『都市芸研』第四輯/革命現代京劇の英雄人物造型に関する一考察

Top / 『都市芸研』第四輯 / 革命現代京劇の英雄人物造型に関する一考察

革命現代京劇の英雄人物造型に関する一考察 ――京舞体三結合を中心に――

平林 宣和

一、はじめに

「崇高で輝きに満ちたプロレタリア階級の英雄人物」を目に見える形象として造型することは、文革期の革命現代京劇*1に課された最も重要な任務であった。この任務は毛沢東の『文芸講話』が文芸界に与えた課題の延長線上に位置するが、文革によりマイナスイメージを担う結果となったものの、そもそもはプロレタリア階級を核とする新中国の新たな国民像を、可視的な形で塑造するための試みであったといってよいだろう*2

京劇は新中国建国前後の時期、この任務とは即かず離れずの位置に自らを置いていたが、1958年以降になると、俄然その主戦場の観を呈するようになる。清末以来、近現代に材を採った数多の「現代戯」創作の経験を積んできた京劇であったが、文革を目前としたこの時期に、「帝王将相、才子佳人」とはかけ離れた「プロレタリア階級の英雄人物」を演じるという難題に、あらためて直面することになるのである。

舞台上に英雄人物像を造型してゆくプロセスには、言うまでもなくいくつかの階梯があり、文字によって記される台本のレベルから、舞台上で生身の俳優によって演じられる段階まで、造型作業は舞台に関わる多くの人間によって幾重にも積み重ねられる。このうち台本のレベルに関しては、複数の演目を対象に、英雄人物像の造型が時とともにどのように尖鋭化されてきたのかが、国内外の研究者によって検討されてきた。また、俳優自らが英雄人物を演じる際の演技術について、筆者は文革期のスタニスラフキーシステム批判に注目し、その初歩的な意味づけの作業を行っている(平林、2004)。

文革期の英雄人物像は、何よりも「高・大・全」、すなわち崇高で偉大、かつ完全無欠な存在として造型されることを要求された。スタニスラフスキーシステム批判は、俳優の「自己」や「無意識」といった概念がもたらす不確定要素を排除するための理論的な基盤を提供したが、一方同時期の俳優の身体技法に関しては、「京舞体三結合」と呼ばれる演技および訓練のシステムが新たに採用されている。小論では、英雄人物像の造型に関する既存の議論を一通りおさらいしつつ、これまで検討されたことのない「京舞体三結合」について、現時点までに明らかになったことを述べ、「崇高で輝きに満ちたプロレタリア階級の英雄人物」の形象がいかなる組成によってできあがっているのか、その分析を幾分かでも進めたいと思う。

二、人物造型の変遷とスタニスラフスキーシステム批判

先述のように、プロレタリア階級の英雄人物像を造型するという課題は、1942年に毛沢東が延安で発表した『文芸講話』を直接の基点としている。その中で毛沢東は、「我々の文学・芸術は(中略)、第一に労働者・農民・兵士のためのものであり、労働者・農民・兵士のために創作され、労働者・農民・兵士によって利用されるものである」と述べ、この「原理」はその後もさまざまなところで繰り返し言説化されてきた。

特に文化大革命の始まる前後には、労働者・農民・兵士すなわちプロレタリア階級の形象の絶対的優位性を支える様々な文芸理論が登場している。1962年に行われた「中間人物論批判」は、善玉でも悪玉でもない、複雑でより現実的な人物像を描くことを批判し、また文革開始後の1968年に提起された「三突出理論」、つまり善玉と悪玉のうち善玉達をまず目立たせ、その中でも英雄人物達を前面に出し、さらに最も英雄的な人物を突出させる、という原理は、その後文革期のあらゆる創作を律する金科玉条となった。

こうした原理はまず上演台本上に、その刻印を残すことになる。文革開始後の1967年に革命模範劇として認定される革命現代京劇の演目は、どれも文革開始以前のいずれかの段階で創作、上演されたものである。我々が現在目にすることの出来る当時の革命現代京劇の映像は、いずれも1970年前後に撮影されたが、この時点での台本は、各々が最初に創作、上演された時のものとは甚だしく異なっている。

たとえば、1958年の『智取威虎山』初演時の台本では、主人公楊子栄が威虎山に登る際、敵の目を欺くために「黄色小調(艶事を唄った小唄)」を口ずさみ、さらに匪賊の頭目の娘をからかうという一幕が準備されていた。こうしたプロレタリア階級の英雄人物像を「損なう」場面はその後軒並み削除され、代わりに革命、階級闘争、共産主義を称揚する場面や歌などが加えられている*3

また吉田(2004)、および関(2001、2002)は、それぞれ後に模範劇となる『紅灯記』、『白毛女』の台本と、その中に描かれる人物像の変遷を詳細に跡づけている。これらの研究は、複数回にわたる台本の改編過程の中で、中間人物が徐々に姿を消し、反面「崇高で輝きに満ちたプロレタリア階級の英雄人物」達がますます突出してくるプロセスを明らかにしている*4。「高・大・全」という特質を備えた英雄人物像は、まずはこれらの原理、およびその実践としての台本の創作・改編という形で、徐々にその姿を整えていったのである。一方、実際の舞台上演に関わる俳優の演技については、スタニスラフスキーシステム(以下スタシステムと呼ぶ)に対する激しい批判が、文革期における演技術を規定する大きな要因となった。

スタニスラフスキーの中国への紹介は民国初期の1916年に始まり、以後も一連の著作の翻訳や、一部演劇学校におけるスタシステムの採用によって、その理論は中国の演劇界に徐々に浸透していった。さらに新中国建国以後、スタシステムは社会主義演劇理論の中核として重視され、1954年にはソ連から複数の専門家を招いて国内の文芸幹部の養成が大規模に行われるなど、中国演劇界のバイブルとして不動の地位を得るに至った。京劇界においても、建国後の中国戯曲学院の俳優養成課程にはスタシステムが導入されており、当時の俳優の卵たちは伝統的な演技術に加えて、新たに移入されたスタシステムを一通り身につけていたのである*5

しかしながら文革開始以降、スタニスラフスキーは「ブルジョア階級の反動的芸術権威」として全面的に批判され、スタシステムに含まれる様々な理論も一律に否定されてしまった。一定の規模を備えた本格的なスタシステム批判は、1969年に『紅旗』の第6、7期合併号に掲載された「スタニスラフスキーシステムを評す」に端を発し、その後スタシステムを批判する相当量の文章が、『人民日報』や『紅旗』など、当時の主要メディアに相継いで発表されている。

「スタニスラフスキーシステムを評す」は、上海革命大批判執筆グループの署名により発表され*6、第一章「労農兵から出発するか、それとも“自己から出発”するか」、第二章「階級論か、それとも“種子論”か?」、第三章「意識的な宣伝か、“無意識の創作”か?」、第四章「文化戦線におけるプロレタリア階級の専政を強化する」の全四章で構成されている。このうち一章から三章において言及されている、「自己から出発する」こと、さらに「種子論」、および「無意識の創作」が、この文章の主な批判の対象であり、この三つの要素を批判することについて、この文章の論理は終始一貫している*7

俳優の「自己」を演技の出発点とし、この自己の基礎の上に、役の中にある様々な善悪の「種子」を見つけ、それを培養し育んだ上で、さらに無意識のプロセスを経過して一つの役を生きる、というのがスタシステムの骨格の一つである。システム批判はこのプロセスを、社会主義の階級論とはまったく相容れない、ブルジョア資本主義の人間観に基づく立場として全面否定した。さらに「模範劇のなかの崇高で輝きに満ちたプロレタリア階級の英雄人物の形象、および醜悪で矮小な反革命分子の形象は、すべて“種子論”に対する強力な批判なのである」という具合に、革命現代京劇を含む模範劇を、スタシステムに真っ向から対立するものとして明確に位置づけているのである。

この時期に突然スタシステム批判が始められたのは、当時のソ連との緊張関係が、国境紛争によって戦争勃発寸前の状態にあったことと、おそらく無関係ではない。その意味では偶然の産物と言えなくもないが、しかし結果としてスタシステム批判は、文革期の模範劇の演技を制御する、理論的支柱の一つに組み込まれた。そして自己や種子、無意識といった、階級論と相容れない不確定要素が、当時の俳優の演技から一律に排除されることになったのである。

三、京舞体三結合の導入と「馬舞」

ここまで見てきたように、「崇高で輝きに満ちたプロレタリア階級の英雄人物の形象」は、まず台本の段階でいささかの瑕疵も見出せないよう、入念に練り上げられた。そしてそれを演じる俳優は、スタシステム批判によって自身の「内面」が演技に影響を与える経路を、理論上封鎖されることになる。以上の要素に加えて、俳優の身体を素材に「プロレタリア階級の英雄人物の形象」を造型するため、その身体技法を規定する原理として革命現代京劇の演技体系に組み込まれたのが、以下に述べる「京舞体三結合」である。

京舞体三結合とは、伝統的な京劇の演技術に、「舞」つまりバレエを主軸とした当時の舞踊、および「体」すなわち器械体操を中心とした各種スポーツを加え、この三つを身体技法の基礎とする、という意味である。たとえば写真1は『智取威虎山』の一シーンだが、跳躍動作を見せている俳優達の演技から、そこにバレエや体操の影響があったことは容易に見て取れるだろう。

京舞体三結合が革命現代京劇の演技体系にいつ頃から組み込まれたか、正確に跡付けることのできる資料は現時点では未発見だが*8、かつて革命現代京劇『杜鵑山』の創作に関わった石宏図氏によれば、1969年に導入が始められたという。その京舞体三結合が革命現代京劇の創作、とりわけ俳優の身体技法に影響を与えていった初期の具体例の一つとして、『智取威虎山』の「馬舞」、すなわち馬に乗って山道を進むことを表現する舞踊的動作のケースが挙げられるだろう。この「馬舞」は1970年に『智取威虎山』を映画化するにあたって新たに編まれたものであり、その創作のプロセスにおいてとりわけバレエの影響が大きかったことは、主人公の楊子栄を演じた俳優童祥苓の以下の回想からも明らかである。

写真1:上海京剧团《智取威虎山》剧组(1970)より

于会咏はまず第五場の「打虎上山」から改編を始めたが、同時にこの場面に「馬舞」を加えようということになった。この時には、北京京劇団、中国京劇院、中央舞劇院、『紅色娘子軍』バレエ劇組、さらには『智取威虎山』劇組を動員して、全部で五種類の振り付けのアイデアを出させ、そのすべてを私に学ばせたのである。それらを学び終わると、今度は各アイデアのエッセンスを選び取り、自分に最も適した振り付けを設計させられた。(童、2000、114頁)。

このように、「馬舞」の設計にあたって、京劇の劇団のほかに二つの舞劇団が関与していたことが看取できる。当時の舞劇では、ソ連から学んだバレエを土台に、伝統演劇の身体技法を部分的に加味したスタイルが主流であり(于、2004)、『紅色娘子軍』バレエ劇組はもちろんのこと、中央舞劇院による振付も、基本的にバレエを主軸としたものだったと考えてよいだろう。当初五種類存在した振付が元来どのようなものであったかは明らかではないが、最終的にできあがった「馬舞」の跳躍動作や脚部の造型などを見れば(写真2参照)、それまでの京劇の所作には見られない、バレエ導入の明らかな痕跡が複数見出せるのである。

写真2:上海京剧团《智取威虎山》剧组(1970)より

童祥苓が半月の間集中して取り組んだこの「馬舞」は、『智取威虎山』の中でも最も成功した演技の一つとされており、1970年1月5日の『解放日報』では、「革命的な政治内容と、能う限りの美を尽くした芸術的形式との統一」の代表例として賞賛されている*9。その中でもとりわけ、京劇とバレエをともに摂取し、それが英雄人物の造型につながった点に高い評価が与えられていることは、以下の文章からも明らかであろう。

 「馬舞」は芸術のスタイルの上で、徹底的な革新を行った。(中略)「馬舞」は京劇本来の様式に含まれる動作の一部、さらに西洋の舞踊および民間舞踊のいくつかの技巧を批判的に摂取しながら、それまでの舞踊が日常的な動きを芸術的なそれへと昇華させる際のある種のルールを参考にしている。とはいえその出発点はあくまで革命闘争という現実であり、また英雄的な人物のキャラクターである。というのも、その目的はプロレタリア階級の英雄人物を造型することにあるのだから。

革命現代京劇のその他の演目、たとえば『平原作戦』などにおいても、英雄人物の造型のために、体操や雑技の技術が京劇の演技の中に取り入れられていた実例が見いだされる。

 最後の一幕、民兵が地下道で戦闘を行う際に用いる所作、たとえば「側飛燕」、「魚躍」などには、体操の中の一部動作が応用されており、その溌剌とした造型によって民兵たちの強健かつ威厳のある姿を現出させている。また正規軍突撃の場面では、雑技の跳躍技に使われる「弾板(ジャンピングボード)」を用いて、兵士たちが身を躍らせて壁を飛び越えるという、まさに天兵が降臨したかのような破竹の勢いを表現しているのである。(上海人民出版社編、1974、57頁)

以上、「馬舞」の例において顕著なように、少なくとも革命現代京劇の映画撮影が行われる少し前、スタシステム批判とほぼ同時期の1969年頃には、京舞体三結合が俳優達の演技の中に取り入れられていったことが確認できるのである。

とはいえ革命現代京劇の創作の場面における京舞体三結合の導入は散発的なものであり、全ての俳優のあらゆる演技が、京舞体三結合を基礎としていたというわけではない。それがより厳密に体系化されてくるのは、文革期の俳優養成の現場においてであった。

四、文革期の俳優養成と京舞体三結合

文革開始以後、京劇俳優の養成は一時中断されるが、1972年に革命現代京劇を演じる次世代の俳優達を育成することを目的として、演劇学校における俳優教育が再開されている。当時の俳優教育がどのようなものであったのか、実地に体験をした二人の京劇俳優の例を以下で検討してみたい。

中国戯曲学院(当時は中央五七芸術大学戯曲学校と呼ばれていた)*10の卒業生である張紹成氏は、1973年に入学して後、1976年に文化大革命が終了するまでの期間、革命現代京劇の教育を受けている。当時の基本功は伝統的なものと特に変わりはなかったが、これに加えて京舞体三結合のカリキュラムが準備されていた。

「舞」に関しては、舞踊学校から派遣された教師よりバレエと民族舞踊の訓練を受け、最初に学んだのは上海舞劇団が創作した『小刀会』の「弓舞」だったという。また体操については、天津体育学校の師資班(教員養成クラス)の学生が教えに来ており、京劇の毯子功とは異なる、助走付きの宙返りなどの訓練を主に施されている。さらに北京武術隊の選手達が武術の指導に訪れ、白兵戦を演じる際の演技の迫真性を身につけるため、様々な武術の型の練習を行ったという。

また同時期の1972年、北京戯曲学校(当時の名称は北京芸術学校)*11に入学した張春祥氏も、同様に京舞体三結合に基づいた身体訓練を受けている。最初の二年間はまず伝統的な基本功と革命現代京劇用の組合動作の訓練を受け、通常の開蒙戯に代わって革命現代京劇の一部を学習したとのことである。また「舞」と「体」については、専門の舞踊教師によるバレエの授業が週に二回行われ、さらに体操の授業は毯子功の教師が兼ねていたという。ジャンピングボードの練習なども課せられたが、これは『杜鵑山』など、革命現代京劇の上演に必要な技術だったからである。

これらの実例から、京舞体三結合という身体技法の原理が、文革期の京劇俳優養成のカリキュラムに明確に反映されていたことが確認できる。先述のように1972年に俳優養成が再開されたのは、革命現代京劇を演じる次世代の俳優たちを育成するためであった。そして革命現代京劇の最も重要な任務は、プロレタリア階級の英雄人物を目に見える形象として造型することにあるのだから、俳優の卵たちが受けた京舞体三結合に基づく身体技法の習得は、その目的を達するための必須のカリキュラムと見なされていた、と考えて良いだろう。

さて京舞体三結合に基づく俳優訓練は、単に京劇とバレエ、および体操の身体技法をただ個別に習得する、というレベルにとどまるものではなかった。注目すべきは、プロレタリア階級の英雄人物を演じるという絶対的要請があった故に、それが伝統的な京劇の身体技法に一定の変化をもたらした、ということである。

伝統的な京劇には、養成の初期段階で学ぶ基本姿勢が一定数用意されており、それは革命現代京劇にもほぼそのまま引き継がれている。ただし文革当時には各々の動作の名称が変更させられており、たとえば「順風旗」と呼ばれる片手を頭上に、もう片方の手を水平に挙げる姿勢は、当時「光芒万丈」と改称された。光芒とは共産党と毛沢東から発する光を表し、それが遙か万丈の彼方まで普く照らすことを象徴している。また「手提紅灯」という姿勢は、本来鎧をささげ持つという意味の「提甲」という名称であったが、革命現代京劇の代表的演目『紅灯記』に基づいて改称された。

そして名称よりさらに本質的な身体技法上の変化は、これらの基本姿勢においても観察が可能である。たとえば腕を上方に伸ばし掌を上に向ける「托掌」という姿勢を例に取ると、伝統的な京劇の場合、腕は緩やかな弧を描き、決して上に突っ張るような印象は感じられない。しかし革命現代京劇になると、バレエのように直線が強調された、上方へと高く伸び上がるような姿勢となる。その際胸部も胸を張った「挺胸」となり、従来の胸部をゆるめた姿勢とはかなり印象が異なっている*12。こうした点は俳優自身も、この時代に訓練を受けた人間の一種の「癖」として明確に自覚している。

このように、京舞体三結合の導入は、伝統的な京劇の身体技法の中にバレエと体操の身体的特性が浸透してくる、という事態をもたらした。それはプロレタリア階級の英雄人物を造型する、という要請に応えるものであったが、一方で伝統的な京劇の特質である「八分満」、すなわち十を表現したい場合に敢えて八分目で抑える、という抑制の効いた演技の原則を崩す結果となった*13。含蓄に富み、観客の解釈の余地を残した奥行きのある演技は消え去り、代わって全てが表面に露出したような「輝きに満ちた」身体がそこに出現したわけである。

五、まとめ

以上、「京舞体三結合」に着目しつつ、革命現代京劇の英雄人物の造型について、その組成を析出してみた。ここまで段階的に述べてきたように、革命現代京劇における英雄人物の形象は、『文芸講話』に始まる各種文芸理論の影響の下に形成され、さらに文革期のスタシステム批判および京舞体三結合の導入を経て、より「洗練」の度を増すこととなった。スタシステム批判は、舞台上の演技から俳優の内面や無意識といった要素を排除し、英雄人物をより完全な「模範」へと変貌させている。一方の京舞体三結合は、京劇の身体技法にバレエや体操の要素を注入し、「八分満」という京劇本来の原則を崩すことによって、英雄人物達の身体から、内面的な奥行きをさらに見出し難いものとしたのである。

牧、松浦、川田(2002)は、こうした英雄人物像を、「翳りなき身体」と形容しているが、この「翳りなき身体」は小論で述べたように、京舞体三結合をひとつの組成としてできあがっているといっていいだろう。「崇高で輝きに満ちたプロレタリア階級の英雄人物の形象」は、このような原理を演技術の中核に組み込んだ、特異な実験作品だったのである。

ところで、先述のようにプロレタリア階級の英雄人物形象の確立は、建国以前から実現すべき至上の課題として文芸界に与えられていた。それが「中間人物論批判」や「三突出」といった理論的基盤の上に、「高・大・全」という完全無欠な特質を備えた絶対的存在として現れたことは、ひとまず文革期特有の現象だったといってかまわないだろう。またスタシステムに対する批判も、反修正主義と階級論の絶対化、さらに当時のソビエトとの関係悪化という背景から、やはり文革期固有の産物といってよいように思われる。

一方、京舞体三結合に見られるような伝統演劇とバレエ、体操との融合は、舞劇というジャンルにおいて、すでに建国初期から試みられてきた。京劇にとって、バレエや体操の摂取は文革期に初めて着手された作業であったが、しかし舞台芸術全般に視野を広げれば、それは革命現代京劇が出現する以前に、舞劇においてすでに試みられた事柄だったのである。この点からすると、文革期に京舞体三結合の教材として、まず舞劇の『小刀会』が選ばれていたことは注目されて良いだろう。すなわち京舞体三結合は、文革期より以前に自身の類似品を見いだし、それを参照していたのである。

冒頭で述べたように、英雄人物を本質化された表象として確立させるという作業は、そもそも新中国の国民像を可視的な形で塑造するための試みであった。そしてその有力な素材の一つとなった舞台芸術の身体技法の変遷、特にバレエとの融合の試みの歴史もまた、上述のように文革期より以前に遡りうる。ということは、バレエとの結合による新たな身体技法の創出は、それを部品の一つとして組み込む新中国の国民像確立の試みとともに、より長い歴史的スパンにおいて眺めてみなければならない、ということになるだろう。この問題については、他の領域の材料を集めた上であらためて論じてみたい。

【主要参考文献:日本語

  • 加藤徹 2002『京劇 政治の国の俳優群像』中央公論新社
  • 杉山太郎 2004(1987)「革命現代京劇再考――伝統劇の写意と写実」、『中国の芝居の見方』、好文出版
  • 関浩志
    • 2001「歌劇『白毛女』の創作と変遷――版本の系譜と改作意図を中心に――」、『東アジア地域研究』第8号
    • 2002「歌劇『白毛女』の版本についての一考察――1962年改作脚本を中心に」、『中国文化』第60号
  • 瀬戸宏 2002『中国演劇の二十世紀』東方書店
  • 竹内実(編著) 1990『岩波講座現代中国第5巻 文学芸術の新潮流』岩波書店
  • 竹内実(編) 1992『中国近現代論争年表 上・下(1949~1989)』岩波書店
  • 東方書店出版部 1970~1971『中国プロレタリア文化大革命資料集成 第1~6巻・別巻』東方書店
  • 平林宣和 2004 「文革期におけるスタニスラフスキーシステム批判初探――革命現代京劇と「人間」のいない舞台」、『中国都市芸能研究』第三輯、中国都市芸能研究会
  • 細井尚子 1990「京劇演技術の原点」、『悲劇喜劇』4月号、早川書房
  • 牧陽一、松浦恒雄、川田進 2002『中国のプロパガンダ芸術』岩波書店
  • 毛沢東(竹内実訳) 1995『毛沢東語録』平凡社
  • 吉田富夫 2004「『紅灯記』移植と文化大革命」、『アジア遊学 特集文化大革命再検討』勉誠出版
  • 吉田富夫、萩野脩二(編著) 1994『原点中国現代史第5巻 思想・文学』岩波書店
  • 劉文兵 2003「集団ヒステリーの身体表象 文革期中国のプロパガンダ演劇とその映画化」、『表象文化研究2』東京大学大学院総合文化研究会超域文化科学専攻表象文化論
  • ベネディティ,ジーン(高山図南雄・高橋英子訳)
    • 1997『スタニスラフスキー伝 1863-1938』晶文社
    • 2001『演技-創造の実際 スタニスラフスキーと俳優』晩成書房

【主要参考文献:中国語】

  • 戴嘉枋 1995《样板戏的风风雨雨:江青样板戏及内幕》知识出版社};
  • 高义龙、李晓(主编) 1999《中国戏曲现代戏史》上海文化出版社
  • 《焦菊隐文集》编辑委员会 1986《焦菊隐文集》文化艺术出版社
  • 李辉(主编) 1995《八大样板戏 珍藏本》光明日报出版社
  • 刘艳 2001〈京剧的写意特征与“样板戏”的英雄人物塑造〉,《文艺研究》第六期,文化艺术出版社
  • 马俊山 2003〈论斯坦尼体系对中国话剧现实主义的演剧体系的影响〉,《大戏剧论坛》第一期,北京广播学院出版社
  • 人民音乐出版社编辑部 2002《京剧“样板戏”短小唱段荟萃》人民音乐出版社};
  • 上海京剧团《智取威虎山》剧组 1970《革命现代京剧 智取威虎山》人民出版社
  • 上海人民出版社编 1974《赞革命样板戏舞蹈设计》上海人民出版社
  • 童祥苓 2000《“杨子荣”与童祥苓》中国文联出版社
  • 王安祈 2003《當代戲曲 附劇本選》三民書局
  • 汪人元 1999《京剧“样板戏”音乐论纲》人民音乐出版社
  • 《新剧作》编辑部 1984《戏曲现代戏导演表演论文集》上海艺术研究所
  • 于平 2004《中国现当代舞剧发展史》人民音乐出版社
  • 余秋雨 2004《借我一生》作家出版社
  • 中国戏剧出版社编辑部 2003《京剧“样板戏”唱段荟萃 上·下》中国戏剧出版社
  • 郑君里 1981《角色的诞生》中国电影出版社
  • 编者不详 1970《学习革命样板戏 普及革命样板戏 第一集》

【CD-ROM】

  • 中国共产党中央委员会 《红旗・求是杂志电子版合订本(1958-1995)》,红旗出版社
  • 人民日报社新闻信息中心 《人民日报 五十年图文数据系列光盘》,人民日报出版社
  • 美国《中国文化大革命》编委会 2002《中国文化大革命文库》,香港中文大学中国研究服务中心

【インタビュー】

  • 2003年8月20日(東京) 張紹成(元中国京劇院俳優・中国戯曲学院卒業生)
  • 2003年9月2日(東京) 張春祥(元北京京劇院俳優・北京戯曲学校卒業生)
  • 2004年2月9日(北京) 石宏図(元北京京劇院院長)
  • 2004年9月5日(北京) 葉金援(北京京劇院俳優)
  • 2004年9月25日(東京) 張紹成
  • 2005年3月2日(北京) 高牧坤(中国京劇院)
  • 2005年3月3日(北京) 孫元意(中国京劇院)

※本研究は、2003-2004年度科学研究費補助金萌芽研究「革命現代京劇における人物形象とその身体」(課題番号15652011)の研究成果の一部である。

※小論は、2004 年10 月6日にプラハ・カレル大学で開催された国際シンポジウム「New Trends in Chinese and Japanese Theatre Studies」、および2004年11月28日に開催された日本演劇学会2004年秋の研究集会「アジア演劇の視座」における研究発表に基づくものである。また大阪市立大学の松浦恒雄先生、および摂南大学の瀬戸宏先生からは、貴重な資料と情報の提供を受けている。さらに早稲田大学演劇博物館の李墨氏には、北京におけるインタビュー実施に際してご助力をいただいた。この場を借りて御礼申し上げたい。ただし言うまでもなく、小論の至らないところはすべて筆者の責任に帰すものである。


*1 文革期に模範劇(様板戯)として上演されていた京劇を、他の舞劇などと区分するために、小論では革命現代京劇と呼ぶ。
*2 刘艳(2001)は、革命現代京劇が表象する新中国の「現代生活」とは、あくまで本質化されたイメージであり、現実にはいまだ存在しないその形象を「写意」という手法で描き出したのが、革命現代京劇に他ならないと指摘している。
*3 前掲の刘艳(2001、45頁)の記述による。このほか同論文では、『紅灯記』、『沙家浜』における同様の改編を検討している。
*4 吉田(2004)では、『紅灯記』の数種類の台本が比較検討されている。それによれば台本の改編は模範劇が確定した1967年以降の方が著しい。三突出理論が1968年、スタニスラフスキーシステム批判および京舞体三結合が1969年にそれぞれ登場していることを考えれば、1970年前後の模範劇映画撮影までの三、四年の期間が、模範劇の完成期であるといってよいだろう。
*5 1951年から59年までの期間、戯曲学院(開設当初は戯曲実験学校と呼ばれた)で学んだ孫元意氏によれば、学生たちはスタシステムを学習した後、伝統演目を演じる際に「深入角色(役に深く入り込む)」して涙を流したりするようになったという。
*6 余(2004、167頁)によれば、この文章は当時復旦大学中文系の教師であった胡錫涛によって単独で書かれたものである。そもそもは上海の複数の新聞社が、毛沢東の好まない旧ロシアの文芸理論家に対する批判文の執筆を、一部知識人に依頼した結果生まれた文章だという。
*7 詳細は平林(2004)を参照のこと。
*8 1970年前後に発表された文章を集めた『赞革命样板戏舞蹈设计』は、1974年に出版された書籍だが、この中から京舞体三結合という用語を見出すことはできない。まず現象が先行し、後になってそれを京舞体三結合と呼ぶようになった、ということかも知れないが、この点については、以後あらためて検討したいと考えている。
*9 前掲『赞革命样板戏舞蹈设计』所収。
*10 中央五七芸術大学は文化部に属し、下部組織として八つの芸術学校を擁していた。当時の戯曲学校はそのうちの一つであり、革命現代京劇の継承のため、1972年から再び学生を受け入れ始めた。張氏は第二期生として入学、1979年に六年間の学習を終えて卒業するが、この年から学部の募集が始まったため、受験してさらに四年間学習を続けた。卒業は1982年で、文革後の戯曲学院の第一期卒業生となっている。
*11 当時の北京芸術学校には、京劇、評劇、子、話劇、木偶戯、舞踊、曲芸、雑技、舞台美術などの各種学校が含まれており、単独の演劇学校は無かった。
*12 以上の動作については、張紹成氏に対するインタビューの際、張氏の実演に基づき検証した。
*13 先に挙げた石宏図氏の示唆による。