韵味。
*13 在皖南流行的有大小两种,小影唱京徽调,大影唱民间小调或花鼓戏,边演边唱,时有帮腔。在宁国县流行的皮影戏多属大影。
*14 移民们看戏,不仅是劳动后的娱乐,有时还以它祈求丰年,袪祸禳灾,如“青苗戏”、“求雨戏”等。因此,每到春播秋收季节,移民们便把皮影一人请到村上,杀猪宰羊,宾客相待。开演前,以人们还有沐浴焚香,“请”出皮影,顶礼膜拜之后,方才开罗。移民们看戏,不仅是劳动后的娱乐,有时还以它祈求丰年,袪祸禳灾,如“青苗戏”、“求雨戏”等。因此,每到春播秋收季节,移民们便把皮影艺人请到村上,杀猪宰羊,宾客相待。开演前,艺人们还要沐浴焚香,“请”出皮影,顶礼膜拜之后,方才开罗。
*15 《中国戏曲音乐集成河南卷 豫南皮影戏音乐》。
*16 楊復元2004 p.337。
*17 《中国戏曲音乐集成河南卷 豫南皮影戏音乐》p.83。
*18 《中国戏曲音乐集成河南卷 豫南皮影戏音乐》p.387
*19 《湖北民间美术探源》所収。未見。
*20 p.202。
*21 易清2009 p.3。
*22 『穀城県志』p.381。
*23 『荊門県志』p.669。
*24 『恩施州志』p.918、『巴東県志』p.475。
*25 『荊州地区志』p.725、『洪湖県志』p.476、『荊門市志』p.669。
*26 『荊州地区志』p.725、『江陵県志』p.551。
*27 『武漢市志・文化志』p.186、『荊州地区志』p.725、『荊門市志』p.669。
*28 『武漢市志・文化志』p.186。
*29 欧陽秀美2005 p.102。
*30 后来多是唱酬神的“还愿戏”,使皮影越发有神秘色彩,甚至民间百姓遂有说皮影戏是“一个影子就一位神”,“唱完戏,影子头就要拨掉,否则,影子就是变为活人了”等,把影戏叫做“全神戏”。……旧俗皮影戏开演之前,由当地有名望的大乡绅或族长先“祭神”、“祭台”,烧香烧纸,三叩九拜后才开戏,至今仍旧俗。
*31 如若心愿实现,主家都要请皮影戏班前来演出,兑现对菩萨的承诺,了却心愿,这个过程称为“还愿”。唱“愿戏”是当地的习俗,这种请愿和还愿仪式都要通过演影戏的方式来进行,而且是有讲究的,唱“愿戏”要连唱三年,中间不能隔年。
*32 对一个戏班来说,十有八九的演出是愿戏,收入的主要来源也是愿戏演出。(p.20)
*33 愿戏演出包括四个方面:打闹台、请神仪式、正戏演出和送神仪式。戏班搭好戏台之后演奏一段曲子,叫做打闹台。闹台只有曲子,没有唱词。闹台可长可短,可以只打一两个曲子,也可以打七八个曲子,……。闹台之后就是请神仪式,艺人拿着用影人扮成的各种神做出从天而降的动作,边舞边唱。正戏演出的长短由戏东来定,或请一场戏,或请两场、三场甚至多场,每场约两个小时。正戏演出之后是送神,送神仪式比请神简单,烧香磕头并做出送神的动作,唱出送神的固定唱词,就算把神送走了。
*34 解放前,开场约二十分钟,要唱一曲子所谓“神戏”(现在改为二十至三十分钟折子戏)。“神戏”全是封建迷信,其目的在于祈祷、许愿,即替代主人向“土地爷”、“王母娘娘”、“财神爷”、“东王爷”、“阎王爷”等,祈求风调雨顺,国泰民安,吉祥如意。