北京プロジェクトⅠ成果報告/「海派」資料から見る民国初期京劇の諸相

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「海派」資料から見る民国初期京劇の諸相~「海派」意識と「京派」へのまなざし

藤野真子

一. 上海における京劇の受容

アヘン戦争後の開港によって、上海は近代都市として急激な発展を遂げ、それに伴う人口の流入で娯楽に対する要求も質的・量的に変化した。演劇に目を向けてみると、まず同じ呉方言圏に属する蘇州で盛んに行われた崑劇であるが、廟会などの巡回公演や会館での上演はあったものの、上海で専門の劇場を持ち、大衆の娯楽に供せられるようになるのは咸豊年間とされる*1。また、規模の大きい劇種としては揚州を経由して入ってきた徽戯がかなりの頻度で上演され、崑劇に取って代わっていった*2。于質彬『南北皮簧戯史述』には、この辺りの経緯が詳細に論じられているが*3、この徽戯は後日、南下してきた京劇、つまり自身が母胎となった新興の劇種と再度合流する。北方由来の梆子戯も同様に、京劇に取り入れられていく*4。一方、所作を伴った演劇としての体裁をとるのは更に先のことであるが、「花鼓」「灘簧」と総称される土着の節回しに乗せた説唱芸能が時に禁演に遭いつつも盛んに上演されていた*5。それらの後身は、発祥地の名称を付けて「蘇灘」「本灘」*6などと呼ばれ、1930年代以降になると衰落していた崑劇はおろか、京劇に迫るほどの勢力を持つ有力な劇種となり、上海は中国演劇界の一大拠点となるのである。

さて、中国において京劇の上海南下は、従来より同治六年(1867)宝善街(現・広東路)の「満庭芳」開業という、固定した京劇上演専門劇場の登場をもってその嚆矢とする論が大勢を占め、通説化している*7。この満庭芳開業以降、茶園形式の上演場所が陸続と登場して上演が盛んに行われるが、二十世紀に入ると新舞台の登場(1908)によって大規模公演を本格的に開始するに至る。

ここで、清朝最晩年に著された慕優生著『海上梨園雑誌』(1910)巻七「歌台誌」巻頭の「滬上梨園之歴史」と題された文章から一部を紹介したい。

滬上の戯園はおよそ三度の変化を経ている。初めは崑曲を唱い、次に皮簧を唱い、最近はもっぱら京調を尊び、燕台の鳳雛たちの名声が江南中に響き渡っている。

「皮簧」と記されているのは徽戯のことであり、「京調」は当然京劇のことであろう。ここで、「京調」が唱われるのが「最近」のこととして認識されている点に注目したい。すでに先行の諸研究で詳細に論じられていることであるが、上述のように徽戯と合流した上海の京劇は、当然ながら北京から移植された当初の形から大幅に変質し、西洋演劇の要素も取り入れつつ新興都市における新たなローカル文化として独自の発展を遂げていった。ところが、ここに書かれている「京調」とは将来的に「海派」京劇と名付けられるものではないようである。「燕台」という語から分かるように、北京の俳優を指していると思われる。実際に歴史を遡ってみると、満庭芳開業以降、後発のいずれの舞台においても北方俳優の客演が中心であったことは『申報』(演劇関係記事初出は同紙創刊の同治十一年、1872)の記事からもうかがい知れる*8。繰り返しになるが、その一部が上海に土着した結果、ローカルな俳優・戯班が改めて生み出されたことは事実だが、その後も上海には絶えず北京(或いは天津)を活動拠点とする俳優が招聘され、客演が行われ続けた。つまり少なくともある時期からは二種類の京劇が併存していたことになる。後日、この二者の間には一種の対峙関係が生じるわけであるが、各々相手をどのように意識し、バランスを保って共存してきたのか。小論では、主に1910~20年代の上海で発表された様々な言説を用い、変化を生じた後の上海京劇が「正宗」北京京劇にむけるまなざしを分析することで、民国初期上海で上演されていた京劇の諸相―つまりは、京派・海派京劇双方の上演と交流の状況を明らかにすることを目的とする。

二. 「京朝」へのまなざし:「海派」「京派」意識の形成

(一)清末~民国初期上海の京劇関連資料と「海派」という語の登場

現在のところ、民国期上海京劇専門の通史的文献は、1999年に出版された『上海京劇志』*9以外存在しない。他には『中国京劇史』(1990年初版、1999年改版)において一定数の紙幅が割かれているに過ぎない*10。また、上掲の『南北皮簧戯史述』は上海京劇の成立過程に言及している。但し、京劇南下前後の時期に関しては、満庭芳開業の一件を見ても、開業広告の掲載先として有望な『申報』の創刊がそれより遅れるため、同時代の情報資料は望めない。代わりに晩清~民国初期にかけて、先述の『海上梨園雑誌』ほか、単行本・新聞雑誌などの活字媒体で上海演劇界の変遷を回顧・追跡したものが基礎資料としては古い部類に入る。以下、上海で出版されたものに焦点を当て、主なものを挙げてみたい。

清末から民国初期にかけて、「評劇家」「顧曲家」と称されるいわゆる演劇愛好者たちが、新聞や雑誌上で活発な発言をするようになるが、これらを集大成したものが1910年代以降単行本として発行されるようになる。苕水狂生『海上梨園新歴史』(上海鴻文書局 1910)*11、慕優生『海上梨園雑誌』(商務印書館 1911)など宣統期に既にかなりボリュームのある著作が登場している。辛亥革命以降は馮叔鸞『嘯虹軒劇談』(上海中華図書館 1914)、宗天風『若夢廬劇談』(泰東図書局 1915)、楊塵因『春雨梨花館叢刊』(上海民権出版社 1917)、劉豁公『戯劇大観』(上海交通図書館 1918)、周剣雲『鞠部叢刊』(上海交通図書館 1918)などが代表的なものであるが、中でも『鞠部叢刊』は同時代の様々な演劇人の言論と同時に、姚民哀「南北梨園略史」など現在も引用されることの多い文章が収録されている*12。また、新聞・雑誌掲載記事の中には、上海演劇界の動向を十~三十年単位で回顧したものも多く見受けられ、漱石「三十年来上海梨園聞見録」(『繁華雑誌』第6期、1914)、顔五「近十年上海梨園変遷史」(『遊戯世界』第6~8期、1921~22)、寿石「上海梨園之沿革」(『戯雑誌』第8期、1923)など枚挙にいとまがない*13

これらの文献には、京劇(京腔・京調・京戯)のみならず、崑・徽・梆子など先行する劇種の上海における活動史、更には「新戯」と称される文明戯に関する記述が大量に混入している*14。またもっぱら地元上海の京劇界に言及する場合は、一部題名にも用いられているように「海上」「滬上」と冠され、北京のそれと区別がなされていた。後述するが、地元の演劇界に見られる種種の試みに肯定的な視線を投げかけるもの、具体的な歴史事実のみを記すもの、急速な変革に批判的な論調のものと作者によってスタンスは様々で、また時期によっても幾分ニュアンスに違いが見られる。ただいずれの文章にせよ、上海で行われている京劇がすでに北京とは性質を異にしているという認識は共通している。

上海の京劇が北京とは別個のものとして扱われるに当たり、注目すべき要素が三つある。一つは上述の上演場所の確立、続いて俳優の定着、そしてオリジナル演目の創出である。上演場所、すなわち劇場については上述の満庭芳のような茶園系統の場所から始まり、遊楽場の一角、そして新舞台のような専門劇場へと変遷していく。俳優については、諸事情で北京を離れざるを得なかった者も上海に流れ着いたとされるが*15、辛亥革命前夜になると、社会啓蒙性の強い演目を創作した夏氏兄弟や馮子和など、俳優としても劇作者としてもレベルの高い一群が上海を本拠地に活動し始める。この夏・馮を代表として*16、南下した京劇俳優の子弟も多く見受けられるが、定着地の観客の需要に合わせて舞台内容を変化させていく柔軟さは注目に値する。また、元旗人官僚といわれる票友出身の汪笑儂の登場と活躍は、上海京劇界における老生の一つの流れを形作ったといっても過言ではない。さらに京・徽合流の具体例として、王鴻寿(三麻子)のような徽戯出身の俳優が京劇の舞台で活躍し、後進に大きな影響を与えたことは海派京劇形成にあたって決定的な出来事であった*17。のちに、海派京劇を代表する老生となる周信芳(麒麟童)が得意としたものの中で、『徐策跑城』『趙五娘』などが三麻子から伝授された徽戯由来の演目であることは言うまでもない*18。その他の演目についても、特に新舞台に集った俳優らが作り上げた外国の故事や時事問題に取材した『新茶花』『血手印』といった劇は非常な人気を博し、新作劇の制作・上演は上海京劇の一つのアイデンティティとなるに至った。

さて、こうした上海京劇の特徴を認識する行為は、視点を変えて見れば北京京劇の正統性を再確認することにも通じる。それらの特徴を概括する言葉として、今日の我々は「京派」「海派」という「対立する」タームを用いるが、これらの語の文献上での初出時期を特定することは現在も困難だとされている*19。一般に、文芸・芸術一般に用いられる「海派」という語そのものの由来が解説される場合、元々は上海京劇を指したものであるとするケースが多い*20。また、近年中国で大量に出版されている民国上海史関係の書籍において、この語の発生を1920年頃としているものも見受けられる*21。管見の及ぶ限り、1918年の『鞠部叢刊』中には「上海」の演劇の意味で「海派」という語が用いられている*22

また、両者の区別意識が熟してくる1920年代半ばになると、「海派」の語があたかも「京(朝)派」に比するものとして副次的に生じたかのような記述がなされている文章*23も登場するが、『鞠部叢刊』の用例を見て判断する限り、北京の「正宗」なものとは異なるという意味で、敢えて別の呼び名を付けたと見なした方が良いかと思われる。一方で「南北舞台」「南北伶界」という表現は多用され、「南」「南方」という表現をもって上海を南方全般で行われている京劇の代表として論じたり、ひいては上海京劇そのものを指したりすることが多い*24

ここで現代における「海派」という語のもたらすニュアンス及びその使用状況に関して少し触れておきたい。『中国京劇史』上巻において、上海京劇は「南派」*25京劇と称されている。この名称については、楊常徳氏が「説南派、説海派」にて「南派」とは清末から江南一体で行われていた京・徽合演の芝居であり、「海派」とは両者が融合したのち、上海を根拠地として発展していった先に生まれたものを指すとの見解を述べている*26。上海京劇のアイデンティティを非規範化・脱伝統などに求めた場合このようなカテゴライズは有効であるが、楊氏自身が述べているように、従来「海派」というのは程度の差こそあれ、品格に欠けるとされた上海京劇を軽視する呼称であった。『中国京劇史』における「南派」という表現はこうした経緯を踏まえたものと思われるが、近年ネガティブイメージは排除され、特に1990年代は敢えて斬新な試みの代名詞として「海派」を題名に冠する劇が、京劇、更には崑劇にも登場した*27

(二)「京派」へのまなざし

前掲の文章群は、上海京劇への目配りが比較的十分にきいているものであるが、実際は伝統劇プロパーを自称する一群の人々のまなざしは大部分が北京の「正統的」京劇に向けられている。例えば、『申報』など上海の新聞には地元舞台の上演広告こそ大々的に掲載されるものの、劇評欄で取り上げられる公演の多くは北京の俳優が客演しているものであった。これは1920年代から増加してきた演劇専門誌においても同様で、質・量共に北京の出版状況を凌ぎながら、地元俳優の公演の盛況ぶりに比して情報が十分にカバーされているとは言い難い。また、上海ご当地の劇評家でさえも北京正統論に迎合し、地元の俳優にはあまり注目しない傾向も見られる。ここに、当時の京劇愛好層の文化的座標を見いだすことが出来るが、具体的に彼らは北京・上海双方の京劇についていかなる認識を持っていたのであろうか。以下、様々なスタンスの発言を追っていく。

上述のように『申報』には多量の演劇記事が掲載されているが、中でも同時代の京劇界を総覧した一例として、署名「瀛仙」の「~之正宗」(1912年8月、「~」部分には行当名が入る*28)という連載に注目してみると、文中に「南北舞台」という表現が用いられ、北京・上海の両京劇界を区分しているものの、正旦についての記述一つとっても、「以青衣旦而負誉最久者、南北各得一人而已(青衣の俳優で、最も長きにわたって褒め称えられているのは、南北おのおの一人ずついるのみである)*29」と俳優のレベルを同格に論じている。ここから、民国初期には上海京劇界の人材が質量共に充実した段階に入っていたことがうかがわれると同時に、この論者が北京が絶対的に上海より優位にあるという観念に縛られていなかったことがわかる。ただ、『申報』の遊芸欄等において地元の京劇に注目した記事が集中して書かれるのはこの時期に限定されており、他の殆どの時代は北京の著名俳優の客演記事に紙幅が割かれている。再度地元舞台への言及が増えるのは、周信芳らが円熟期に入る1930年代以降となる。

一方、前節で挙げた単行本の中では、馮叔鸞『嘯虹軒劇談』(1914)が、北京と上海の演劇界の相違について、かなりの紙幅を割いて論じている。彼は河北省出身でのち上海に活動本拠を移した劇評家であり、伝統演劇については当時としてもかなり先進的見解の持ち主であった*30が、この著作に於いては俳優・観客を問わず、上海演劇界独自の諸傾向に対する批判が大半を占める。

上海演劇界の流行病とは何か。すなわち、芝居の精神の研究に打ち込むことなく、もっぱら上っ面をなぞることを好み、一時センセーションを巻き起こすだけという所にある。ゆえに舞台を営業する側も仰々しく大げさにするきらいがある。名優の価値は全て広告頼みで、「万金で招聘した」といわねば「特に使いを立てておいで願った」などというありさま、万事が謝礼の多さで表されてしまう。また「世界第一」といわねば「この世に二人といない」といってその技芸の優れていることを誇る(後略)。(『嘯虹軒劇談』「滬上戯界之流行」)

北方出身者である馮叔鸞が、発展途上にある上海京劇に批判的なまなざしを向けたことは、ある意味当然のことであろう。ただし、彼の文章には上海で育ちつつある異質の京劇に対し、正統論的立場から厳しい批判を加えている一方で、その行く末を注意深く見つめていこうとする態度も見受けられる。例えば、同書における彼の「上海聴戯者之程度進歩矣」には、以下のような記述が見られる。

かつて、芝居を「聴く」ということに関して最も劣るのが上海人であった。(中略)(北方の)名優たちが続々と南方公演を行い、票房も相次いで成立し、芝居を研究する人も増えたので、芝居を「聴く」水準もおのずと高くなったのである。

もっとも、ここで北京・上海の観劇態度における最も大きな相違点、すなわち聴戯/看戯の対立という普遍的概念*31が表現され、前者が重要視されていることからわかるように、馮叔鸞の見解は上海の京劇界に「北京化」を求めるものなのである。

この馮叔鸞の発言は当時かなり尊重されたようで*32、上海の劇評家らがその見解に強く影響を受けた可能性は十分にある。とはいえ、非北方出身の劇評家や演劇愛好者たちが、こぞって「京派」京劇に跪いたのは一体何故なのか。北方を正統と見なすからにはそれなりの観劇体験を踏まえた上での発言が期待されるが、彼らの中での北京京劇情報ソースは一体どこに求められるのか。これについては、同じく馮叔鸞が『鞠部叢刊』所収「嘯虹軒劇話」(1918年、署名は馬二先生)にて、以下のように述べている部分を対象に考えてみたい。

北京の顧曲家で、上海まで来ないものがあろうか?また北京の劇場に於いて、南方の顧曲家がその中に混じっているのを見かけないことがあろうか?これも交通が便利になったが故であり、北京と上海で芝居を「聴く」者のレベルにはますます差が無くなってきたのである。

先に挙げた自著『嘯虹軒劇談』の内容に連なる事柄だが、南方の演劇界が北方を見習い、そのレベルに追いつくべきだという彼の持論からすると、上海の演劇愛好者たちが北方俳優の地元での公演を待つだけではなく、わざわざ北京まで出向いて観劇し、正統な京劇に極力多く触れることこそ、上海演劇界のレベル向上に必要な行為なのである。これに類似した発言は他の人物の文章にもあり*33、また新聞の文芸欄や演劇専門誌に北京での観劇記が記載される*34ことをもってこの事実を補足することが出来よう。

一方、『鞠部叢刊』と同年に出版された劉豁公編『戯劇大観』において、非北方出身者である周剣雲*35は以下のように述べている。

北京は我が国の首都であり、また演劇発祥の地である。人材が豊富であること、故実に通じていること、俳優の数の多いこと、自ずと外省の比ではない。劇中の詩句は行商人や小役人でも耳によく馴染んでいるし、劇の由来は女子供でもよく理解している。見当違いなことを言ったり是非を取り違えたりする南方人の笑うべきさまとは、実に異なっている。(『戯劇大観』粉墨陽秋「剣気凌雲廬劇談」)

この発言は比較的極端な部類に入るが、活動拠点は上海にありながら、彼の北京に対する正統派意識がこの時点ではかなり強固なものであることが見て取れる。また、こうした意識をより鮮明に表現しているものとして、北方俳優の客演という具体的事例とそれに対するコメントを見てみたい。まず上海で最も馴染みの深い北方の俳優として、譚鑫培を挙げることが出来る。後年、1929年2月より『梨園公報』に掲載された孫玉声(漱石生)「海上百名伶伝」の巻頭を飾るのが譚鑫培であることは、上海の京劇愛好者の意識を象徴的に示していると言えよう。譚鑫培は何度か上海公演を行い*36、若年の周信芳と共演するなど南方との縁が深い俳優でもある。

……幼年期に梨園に入り、はじめは武生で頭角を現したが、のち老生に転向した。程長庚に私淑し、更に余三勝をも学び、(俳優として)最高峰を極め、演劇界の牛耳を執った。その唱は韻にすぐれ、枯淡にして真摯、奇・正を相生じ*37、漢魏六朝の文を読むかの如く、自然にたちあらわれ、古風にして峻厳、まさに千古の絶唱であり、余人の及ぶところではない。『打棍出箱』に至っては、(この劇で彼に敵うものは)世界で一人もいない。都の人々は彼を敬って「菊部尚書」と呼んでいる。(『海上梨園雑誌』巻二「名伶列伝 小叫天」)

評語としては紋切り型で、且つ非常に大仰な表現であるが、譚鑫培に関する称賛の語でこれに類するものは多い。のちに周信芳は『梨園公報』誌上で京劇愛好者の譚への盲従ぶりに非難の弁を浴びせ、その革新性に注目せよと述べているが*38、上海では当時から彼を一流の北京正宗京劇の手本として信仰し続けていたと言っても過言ではない。

また、譚と入れ替わるようにして梅蘭芳が北京京劇界を体現した存在とみなされるようになるが、彼についても『戯劇大観』所収の半狂「近日申濱名旦観」に記された「梅蘭芳の二度の南下後、上海人の眼光レベルは為に高くなった」という一節をはじめ、陶酔に近い評語が紙上を賑わすことになる。ここで、北京京劇界の俳優自身が民国期上海京劇に対して語ったものとして、梅蘭芳その人の言を紹介しておく。もっとも、同時代に発表された俳優自身の発言は望むべくもなく、解放後のものになるのは致し方ないが、彼は『舞台生活四十年』の中で、「二度の上海公演を経て、芝居の前途は観客と時代の需要に随って変化していくものだということを深く悟った」と述べている*39。梅蘭芳が上海俳優の化粧を取り入れたり、新作劇に触発されて自身も創作もの・改編ものを演じたことは有名な話*40だが、上記の発言と併せて考えるに、彼が上海の持つ「新しさ」から受けた鮮烈な衝撃を柔軟に受け止め、消化吸収しようとしていたことは明白であろう。京劇専門家を自負する人々と実際の舞台に関わる俳優の見解が異なる例として、非常に興味深い点である。

三. 「京派」「海派」の対立と接点

(一)差異の拡大:1920年代の「京派」「海派」意識

さて、ここで改めて上海演劇界の「京派」「海派」への意識区分に立ち戻ってみたい。先にも少し触れたが、1920年代中頃には「京派」「海派」の区分がより明確に意識されている。これについて、まずは1925年2月の『申報』に掲載された、署名「菊屏」なる人物の連作を見ていくことにしたい。

まず、「滬上京劇之三派(一)(二)」(2月23~24日)に於いて、菊屏は「庚子(1840?)以降、京劇は三派に分かれた」として、それぞれ「京劇正宗(譚鑫培・孫菊仙)」「新劇派(潘月樵・夏月珊)」「南班旧劇派(徽戯)」と名付けている。この文章中で、彼は晩年の孫菊仙及び二番目の「新劇派」を「海派の影響を受けている」と見なし、特に「新劇派」にその傾向が強いとしている。但し、この「新劇派」はイコール「海派」ではなく、「海派」そのものへの言及は同月28日の「海派之京劇」にて展開されることになる。この文章中で、彼は北京の京劇を単に「正宗」とだけ記し、上海で今行われている京劇、つまり海派京劇については、基本的に批判的論調を貫いている。文頭で書画篆刻、崑劇蘇灘を引き合いに出し、そこに見られる「正宗」対「甬派」「浙派」の関係(後者にも優点有りとする)とは異なり、京劇における海派は「装飾的な技術を以て本来の技量を覆い隠し、一つも取るべき所のない邪道であり、道教の異端と同じである」と断定している。さらに、海派と「正宗」との音楽や立ち回りは基本的に同一であると前置きしつつ、海派について以下のように述べている。

歌唱については、正宗は正しいメロディーを尊びリズムを重んじるが、海派はもっぱら花腔(装飾的なメロディー)を多用する。耳に心地よく聞こえるか、ふしが乱れていないかどうかなどは考えていないのである。また武技に関しても、正宗では型を尊び技術を重んじるが、海派はもっぱら素早い動きで人を欺き、舞台上を何回か余分にまわったり、得物を何度か余分にひらめかせて事足れりとしている。また、服装に目を移しても、正宗では靴一つ帯一つの微細なところにもみな決まりがあるのに、海派では全身模様だらけの上、ライトでそれを照らすので、実に奇妙な様子なのだが、彼らはそれを気にする様子はないのだ。(後略)

「正宗」京派京劇を規範に忠実なもの、海派京劇を伝統を破壊するものと見なすこの文章内の見解は、比較的硬直した、ステロタイプなものに属するが、こうした考え方がそう簡単に勢力を失うことは無かった。菊屏の文章にやや遅れる1928年、演劇専門誌『戯劇月刊』の第一巻第三期には、徐筱汀「京派新戯和海派新戯的分析」という文章が掲載されているが、民国京劇史上一つのピークとも言えるこの時期において、上述のような意見がまだ根強いことをうかがわせる。

上海人は皮簧(ここでは京劇)の発音に関しては、もとより北方語に通じていないため、おのずと明瞭に発音することが出来なかった。そこでお調子者の俳優が隙を見て呉語を混ぜたが、これによって観客は(劇を)理解しやすくなったが、皮簧における諸規範は次第に疎かにされていったのである。(中略)対して北京では皮簧に関する常識の豊かな民衆の監視下、旧来の演技が正しく踏襲されたため、非常な評判となった。ために好事家たちは極端に北京の芝居を崇拝し、皮簧の正統と見なして「京派」と呼び、上海の芝居を「海派」と呼んで添え物的に扱ったのである。これが、京劇が「京派」と「海派」とに分裂し、対峙するようになったおおもとの理由なのである。

(二)1927年周信芳・馬連良共演

では、対立関係を残したまま「京派」と「海派」の二つの京劇は全く相容れないものとして全く別個に存在していたのだろうか?その具体的様相を示す一つの回答として、馬連良と周信芳の1927年における共演を例として述べてみたい。

まず、同じ老生としての両者の評価を見ていく。今日でこそ対等の扱いを受けている両者だが*41、「京派」重視の時期であれば、老生として致命的な声質であった周信芳と、富連成で養成され早くから譚鑫培の有力な後継者の一人として嘱望されていた馬連良では、自ずと注目の度合いが異なっていたことは想像に難くない。

その上で、実際に両者の扱いが如何なるものであったのか、共演を企画した天蟾舞台が『申報』に出した上演広告の一つに注目したい。ここでは北方から来る馬連良と、地元でそれを迎える周信芳の名前は同じ大きさの活字で印刷され、両者が同格に扱われていることが分かる。かつ、二番手に来る上海側の俳優(劉漢臣、王芸芳)らの名前の活字も同じ大きさの活字である。つまり、馬連良のみを客寄せの目玉にしたわけではなかったのである。また、馬・周両名に付けられた宣伝は、以下のようなものである。

馬:「重金敦聘全球歓迎譚派正宗泰斗鬚生」
周:「特聘南北聞名編導専家文武做工老生」
(『申報』1927年2月7日)

かつて馮叔鸞が嫌った上海京劇界の「病」―広告における過剰な煽り文句はまだ健在で、それどころか更に派手になったようである。ちなみに遠からぬ未来に天蟾舞台は、写真のコラージュを多用し、『申報』の見開き二頁を用いて周信芳『封神榜』の広告を出すことになる*42。さて、この複数の四字熟語で構成された煽り文句を見ていくと、馬連良では「譚派鬚生」、周信芳では「編導専家」という四字に、それぞれが属する地域の京劇界の特徴が表現されていると言ってよい。繰り返し述べてきたように、上海人にとって「譚派」とは長年憧憬を抱いた本場北京の京劇を代表するものなのである。対する周信芳は、民国初期から新作劇の多様さとクオリティにアイデンティティを求めてきた上海京劇の看板を背負うに恥じない人物であった。では、この一見相容れない両者はどのような舞台作りを行ったのか。

『申報』にはこの馬・麒共演を受け、幾つかの劇評が掲載されているが、残念ながら十分な量とは言えない。ただ、「馬連良之臨別紀念小戯」(4月8日、署名「成」)という文章を読む限り、文字の殆どを馬連良の演技への賛辞に費やしつつも、共演者の周信芳に触れ「上海の俳優としては稀にみる実力の持ち主」と評しており、この組み合わせによる舞台が成功したことがうかがえる。

本来、本邦の波多野乾一がその著書『支那劇と其名優』(1925)の中で、両者を「做白を主とする」俳優と紹介している*43ように、両者には同じ老生として共通点を持っていた。また、近年の中国でも、両者を南北老生中の改革派として同列に論じるケースが見られる。例えば1996年に出版された『馬連良腔唱選集』前言には、以下のような記述がなされている。

晩清より、京劇団が上海に入っていったが、流行や環境、及び現地の徽戯、梆子戯、更には外来の芸能の影響により、地域的な変化を生じていった。よって、観衆の目には京劇には京派と海派の区別が生じたのである。時代の変遷に伴い、観衆の好むところにより、北にも南にも前後して芸術改革、京劇改良を行う芸術家が登場した。馬連良と麒派の創始者周信芳は、「北馬南麒」「南麒北馬」と称えられたが、互いに競い、合作し、互角の形成で、各々すぐれた点があった。そして、京劇老生の演技術の革新と発展に当たって、多大なる影響をもたらした。

また「譚派正宗」と称されつつ、馬連良には規範的な演技から脱したいという意識が備わっていたようである。例えば、1925年の『申報』に掲載された楽理「馬連良之唱片」では、馬連良の歌唱が部分的に規範から外れている点が指摘され、「(前回1924年の)上海公演中に、海派の悪習に染まったのか?」*44というコメントが付されている。また、解放後の記述ではあるが、荀慧生の民国期上海における活動を論じた王家煕「荀慧生早期在滬演劇活動資料」*45は、荀慧生と馬連良を「上海京劇の精華を最もよくアレンジして取り入れた俳優」と評している。

一歩踏み込んで述べると、先の梅蘭芳と同じように、海派的な要素を積極的に取り入れ自らの演技に生かそうとする意欲的な俳優が、京派京劇界に増えつつあったのである。これを裏付けるのが、前掲の「京派新戯和海派新戯的分析」中に見られる「現在、『京派』と『海派』の境界線は本当に微妙なものになり、両者はほとんど同化してしまった」というくだりである。この文章の筆者はそれを「京派」側の堕落と見るが、馬連良をはじめ、俳優自身の意識はそうではなかったのではないか。いかに伝統劇プロパーたちが伝統性や規範性の重視を声高に叫んだとしても、実際の舞台に立つ俳優たちはそれが将来的に京劇の硬直化に繋がることを予測し、敢えて異端視されていた海派の活力を取り入れる道を選んだのであろう。

以上、小論では「京派」「海派」意識の生成と変遷、及びその関係について概略を述べるにとどまったが、両派の意識形成にはより複雑な要因が絡み合っている。その一つ一つを解きほぐし分析する作業は後日の課題としたい。


*1 陸萼庭著 趙景深校『崑劇演出史稿』上海文芸出版社1980 第五章「近代崑劇的余勢」二 崑劇活動的新基地-上海
*2 同上
*3 于質彬『南北皮簧戯史述』黄山出版社1994 第五章「南方京劇史述」
*4 梆子出身の俳優としては、潘月樵・李春来らの名が挙げられる。
*5 『申報』には創刊の同治年間から民国に入る直前まで「禁花鼓戯」「禁淫戯」などの記事が散見される。
*6 いずれも「灘簧」と称するが、「蘇灘」は崑曲が俗化したもので、花鼓系の「本灘」すなわち後の滬劇とは楽曲も演目も異なるものであった。
*7 ほとんどの京劇史が『鞠部叢刊』(1918)所収の「南北梨園略史」を引用しているが、この劇場に関しては、総合文芸誌『七襄』第二期(1914)宣之「五十年劇史(続)」第八章に既に同様の記載がある。 但し、ここでは「徽班」の劇場とされている。
*8 1870年代では楊月楼の登場回数が最も多い。他に黄月山・王桂芳・孫菊仙らの名もみえるが、行当のみで俳優の名前が書かれていないケースも多くある。
*9 『上海文化芸術志』編纂委員会、『上海京劇志』編輯部編、上海文化出版社。なお、1996年出版の『中国戯曲志 上海巻』に比べると、記事を京劇に特化した分、演目・俳優紹介などの情報量は多くなり、且つ最近の活動までカバーしている。
*10 初版上巻第八章「南派京劇的形成與発展」、第九章「京劇改良運動」、中巻第二十八章「淪陥区的京劇(上)」には上海京劇の動向が記されているが、1920~30年代にかけての娯楽的要素が強い演目や、小論で扱った伝統劇プロパーに関する記載は、同時代におけるそれらの影響力を鑑みた場合、質・量的に不十分であると言わざるを得ない。
*11 筆者未見。
*12 注7参照。
*13 1920年代後半~1930年代にかけてもこうした回顧録は多数書かれ、海上漱石生「上海(海上)梨園変遷史」(『戯劇月刊』第一巻第一期~第二巻第二期、1928.6~1929.10、途中休載あり)、拙庵「上海戯園三十年滄桑録」(『梨園公報』第二百八十四期~二百八十六期)などに詳細な記述がある。
*14 文明戯や早期話劇は「新戯」「新劇」と称され、劇評や俳優の銘々伝、伝統劇との比較など1910年代にはかなりの記載が見られる。また新劇専門の単行本・雑誌も登場し、特に馮叔鸞は伝統劇プロパーを自認しつつ、1914年に新劇を中心に扱う『俳優雑誌』(上海文匯書局、第一期のみ)を創刊している。
*15 黄式権『淞南夢影録』(1883)巻一には、北京で落ちぶれ失職した俳優が上海へ来ていると記されている。
*16 夏氏兄弟の父は夏奎章(老生)、馮子和の父は馮三喜(花旦)。
*17 三麻子は京劇にしぐさ・立ち回り系の演目を多量に持ち込んだが、中でも関羽戯(紅生戯)に関しては、歌唱中心の北方系のものを凌駕したとされる。
*18 周信芳の常演演目ではないが、『斬経堂』や関羽戯等のレパートリーも徽戯系。
*19 楊東平『城市季風』東方出版社1994 第二章「京派和海派:風格的形成」70頁参照。
*20 『上海掌故辞典』上海辞書出版社 1999「海派」の項参照。また、本邦で出版されている中日辞典も同様。
*21 上掲書参照。また薛理勇『閑話上海』上海書店出版社 1996「新舞台和『海派』京劇」には、筆者が訪問した何名かの「年資高的学者」が、この語の登場を1920年前後と示唆したと述べられている。
*22 『鞠部叢刊』「品菊余話」中、馮叔鸞「嘯虹軒劇話」、馮小隠「復剡渓釣者書」に各々一カ所ずつ用いられている。
*23 小論第三章(一)参照。
*24 この他、外江派という表現も多用される。
*25 同書中巻では「海派京劇」と表現されている。
*26 上海文史資料選輯第六十一輯『戯曲菁英』上 上海人民出版社 1989
*27 上海京劇院『盤絲洞』『曹操與楊修』、連台本戯『狸猫換太子』、上海崑劇団『上霊山』など。特に『上霊山』は往年の連台本戯を意識して派手な衣装やライティングを多用し、崑劇観客層の新規開拓を目指したが、演出過剰であるとして高い評価は得られなかった。
*28 言及されるのは文武老生、文武小生、正旦、老旦、花旦、武旦、彩旦、正・副浄、文武丑の各行当。
*29 北は王瑶卿、南は郭秀華の名が挙がっているが、後者については不詳。
*30 拙稿「民国初期上海における伝統劇評」(中国文芸研究会『野草』65号 2000)参照。
*31 「南人曰看戯、北人曰聴戯」(『繁華雑誌』第四期1914 剣雲「負剣騰雲廬劇話(三)」)、「北人研聴、南人喜視」(『戯劇叢報』第一期 1915 魂郎「北京新劇失敗之原因」)など、南北演劇界の比較を行う際、決まり文句的に用いられる事が多い。
*32 周剣雲は『繁華雑誌』第三期の「負剣騰雲廬劇話(二)」で、「筆鋒はいくぶん苛烈だが、清廉で俗臭を感じさせず、他の人々の弁を見渡してみても、彼は一人純粋に自己の観点を打ち出しており、一般人の旧套に堕していない」と高く評価している。
*33 周剣雲「剣気凌雲廬劇談」(『戯劇大観』所収)参照。
*34 近代的劇評と異なり、リアルタイムである必要はないため、木公「小織簾館劇話」(『戯劇大観』所収)に記されているように、過去の北方での観劇体験を回顧する文章も多数見られる。
*35 安徽省合肥出身とされる。
*36 光緒年間から没するまで、六回訪滬している。
*37 出典は『孫子』兵勢編。「奇」は奇襲法、「正」は正攻法を指し、「奇正相生」で互いが因果関係をもって循環し合うことを言うが、ここでは譚の歌唱が変幻自在であることを指すか。
*38 拙稿「周信芳と『梨園公報』」(中国文芸研究会『野草』60号 1997)参照。
*39 梅蘭芳口述『舞台生活四十年』中国戯劇出版社254頁参照。
*40 上掲書224頁他参照。
*41 解放後は、抗日期の活動や左翼知識人との関係等から、政治的地位は周信芳の方が上であった。
*42 『申報』1928年9月15日
*43 波多野乾一『支那劇と其俳優』(新作社 1925)参照。記述量は馬連良の方がかなり多い。
*44 『申報』1925年2月7日
*45 中国戯曲志上海巻編集部『上海戯曲史料甲薈萃』第五集 1988(内部発行)