北京プロジェクトⅠ成果報告/五四時期の伝統劇論争について

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五四時期の伝統劇論争について

波多野真矢

一. はじめに

激変の世紀であった20世紀が過ぎ、世界は21世紀を迎えた。中国でも20世紀末には様々な分野で20世紀の概括や再考が行われてきた。中国伝統演劇の京劇は、20世紀の中国を考える上で欠くべからざる存在であり、またある種象徴的な存在である。では翻って、「京劇不景気」状態がいわれて久しく、現在すでに存亡の危機に直面している京劇にとっての20世紀とは、いったいどんな世紀だったのかを概観してみると、奇妙なことに、始めから現在に到るまで終始「改革改良が叫ばれ続けた」という現象が浮かびあがる。京劇は19世紀末にほぼ形を整え、20世紀に入るころには、譚鑫培など多くの名優が健在し活躍した成熟期 *1で、他の演劇や娯楽を圧し人気を独占する形で今世紀をスタートした。それに続く1917年から1937年頃にかけては最盛期 *2を迎え、また共産党政権でも始めは否定されたものの、「民族形式を持った宣伝媒体」 *3として重用され、全国各地に京劇劇団や養成機関が設立され、新中国建国後も百花斉放政策や、馬連良・張君秋・葉盛蘭・裘盛戎などに加え、李少春・杜近芳・趙燕侠など独自の風格を持った新進の役者も続出して隆盛し、決して、現在の「京劇不景気」までただ下降線をたどり続けたというわけではない。それにも関わらず、改革改良が叫ばれ続けたのは何故であろうか。「改良」というのは、いつどんなものに対しても行われることであって、これ自体に問題はない。しかし、「叫ばれ続けた」となると、これは常とは異なる。

「思潮」とは、主に為政者と庶民の間にあって両者を動かす知識人たちが担っている。

京劇においても、知識人がどう京劇を見るかということが京劇を動かす重要な鍵になっており、これまでに様々な論争がなされてきた。しかしそれらの「論争」の主流となる主張は「否定・批判」と呼ぶほうが正確であり、それによって生まれた負の影響が「改革改良が叫ばれ続けた」情況を作ってきた、と筆者は考えるものである。本稿では、今世紀初頭の五四時期の伝統劇論争を検討し、その批判が京劇はじめ伝統劇に与えた負の影響について考えたい。

二. 五四時期以前の演劇改革論

アヘン戦争、日清戦争に敗れるという暗い影を背負った清末そして民初という時期は、まさしく焦燥と激動の時代であった。社会変革が最大の課題となり、洋務運動により海外から様々な事象が流入し、海外留学生が多数生まれ、保守と革新に分かれて対立が起きる。そうした中で、改革派は小説や演劇に目を向ける。これらは大多数を占める庶民の人心に最も身近な影響を与えていたからである。そしてまず康有為や梁啓超らによる晩清の文学改良論が起こり、その流れとして同様の文脈で演劇改革論が唱えられる。陳独秀の『論戯曲』(1905年)などにおいて、西洋演劇を進んだものとしてとらえ、京劇はじめ伝統劇の内容・思想・形式・習慣、悲劇の欠如などに対する批判も多く出されている。

こうした風潮は、進取の気質に富むモダン都市上海においていち早く広がりを見せた。新しい形式の演劇である早期話劇(文明戯)が生まれたほか、京劇でも新しい試みが数多くなされている。その京劇改革の中心になったのは、辛亥革命にも参加した革命運動の志士でもある京劇役者の潘月樵、夏月珊・月潤兄弟らである。初めて照明や大掛かりなセットを取り入れた新式劇場の新舞台を1908年に建設し、また1912年には上海伶界聯合会を組織したが、孫中山に宛てたその設立許可申請文の中で、「改良舊曲,排演新戲,表揚革命真銓,發闡共和原理,使萎靡之社會日就進化,旁及教育慈善事業。」(古い劇を改良し、新しい劇を作り、革命の真理を称え、共和の原理を明らかにし、衰微した社会を日ごとに進化させ、教育と慈善の事業にも及ぶ)と述べている。演劇の担い手が、革命や社会の進化を京劇に結び付けようと言うのである。そうした考えのもと、時事問題を取り入れ革命思想やスローガンを盛り込んだ新作劇が作られた。時装戯(モダンドレス着用)も登場し、こうした新しい京劇は伝統的な京劇に対し「改良京劇」という名称で呼ばれ、定着した。このほかにも、『二十世紀大舞台』(1904年)という最初の京劇に関する雑誌が創刊されたり、新聞や雑誌では演劇改革論や新作京劇の脚本が発表されるなど、改良に向かう大きな動きがあってそれは遅れて北京にも波及してゆく。これが大体二十世紀の初頭、五四時期以前の改革改良である。つまり、この時期の演劇改良は、上海を舞台に革命思想を持った演劇人自らが参与して行われており、京劇はじめ伝統劇に対する「改革改良」はブームとなって次々に新しい試みが行われた、というものであった。五四時期の批判は主に北京を舞台としている。舞台が上海であった点、改良を加えても歌や立ち回りなど伝統劇の形式は存続させ、存在そのものまでは否定していない点では異なっているが、五四時期に挙げられた伝統劇の批判点はここで提起されたものとも重複しており、五四時期の論争が非常に新鮮な批判の観点を持って存在までも否定したというわけではない。未成熟とは言え、改良京劇も生まれていたのである。ではなぜ、その後の五四時期に存在まで否定しなければならない激しい伝統劇批判が巻き起こったのであろうか。次章でそれを検討してみる。

三. 『新青年』の伝統劇論争

(一) イプセン特集号と演劇改良特集号

五四運動前夜、1918年10月に雑誌『新青年』5巻4号の誌上で、「戯劇改良」特集を組んで唐突に伝統劇に関する大きな論争が巻き起こった。『新青年』とは周知のとおり、新文化運動・五四運動の重要な拠点となり中心的役割を果たした雑誌である。創刊は1915年9月、創始者は陳独秀で、胡適・魯迅・銭玄同・劉半農・李大釗らが主要な同人であった。創刊の動機というのは、辛亥革命後、袁世凱が帝制復辟をし、儒教を国教としたことなどへの反対である。西洋文化に触れたメンバーにより、民主と科学を標榜し、儒教・礼節・旧論理・旧政治・旧文化などに激しく反対し、西洋の新文化の学習を提唱していったのであった。

演劇に関しては、編集長の陳独秀からして上述の『論戯曲』という著作もあり、西洋における演劇の位置を知る同人らにとって、やはりある程度の関心はもたれていたと見られる。しかし西洋の戯曲の翻訳があったり、銭玄同「通信(陳独秀あて書簡)」(3巻1号)・胡適「歴史的文学観念論」(3巻3号)などの文中で伝統劇改革に触れたりといった程度で、大きな議論の対象にはなっていなかった。

それがまず4巻6号(1918年6月)でイプセンの特集が組まれ、『人形の家』はじめ四つの戯曲が翻訳され、伝記、胡適の「イプセン主義」など、イプセンについて全面的紹介を行っている。それ以前のどの号でも何かについて特集が組まれたことはなく、これは極めて特殊な組みかたである。イプセンの思想や社会批判がメンバーの理想と合致したことは言うまでもなく、前々から準備を重ねたであろうことは想像に難くない。

ところが奇妙なのは、巻末にメンバーや読者からの手紙や投稿のコーナーである「通信」という欄があって、ここに「新文学と中国旧戯」と題し、伝統劇を擁護する文が載せられていることである。『新青年』の改良の主張には同調しながらも、伝統劇の良さを主張し、批判点としてあがっていたもののうち、改革派の認識の誤りと思われる点を柔らかく指摘して、伝統劇には欠点も多いが、改良するならば理想ばかり先行させずに実際に則して行うのがいい、という内容である。作者は、当時北京大学法学部の学生で通俗文学や京劇に通じ、保守派知識人に数えられ、後に京劇劇評家・京劇史研究家となる張厚載(号は豂子)である。対立する立場の人物の手になる京劇擁護の文を、全く趣旨の異なるイプセン特集に載せたというのはひどく不自然である。しかも、張厚載の文のあとに、胡適による張の指摘に対する返答と、張厚載に反駁する銭玄同・劉半農・陳独秀の三人の文を一挙に掲載している。

当時の演劇の情況では、前段階で芽生えた早期話劇がすでに1914年頃をピークとして堕落し、衰退しはじめていて、対するに京劇はのち四大名旦と並び称される梅蘭芳・程硯秋・尚小雲・荀慧生の活躍など活況を呈し、庶民は勿論のこと、清朝の貴族に愛された京劇は引き続き辛亥革命後には民国の上層階級、官僚や政客や文人に愛され、「堂会」が多く行われていた。のみならず、1918年7、8月頃には昆曲の韓世昌という名優が活躍して昆曲までもが隆盛していた *4。5巻4号で戯劇改良特集が組まれた背景には、このように依然伝統劇の人気の衰えぬ現況への反感や苛立ちもあったと考えられる。しかし直接の発端となったのは、イプセン号で張厚載の文を掲載し、伝統劇を批判した陳独秀らの文を載せたことである。イプセン号を皮切りに、次の号の5巻1号では銭玄同の「随感録(18)」、また5巻2号には劉半農と銭玄同の「今之所謂“評劇家”」と、伝統劇批判の文が連続して掲載され、そして5巻4号の演劇改良特集へとこの論題がつながっているからである。

ここで、『新青年』に掲載された主要な伝統劇改革に関する文章をリストアップしてみる。

1)3巻3号(1917年9月)胡適「歴史的文学観念論」
2)4巻6号(1918年6月)張厚裁「新文学及中国旧戯」
3)( 〃 )銭玄同(通信欄・張に答えて)
4)( 〃 )劉半農(通信欄・張に答えて)
5)( 〃 )陳独秀(通信欄・張に答えて)
6)5巻1号(1918年7月)銭玄同「随感録(18)」
7)5巻2号(1918年8月)劉半農「今之所謂“評劇家”」
8)( 〃 )銭玄同(劉に答えて)
9)5巻4号(1918年10月)胡適「文学進化観念与戯劇改良」
10)( 〃 )傅斯年「戯劇改良各面観」
11)( 〃 )欧陽予倩「予之戯劇改良論」(10の付録の一)
12)( 〃 )張厚載「我之中国旧戯観」(10の付録の二)
13)( 〃 )傅斯年「再論戯劇改良」
14)( 〃 )宋春舫「近世名戯百種目」(付:胡適の紹介文)
15)( 〃 )張厚載「『臉譜』―『武把子』」(通信欄)
16)5巻5号(1918年11月)周作人「論中国旧戯之応廃」

これらを伝統劇改革派と擁護派に分けて大別してみると、演劇人で自ら京劇を習い、京劇俳優をしたこともある欧陽予倩は、ここでは伝統劇の欠点をあげて改革の方案を述べ、改革派に賞賛されているので除外し、擁護派は張厚載ただ一人だけである。議論と言うには公平を欠いていると言える。

従来この伝統劇論争に関しては、中国では五四運動を新民主主義革命の開始と規定してきたこともあり、この論争が演劇観新劇の創生発展を加速させたという意義付けが定着している。近年演劇の分野では、改革派のみに紙幅を割くのではなく双方の主張を平等に紹介し、また改革派の批判は伝統劇への十分な理解がなく科学的分析を欠いたものである、といった指摘も挙がっているが *5、それ以外の分野では殆ど顧みられていないようである。

日本では、話劇研究者の瀬戸宏氏が著作『中国演劇の二十世紀(副題:中国話劇史概況)』において『新青年』の演劇改革論について記述している *6。その中で、机上の空論の域を免れないが、伝統演劇を否定する根拠を示したその意義はやはり巨大なものがあり、現代劇としての話劇を創出するためには、自らの純粋な姿を確立するため、まず伝統演劇の影響を切り捨てる必要があった、と述べている。この瀬戸氏の見解はこれまでの見方を反映してまとめられたものであり、イプセン紹介の意義とともに改革派の伝統劇否定に意義を認めたものである。さらに、晩清の演劇改革論ではあくまで演劇を政治宣伝の手段とするためであったのとは異なる、とも述べているが、やはり社会変革という『新青年』同人の政治思想、主義の表明・体現として、伝統劇を批判し、演劇という形式を利用しようとしており、実はこの点では晩清の演劇改革論の方向性と変わりはない、と筆者は考える。

また、宮尾正樹氏の論文「新文化運動における張厚載と胡適―舊劇改良論爭を中心に」 *7では、前述の張厚載と胡適との関係を綿密に考察しており、張厚載は新文化運動、特に胡適と実はそう遠い存在ではなかったことを論じ、「文学革命における「進歩」と「反動」の対立と簡単にいわれていたことについても、その実際のあり方、位相については、もう少しきめ細かい見直しが必要であることを示唆しているように思われる」と述べている。これまでの定論に再検討の要を唱えて意義深い。この中で伝統劇論争の経過はかなり詳しく述べられているが、彼らのあげる伝統演劇を否定する根拠を検討するため、次項で具体的に見てゆくこととする。

(二) 改革派の伝統劇批判

改革派の伝統劇批判を簡単にまとめてみると、「西洋演劇と比べて稚拙・野蛮であり、進化の観念がなく、保守・封建的な旧社会の象徴である」ということである。具体例としては、「写実でない」「悲劇が欠如している(大団円主義である)」「歌と演劇は別であるべき」「臉譜(隈取)・武把子(立ち回り)などは野蛮」「歌詞に文学的価値がない」などがあがっている。たとえばこのような批判の仕方である。

這種『遺形物』不掃除乾淨,中國戲劇永遠沒有完全革新的希望。不料現在的劇評家不懂得文學進化的道理;不知道這種過時的“遺形物”很可阻礙戲劇的進化;又不知道這些東西於戲劇的本身全不相關,不過是歷史經過的一種遺迹;居然竟有人把這些『遺形物』,——臉譜嗓子,臺步,武把子,唱工,鑼鼓,馬鞭子,跑龍套等等——當作中國戲劇的精華!這真是缺乏文學進化觀念的大害了

——胡適《文學進化觀念與戲劇改良》

胡適は、「遺形物(遺物)」をきれいに取り除かなくては、中国演劇には永遠に完全な革新の希望はない、劇評家は文学進化の道理を理解せず、時代遅れの「遺物」が演劇の進化を阻んでいるとも知らず、また演劇そのものとまったく関連がない歴史の遺物だとも知らず、臉譜、歌声、台歩(歩き方)、武把子、歌、鑼鼓(打楽器)、馬鞭(ムチ)、旗持ち役などを中国演劇の精華とする者がいるとは、文学進化観念に欠けることの大弊害だ、と言っている。ここで言う進化とは、厳復の『天演論』 *8に基づいたもので、およそ新しいものは古いものに勝る、という考えである。この進化論は胡適らの思想を支える大きな柱となっており、文学はじめあらゆるものをこの量りにかけ、ふるい落としている。またこれに続けて、「悲劇の観念」と、西洋の「三一致の法則」を引き合いに出し「文学(脚本内容)の経済」(時間、人力、設備、事実の経済)を主張している。

また、傅斯年は、

中國政治。自從秦政到了現在,直可縮短成一天看。人物是獨夫,宦官,宮妾,權臣,奸雄,謀士,佞幸;事迹是纂位,爭國,割據,吞併,陰謀,宴樂,流離;這就是中國的歷史。豪貴魚肉鄉里,盜賊騷擾民間;崇拜的是金錢,勢力,官爵,信仰的是妖精,道士,災祥,這就是中國的社會。這兩件不堪的東西寫照,就是中國的戲劇

——傅斯年《再論戲劇改良》

中国のこれまでの政治・社会という堪えがたいものを映し出したものこそが伝統劇だとしている。伝統劇の良し悪しの前提に、以前の政治や社会を悪いものと極論し、そのままそれを否定の根拠としているのである。

更に、

中國的舊戲,請問在文學上的價值,能值幾個銅子?試拿文章來比戲,二黃西皮好比“八股”

——錢玄同《隨感錄(十八)》

中國的戲,本來算不得什麽東西。我常說,這不過是周禮裏“方相氏”的變相罷了,與文藝美術,不但是相去正遠,簡直是“南轅北轍”。若以此爲我輩所謂“通俗文學”,則無異“指鹿爲馬”;適之前次答張豂子信中有“君以評戲見稱于時,爲研究通俗文學之一人,其贊成本社改良文學之主張,固意中事”。這幾句話,我與適之的意見卻有反對。我們做新青年的文章,是給純潔的青年看的,決不求此輩“贊成”。此輩既欲保存“臉譜”,保存“對唱”“亂打”等等“百獸率舞”的怪相,一天到晚,什麽“老譚”“梅郎”的說個不了。聽見人家講了一句戲劇要改良,於是齗齗(或齦齦)致辯“廢唱而歸於說白乃絕對的不可能”,什麽“臉譜分別甚精,隱寓褒貶”,此實與一班非做奴才不可的遺老要保存辮髮,不拿女人當人的賊丈夫要保存小腳同是一種心理。簡單說明之,即必須保存野蠻人之品物,斷不肯進化爲文明人而已。我記得十年前上海某旬報中有一篇文章,題目叫做尊屁篇,文章的內容,我是忘記了。但就這題目斷章取義,實在可以概括一班“鸚鵡派讀書人”的大見識大學問。

——錢玄同《今之所謂“評劇家”》附錄

銭玄同の口調は大変辛辣で、このように伝統劇を全く価値のないものとし、八股文や弁髪・纏足と同一視している。その上、「(張厚載が新青年の文学改良に賛同すると言ったことに対し)我々新青年の文章は、純潔な青年に読んでもらうもので、決してこんな輩の“賛同”は求めない」と、伝統劇を擁護する張厚載への個人攻撃も手厳しい。

以上のように、改革派は伝統劇を西洋の演劇の定義に外れるものとみなし、また唾棄すべき旧来の悪しき社会・政治・歴史・事象などのすべての「象徴」であり、進化観念から淘汰されるべきだと批判しているのである。

それに対し擁護派の張厚載の方は、「我之中国旧戯観」の中で京劇の芸術的特徴と価値をまとめて、

  • (一)中國舊戲是假像的(伝統劇は虚である:写実ではない)
  • (二)有一定的規律(一定の規則・約束がある:全体に統一が取れている)
  • (三)音樂上的感觸和唱工上的感情(音楽上の感銘と歌の感情:音楽・歌の効用)

の三点を挙げ、改革派から批判を受けた臉譜や立ち回りについて一つ一つ弁護をしているが、改革派の方はそれを全く理解しようとせず、一蹴している。

結局、主義や思想から全面的に伝統劇の各要素と存在そのものとを否定する改革派と、改良の余地はあるとしつつ芸術的長所を説く擁護派、という構図は崩れず、両者の論点はかみ合わぬまま、それぞれの主張を行っているのである。

(三) 論争の目的

1. 論争の終結

先ほどのリストにあげたように、5巻4号の特集のあとは、次の号の周作人の通信があるのみで、事実上論争は終結する。特集まで組み、刺激的で激越した口調が飛び交った割にはあっさりとした幕切れである。その後演劇に関しては「近代文学上戯曲之位置」(6巻1号)や「近代戯劇論」(6巻2号)といったものになる。改革派メンバーたちは、もうここで議論を打ち切ったのである。

辯論舊戲的當廢,和新劇的必要,我在前月做前篇文章時,已經說過都是廢話。現在更覺得多費唇舌,真正無聊。舊戲本沒一駁的價值,新劇主義,原是“天經地義”,根本上決不待人匡正的。從此以後,破壞的議論,可以不發了。我將來若是繼續討論戲劇,總要在建議方面下筆。我想編制劇本是預備時代最要辦的,不妨提出這個問題,大家討論討論,——討論劇本的體裁,討論劇本的主義

——傅斯年《再論戲劇改良》

傅斯年は、伝統劇の廃すべきと、新劇の必要は「天経地義」、当然のことであって、破壊的議論はもう発表しなくてよい、今後は脚本の体裁と主義について討議していこう、という建議を出している。また、一番最後に「中国旧戯の廃すべきを論ず」という最も刺激的タイトルで、初めて論争に登場した周作人は、

《隨感錄》第十八條中所說關於舊戲的話及某君的話,我都極以爲然。我于中國舊戲也全是門外漢,所以技工上的好壞,無話可說。但就表面觀察看出兩件理由,敢說:“中國舊戲沒有存在的價值
第一,我們從世界戲劇發展上來看,不能不說中國戲是野蠻
——(中略)——
舊戲應廢的第二理由,是有害于“世道人心”。我因爲不懂舊戲,舉不出詳細的例,但約略計算,內中有害分子,可分作下列四類:淫,殺,皇帝,鬼神。(這四種,可稱做儒道二派思想的結晶。用別一名稱,發現在現今社會上的,就是:一“房中”,二“武力”,三“復辟”,四“靈學”。)
——(中略)——
我對於舊戲的意見,略如上面所說,想兄也以爲然。至於建設一面,也只有舉行歐洲式的新戲一法

——周作人《論中國舊戲之應廢》

まず「中国伝統劇に存在価値はない」と言い切り、① 世界の演劇史の発展から見て、中国演劇は野蛮(未発達)である、② 淫、殺、皇帝、鬼神の4つは儒教・道教思想の結晶と言え、世の人心に害がある、という2つの理由を上げている。そして最後に西洋式の新劇を行うのみだとの建議をしている。周作人はこの次の号の、文壇での位置を不動のものにする重要な論文「人的文学」の中でも、非人の文学として並べたものの最後に、その集大成が伝統劇だと批判しており、反論も受け付けぬとさえ感じられる決然とした定義づけになっている。

一方、銭玄同もすでに5巻2号の「今之所謂“劇評家”」を最後に論争をやめている。『上海時事新報』に掲載された馬二先生(馮叔鸞)の激しい反駁に対し、「自分の頭と時間を必要な所に使うべきでこんな輩とやりあうのは勘定が合わない」と言い、王敬軒 *9や霊学叢志百年と激しく論争した例を挙げて「胡適がよく“一駁に値せず”と言うがその通りだ」と述べている。『新青年』の発した批判への反駁があちこちからこだまのように返ってくる、しかも専門的知識に欠けるため十分対応しきれなくなっている、ほかに論ずべきものがまだ沢山ある、そうした焦りや苛立ちも感じられ、強気な「一駁の価値なし」という言葉が逃げ口上のように感じられなくもない。

このように個々の同人の対応に違いはあるが、『新青年』には以後擁護派が姿をあらわすことはなくなり、演劇に関する論争はなくなる。

2. 論争の発端―――張厚載

張厚載は当時京劇を擁護する立場の人の中で、西洋の学問や文化にも明るく、冷静に論議することができた保守派知識人であった。しかし彼は一介の北京大学の学生に過ぎず、対する改革派は陳独秀、胡適、銭玄同、劉半農、周作人、とみな北京大学の教授や学部長である。銭玄同から「我々新青年の文章は、純潔な青年に読んでもらうもので、決してこんな輩の“賛同”は求めない」と言われていたように、結果としてこれら教授たちから総すかんを食った形の張厚載のその後だが、周作人の『回想録』の記載によれば、張厚載は中学時代に林琴南の教えを受けていて、演劇改革よりもっと大きな論争であった「文言と白話」の論争において、白話に反対し、北京大学の教授らを批判した小説を書いた林に北京大学内部の動向を報告したり、林の文を上海の新聞に発表する手助けをしたりしたため、林と対立する北京大学学長蔡元培(孑民)から警告を受け、北京大学から除籍処分にあっている *10

演劇改革特集号に載った二度目の張厚載の文の中で、この特集号になぜ寄稿することになったかのいきさつが語られている。

上回我因爲《新青年》雜誌胡適之、劉半農、錢玄同諸位先生,多有對於中國舊戲的簡單批評,我就寫了一封信去略說些我個人的意思。因爲兩方面意思不同,所以我也不便多說。前天胡適之先生寫信來要我寫一篇文字,把中國舊戲的好處,跟廢唱用白不可能的理由,詳細再說一說。我因此就先在《晨鍾》報上略略說些,跟胡先生頗有一番辯論。現在胡先生仍舊要我做一篇文字,來辯護舊戲,預備大家討論討論。我也很贊成這件事,就把我對於中國舊戲的意思,挑幾樣重要的,稍爲說說。至於說的對不對,還希望諸位要切實指點才是。

——張厚載《我的中國舊戲觀》

冒頭の「上回(前回)」とは、4巻6号に載った通信欄の文のことで、これは自発的に書かれた投稿であることがわかる *11。しかしその後に、「一昨日胡適之先生から,中国伝統劇の長所や、歌をなくしせりふにすることが不可能な理由を詳しく言ってみてくれと手紙がきて、『晨鐘』という新聞に少々述べ、胡先生とすこぶる議論をした。今なおも胡先生は、みんなで討論するつもりなので私に伝統劇を弁護する文を書いてほしいと求めた」とあり、ここにはっきりと書かれているように、張厚載の文が掲載されたのは、胡適からの依頼があったからなのである。これを裏付けるのが、胡適が銭玄同に宛てた手紙である。

至于張豂子,我現在且不談他。我已經請他為我做文,我且等他的文章來了再說。好在我還有輪著編輯的一期,到了那時,我可以把他的文字或作我的文字的“附錄”,或作讀者論壇,都可無不可。“本記者自有權衡”!

——《胡適文集第七巻・書信》

月日は記されていないが、1918年のものである。この前の部分で、宋君(恐らくは宋春航 *12)は欠点もあるが我々の一派に入りたがっており、メンバーのみなに追い出さないようにと勧めた、とある。そして引用の冒頭で、張厚載については今は何も言わないが彼の文が来てからにしよう、と言っている。この人物に対してどういう立場をとるか、どう扱うかという話と読むことができる。その後の部分では、原稿を依頼したこと、それを自分が編集する号に、自分の文の付録としても、あるいは読者論壇(通信)としてもいい、と語っている。

胡適が張厚載に目をかけて、このような動きをしたのか、それとも張厚載を利用しようとしてなのか、そのあたりは非常に微妙である。この二人の関係を論じた前述の宮尾氏の論文では、張厚載の方は「新文化運動にも賛同の意を示し、胡適に対する信頼感があった」、また胡適の方も「討論の材料にと張に寄稿を依頼し、反対する同人を説得した」と述べ二人の間の意外な近さを論じている。しかし、胡適は反対派の意見を載せ論戦を繰り広げた際の効果を熟知していたはずであり、更に攻撃を受けた反対派がどういう末路を辿るかも大方の予想はついていたであろうことも考えあわせれば、胡適の張厚載に対する心情には雲のかかったような不明瞭さが感じられる。また、胡適には留学前に京劇を見て「放蕩した」時代があり、伝統劇を全否定する思想や論議とは別のところで、意識してかせずしてか、何かかすかな心情のわだかまりのようなものがあって、それが張厚載との間柄に表れているようにも感じる。胡適の伝統劇観については、また改めて考察する必要があると思う。

3. 論争の目的

背景には上述のように微妙なものがあるにしても、この論争が引き起こされたのは「編集メンバーの意図」に由来することは明らかであろう。伝統劇は保守・封建の象徴で、伝統劇はだめなもの、新劇はよいもの、という認識の構図が先にあり、伝統劇を材料に改革派の反感を買うものを持ち出し、否定の論争を起こして保守派を攻撃する、というものである。こうしたやり方はこの伝統劇論争においてのみでなく、これ以前にもメンバーが別の名を使って架空の反対意見の文を書き、別のメンバーがそれを攻撃するという風にも行われていた *13。それと同様に、この場合もやはり議論を煽り論争を起こすため作為的に擁護派の文をイプセン号に載せたと考えられる。

『新青年』のメンバーは、もともとすべての問題に細部まで一致した見解、主張を持っていたわけではない。しかしこの演劇改良という議題については、それぞれの主張の仕方や伝統劇に対する認識などに違いはあれど、みなの意見が一致した特殊な例でもあった。もちろん初めから統制のとれた目論見や計画があったとは思われないが、全体を通して見る彼らの目的とは、擁護派の文を引き合いに出し、それも含めて「伝統劇を批判する」こと、「伝統劇を廃し新劇を作るという主張をする」こと、更に「それを借りて保守・封建を批判・攻撃する」こと、この三点を明確に表明することであったと言える。

四. 五四運動の再考

日本では『文心雕龍』の研究で知られている上海の哲学・思想学者の王元化氏は、近年、活発に20世紀再考の論評を発表しており、五四運動の再考にも言及している。その著書『清園近思録』の中で、中国ではこれまで一定の評価で捉えられてきた五四運動に、全く顧みられなかった「負の面」もあった、という斬新な論を出しているのである。

一、王先生認為五四時期所流行的四種觀念是值得注意的:第一,庸俗進化觀點(這不是直接來自達爾文的進化論,而是源于嚴復將赫胥黎與斯賓塞兩種學說雜交起來而撰寫的天演論。這種觀點演變為僵硬地斷言凡是新的必定勝過舊的);第二,激進主義(這是指態度偏激、思想狂熱、趨于極端、喜愛暴力的傾向,它成了後來極左思潮的根源);第三,功利主義(即學術失去其自身獨立的目的,而將它作為為自身以外目的服務的一種手段);第四,意圖倫理(即在認識論上先確立擁護什麼和反對什麼的立場,這就形成了在學術問題上往往不是實事求是地把考慮真理是非問題方在首位)。王先生認為,五四時期開始流行的這四種觀點,在甚至互相對立學派的人物身上,都可以或多或少地發現它們的蹤跡,而隨著時間的進展,它們對于我國文化建設越來越帶來了不良的影響。我們在回顧對二十世紀文化思潮發生巨大作用的五四新文化運動時,今天已經到了可以對它們作出清醒的再認識再估價的時候了。

——〈王元化對五四的反思〉

これは講演録をもとに門下生がまとめた文章で、五四時期から流行し始めた注目に値する4つの観念として、①庸俗進化論(ダーウィンの進化論から来たものではなく、厳復がハクスレーとスピノザの学説を交えて書いた『天演論』に由来する)②激進主義(後の極左思潮の根源となる、過激な態度、熱狂的思想、極端に走る、暴力を好む傾向を指す)③功利主義(学術が自身の独立した目的を失い、自身以外の目的に奉仕する手段となること)④意図倫理(認識論において先に何を擁護し何に反対するかという立場を確立し、学術問題においてしばしば事実に基づいて真実を求めるというやり方でなく真理や是非の問題を考えるということを第一とする)、をあげており、これらがわが国の文化の建設に対して時間とともにますますよくない影響をもたらしたと指摘している。

前章で見てきた伝統劇論争について見ても、これらの観念が改革派の主張のそこかしこに存在することが容易に見てとれる。①庸俗進化論では、新しいものが古いものを圧する、傅斯年はそれが「天経地義」だとしているし、胡適は直接「文学進化観念」という表現をしてこれですべてを量っているのである。激しく極端な言説は②激進主義であるし、演劇の研究のためではなく、社会を改革するとか保守派を攻撃するといった目的があって、こうした議論を行うという点で③功利主義である。伝統劇が反対の対象、新劇が擁護の対象という立場を先に確立しているのは④意図倫理である。

90年代の王元化を待たず、この五四運動の「負の面」にもっと早くから気付いていた人物もいる。最も刺激的なタイトルで「伝統劇は廃すべき」と極論していた周作人である。すでに1924年の段階で、五四運動の反省をし「一封反対新文化的信(新文化に反対する一通の手紙)」を発表、演劇に関しても前言を「早急に過ぎた」と反省して「純粋新劇・純粋伝統劇・改良伝統劇」の三つを並存させるのはどうかと提案する「中国戯劇的三条路」を書き、大きく見方を転換させているのである。このような卓見があったにも関わらず、革新対保守、主流対非主流の論議の潮流とは離れた所にあって、その上漢奸のレッテルを貼られたため、中国では周作人の思想は長年正当に取り扱われずに看過されてきた。周作人の伝統劇観の転換については、稿を改めて詳細に検討したい。

五. その後の伝統劇

こうした批判は京劇はじめ伝統劇にどのような影響を与えたのであろうか。五四時期以降の伝統劇、特に京劇の情況はと言えば、すでに最盛期を迎えて民国芸術を代表する存在となっていた。『中国京劇史』第四章にその発展の様子がまとめられているように、様々な面で改良や新たな試みが行われている。しかし、こうした改良や変化は五四時期の伝統劇論争を直接受けてのものであるとは言えない *14。『新青年』同人に実際に伝統劇を廃止に追い込めるだけの伝統劇界に強い影響力を持った人物がいなかったのであるから、女性の観客が生まれたことや、観客の意識に与えた間接的な影響は認めることができようが、直接的には以前からの改良の気風と、観客の鑑賞の嗜好の変化を受けてのものである。多くの文人が劇作に参加し、時装新戯のみでなく、1916年からは梅蘭芳を中心に古装新戯も作られ、役者に合わせた専用の新作を演じるのが流行して人気をよび、脚本の文学性が高められたとされるが、これも梅蘭芳が『舞台生活四十年』第二集で時装新戯上演の経緯として語っているように、上海の新しい空気に触れたことと、現代の内容の新編劇が観客の興味をひく、ということに端を発しているのである。「看戯」、ビジュアルを楽しむ要素が生まれたのも、照明技術の導入という技術的側面が大きく作用してのことである。そしてまた、『新青年』同人の思惑に反するような、美しい女形の流行という事態も起こり、1919年以降は梅蘭芳はじめ多数の役者が海外公演をし、海外でも好評を博す、という具合に、『新青年』の論争や批判などどこ吹く風、といった風情で隆盛が続く。知識人や政府がどう言おうと、演劇の観客たる一般庶民は伝統劇が好きで伝統劇を見たい、と思ってきたからである。共産党が延安で京劇を利用しようとしたのもそのためだし、文革で革命現代京劇が生まれたのもそのためだった。

しかし、この伝統劇批判は表面的には顕著ではないが、後々まで非常に大きな負の影響力を与えているのである。多くの知識人の頭の中に、「なべて演劇とは内容、主義主張を見るべきもの」「社会の現実を描いていなければ価値はない」「写実こそが芸術」「伝統劇は批判すべき、嫌悪すべきもの」などという偏見を深く刻みつけたことがそれである。その一例として、王元化氏の「胡適的日記」 *15では、胡適が日記で1910年頃には京劇をよく見ていたのにも関わらず、晩年の1961年には京劇を演劇でも音楽でも文芸でもないから見ない、と記していることを考察し、これは胡が新文化運動の旗を揚げ、その後もずっと新旧文化の争いという観点を堅持したことと関係があるだろうと述べたあと、自身を振り返って、三、四十年代には五四時期の各種の観念をなべて信奉していたこと、友人に京劇をひそかに愛好しているものがいたが、「京劇を見るという“不良嗜好(よくないたしなみ)”があって」と恥じるように告げたことを記述している。また、解放後に夏衍が「伝統劇はすばらしい遺産なのに、過去ずっと偏見を持ってきた」と作家協会党組会で述べたこともあげ、伝統劇に反対するのは進歩、科学、新潮流を堅持するということだと思ってきた、こうした態度は我々の年代だけでなく、いまの中・青年にも少なくない、と指摘している。「伝統劇から遠ざかり、伝統劇に反対するのが進歩した、科学的な、新潮流なのだ」という眼鏡を、若人や知識人にかけさせてきたのである。

六. 終わりに

20世紀に京劇が辿ったのは、20世紀を覆った思潮の思惑によって歪められた苦難の道であった。五四時期には保守封建の否定の俎上に上げられ、共産党には否定された後、延安からは尋常ではない執着を持ち続けられ、「民族形式を持った宣伝媒体」となり、「改戯、改制、改人」、「推陳出新」、延々と繰り返される「戯改工作」、そのどの過程でも内容、形式などすべてにわたって討議、論争がなされ、「かくあるべき」京劇に整形されていった。演目審査の過程で何が有害か有益かをはかる量りは当然人民のものではなく、統治者に都合のいい官製の量りであり、その最たる表れである文化大革命でその量りにのったのは、革命現代京劇と呼ばれる、たった6つの演目だけだった。

このように「改革改良」が叫ばれ続けたことの裏には、伝統劇への偏見とともに都合よく「利用」しようという思惑があり、そして今に到るその伝統劇への「偏見」と「利用」の大本を作ったのが、五四時期の伝統劇批判なのである。また五四運動の負の面が極左を生み、文革につながり、学術や思想傾向などに大きな弊害を生み出したことを考えれば、京劇はその一つの証左であり、言い換えれば「改革」「論争」ばかりが騒ぎ立てられ悪影響を生み続けてきた20世紀中国全体の抱える問題の一つの表れが、京劇から見て取れるということでもある。

これからの京劇を考えるのに、やはり各方面に「改革改良」が必要になっている。それは「改革改良」が叫ばれ続けたからであるという皮肉な情況が、結果として21世紀に持ち越されてしまった。ここでもう五四時期の呪縛から脱し、「改革」「論争」から離れ、偏見を捨て、利用という思惑を捨てなくてはならないと思う。それには、「京劇の本質が何か」に立ち返って考えてゆく必要がある。

主要参考文献

  • 『中国京劇史 上・中・下巻』 北京市芸術研究所、上海芸術研究所編著 中国戯劇出版社 1990年4月(上巻)、11月(中巻)、2000年4月(下巻)
  • 『中国現代戯劇史稿』陳白塵、董健主編 中国戯劇出版社 1989年7月
  • 『中国演劇の二十世紀―中国話劇史概況』瀬戸宏著 東方書店 1999年4月
  • 『清園近思録』王元化著 中国社会科学出版社 1998年1月
  • 「新文化運動における張厚載と胡適―旧劇改良論争を中心に―」宮尾正樹 『日本中国学会報』第38集 1986年

*1 『中国京劇史』の区分で約1880年~約1917年を「京劇逐漸成熟」とするのによる。
*2 同上の区分で1917年頃~1937年頃を「京劇的鼎盛時期」とするのによる。
*3 1938年10月に延安で毛沢東が「中国共産党在民族戦争中的地位」という報告をした中で「国際主義の内容と民族形式を結合させ新鮮で生き生きした中国の庶民の好む中国的作風と中国的気風」を創造するという発言をし、翌年から民族形式に関する討論が始まった。
*4 1918年に昆曲が隆盛したことについて、銭玄同は「随感録(十八)」(1918年7月)の冒頭で、「2、3ヶ月以来、北京の演劇は突然昆曲が大流行した。韓世昌という昆曲の大家が来て以来、一部の人の間で、「よかった、中国の演劇は進歩した、文芸復興の時代がやってきた」と言っているそうである」と書いている。韓世昌は直隷高陽(河北)の出身で1917年に北京に出て公演、1919年には上海公演をして好評を博したほか、1928年には訪日公演も行っている。北方昆曲の代表的人物である。またこの頃、国民党の蒋介石が清朝・満族文化に反対して、漢族文化の再興を唱導しており、昆曲は明朝の演劇なので支持されたという経緯もある。
*5 『中国現代戯劇史稿』第二章「現代戯劇観念的確立与新興話劇的発展」では「厳密で科学的方法と芸術分析の深みに欠け、偏りが多く的はずれなところもある」が、やはり「演劇の新観念の確立と新興話劇の発展の促進に積極的な進歩的作用をもたらした」としている。
*6 第二章「新文化運動と話劇の成立」(一)「『新青年』と演劇」。
*7 『日本中国学会報』第38集所収。
*8 1898年にハクスレー『進化と倫理』に『天演論』の題をつけ翻訳出版した。西洋近代思想の本格的紹介の最初とされる。
*9 周作人著『木片集』の「劉半農」に、「他一面仍在《新青年》寫文章,這回是白話文了,新進氣銳,攻擊一切封建事物最為尖銳,與錢玄同兩人算是替新思想說話的兩個建將.其實反對的論調尚多,錢玄同乃託“王敬軒”之名,寫信見責,半農作復,逐條駁斥,頗極苛刻,當時或病其輕薄,但矯枉不忌過正自此反對的話逐漸少見了。」とある。銭玄同が王敬軒という名を使って架空の反対意見を書き、劉半農がそれに反駁したことが書かれている。王敬軒は銭玄同自身であり、強弁の行き詰まり感が漂っているように感じる。
*10 周作人著『知堂回想録』121「卯字号的名人(一)」に、張厚載の除籍に関して記載がある。当時学生を除籍しない方針であった北京大学では、除籍処分というのは大変例外的なことであったという。
*11 前述の宮尾氏の論文中では更に、4巻6号に載った張厚載の「新文学及中国旧戯」が3ヶ月も留め置かれたと考えられる点を上げ、他の「通信」掲載の手紙の扱いと比べて異例に属すことを指摘している。
*12 宋春舫(1892~1938)は演劇学者・劇作家で、1914年から1916年までスイスに留学し、帰国後北京大学で演劇史を教えている。丁度この手紙の書かれた頃は恐らくこの時期である。その後1919年から1921年まで欧州に演劇視察に行き、帰国後北京大学教授になっている。
*13 注9を参照されたい。『新青年』4巻3号に「文学革命之反響」と題した王敬軒の文があり、伝統劇論争より早い時期のことである。
*14 藤野真子氏「民国初期上海における伝統劇評」(『野草』65号所収)では、劇評の展開を追う過程で『新青年』の伝統劇批判に触れており、この論争で上海の劇評家馮叔鸞はじめ伝統劇評に対する批判が世に問われた後、既存の伝統劇評に大きな影響を及ぼしたとは考えにくい、と述べている。
*15 王元化『清園近思録』p338~p341。