北京プロジェクトⅠ成果報告/混元盒物語の成立と展開

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混元盒物語の成立と展開

山下一夫

一. はじめに

混元盒物語とは、明代の張天師が「金花聖母」と対立しつつ「五毒」の妖怪を退治するという話である。『三国演義』や『水滸伝』『西遊記』などのように著名なものではなく、また文学史の類で取りあげられることも少ないのだが、神怪小説に分類される『混元盒五毒全伝』を筆頭に、伝奇『混元盒』(一名『闡道除邪』)、京劇『混元盒』、鼓詞『五毒伝』、影戯『混元盒』など、主に清代から民国にかけて様々な媒体で取りあげられ、一定の展開を見た。本稿は、この混元盒物語の演変史を辿りながら、その作品としての特性について考えて行きたいと思う。

二. 小説『混元盒五毒全伝』について

現存する混元盒物語の作品の中で、成立がおそらく最も古いと思われるのは、小説『混元盒五毒全伝』である。以下、その版本やあらすじ、成立年代などの問題について述べてみたい。

(一) 版本

小説『混元盒五毒全伝』の版本は、管見の及んだ限りでは以下のようなものがある*1

  • 『混元盒五毒全伝』二十回。南京図書館所蔵。蕭相愷によれば*2、序跋や刊刻年代、また書肆名などは見えないらしい。ただ、館蔵書簽に「明末清初」とあって、これは何らかの根拠があるだろう、としている。筆者は未見なので、詳細は解らないが、半葉八行、毎行十六字という版型なので、後述する授経堂刊本と同系統のものかも知れない。
  • 『混元盒五毒全伝』二十回、道光十二年(1832)富経堂刊木刻巾箱小本。半葉十行、毎行二十一字。封面題『張天師収妖伝』、書口題『混元盒』。浙江図書館所蔵(上海古籍出版社『古本小説集成』に影印が収録されている)。
  • 『混元盒五毒全伝』二十回、同治十年(1871)授経堂刊本。半葉八行、毎行十六字。戴不凡『小説見聞録』*3、及び張穎・陳速「通俗小説書目補遺及其他」*4に著録する。天津市人民図書館所蔵(周紹良旧蔵本)、大阪府立図書館所蔵。戴不凡旧蔵本は所在不明。
  • 『聚仙亭全伝』十回、儲仁遜抄本小説之十四。天津南開大学所蔵。二十回本の二回分を一回にまとめ、全部で十回にしたもの。儲仁遜抄本小説とは、天津の人で同治十三年(1874)に生まれ、民国二十八年(1928)に卒した儲仁遜によって、おそらく光緒二十九年(1902)前後に抄写されたとされる白話小説十五種のことで、収録されているテキストは天津評話や弾詞、鼓詞などと関係のあるものが多いとされる*5
  • 『混元盒五毒全伝』二十回、北京図書館所蔵(鄭振鐸旧蔵本)。孫楷第『中国通俗小説書目』に「坊刊小本」とする*6
  • 『混元盒五毒全伝』二十回、四冊十六巻、咸豊同治間襟霞閣刊刻本。胡士塋「中国通俗小説書目補」に著録する*7

このほか版元不明のものに、北京図書館所蔵斉如山旧蔵本(封面佚)、筑波大学所蔵残本(第十一回から第二十回のみ存)がある。いずれも半葉八行、毎行十六字という版型なので、南京図書館所蔵本や授経堂刊本と同系統のものかもしれない。

(二) あらすじ

小説『混元盒五毒全伝』のあらすじは以下のようなものである。(富経堂本による、以下引用文なども同じ)

明の永楽年間のこと。塩城県の謝白春は、同郷の崔子英、陸賓と意気投合し、義兄弟の契りを結ぶ。その際、占い師の袁柳荘に運勢を看てもらったところ、謝白春は苦難の末に皇室の駙馬になり、崔子英はいずれ皇室の大任を担う人物に、陸賓はよこしまな心を持つため今年の六月十五日に死ぬだろうと鑑定される。その後、陸賓は謝白春から元手を借りて商売にでかけ、探親に向かう崔子英とともに揚州に旅立つ。

一人塩城に残った謝白春はある日海辺で瓢箪を拾う。開けてみると中から化け物が出てきて、食べられそうになるが、運良く法術の使える金奶奶に助けてもらう。謝白春はそのまま金奶奶のもとに留まり、三女と結婚する。ある日、謝白春は誤って聚仙亭の石版の封を破り、中に閉じこめられていた五毒の妖怪と瓢箪の化け物を逃がしてしまう。金奶奶は、三女との縁が終わるときが来た、苦難の時は自分の名前を三回唱えるように、と言って謝白春を塩城に帰らせる。

さて、塩城では陸賓が商売で儲けて揚州から帰って来ていた。陸賓は謝白春に借りた元手を返したくないので、妻の劉氏に美人局をやらせて謝白春を陥れようと企む。劉氏は計略を聞いて怒って井戸に身を投げるが、そこで三足の蟾精に取り憑かれる。陸賓があわてて井戸の底から引き揚げると、劉氏は先ほどとはうってかわって計略に協力することを約束する。六月十五日、陸賓は謝白春を招き、好物のスッポン料理を出すが、謝白春は金奶奶から渡された錦嚢の中に記されていた「好物を食べるなかれ」という言葉に従って手を着けない。仕方なく陸賓が食べると、全身に痒みを覚え、水で流すと言って浴室に行くが、そこで体が溶けて血と骨だけになってしまう。一方劉氏は巧みに謝白春を誘惑するが、計略に乗らない謝白春に業を煮やしているところに、陸賓が変死しているのを発見される。劉氏は謝白春が密通を謀り、陸賓を殺害したと訴えて出る。

崔子英の妻である呉氏は、謝白春が陥れられたのを知り、淮安府の宗道台に陳情に行く。そこへ、たまたま張天師が通りかかり、呉氏の話を聞いて妖怪の仕業と看破し、塩城に赴いて、王霊官と東海竜王の三太子に命じ、劉氏に化けた蟾精を捉えさせ、秘宝の混元盒の中に封印する。宗道台は謝白春の聡明ぶりが気に入り、翰林院大学士陳奉臣の娘で姪に当たる陳鳳英との結婚を薦める。そこで謝白春は陳府に赴き、下女の蘭花に誘われ陳鳳英と契りを結ぶが、金奶奶が遣わした判官が現れて、謝白春が契りを結んだ陳鳳英は狐狸精の化けた偽物だという。狐狸精は逃げだし、本物の陳鳳英のもとへ行く。陳府ではどちらが本物か解なくなり騒動になるが、そこへ張天師が現れ、偽物を見破り王霊官を使って退治する。

さて、謝白春は張天師の薦めで、途中再会した崔子英とともに都の夏太師のもとへ赴く。そこで天子に才を認められて、公主を娶り駙馬となるよう薦められるが、婚礼の日に公主が妖怪に連れ去られる。困り果てた謝白春が金奶奶の名前を三回唱えると、金奶奶が現れ、自分の道袍二着に張天師の押印を得ることが出来れば公主を取り戻してやると言う。そこで謝白春がその旨奏上すると、張天師は、金奶奶というのは千百年の修練を経た老狐狸精で、もし天師印を得たら大羅天仙になってしまうので出来ない、と言って拒むが、天子は金奶奶が妖怪を退治したら天師に印を与えさせると約束する。そこで金奶奶は菖蒲剣を使いつつ、錦毛紅冠鶏を原形とする昴日星を召喚し、公主を連れ去った五毒の蜈蚣精と蜘蛛精を降し、張天師に混元盒の中に収めさせた。公主は毒にやられており、張天師には治せず、金奶奶の薬でようやく回復する。しかしなおも金奶奶に打印を与えることを拒む張天師に対し、皇太后が一計を案じ、張天師の印は辟邪に験があると聞くので自分の服百十着に押させるようにと命令させ、中に金奶奶の道袍二着を混ぜておいた。しかし、張天師は中から道袍を見つけ出し、妖怪の皮だと言って法術で調伏しようとしたので、金奶奶は慌てて掲地神を派遣して道袍を取り戻させた。

さて、張天師は兵馬を募り反乱を起こした蝎子精と蟒蛇精を退治しに行くことになり、馬霊官を駆使して闘うが、逆に妖怪の毒気にやられてしまう。そこで金奶奶は薬で張天師を治し、さらに菖蒲剣で妖怪を降した上、混元盒の中に収めさせた。張天師は仕方なく一着目の道袍に印を押すが、二着目は拒む。そこで金奶奶は張天師に退治させるため壁虎精とそれを守る護法神とを宮中に遣わす。張天師は王霊官を駆使して闘うが妖怪を降せず、結局金奶奶が二着目の印をもらうのと引き替えに菖蒲剣で壁虎精を退治し、張天師の混元盒に収めさせた。金奶奶は金花聖母に封じられ、三女とともに張天師の印の入った道袍のおかげで昇仙していった。また謝白春は公主を娶って駙馬となり、さらに陳鳳英との結婚の約束も果たした。

(三) 成立

さて、本書の成立について、戴不凡は以下の様に述べている*8

一、開端に、「本書は三代、秦、漢、晋、唐、宋、元などに出るのではなく、大明の永楽年間に出るものであります。」*9とあり、また第八回に、「さて、この張天師はただ今の永楽天子の御前で上奏いたしました。」*10とある。こうした表現は、清代のものではありえない。

二、毎回の回目がみな単句で、しかも次の回目とあまり出来のよくない対句となっている。つまり、

第一回 謝公子郊外遇友
第二回 袁柳莊風鑑驚人
第三回 海灘辺遇怪物偕花燭
第四回 聚仙亭掲封皮暗走妖魔
第五回 設奸謀妻兒跳井
第六回 請赴宴自身殞命
……(以下略)……

というようになっているが、こうした形式は、章回小説盛行後のものとは思われない。しかし、回目が単句だが次の回目と対句になっていない古本『英列伝』などよりは、後になるであろう。

三、各回の字数がひどく少なく、おおむね1500字程度しかない。また、「且聴下回分解」の所が、特に話を引けるような場面でないものが多い。さらに、各回冒頭の「詩に曰く」「詞に曰く」の内容が、本文と何の関わりもないものが多い。とりわけ奇妙なのは、第二回の回目が「袁柳莊風鑑驚人」となっているのに、袁柳荘が登場するのは第三回になってからで、第二回にはこの明代の著名な占い師の名前が一字も出てきていないことである。

これらのことから、『混元盒五毒全伝』は、明代の比較的初期の短編小説であり(本書の字数は全部で27000字から28000字程度であるが、これはほぼ『売油郎独占花魁女』の分量と等しい)、後に回目が挿入され(これも清代人ではないだろう)、長編の章回小説に近いものになった、と考えられる。

戴不凡は以上のように述べて、明代初期に短編小説として成立したものが、のちに章回小説としての体裁を整えられ、単行の長編となったとしている。確かに、長編小説にしては字数が少ない、回目が単句でしかも次の回目と対句になっている、といった点では、明刊本のある『南海観音菩薩出身修行伝』二十五回や『唐鍾馗全伝』三十五回などともよく似ており、戴不凡の説も全体的には首肯できるものであるとは言えるだろう。しかし、戴不凡が論拠として挙げている点は、いずれも疑えば疑うことが出来る。蕭相愷は以下のように述べる*11

清初の小説で、明のことを「大明」としているものも決して珍しくはなく、また更に時代が降るものでも、そうした現象はしばしば見られる。例えば、咸豊年間に刊行された『繍球縁』は全称を『大明全伝繍球縁』というし、また『雲中雁三閙太平荘全伝』の別の清刊本は、『大明奇侠伝』と称している。この二種は清人の作である。標題ですらこうなのだから、ましてや本文については推して知るべし、であろう。また、「毎回の字数が非常に少ない」ということだけでは「短編小説に後の人が回目を挿入して成立した」とは決して断定できない。例えば『浪史』などは、毎回の字数は『五毒全伝』の各回より少ないが、本文と回目は明らかに同一の人物の手になるものである。結局、『混元盒五毒全伝』は、あまり聡明とは言えない作者によって、民間伝説や皮簧戯、さらにはもしかしたら鼓詞などに取材して書かれた、というのが実際のところであろう。

蕭相愷は具体的な成立年代を挙げていないが、「皮簧戯に取材」云々と言っているので、(南京図書館の「明末清初」という書簽を別とすれば)小説成立の下限となる富経堂刊本の道光十二年(1832)に近いあたりを想定しているものと思われる。

ただ、蕭相愷のいう京劇や鼓詞などは、後述するように明らかに明代の小説『封神演義』の影響を受けているが、小説『混元盒五毒全伝』はそうした形跡が見られない。小説化にあたってわざわざそうした要素を取り除いたとは考えづらいので、小説は『封神演義』の影響を受ける以前の内容を伝えているものとするのが自然であろう。そうすると、やはり成立はもう少し溯るものと考えられるのではないだろうか。

また、明・劉若愚の『酌中志』巻二十には、以下のような記述がある*12

五月。初一日から十三日まで、皇后妃嬪や内臣たちは、五毒やヨモギで作った虎の飾りの縫い取りをした礼服を着て、門の両側には菖蒲やヨモギの鉢を置き、門の上には屏風を吊し、その上に天師や仙子仙女が剣を執って五毒を降す物語を描き、新年の門神に似たようなことをする。一ヶ月吊しておいてから片づけられる。

『酌中志』は、魏忠賢一党によって貶められた宦官の劉若愚が、かつて宮中で見聞した様々な事柄を獄中で綴ったもので、崇禎十四年(1641)頃までに完成したとされる*13。さて、劉若愚ははっきりと記していないが、菖蒲やヨモギ云々という点から、これは五月五日の端午節の習俗を指しているものと思われる。そしてここでいう「天師や仙子仙女が剣を執って五毒を降す物語」とは、明らかに混元盒の物語のことを指していよう。しかも、「仙女が剣を執って」という点は、後述する伝奇や鼓詞などよりも、比較的小説の内容に近いように思われる。

以上の点から、短編小説原形説の是非はともかくとして、小説『混元盒五毒全伝』の成立はおおよそ明末頃としておくのが、とりあえずは妥当なのではないかと思われる。

三. 小説『混元盒五毒全伝』と端午節

先に引用した『酌中志』の記述は、端午節の際に混元盒の物語を絵に描いて飾るというものであった。ではなぜ端午節なのだろうか。実は、小説『混元盒五毒全伝』の中には、端午節における辟邪の風習との関わりを伺わせる記述が多く、その成立と密接な関係があることが推測される。

(一) 五毒

小説の第二十回には、張天師と金花聖母が五毒を退治した後、以下のような一節がある*14

金花聖母は拝謝して帰って行き、五毒を後府に封印した。(後に)端午節になると、五毒を絵に描いて、壁に貼るようになった。

小説の後日談として、端午節の際には五毒の絵が飾られるようになったというのである。これは先ほどの『酌中志』の記述とも一致している。この習俗はいつ頃から行われるようになったものなのだろうか。

端午節については既に様々な論考があり*15、その起源や性格についても諸説あるが*16、いずれにせよ辟邪、すなわち邪気を払うという習慣が行われ、そのために様々なものが用いられてきた。例えば、『太平御覧』巻三十一に引く後漢・応劭の『風俗通義』佚文では*17

五月五日に、五色のひもを腕に繋げば、悪鬼や凶物を避け、疫病も患わない。

とあり、五色のひもが辟邪に使われたとしている。聞一多は、彩色されたひもというのはかつての刺青の風習の名残だとしているが、これが五色になっているのは、やはり五月五日からの連想であろう。また、『後漢書』志第五「礼儀中」には*18

五月五日には、朱色のひもと五色印を門戸の飾りにして、悪気を止める。

とあるが、この五色印なるものも同様の連想によるものと推測される。また、晋・葛洪『抱朴子内篇』雑応巻十五に、ある人が「五兵を辟ける」道を尋ねた際、抱朴子が師の鄭君の言葉を引き*19

また、五月五日に赤霊符を作って、胸につければよい。

と答えていて、赤霊符なるものが端午節の辟邪に用いられたことを示している。この他、梁・宗懍撰『荊楚歳時記』の「五月五日」項では*20

五月五日を浴蘭節と言い、人々はみな草合わせの遊びをし、またヨモギを採って人の形にして、門戸の上に掛けて、毒気を祓う。

とあり、辟邪のためにヨモギが用いられたことが記されている(浴蘭節は端午節の別名)。

このように、五色のひもや五色印、また赤霊符やヨモギなどが端午節の辟邪に用いられていたが、これに宋代以降、五種類の毒虫をあしらったものが加わる。まず、陳元靚『歳時広記』巻二十一「挿艾花」項に北宋・呂原明の『歳時雑記』を引き*21

端午の時、都の士女は髪飾りに、絹や紙の類を切ってヨモギの形にしたものか、あるいは本物のヨモギを使い、その上にむかで、げじげじ、へび、さそり、草虫の類、及び天師の姿などを描き、さらに石榴、忘れ草、つつじ、造花、あるいは香薬を花にしたものを施す。

とあり、五種類の毒虫を髪飾りに描く習俗が記されている。五種類なのは、やはり上に見た五色のひもや五色の印と同じく、五月五日からの連想であろう。毒虫を描くのは、おそらくこれらが害虫の類を食べることから、やはり辟邪の効能があると信じられたものと思われる。そして、この髪飾りが後に「五毒符」と呼ばれるようになる。万暦二十一年(1593)の沈榜『宛署雑記』巻十七に*22

五月の女児節には、端午のひもを結び、ヨモギの葉や五毒の霊符を飾る。

(注)宛の風俗で、五月一日から五日までは、娘たちを着飾らせる。その様は、非常に艶やかで美しい。嫁いだ女性たちも実家に帰るので、この日を女児節と称している。端午の日には、五色の線を集めてひもにし、子供のあしに繋ぐ。男性はヨモギの葉をかぶり、婦女はむかで、へび、やもり、ひきがえるを「五毒符」として、髪飾りにする。

「五毒」と言いながら四種しか挙がっていず、しかも『歳時雑記』の記述と異なっているが、これは五という数字が先行していて、内容をこれに合わせているからであろう。そして髪飾り以外に、『酌中志』に見えるような門戸に貼るお札や、辟邪のために携帯して用いる符も「五毒符」と言われるようになる。清初の呂種玉『言鯖』巻下に*23

端午の日に五毒符を作って子どもに身につけさせ、様々な毒を寄りつかないようにさせるという習俗が現在行われている。案ずるに、昔の山東の風俗に、穀雨の日に、さそり、むかで、まむし、ハチ、いさごむしの絵を描いて五毒符を作り、それぞれの絵を針で刺し、家の戸に貼って、毒虫を祓った。すなわち、昔は五毒を穀雨に用い、端午ではなかったのである。

とある。ただ、髪飾りの五毒は、邪を退治する側のものだったのだが、ここでは五毒の絵を針で刺すということをしているので、退治される側のものになっている。それは先に見た『酌中志』も同様である。呂種玉は、五毒符はかつて穀雨の際の習俗だったとしているが、おそらくこれはもともと髪飾りの毒虫とは別に行われていたものが、後に合流して、どちらも五毒符と称されるようになったものと思われる。あるいはそれに、混元盒物語の流通が関わっているかも知れない。

「五毒符」を門戸に飾る習俗はその後も続けて行われている。清の道光十年(1830)に刊行され、当時の蘇州の習俗を記した顧禄『清嘉録』巻五「五月」の「五毒符」の項に*24

尼庵では、五色の色紙をひきがえる、とかげ、蜘蛛、ヘビ、ヤスデの形に切って、檀家に贈る。門楣や寝室に貼ると、毒虫を退治することが出来る。これを「五毒符」と称する。

とある。また、光緒二十六年(1900)までに成立し、当時の北京の習俗を記した敦崇『燕京歳時記』の「端陽」項には、五毒餅なるものを食べる習慣が記されている*25

毎年、端午節の前になると、役所や顕官の邸宅ではみなお互いに粽子を贈答し、これに桜桃、桑の実、クワイ、桃、杏および五毒餅、玫瑰餅などを添える。

これはおそらく、五毒の絵を餅に描いたものだろう。いずれにせよ、端午節における五毒のイメージは、かなり一般的なものになっていたことが解る。

(二) 張天師

また、小説では張天師が主要登場人物の一人となっている。張天師とは言うまでもなく、江西省の龍虎山に本拠を置く道教の一派、天師道の領袖である。後漢の張道陵の末裔とされ、非常な霊験の持ち主であると一般には信じられていた*26

ところで、小説中に登場する張天師は、張俊という名前になっている。

天子は(上奏文を見て)言った、「張俊よ、最近駙馬が公主と婚礼を挙げたのだが、その時に公主が輦車からいなくなってしまった。これはいったい何の妖怪の仕業なのか。」天師は言った、「その駙馬とは、謝翰林の子謝廷のことでしょうか。」(第十七回)*27

皇太后は言った、「張俊、お前はまさか公主の命を救いたくないとでも言うのか?公主は今や明日とも知れない命なのだぞ。」天師は言った、「たとえ私張俊の首を斬られても、印を押すことは出来ませぬ。」そうして立ち上がって辞去し、宮門を退出して行った。(第十八回)*28

小説の舞台である永楽年間の張天師というと、『漢天師世家』巻三*29などによれば、洪武十三年(1380)に襲教し永楽八年(1410)に羽化した第四十三代張宇初か、その弟で永楽八年に襲教し宣徳二年(1427)に羽化した第四十四代張宇清ということになる。しかしいずれも俊という名ではなく、また小説に出てくるような事績も(当然のことながら)見当たらない。

おそらく小説中の張天師は、端午節との関係で登場しているだけで、永楽年間の特定の張天師を反映しているわけではないだろう。張天師もまた、端午における辟邪のシンボルであったからである。

先にヨモギを人の形にして辟邪とするという、『荊楚歳時記』中の記述を引用した。この「ヨモギ人形」を、宋代以降、天師道の発展を受けてか張天師の形に作るようになる。『武林旧事』巻三「端午」項に*30

天師の艾虎(ヨモギで作った虎の人形)を飾る。

とあるし、また『歳時広記』巻二十一「画天師」に『歳時雑記』を引き*31

端午の時は、都では天師の絵を描いたものが売られる。また、泥をこねて張天師にし、ヨモギを頭に、ニンニクを拳にして、門の上に置く。

とあるように、端午節の際に張天師の絵なども飾られるようになっている。また後には天師の二字の入った符も行われるようになっている。清初の呉存楷『江郷節物詩』「端陽符」項に*32

道院は端午の日に符を贈る。これには必ず「天師」の二字を入れて、霊験あらたかなものとする。戴いた者は金銭や米でお布施にする。

とある。また、これは「天師符」と呼ばれたらしく、『清嘉録』巻五「五月」の「貼天師符」項に*33

五月一日に、人家では道院から贈られた天師符を大広間に貼って悪気を鎮め、謹んで拝して焼香する。六月一日になってこれを焼いて送る。

とある。また、先に引いた『燕京歳時記』の「天師符」項には*34

毎年、端午節になると、市肆で尺幅の黄色い紙を用い、これに朱印を押し、天師や鍾馗の像を描いたり、五毒符呪の図を描いたりして、吊り下げて売る。都の人々は争って買い求め、それを家の中門に貼り、祟りや災いを避ける。

とあり、天師符や五毒符の類に朱印が押されていたことが解る。小説中では、張天師の印は非常に霊験あらたかなものとされているが、あるいはこうした符などの朱印から連想されているのかもしれない。

(三) 菖蒲剣

また、小説中では金花聖母が五毒を退治するのに菖蒲剣なるものを使っている。

金奶奶は、「妖怪め、でたらめを言うな。わたしは今回、勅命を奉じてお前を捉えるのだ。逃げるな!」と言って、袖の中から小さな菖蒲剣を取り出し、法術で三尺ほどの長さの青鋒にして、(蜈蚣精の化けた)和尚に向かっていった。(第十七回)*35

金奶奶は菖蒲剣を執って迎え、戦うこと数合、そこへ妖怪は向き直って毒鉤を放った。金奶奶は剣を振り下ろして毒鉤を叩き斬り、返しの一手で妖怪を斬り倒した。すると、妖怪は大さそりの化け物の原形を現した。(第十九回)*36

金奶奶は妖怪を見るや、呪文を唱えて袖の中から菖蒲剣を執りだし、一撃で妖怪をまっぷたつに斬り裂いた。妖怪はやもりの精で、張天師が妖怪の霊魂を混元盒の中に収め、肉体は火で焼き払った。(第二十回)*37

この菖蒲も、端午の辟邪のために古来用いられてきたものである。例えば『歳時広記』巻二十一「菖蒲酒」項に『歳時雑記』を引き*38

端午の際は、菖蒲を刻んで細かくし、酒に入れる。

とある。菖蒲の葉は鋭いので、蒲剣と称することもあり*39、後にはさらにこれを実際の剣に見立てて端午節の際に飾った。清初の呉存楷『江郷節物詩』「蒲剣」の項に*40

菖蒲の葉を截って剣となし、それによって魑魅魍魎の類を退けることが出来る。

とあり、また『清嘉録』巻五「五月」の「蒲剣蓬鞭」項に*41

菖蒲の葉を截って剣となし、ヨモギを割いて鞭となし、桃梗(桃の枝)と蒜頭を副えて、床や戸口に掛ける。これらはみな鬼を退けるものである。

とあり、また『燕京歳時記』の「菖蒲艾子」項に*42

端午の日には菖蒲やヨモギを門の傍らに挿して不祥を祓う。これはまた、いにしえの艾虎(ヨモギで作った虎の人形)や蒲剣の名残である。

とある。小説でいう菖蒲剣は、こうした習俗に取材して、金花聖母の使う武器に仕立て上げたのだろう。

さて、以上見てきた点から考えると、小説『混元盒五毒全伝』は、端午節における辟邪の風習を、五毒符や菖蒲剣など実際に行われている習俗を材料に物語化し、神怪小説として成立したものと考えてよいだろう。あるいは、もともとは端午節の際に縁起物として何らかの形で語られていたものなのかもしれない。

四. 伝奇『混元盒』の成立と上演

清代には伝奇『混元盒』が作られ、宮中などで応節戯として行われた。以下、その成立や上演情況について考えてみたい。

(一) 伝奇『混元盒』

『今楽考証』の「国朝雑劇」項に*43

裘蔗村 四種 又有『女崑崙』院本二巻 『混天合』傳奇
 『昆明池』 『集翠裘』
 『鑑湖隠』 『旗亭館』

とある。蔗村は号で、名は裘璉である。浙江慈渓の人で、明・崇禎十七年(1644)に生まれ、清・雍正七年(1729)に卒した*44。この『混天合』について、荘一拂『古典戯曲存目彙考』は『混天盒』として*45

明代に『混元盒』小説があるが、これと題材が同じかどうかは不明である。

と述べている。『古本戯曲叢刊五集』*46に収録される『女崑崙』はその「自叙」によれば康煕十五年(1676)の作ということなので、『混天盒』(?)もおそらくその前後のものかと思われ、あるいは次に述べる『混元盒』伝奇と関係があるかも知れないが、劇本が現存しないので、詳細は不明である。

次に『混元盒』、一名『闡道除邪』伝奇がある。『曲海総目提要』巻四十に「近時人作」として著録されている。成立年代は不明だが、『紅楼夢』第五十四回で以下のように言及されているので*47、乾隆年間にはすでに行われていたものと思われる。

麝月らが「手に持っているのは何ですの?」と訊くと、女房たちが「ご隠居様が、花様たちお二人(金鴛鴦と花襲人)に召し上がるようにと下さったものでございます。」と答えた。すると秋紋が笑って「あら、外で上演しているのは『八義記』で、『混元盒』ではないのよ。それなのに、何で金花娘娘が飛びだしてくるのよ。」

ここは元宵節の観劇の場面で、金鴛鴦と花襲人に引っかけて、『混元盒』とその登場人物である金花娘娘に言及している。『八義記』と対比させているので、『混元盒』も戯曲であろう。第五十四回を含むものとしては現存最古のいわゆる「庚辰本」は、乾隆二十五年(1760)の成立とされるので、少なくともこのころまでには『混元盒』が世に行われていたことになる。

この『混元盒』伝奇は、宮中で行われたいわゆる内府演劇であった。周明泰輯『清昇平署存档事例漫抄』所収「嘉慶二十四年賞恩檔」に*48

五月初二日 同樂園承應 頭本『闡道除邪』五出「金殿試術」
初四日 同樂園承應 二本『闡道除邪』十六出「彭澤鬭法」
初五日 同樂園承應 三本『闡道除邪』十五出「雷撃餘氛」

とあるので、それぞれ十六齣程度で三本以上はある長大な演目が、少なくとも嘉慶二十四年(1819)の段階ではすでに上演されていたことが解る。同楽園は雍正四年(1726)に造られ、咸豊十年(1860)に英仏連合軍により焼失した、円明園の中にあった戯楼である*49。『古典戯曲存目彙考』巻十一に『混元盒』を著録し、昇平署抄本と(おそらくそれを収録した)『古本戯曲叢刊九集』本があり、「全部で八十五齣である」としているのがこれに相当するだろう。なお『九集』は、宮廷大戯を集めて影印した叢書だが、実際には『混元盒』は収録されていないので*50、これは荘一拂の誤認だと思われる。また、中央研究院歴史語言研究所に、『闡道除邪』抄本が所蔵され、崑曲に分類されている。頭本二齣「道陵賜寶」、二本四齣「狂狐作祟」、二本六齣「瘋魔控訴」、二本七齣「施威被擒」のみの破本で、この全八十五齣本の一部を構成するものと思われる。

ただ、その後の上演記録を見ると、おそらく上演の都合などで簡略化されたのか、齣数や齣題の異なるものが幾つか見受けられる。まず、『清昇平署存档事例漫抄』所収の「道光三年恩賞日記档」五月初一日と初五日、「道光四年恩賞日記档」五月初一日と初五日を見ると、以下の齣名で『闡道除邪』二本各十六齣、全三十二齣の簡略版が行われている*51

頭本 一「金花聚妖」 二「陳生自嘆」 三「月下摂韓」 四「五夜呑舟」 五「全節剖腹」 六「起程失篆」 七「二妖献印」 八「謁師生釁」 九「拘魂弁明」 十「蟒怪思春」 十一「漁郎獲偶」 十二「漁戸憂児」 十三「摂水阻舟」 十四「遭寃泣訴」 十五「金針刺蟒」 十六「大悲救難」

二本 一「漁色逢妖」 二「狂狐作祟」 三「霊判閑邪」 四「攔街控訴」 五「白氏施威」 六「金花奮勇」 七「彭沢闘法」 八「蝎虎呑児」 九「投井幻形」 十「献技投充」 十一「端陽聞信」 十二「妖犯鎖拿」 十三「哭屍霜目」 十四「議盗同心」 十五「諸神預召」 十六「四怪全除」

なお、東京大学東洋文化研究所双紅堂文庫には、『闡道除邪第二本』抄本が所蔵されている。目録では「伝奇」と分類されており*52、封面に「頭本五出至八出総本」とあって、第五齣「全節剖腹」、第六齣「起程失篆」、第七齣「二妖献印」、第八齣「謁師生釁」が収録されている。これは、上に見た档案の記述と一致するので、道光三年と四年の上演分に相当するものと見てよいだろう。

さらに、『清昇平署存档事例漫抄』所収の「道光七年恩賞旨意承応档」と「道光八年恩賞档」を見ると、『混元盒』全十齣とするものが行われている。各齣題は以下の通りである*53

一「群妖奉令」 二「大悲救難」 三「蝎虎呑児」 四「投井幻形」 五「献技投充」 六「妖犯鎖拿」 七「哭屍霜目」 八「議盗同心」 九「諸神預召」 十「掃除諸毒」

八十五齣から三十二齣、そして十齣と、次第に簡略化の方向へ向かっているようであるが、一方で「道光二十二年差事档」を見ると*54、『闡道除邪』二本各十六齣を上演しており、道光三年と同様の齣数に戻っている*55

(二) 端午応節戯

さて、清代の内府演劇は、「節戯」と「大戯」があったといわれる*56。「節戯」はもっぱら国家の安寧や吉祥を述べるもので、ストーリー性に乏しく、比較的短いものが多い。例えば、乾隆年間には、皇族の慶寿の際に行われた『九九大慶』、皇族の婚礼や巡幸の際の『法宮雅奏』(この二つを「慶典承応」と称する)、各節令に応じて行われた『月令承応』などが作られている。これに対し「大戯」は、ストーリー性に富み、唐僧取経故事に取材した『昇平宝筏』や、目蓮故事にちなんだ『勧善金科』、三国故事による『鼎峙春秋』、水滸故事の『忠義璇図』、楊家将故事の『昭代簫韶』など、小説に取材したものが多く、宴席や慶典の際などに折に触れて上演された(昭槤『嘯亭続録』巻一*57では、『勧善金科』を年末に、『昇平宝筏』を上元節に上演するとしているが、実際にはこれ以外の上演記録の方がむしろ多い)。大部のものが多く、全部で二百齣を超えるものも少なくないが、上演の都合等で簡略化したり一部を改編したりして行うことも多い*58。『混元盒』(あるいは『闡道除邪』)もこの「大戯」に分類されるが、五月五日前後の上演になっていることから解るように、「端午応節戯」として行われた点が、一般の大戯とは様相を異にしている。

無論、「節戯」の中にも端午応節戯は当然ながら存在した。『月令承応』には、『屈子競渡』という屈原にちなんだ応節戯が収録されている*59。しかしこれは、王芷章によれば、現存資料中には上演記録が見当たらないという。あるいは、乾隆年間には『屈子競渡』が行われていたのかも知れないが、おそらく早い段階で『混元盒』に取って代わられたものと思われる。端午応節戯は他にも、『霊符済世』『祛邪応節』『采薬降魔』『蒲剣閑邪』などがあったが、これらは開団場戯として上演され*60、中心はやはり『混元盒』であった。

『混元盒』がこのように端午応節戯として行われたのは、もちろん物語そのものが端午節の習俗を背景にして成立したものであり、これを上演することよって辟邪の意を表すためだと思われる。

(三) 内容

伝奇『混元盒』は、先に見たように幾つかのバージョンがあり、それぞれで内容に繁簡の違いがあったことが想像される。それらをすべて検討することは不可能なので、とりあえず『曲海総目提要』巻四十に収録されている解題*61をベースに、筆者が目睹することの出来た東京大学東洋文化研究所双紅堂文庫蔵本と中央研究院歴史語言研究所蔵本を参照しながら、ストーリーの概略を述べると、以下のようになる。

明の嘉靖年間のこと。不老長生の道を好む世宗は、もと皮匠で石を金に換える術をもつ陶謙を重用し、丹薬の完成のために無実の童女を多数焼き殺す。これを見た天界の玉帝は、凶神を派遣して世宗を罰しようとする。依頼を受けた截教の領袖である金花聖母は、この機に乗じて仇関係にある洪教の天師張節(張捷とするものもある)を滅ぼそうとたくらみ、手下の妖怪たちを呼んで、まずは天師の八卦五雷神印を破り、その後各地に潜伏して天師を待ち構え、これを討つよう命ずる。張天師の祖である張道陵がこの企みに気付き、金花聖母に対抗するため張節に混元盒をはじめとする秘宝を授ける。

さて、趙国盛は、奎星閣で妖怪が出るという話を聞いて、剣を持って待ち構えていると、夜中に美しい女性に化けた妖怪が現れる。そこで趙国盛が酒を大量に飲ませると、妖怪は酔って前後不覚になり、珠のようなものを吐き出す。趙国盛がこれを呑んでしまうと、妖怪は激しく怒り、巡按御史に任じられた趙国盛から印を盗みだす。趙国盛は印を失って政務が出来なくなるが、道士に化けた別の妖怪が現れて印を取り戻してきて、かわりに張天師の八卦五雷神印を持っている紙に押させるよう依頼する。趙国盛はいわれたとおりにするが、持参された紙は婦人の皮を剥いでなめした人皮で、これに印を押すと神通力がなくなることを悟った張節は、黒幕の妖怪である黒石精、蓽石精、独角大王を退治する。しかし趙国盛は都に戻って張天師を侮告し、これを信じた世宗は廷臣の陸炳と薛保を派遣し、張天師を上京させる。

張節は途中、漁民を拐かした大白蟒蛇の洪氏夫人や、また蜈蚣精の呉公長老を退治して混元盒に収めるが、不利を悟った紅衣道人、白衣娘子、黄衣娘子は金花聖母のもとに訴えたので、聖母が自ら出陣して張節と戦う。これを見た張道陵は玉帝に奏上し、天兵を差し向けさせるが、金花聖母を降せず、仕方なく今度は西方闘戦勝仏孫大聖(孫悟空)と二郎神に助力を求めると、金花聖母は敗走し、師匠の老母元君を担ぎ出してくる。大聖も老母には手が出ないが、玉帝は元君の師である女媧に命じて金花らを叱責させ、紅衣道人、白衣娘子、黄衣娘子を退治する。

さて、張節は張家湾で、散仙陸圧道人の助力で千年老狐の白氏夫人を退治した後、都に入って世宗に謁見し、無実を晴らす。趙国盛は斬首されそうになるが、妖怪の珠を呑んで得た神通力で逃亡する。世宗は陶謙に蝎子精を退治するよう命ずるが、陶謙は懼れて逃亡し、死んでしまう。結局張節が蝎子精を退治し、世宗に対して今後は正法を崇めるようにと奏上し、混元盒を開けて中に封じ込めてある妖怪を見せた。その後張節は龍虎山に帰り、玉帝に水官星君に任命されて昇天していった。

先に見た小説『混元盒五毒全伝』と比べると、人皮紙への押印など、多少の関連のあるエピソードも見受けられるものの、全体的には大きく内容が異なっている。小説が永楽年間となっていたのに対し、伝奇『混元盒』では舞台が嘉靖年間に移され、世宗に取り入った道士の陶仲文*62をモデルとする陶謙や、宦官の陸炳*63などが登場して、ある程度当時の史実に照らし合わされた改編が行われている。ただ、張天師の名前が張節となっているが、嘉靖年間に在位した第四十八代張彦頨、第四十九代張永緒のどちらとも節という名は見当たらない*64。強いて言えば世宗に重用された道士の邵元節*65が近いと言えば近いが、これはむしろ陶仲文を積極的に登用した人物である。『漢天師世家』や『龍虎山志』などを見ても、張彦頨にしろ張永緒にしろ陶仲文の重用ぶりに対して積極的に異議を唱えたという記述は見えないので、逆にそうした史実に配慮して張節という架空の張天師を担ぎ出したのかも知れない。なお、明代の小説『封神演義』には、「截教」の道士かつ殷の国師である聞仲の配下に張節という人物が出てくる。雷部正神に封じられた聞仲に従って、死後は雷部二十四位正神の一柱である張天君に封じられている。天師道は宋代以降雷法と密接な関わりがあり、また小説『混元盒五毒全伝』中でも張天師はしばしば雷法を駆使しているが、『封神演義』作者がそうした点を意識して取り込んでいるとすれば、あるいはこれと関係があるかも知れない。

また小説では、自力で五毒を退治できず、金花聖母に助けられた見返りに天師の打印を与えてしまうなど、張天師のイメージは形無しであった。さらに、金花聖母は謝白春が誤って逃がした五毒を退治する役回りのはずなのに、張天師から譲歩を引き出すために壁虎精を自分で宮中に送り込んでいるなど、ストーリーが矛盾しているともとれる点がある。これに対して伝奇では、正道たる張天師の「洪教」と、金花聖母とその配下が属する左道の「截教」の対立という構図に単純化し、前者が後者をうち負かすという筋立てになっている。これは、もちろん仙人の二大派閥である「闡教」と「截教」が対立して闘うという『封神演義』の影響もあろう(作中登場する陸圧道人なども、『封神演義』オリジナルとされる仙人である)。ただ、やはり端午節の応節戯という性格上、張天師の辟邪能力を前面に押し出す必要があったことが大きな理由であろうと考えられる。

五. 京劇『混元盒』

その後『混元盒』伝奇は京劇にも移植された。以下、その成立や上演情況を述べ、さらにここから派生した『五花洞』『九花洞』などについても考えてみたい。

(一) 宮廷演劇の京劇化と兪菊笙本『混元盒』

さて、宮中では、その後も引き続いて『混元盒』が端午応節戯として上演されている。「光緒十年恩賞日記档」では*66

五月初一日、…(中略)…二出頭本『混元盒』、四出二本『混元盒』、六出三本『混元盒』、八出四本『混元盒』。

初五日、…(中略)…二出二本『闡道除邪』、末出二本『闡道除邪』。

とある。五月一日分は、一本各二齣ずつ、全部で八齣本の『混元盒』が行われたということであろう。また、昇平署档案に基づいて朱家溍が整理した「清代宮中乱弾演出史料」によれば*67

光緒二十二年、五月初五日、統一斎承応、『闡道除邪』二十三出、過会。

光緒三十四年、五月初一日、頤樂殿承応、頭本『闡道除邪』前八出、……頭本『闡道除邪』後八出。初四日、頤樂殿承応、頭本『闡道除邪』前八出。初五日、頤樂殿承応、頭本『闡道除邪』、…(中略)…二本『闡道除邪』。初六日、三本『闡道除邪』、…(中略)…四本『闡道除邪』。

宣統三年、『闡道除邪』。

とあり、実に清朝滅亡まで『混元盒』の上演が続けられていたことが解る。なお、統一斎は康煕年間に北京の中南海に造られた戯楼で、また頤楽殿は光緒十六年(1890)に造られ、頤和園内にある大戯楼に面した建物である*68

ただ、清末は崑曲が廃れて梆子や京劇などに取って代わられた時代である。それは宮廷演劇も同様であった。朱家溍は、宮中では光緒年間に伝奇『混元盒』を京劇に改編し、以後これを上演したという*69。そうすると、上に見た『混元盒』あるいは『闡道除邪』も、京劇として行われたとみるのが自然であろう。

斉如山によれば、最初に京劇『混元盒』を上演したのは兪菊笙であるという*70。兪菊笙、号は潤仙、道光十八年(1838)に生まれ、民国三年(1914)に没した。同光年間三代武生の一人で、兪派の創始者として知られる。兪菊笙の京劇『混元盒』は、武生であるかれにあわせて武場に重きが置かれ、唱法は「崑乱両下鍋」、すなわちある役回りは皮簧を、ある役回りは崑曲を唱うというものだったという。春台班で京劇『混元盒』が初演された時の配役は以下のとおりである。

大蜈蚣―兪菊笙
張天師―張玉奎(喜児)
青石精―慶四
白石怪―銭宝豊
紅蟒精―王長寿
蜘蛛精―陸春蘭
蝦蟇精―董三福
蝎虎精―田老
黒狐精・金花娘娘―孫彩珠
白狐精―馮瑞雲

兪菊笙は宣統三年(1911)五月の最後の舞台でも『混元盒』の飛龍僧を演じている*71。また景孤血によれば、兪菊笙は崑曲『闡道除邪』の内廷本を内密に宦官から借り出して京劇に改編したが、完成前に事態が露見したため、仕方なく『封神演義』の「広成子三進碧遊宮」の段を入れて、内廷本と異なる内容に仕立てあげ、懲罰を免れるようにしたのだという*72

『京劇劇目辞典』には*73、「兪潤仙(菊笙)編劇」とする趙綺霞所蔵『混元盒』八本を著録されている。伝奇本と比べると、蝦蟇精が井戸に身投げした回民の哈清宇に化ける話や、壁虎精が豆売りの彭福児に化ける話などが加わっているほか、景孤血の言説を裏付けるように、四本から突然『封神演義』の「広成子三進碧遊宮」に類似するストーリーが混入している点が注目される。

さらに、この混入された「広成子三進碧遊宮」の部分は折子戯としても行われたようである。中央研究院歴史語言研究所所蔵の『混元盒』皮簧がこれにあたり、これは張節や金花聖母はもはや登場せず、「混元一気大陣」を敷いた多宝道人を、広成子らが調伏するという話になっている。

(二) 『五花洞』の成立

なお、『混元盒』の外伝とも言うべき演目に『五花洞』がある。『戯考』所収本*74によりストーリーを概観すると以下のようなものになる。

五花洞で千年の修錬を経た蜈蚣の金頭大仙、蝎の毒尾大仙、壁虎の灰身大仙、蝦蟇の金眼大仙、蛇の長身大仙の「五妖」は、天師の張傑が常に自分たちと敵対することを恨んでいた。壁虎と蝎は世間を攪乱すべく、人間界に降りてゆくが、途中、弟の武松の所へ行く武大と潘金蓮に会い、戯れに二人そっくりの姿に化ける。武大と潘金蓮の本物と偽物が混じり合い、真偽がつかなくなったため、困った一同は役所に訴え出る。訴えを受けた陽穀県令は、折良く巡回に来た包公に審議を委託する。そこへ張傑が現れ、法官らを使って壁虎と蝎を調伏する。

ただ、斉如山によれば、『戯考』本のような形になったのは後世のことで、かつては趙文科が潘金蓮を迎え入れようとするシーンなどがあったという。いずれにしても、「五妖」や張傑(傑は節や捷と同音)という設定は明らかに『混元盒』から取ったものであるが、これに潘金蓮や包公など宋代の人物を交えているのは少々時代錯誤の感がある。演劇としては、本物と偽物が立ち替わり同じ振る舞いをするところに面白さがあるのだろう。

この『五花洞』も、兪菊笙が所属していた頃の春台班で創作されたものらしい。斉如山によれば、『五花洞』は兪菊笙の内弟にあたり京劇『混元盒』で張天師を演じた張玉奎の手になるもので*75、自らは包公を演じ、本物と偽物の潘金蓮は胡喜禄と王長桂が演じた。張玉奎は胡喜禄と王長桂の顔が似ていることから本物と偽物が入れ混じるシーンを思いついたという。その後、『五花洞』は龐先生という人物によって改編され、包公や張天師も本物と偽物が現れ入り乱れるというシーンが加わったが、のちにこれらは『双包案』と『双天師』という演目として独立し、以後『五花洞』は再び包公一人、張天師一人の話に戻ったという。

斉如山のいう『双包案』なる演目は、『戯考』所収本*76によれば、

千年の修錬を経た黒鼠大仙は、包公が陳州放糧から帰る途中近くを立ち寄ると知り、包公に化けて法堂に赴く。そこへ本物の包公が現れ、真偽がつかなくなったので、包公は天師に要請して天兵を呼び、偽物を調伏する。

というもので、また『双天師』については、清蒙古車王府曲本に『九花洞』として収録されているものがこれに当たり*77

金花聖母の命で九花洞を守る九尾黒狐狸大仙は、道友である五花洞の妖怪たちが紅教の張傑に調伏されたのを聞き、張天師に化けて玄帝廟に赴く。そこへ本物の張天師が現れ、真偽がつかなくなっため、師匠の普化天尊に訴え出る。普化天尊は黒狐の偽物を見破り、天兵を使ってこれを調伏する。

というものである*78。いずれにしても、本物と偽物が交互に同じ演技をする滑稽さを売り物にしており、『五花洞』の二番煎じといった感がある。

さて、『五花洞』はその後、非常な流行を博し、様々な役者が演じているが、注目すべきは、民国二十五年(1936)に楊小楼が吉祥園で端午節の際に上演していることである*79。『五花洞』も『混元盒』と同じく端午応節戯として行われることがあったと見てよいだろう。

(三) 王瑶卿本『混元盒』

さて、清蒙古車王府曲本には、『混元盒』第一本から第八本と、それに続く『善道除邪』第九本から第十六本が収録されている(善と闡は音が近い)*80。『京劇劇目初探』で、『道咸以来梨園繋年小録』の記述をもとに著録するもの*81ともほぼ内容が一致している。

これは、先に見た兪菊笙京劇本と異なり、「広成子三進碧遊宮」のシーンがなく、伝奇本に比較的近い展開となっている。ただ、伝奇本と比べると、兪菊笙京劇本にあった、蝦蟇精が井戸に身投げした回民の哈清宇に化ける話や、壁虎精が豆売り(こちらは名前が李長寿になっている)に化ける話などが加わっているほか、伝奇本にも兪菊笙京劇本にも見えない、蝎子精が蘇巧雲に化ける以下のような話が入っている。

名門に生まれながら、父母と夫に先立たれた蘇巧雲は、兄の蘇懐仁に再婚を強要されるが、従わなかったために花柳界に売られ、貞節を守るため首を吊って自殺する。そこへ蝎子精が現れ、死体を呑んで蘇巧雲になりすます。にせ蘇巧雲は、曹公子に気に入られる。(『善道除邪』第九本頭場から三場まで)

蘇巧雲の霊魂は、地府で自らの窮状を閻君に訴え、玉帝に節烈仙女に封じられる。また朝天宮にいる張天師の夢枕に立って、蝎子精が自分に化けて怪をなしていることを告げる。さて曹公子はにせ蘇巧雲と結婚することになっていたが、婚礼の日に張天師は洞房に隠れて蝎子精を待ち伏せ、鶏に化けた昴日星を使って退治し、混元盒に収める。(『善道除邪』第十本二場から八場まで)

ところで斉如山によれば、兪菊笙の後を受けて、旦として著名な王瑶卿が、影戯から「蝎子精」の段を入れるなどして、旦重視の内容に改編した『混元盒』を上演したという。実際、『中国京劇史』によれば、王瑶卿は光緒二十八年(1902)頃の福寿班での上演を皮切りに、民国十三年(1924)に舞台を離れるまで数度、紅蟒と琵琶仙子の役で『混元盒』八本を演じている*82。また斉如山によれば、王瑶卿本は女性の観客に歓迎されて大当たりし、その後はどこの戯班でも王瑶卿が加えた部分の上演が欠かせなくなったといい、また後に梅蘭芳が民国四年(1915)七月二十五日の初演を皮切りに琵琶仙子の役で『混元盒』を上演しているが*83、これは王瑶卿本に斉如山が手を入れたものだという。この他、王瑶卿は「蝎子精」の段を『琵琶縁』(また『琵琶仙子』『勾欄院』ともいう)として、蟒精が漁民を誘惑し張天師に誅される場面を『如意針』(また『金針刺蟒』ともいう)として独立させ、折子戯にして上演している。

以上の点からすれば、清蒙古車王府曲本所収本は、王瑶卿の改編したテキストということになる。清蒙古車王府曲本は乾隆五十五年(1790)から光緒末年まで継続して抄写されたとされるので*84、光緒二十八年頃初演の作品を収録するということはあり得るし、また王瑶卿初演とされる『如意針』*85が収録されていることも証左となろう。では、王瑶卿が参考にした影戯『混元盒』とは、どのようなものであったのだろうか。

六. 影戯『混元盒』と鼓詞『五毒伝』

混元盒物語は、影戯や鼓詞でも行われた。以下、その内容について考えてみたい。

(一) 影戯

影戯にも『混元盒』の演目がある。影戯とは、スクリーン上で平面の人形を動かし、幕後にいる芸人が唱ったり科白を述べたりしながら演じられる芸能である。中国では一般に演劇に分類するが、実際には演劇と講唱文学の中間的位置を占めているものと思われる。人形を皮で作ることが多いため「皮影戯」とも称し、また本邦ではしばしば「影絵芝居」と訳される。筆者が見ることが出来た影戯『混元盒』は以下の三つである。

  • 『混元盒』三部、抄本。中央研究院歴史語言研究所所蔵。封面に「光緒三年」とある。
  • 『混元盒』二巻、抄本。中央研究院歴史語言研究所所蔵。
  • 『混元盒』不分巻、鉛印本。『燕影劇』(山東兗州府天主教会 1915)所収。東洋文庫蔵。

中央研究院で俗曲を収集した際に作成された『中国俗曲総目稿』に、三部本を「影戯詞・北平・抄・三本」として、また二巻本を「影戯詞・北平・抄・二本」として著録しているので*86、両者はともに北京のものと思われる。また、『燕影劇』はタイトルから解るように(燕は北京の別名)、北京影戯のテキストを集めたもので、前半が三部本と、後半が二巻本と字句がほぼ一致している。

この影戯本には確かに蝎子精の段が含まれている。清蒙古車王府曲本所収京劇本と比べると、確かに内容がよく似ており、斉如山のいう影戯移植説を裏付けることが出来る。例として、蘇巧雲の霊魂が張天師の夢枕に立って怨みを述べる場面の韻文を挙げると、影戯『混元盒』では以下のようになっている*87

奴家我生前本是名門女、巧雲蘇氏女多姣、父母雙亡丈夫歸隱去、惡兄心毒起禍苗、將我賣在煙花巷、刁氏打罵甚難熬、叫奴接客將錢賺、那時我不肯失節赴陰曹。

清蒙古車王府曲本『善道除邪』第十本三場では、以下のとおりである。

我本郷間民良善、蘇氏巧雲守家園、配夫名叫陳文煥、未到一載喪黄泉、可恨胞兄綱常亂、不念手足情義偏、將奴賣在合歡院、勒逼為娼享唱彈、守節懸樑行短見。

いずれも、「私の名前は蘇巧雲と言います。夫たちが死んで、よこしまな心を持つ兄に花柳界に売り飛ばされてしまいました。客を取って金を稼ぐよう強要されたので、貞節を守るため、自ら命を絶ちました」という内容になる。ただ、同じ五言の韻文なのに、字句は全くといってよいほど異なっている。これは、蝎子精の段ほぼ全部にわたって言えることである。無論これは影戯と京劇という劇種の差に起因するのだろうが、直接の継承関係にあると思われる劇本間でも、字句が流用されずほとんど改められている点は興味深い。

それにしても王瑤卿はなぜ影戯から蝎子精の段を移植したのだろうか。これについては、王瑤卿本は女性の観客に歓迎された、という斉如山の話と関係がありそうである。かつて女性は京劇の観劇を制限されていたため、影戯がその受け皿となっていたという側面がある。しかし、清末にそうした制限が緩み、女性観客が増えると、王瑤卿や梅蘭芳などの旦戯がこうした層に歓迎されて盛行した。そうして新たな旦戯が作られる際に、もともと女性好みの要素を持っていた影戯の内容を借用して移植した、というのがおそらくその理由であったろう。

ところで、北京の影戯は東派と西派に大別される。東派は東城を主な活動領域とし、北京の東に位置する冀東から伝わった「灤州影系」に属する影戯である。冀東との関係は密接で、芸人たちはしばしば北京と往来していたようである*88。演目を抄本で伝承し、上演時にも台本を見ながら唱う。一方の西派は、西城を主な活動領域とし、陝西から琢州を経て北京に伝わったとされ、「秦晋影系」に分類されているが、東派と違って故郷の琢州などとの往来は早くに途切れたようである。演目を口伝に頼っているので、抄本の類などはほとんど見当たらないが、『燕影劇』所収のテキストは清末民初に西派が行っていた演目を反映しているもののようなので*89、これに収める『混元盒』も、おそらくは西派で行っていたものであろう。関俊哲によれば、西派がよく上演する演目を「京八本」といい、『白蛇伝』『混元盒』『西遊記』『小開山』『楊家将』『下南唐』『背解紅羅』『香蓮帕』を指すというので*90、『混元盒』が西派の常演演目であったことが解る。これに対して、中央研究院歴史語言研究所所蔵テキストは北京で行われた抄本ということなので、そうするとこれはテキストを抄写して伝える東派のものだろうという推測が成り立つ。冀東との芸人の往来を考えれば、東派は灤州影戯とほぼ同義のはずなのだが、湯際亨の報告*91に見える灤州影戯の常演演目の中には、『混元盒』は見当たらない。ただ、本来異なる影系に属する東西両派が、北京で相互に影響を及ぼしあううちに、西派で行っていた『混元盒』を北京に来た灤州の芸人たちが取り入れたということは考えられる。

(二) 鼓詞『五毒伝』

ところで、先に見た孫楷第の『中国通俗小説書目』では、「『混元盒五毒全伝』二十回」として鄭振鐸蔵本を著録し、「鼓詞に基づいて改作されたものである」と述べている*92。鼓詞とは、打楽器を使って節をつけながら、散文の語りと韻文の唱いを交互に演じる、主に北方で行われた講唱文学の一種である。しかし二十回本の小説を読む限りでは、鼓詞に基づいたテキストであるという積極的な特徴は、特に見出すことができない。

ただし、同じく混元盒の故事に取材した、小説とほぼ同名の鼓詞本というのがある。中央研究院歴史語言研究所蔵の『新刻五毒伝混元盒全伝』十二卷、錦章図書局石印本がそれである。出版年代は不明だが、版元が清末民初に上海で石印本を多数出版していた所なので、おそらくこれもその頃のものだろう。また未見だが、北京の清華大学図書館にも清・泰山堂刻本『新刻五毒伝』十二巻が所蔵されており、『中国善本書目集部』*93で「弾詞」として著録していることや、十二巻という巻数からして、中央研究院本と同系統のテキストだろうと考えられる。錦章図書局石印本を見ると、韻文と散文が交互に現れるスタイルで記されており、また巻一の第一葉に「五毒伝留下鼓詞」とあることなどから、鼓詞のテキストであることが解る。ストーリーは清蒙古車王府曲本所収京劇本や影戯『混元盒』とほぼ共通しており、小説『混元盒五毒全伝』とは異なっている。

また、清蒙古車王府曲本に収録されている鼓詞『西遊記』*94にも、一部混元盒物語に由来するエピソードが含まれている。鼓詞『五毒伝』から、蟒精が漁民を拐かす話や、張家湾で白狐精が怪をなす話などを流用し、孫悟空を絡ませるなどして手を加え、西天取経の物語に混入させたものである*95。おそらく、鼓詞『五毒伝』の流行を受け、これが伝奇本などと同じくもともと西方闘戦勝仏孫大聖の名前で孫悟空が登場することから、これに引っかけて取り入れられたものだと思われる。

いずれにせよ、孫楷第の指摘は、こうした鼓詞における混元盒物語の流通を、二十回本の小説に重ね合わせたものであろう。しかし、先にも述べたように、これら鼓詞本は『封神演義』の影響を受け内容も複雑になっているのに対し、小説はそうした要素が見られないので、「鼓詞に基づいて改作されたものである」というのは難があろう。

七. おわりに

これまで述べてきた点をまとめると、以下のようになる。

混元盒物語は、端午節における辟邪の風習を背景として成立し、また戯曲化されてからは端午応節戯として行われるなど、物語そのものが端午節と表裏一体の関係にある。

混元盒物語は、小説、伝奇、京劇、影戯、鼓詞など様々な媒体で展開した。その過程で影戯の場面が京劇に移植されるなど、媒体間での交流も起こっている。また、清代以降展開した媒体は、伝奇、京劇、影戯いずれも北京で行われたもの、また鼓詞も北京をはじめ北方で展開した講唱文学で、概して北京との関わりあいが強い。また、京劇では『五花洞』『九花洞』などの異伝を生んでいる。

なお、今回は混元盒物語と民間文学との関わりについて扱うことが出来なかった。これについては稿を改めて論じたい。


*1 大塚秀高『増補中国通俗小説書目』(汲古書院 1987)157頁などを参照した。
*2 『珍本禁毀小説大観・稗海訪書録』(中州古籍出版社 1992)504-507頁。
*3 浙江人民出版社 1980、271-273頁。
*4 『明清小説論叢』第三輯(春風文芸出版社 1985)所収。
*5 江蘇省社会科学院明清小説研究中心・文学研究所編『中国通俗小説総目提要』(中国文聯出版公司 1990)1090-1097頁。
*6 人民文学出版社 1957、205頁。
*7 『明清小説論叢』第四輯(春風文芸出版社 1986)所収。
*8 戴不凡前掲書、272-273頁。
*9 「這一部書不出在三代・秦・漢・晋・唐・宋・元、却出在大明永楽年間。」
*10 「且説這張天師在當今永樂天子駕前上了一本。」この引用はおそらく戴不凡旧蔵の授経堂本によるのだろうが、富経堂本では「且説這張天師一日在當今永樂天子駕前上了一道本章。」となっている。
*11 蕭相愷前掲書、504-507頁。
*12 「五月。初一日起至十三日止、宮眷内臣穿五毒艾虎補子蟒衣、門兩旁安菖蒲・艾盆、門上懸掛吊屏、上畫天師或仙子仙女執劍降五毒故事、如年節之門神焉。懸一月方撤也。」故宮博物院所蔵清康煕内府抄本によって校訂した馮宝琳点校『酌中志』(北京古籍出版社 1994)による。なお、流布本である道光二十五年(1845)刻『海山僊館叢書』所収本(偉文図書出版社有限公司影印本 1976)では「五毒」の「五」の字が脱落している。
*13 馮宝琳点校本所収の「前言」による。
*14 「金花聖母拝謝而去、回去將五毒收于後府。逢遇端陽節、将五毒画出図形、貼于壁上。」
*15 聞一多「端午考」(『文学雑誌』第二巻第三期 1947)、黄石『端午礼俗史』(泰興書局 1963)、田中克己「端午考」「端午の節供」(『中国の自然と民俗』研文出版 1980所収)などを参照した
*16 屈原に由来するとする説(『続斉諧記』の記述などから)、呉越で行われた竜信仰に由来するとする説(聞一多による)、悪月悪日に由来するとする説(『風俗通義』の記述などから)、夏至に由来するとする説(『後漢書』「礼儀志」の記述から)などが行われている。
*17 「五月五日、以五彩絲繋臂者、辟兵及鬼、令人不病温。」上海涵芬楼影印宋本による。通行の『風俗通義』には見えないが、『芸文類聚』巻四、『初学記』巻四などにも同文を引く。
*18 「朱索五色印為門戸飾、以難止惡氣。」
*19 「或以五月五日作赤靈符、著心前。」孫星衍平津館校刊本による。
*20 「五月五日、謂之浴蘭節、四民並踏百草之戯、採艾爲人、懸門戸上、以禳毒氣。」『歳時習俗研究資料彙編』(芸文印書館 1970)所収影印明万暦宝顔堂秘笈本による。『芸文類聚』『初学記』などに引く佚文も同じ。守屋美都雄『中国古歳時記の研究』(帝国書院 1963)352頁参照。
*21 「端五、京都士女簪戴、皆剪繒楮之類爲艾、或以真艾、其上裝以蜈蚣・蚰蜓・蛇・蝎・草蟲之類、及天師形像、并石榴・萱草・躑躅・假花、或以香藥爲花。」『歳時習俗研究資料彙編』(芸文印書館 1970)所収の光緒帰安陸氏刊十万巻楼叢書本の影印による。
*22 「五月女児節、繋端午索、戴艾葉、五毒霊符。(注)宛俗自五月初一至五日、飾小閨女、盡態極妍。出嫁女亦各歸寧、因呼為女児節。端午日、集五色線為索、繋小兒脛。男子戴艾葉、婦女畫蜈蚣・蛇・蝎虎・蟾、為五毒符、挿釵頭。」北京出版社 1961。
*23 「今俗以端午日作五毒符與小兒佩之、以辟諸毒。按古者青齊風俗、於穀雨日、畫五毒符、圖蝎子・蜈蚣・蛇虺・蜂・蜮之状、各畫一針刺、宣布家戸貼之、以禳蟲毒。則古者五毒用於穀雨、而非重午日也。」康煕四十四年(1705)刊『説鈴』後集所収本による。
*24 「尼庵剪五色綵箋、狀蟾蜍・蜥蜴・蜘蛛・蛇・蚿之形、分貽檀越、貼門楣寢次、能厭毒蟲、謂之五毒符。」『筆記小説大観』所収本による。
*25 「毎届端陽以前、府第朱門皆以粽子相餽貽、並副以櫻桃・桑椹・荸薺・桃・杏、及五毒餅・玫瑰餅等物。」
*26 ただ、実際には後漢の張道陵と明清の張天師との間には大きな断絶があるとされる。二階堂善弘「天子張虚靖のイメージについて」(『東洋大学中国学会会報』7号、2000)参照。
*27 「天子看過道、張俊、今有駙馬迎娶公主、公主輦中不見、是何妖物。天師道、可是謝翰林之子謝廷否。」
*28 「太后道、張俊、你難道不肯救我公主之命、命在旦夕。天師道、寧斬我張俊之首、印是實在不能打的。遂起身告辭、退出宮門而去。」
*29 明・第五十代天師張国祥撰、『万暦続道蔵』壁字号第1066冊(S.N.1463)。
*30 「設天師艾虎。」清光緒間嘉恵堂刊『武林掌故叢編』所収本による。
*31 「端五、都人畫天師像以賣、又合泥做張天師、以艾爲頭、以蒜爲拳、置於門戸之上。」
*32 「道家于午日送符、必署天師二字、以見其神、受者皆答以錢米。」清光緒間嘉恵堂刊『武林掌故叢編』所収本による。
*33 「朔日、人家以道院所貽天師符、貼廳事以鎭惡、肅拜燒香、至六月朔始焚而送之。」
*34 「毎至端陽、市肆間用尺幅黄紙、蓋以硃印、或繪畫天師鍾馗之像、或繪畫五毒符咒之形、懸而售之。都人士爭相購買、粘之中門、以避祟悪。」
*35 「金奶奶道、潑怪、休得胡説、我今奉旨捉你、休走。于是袖中取出一件東西、乃是小小菖蒲剣、變作了青鋒三尺餘長、來刺和尚。」
*36 「金奶奶手中菖蒲剣、一起相迎、兩下裡戰有數合、那妖怪將身一轉、毒鉤放出。金奶奶將剣向定一下、把那毒鉤砍下、伏赶上一剣、將妖怪斬于地下、現出原身、乃是一個大蝎子成精。」
*37 「金奶奶見了那妖、口中念咒、袖中取出菖蒲剣、往上一指、将妖斬成両段、却原来是個壁虎精、天師又将一點霊魂収入盒内、又将火焼化肉身。」
*38 「端五、以菖蒲、或鏤或屑泛酒。」なお、宝顔堂秘笈本『荊楚歳時記』の「五月五日」の項にも同文があるが、唐の『芸文類聚』『初学記』、宋の『太平御覧』などの類書に引かれる『荊楚歳時記』佚文や、重較説郛本『荊楚歳時記』などには見えないので、中村喬は『歳時雑記』の記事を宝顔堂秘笈本が誤って後採した衍文だとする。中村喬訳注『清嘉録―蘇州年中行事記―』(平凡社 1988)128頁参照。
*39 唐・李咸用「和殷衙推春霖即事」に「柳眉低帯泣、蒲剣鋭初抽。」とある。
*40 「劍截蒲爲之利、以殺鬼醉舞婆娑老魅亦當退辟。」
*41 「截蒲爲劍、割蓬作鞭、副以桃梗蒜頭、懸於牀戸。皆以卻鬼。」
*42 「端午日、用菖蒲艾子、挿於門旁、以禳不祥。亦古者艾虎蒲劍之遺意。」
*43 清・姚燮撰、五冊十二巻。北京大学図書館所蔵大梅山館抄本を影印した古亭書屋本(1968)による。
*44 『清史列伝』巻七十一「裘璉伝」、『横山詩文集』所収裘姚崇「横山先生年譜」等による。
*45 「明代有『混元盒』小説、不知取材同否。」上海古籍出版社1982、中巻1254頁。
*46 上海古籍出版社 1986。
*47 「麝月等問、手裏拿的是什麼。媳婦們道、是老太太賞金、花二位姑娘吃的。秋紋笑道、外頭唱的是『八義』、沒唱『混元盒』、那裏又跑出金花娘娘來了。」『脂硯斎重評石頭記』庚辰本(広文書局影印本 1977)による。
*48 幾礼居戯曲叢書第四種 1933(今収『近代中国史料叢刊』第七十輯、文海出版社 1971)25-26頁。
*49 周華斌『京都古戯楼』(海洋出版社 1993)87頁。
*50 北京図書館善本室編『1911-1984影印善本書録』(中華書局 1992)127頁。
*51 周明泰前掲書、26-27頁。
*52 『東京大学東洋文化研究所双紅堂文庫分類目録』(長澤規矩也編 1961)6頁。
*53 周明泰前掲書、27頁。
*54 周明泰前掲書、28頁。
*55 この他、中央研究院歴史語言研究所に『混元盒』四、十、十一とする抄本が所蔵されており、曲牌などから見て伝奇本の一部と思われる。十、十一は蜈蚣精が天師に調伏されるくだりで、また四は「四怪全除」「掃除諸毒」などに相当するものと思われるが、現存する昇平署档案の中には齣数などから同定出来そうなものは見当たらない。
*56 以下、龔和徳「清代宮廷戯曲的舞台美術」(『曲芸芸術論叢』第七輯1986所収)による。
*57 『筆記小説大観』所収本による。
*58 例えば『西遊記』に基づく『昇平宝筏』なども、版本間でかなりの異動がある。磯部彰「『昇平宝筏』研究の諸問題」(『日本中国学会創立五十年記念論文集』汲古書院 1998所収)参照。
*59 『嘯亭雑録』巻一に記述があり、また北京図書館に昇平署抄本が所蔵されている。
*60 王芷章編『清昇平署志略』(商務印書館 1935)上冊68頁に言及。また、北京図書館に昇平署抄本が所蔵されている。
*61 大東書局1928、1737頁。
*62 『明史』列伝第一百九十五に伝がある。
*63 『明史』列伝第一百九十五に伝がある。
*64 張彦頨は弘治十四年(1501)に襲教し、嘉靖二十九年(1550)に羽化した。張永緒は嘉靖二十八年(1549)に襲教し、嘉靖四十四年(1565)に羽化した。『漢天師世家』巻三参照。
*65 『明史』列伝第一百九十五に伝がある。
*66 周明泰前掲書、28頁。
*67 『戯曲研究』第十三輯(文化美術出版社 1984)および第十四輯(同 1985)所収。
*68 周華斌前掲書96頁等を参照。
*69 朱家溍「清代内廷演戯情況雑談」(『故宮博物院院刊』1979年第2期所収)による。
*70 斉如山「戯界小掌故」(『京劇談往録三編』北京出版社 1990所収)による。
*71 『中国京劇史』上巻(中国戯劇出版社1999)408頁。
*72 景孤血「由四大徽班時代開始到解放前的京劇編演新戯概況」(『京劇談往録』北京出版社 1985所収)による。
*73 曽白融主編(中国戯劇出版社 1989)1178-1180頁。
*74 『戯考大全』(上海書店 1990)第二巻835-841頁に収録。
*75 斉如山前掲論文による。なお、これには異説もあり、周妙中は『清代戯曲史』(中州古籍出版社 1987)441頁で、『五花洞』を創作したのは春台部の著名な花臉演員である厭某であるとし、伝奇『闡道除邪』を京劇『混元盒』に改編したのもこの人物だとする。
*76 『戯考大全』第一巻944-947頁に収録。
*77 北京古籍出版社影印本(1991)第34函第4冊所収。
*78 なお、秦嵐は「曲本『西遊記』と混元盒五毒物語の関係について」(『立命館文学』第557号 1998)でこの『九花洞』に言及し、「明代の小説と戯曲の『混元盒』は現存していない」が、「明人が書いた神魔小説は、その前の王朝を背景にするのが自分の王朝を背景にするより一般的であるから」、「明朝の伝奇或いは小説の『混元盒』、『五毒正伝』は宋朝を背景にしたものであり、その内容は前で述べた『九花洞総講』と張天師の自己紹介を含んでいる」としているが、秦嵐のいう明代の小説『混元盒』は、大塚秀高『増補中国通俗小説書目』に著録されているとして、自身も論文中に引用しているテキストそのものであるから、これを「現存しない」とするのは誤りであるばかりか、『九花洞』をその失われた内容を伝えるものとするのは当を得ていない。
*79 丁秉鐩『菊壇旧聞録』(中国戯劇出版社 1995)57頁。
*80 『混元盒』は北京古籍出版社影印本の第41函第2冊から第5冊、『善道除邪』は同第43函第1冊から第4冊に収録。
*81 陶君起編著(中国戯劇出版社 1963)256-257頁。
*82 『中国京劇史』上巻(中国戯劇出版社1999)495頁。
*83 斉如山前掲論文による。
*84 郭精鋭『車王府曲本与京劇的形成』(汕頭大学出版社 1999)34頁。
*85 北京古籍出版社影印本第61函第3冊所収。
*86 劉復・李家瑞編、中央研究院歴史語言研究所単刊甲種之九 1932、上冊234頁および下冊1072頁。
*87 『燕影劇』所収本による。
*88 例えば、沢田瑞穂「灤州影戯の芸術」(『中国の庶民文藝 歌謡・説唱・演劇』東方書店 1986所収)では、北京東派の影戯芸人が解散したあと、故郷の灤県に帰っていったことが報告されている。
*89 『燕影劇』所収影戯テキストの内容および性格については、現在別稿を準備している。
*90 関俊哲『北京皮影戯』(北京出版社 1959)15頁。
*91 湯際亨「中国地方劇研究之一・灤州影戯」(『中法大学月刊』8巻3期 1936)。
*92 「本鼓子詞改作。」人民文学出版社 1982、204頁。
*93 上海古籍出版社 1996。
*94 北京古籍出版社影印本第135函第1冊から第144函第4冊所収。
*95 秦嵐前掲論文参照。ただし秦嵐は、「曲本『西遊記』に取り入れられたのは『曲海総目提要』に収録されているものと車王府曲本の『混元盒』、『善道除邪』などを継承したもの」としているが、鼓詞『五毒伝』から流用されたものとする方が妥当であろう。