北方芸能プロジェクト成果報告/華北旧皮影戯初考

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華北旧皮影戯初考

千田 大介

1.はじめに

中国における皮影戯研究は、民俗学という学問領域形成の一環として1930年代に立ち上がったが、地理的制約などから、同時期に主たる研究対象となったのは北京東派皮影戯であった。しかし、北京東派皮影戯が属する河北省東部皮影戯、すなわち冀東皮影戯は、中国各地の皮影戯と比べてかなり特異な性格を有している。このため、冀東皮影戯のみを研究していては冀東皮影戯自体の歴史や価値を、さらには中国皮影戯全体の文化史的意義をも見誤る危険性があるといえよう。

かかる見地から本論では、冀東皮影戯と周辺地域の皮影戯に関する文献資料を検討することで、その特質や形成時期を明らかにするとともに、その流行以前に華北地方に行われた旧皮影戯の存在と特色の析出を試みる。この試みを通じて、現在の冀東皮影戯の性格を明確にするとともに、中国皮影戯の特質と文化史的な位置づけを解明する端緒が得られるものと期待される。

2.冀東皮影戯の特色

冀東皮影戯は、従来の研究文献では灤州皮影戯・楽亭皮影戯などと称されることが多いが、灤州・楽亭はともに現在の唐山市に属する県の名称であり、灤州皮影戯・楽亭皮影戯の差異は、方言や節回しなどの微差に過ぎず、一つの皮影劇種の中の流派として位置づけるのが妥当であると考えられる。このため小論では、冀東皮影戯という用語を、灤州皮影戯・楽亭皮影戯・北京東派皮影戯などを包含する上位概念として用いる。また、冀東皮影戯と、その影響を強く受けた遼南皮影戯など東北各地の皮影戯の総称として、冀東系皮影戯という呼称を採用する。

皮影戯の各劇種は、冀東皮影戯・陝西東路皮影戯などのように、発祥地あるいは流行地を冠して称されることが多い。この呼称ゆえに、ともすると同じ地域における皮影戯の通時的変化という点を見落としてしまい、現在行われている皮影戯が宋・金の昔から連続するものであると論じられがちであり、事実、皮影戯に関する先行研究の中にはこの種の誤りを犯していると思われるものがいくつも見うけられる。冀東に皮影戯が行われていたことと、劇種としての冀東皮影戯が行われていたこととは本質的に異なるのであって、両者は厳密に区別されなくてはいけない。

従って、冀東皮影戯の形成について論ずるには、まず冀東皮影戯とは何であるのか、その特色を他の皮影劇種との比較のもとに明らかにし、次いでそれらの特色がいつ頃いかなる経緯で生み出されたのかを検討する必要がある。

冀東皮影戯の特色として先行著作などで挙げられるもの、および筆者が他の皮影戯との比較から導いたものに、以下の諸点がある。

a)音楽
  • 声腔:「皮影腔」(子に近い)。
  • 歌唱:「脖子」(喉を指で絞めて高音を出す技法)
  • 板腔体。
  • 「三趕七」の使用。
  • 行当ごとに歌唱者が分かれる。
b)劇団組織
  • 人数は、7~9名。
c)影人
  • 額と鼻が一直線(もしくは弧線)で造形され、生・旦の眉が弧を描いて目尻に繋がる「頭楂(かしら)」の造形。
  • の輪郭を残して切り抜く「空臉」。
  • の輪郭に着色する。
  • 両足の底が水平になる。
  • 人馬一体の騎馬影人「馬上樁」を用いない。
  • 影人の服装は「時装」(清代後期以降の服装)。
  • サイズは25cm程度(8寸)。
  • 両腕が胴の同じ箇所に接合される。
  • 材質は驢馬革。
d)台本
  • 見ながら上演。「翻書影」。
  • 長大な連台本戯が多い。

個別に見ていこう。まずa)の音楽について。脖子については、民国時期に創始されたものである*1。陝西はじめ多くの皮影戯および木偶戯では、伝統的に一人の歌唱者が声色を使い分けて上演する。歌唱者が分かれるのは、管見の限りでは北京西派と冀東系皮影戯のみである。一句の字数が「三三四四五五六六七七」と逓増する型式を持つ「三趕七」(三頂七)は、メロディーこそ異なるものの、北京西派皮影戯でも用いられる。

b)に関しては、北京・山西・陝西など各地の皮影戯に「七緊八忙九消停」の語が伝わっており、冀東皮影戯の際立った特色とすることはできないが、黒竜江皮影戯のように5人程度で上演される皮影戯劇種も多い。

c)の影人造形については、河南皮影戯などを除く全国の皮影戯の大半が輪郭をくりぬく空臉を採用するが、輪郭に着色するものは他には見られない。人馬の処理については、冀東でも本来は馬上樁が用いられていたが、後に人馬を分けて乗馬を表現できるようにしたものであるという*2。服装は、北京西派・遼南皮影戯など隣接地の皮影戯では古装を採用している。影人のサイズは、遼南小影や陝西東路皮影戯も七・八寸のものを使用するが、北京西派・遼南大影・山西皮影戯・陝西西路・河南皮影戯などの各皮影劇種では60センチほどの「両尺影」が用いられる。四川皮影戯・湖北仙桃など、更に大きいサイズの影人を用いる皮影戯劇種もある。なお、解放後は劇場の大型化にあわせて、冀東でも影人が大型化し、2尺クラスの影人も使われるようになった。

d)の「翻書影」についてであるが、北京西派・山西皮影戯・陝西弦板腔皮影戯などでは台本を暗記して上演するが、陝西の老腔皮影戯・碗碗腔皮影戯・洋県灯影腔皮影戯など、台本を見ながら上演するものも多い。しかし、数十冊にも及び一ヶ月以上にわたる連続上演が可能な台本を用いるのは冀東系皮影戯のみである。

以上のような、あるいは独自のあるいは他の皮影戯劇種と共通した特色の総体、それが冀東皮影戯であると言うことができよう。

3.冀東皮影戯の成立と伝播

(1)冀東皮影戯の成立年代

では、冀東皮影戯はいつ頃、このような特色を備えたのだろうか。先行論では、劉豊慶『皮影史料』*3、魏革新「漫話楽亭影的淵源和発展」*4などがこの問題について論じているが、史料の運用・解釈に恣意的な部分も多く見受けられ、行論はかなり強引である。

たとえば、明末の落第書生黄素志が皮影戯の祖であるとする冀東皮影戯創始伝説は、顧頡剛*5が引くところの李脱塵『灤州影戯小史』に見えるが、筆者が以前に指摘したように*6、その後半部は明らかに『夢梁録』の記事のアレンジであるし、奉天で創始された皮影戯に「灤州」を冠するのは不自然である*7。先行論では、万暦年間に黄素志が従来の皮影戯を改良して灤州皮影戯を創始したとしてつじつまを合わせようとしているものもあるが、通俗文学の世界では古いものであれば明の万暦年間と称する傾向が見られることは周知の事実であり、ひとまずこの伝説から離れて周辺資料を子細に検討する必要があるといえよう。

冀東皮影戯の最古層の資料として挙げられるものに、万暦己卯年(七年、1579年)鈔本の『薄命図』『六月雪』影巻*8がある。しかし、『中国古典戯曲存目彙考』などを見る限りでは、明代の戯曲では『~~記』という命名が一般的であり、『~~図』という名称があらわれ一般化するのは晩明から清初にかけてであるから、万暦七年は少々早すぎる。通俗作品に於いては、万暦年間に仮託する例は多いので、実物を目睹していない段階では断言できないものの、その年代の信憑性には大いに疑問があると言えよう。

以下は、康熙補修本『永平府志』の記述である。

上元の夜、街中灯火をともして劇を演ずる。あるものは、影戯・戯の類を演じ、観客は夜が明けるまで去らない。

これにより、唐山地区で康煕年間には既に皮影戯が盛行していたことがわかる。しかし、その皮影戯がいかなる特徴のものであったのか、現在の冀東皮影戯に直接つながるものであるのかについては、記述が少なすぎてわからない。

顧頡剛が『灤州影戯小史』から孫引きする『大清乾隆聖諭広訓』には次のように見える。

楽亭の生員が皮影戯の台本をものし、笛の伴奏で、崑曲にならったものだった。

現在の冀東皮影戯の声腔は板腔体に属するが、乾隆年間は崑曲に倣った聯曲体であった。すなわち、冀東皮影戯の要件の一つである皮影腔による板腔体の声腔は、乾隆年間以降に形成されたことになる。顧頡剛の引く『灤州影戯小史』では、これに続き、次のように記述する。

乾隆の末年までには、四弦・二胡が加えられ、いっそう美しい音色になった。北京の人にも学ぶ者がいる。

この記述が事実であれば、冀東の皮影戯は乾隆年間後期に音楽的に大幅に改変が加えられたことになる。ただし、『灤州影戯小史』はいかなる原資料に基づいたものであるのかが不明であり、かつ原本の所在も定かでないので、これのみをもって冀東皮影戯の形成時期を断定することはできない。また、『唐山市戯曲資料匯編』皮影部分第一輯によると、冀東皮影戯の主伴奏楽器は民国時期に三弦から四弦に改められたものであるので、『灤州影戯小史』の記述とは必ずしも合致しないようである。

現在の冀東皮影戯に直結する資料としては、嘉慶十五年『灤州志』が挙げられる。

木の板で小さな台を築き、後ろを布で囲み、前に長机を置き、広い窓枠を作って綿紙で覆い、中に大きな灯火をつるし、薄く細い驢馬革の枠を切り抜き描いて人物の形を作り、持ち上げてその影を外に映し、演ずるものは手にした人形の役がらにあわせて曲を演奏する。

現在とおなじく、驢馬皮製の空臉の影人を用いていることがわかる。

文献資料が非常に限られているのは中国の通俗文芸の常であるが、冀東皮影戯の形成に関連しても清代中期以前の資料はこの程度しかない。冀東皮影戯の成立時期を推定するには、少々視点を変える必要がある。

(2)冀東皮影戯の伝播

清代後期から民国期にかけて、冀東皮影戯は北京・河北省・東北三省に伝播し大いに流行する。

北京に冀東皮影戯が進出し、北京東派皮影戯が形成されたのは、嘉慶年間前後のことであるとされる。中国芸術研究院戯曲研究所に所蔵される北京東派皮影戯影巻のうち、最も古いものが道光年間のものであることは、その傍証となろう。

東北地方への伝播年代に関しては諸説がある。

『楽亭文史第五輯』は、

商人が大量に雲集するのに従い、楽亭皮影戯も東北三省に流れ込んだ。明清が交代するころである。

とするが、『遼南皮影戯音楽』*9では、

清末民初のころ(今から80~90年ほど前)、全国各地で皮影戯が盛行し、関内の灤州・楽亭一帯の皮影戯の東北各地への伝播が始まった。

その時期を20世紀初頭としており、二世紀もの隔たりがある。

1980年代以降、相次いで刊行されている所謂新編地方志には、各地域の政治・経済・社会・文化などに関する情報が網羅的に収録されており、東北・内蒙古などの新編地方志には皮影戯に言及するものも少なくない。

新編地方志の演劇・芸能関係の記事は、ほとんどが地方の文化局の記録や老芸人への聞き取りなどに基づいており、その地方ならではの貴重な資料が含まれることが多い反面、整理の担当者は必ずしも演劇・芸能の専門家ではなく、また記述も学術的厳密性を追求したものではないために典拠が示されず、書き手の主観や予断が入り込みがちである。そういった点に留意しつつ、新編地方志の資料によって東北・内蒙古などの地域における冀東系皮影戯伝播時期を考察してみよう。

現在、遼寧・吉林・黒竜江の東北三省で行われる皮影戯は、冀東皮影戯が伝播し、方言や地方の民歌・小調を吸収し、土着化したものとされる。

遼寧省に流行する皮影戯は、遼西皮影戯・奉影・遼南皮影戯の三種に分かれ、特に満州族の自治県で盛んである。遼西皮影戯は凌源・朝陽・喀左などの遼寧省西部に流行する。冀東と境を接しているため芸人や劇団の交流が盛んであり、音楽・美術造形などは冀東皮影戯に非常に近い。奉影は、奉天、すなわち現在の瀋陽付近に流行する。遼南皮影戯は、遼寧省東部から遼東半島にかけて分布する。繊細で優美な影人彫刻が際だった特色となっている。造形は冀東皮影戯に似るが、額の造形や、身子に時装ではなく古装を用いる点などに違いもある。また、大影と小影とがあり、小影の大きさは冀東皮影戯とほぼ同じ25cm(8寸)ほど、大影は50cmほどである。

黒竜江皮影戯は、松花江を境に、江南派・江北派に分かれる。影人の造形は、冀東・遼寧に比べて額がより広く丸くなっている。やはり大影・小影の区別がある。吉林省の皮影戯は、黒竜江江南派皮影戯と大差ない。

以下、東北地方の新編地方志に見える、冀東皮影戯の流入時期に関する記事を列挙する。

『瓦房店市志』*10(遼寧省)

皮影戯は清代中葉に本市に伝播し、地方の曲調を吸収し、改良・創造を経て、次第に当地の風格を備えた遼南影調が形成された。

『荘河県志』*11(遼寧省)

19世紀初め(清の嘉慶・道光年間)に、河北灤州の皮影戯が遼南に流入した。

『大安県志』*12(吉林省)

皮影は俗に“驢皮影”と称される。民国初年に本県に伝わった。

『農安県志』*13(吉林省)

清末に河北楽亭から伝わり、次第に楽亭皮影戯から東北皮影戯へと変化を遂げた。

流入時期は、遼寧が清代後期、吉林が清末から民国初期ということになり、冀東地域との距離に比例している。先に挙げた二説では、『遼南皮影戯音楽』の妥当性が高いといえよう。

以上から、冀東皮影戯の伝播時期は西の北京、東の東北地方ともに嘉慶年間頃のことであったことがわかる。乾隆年間には未だに冀東皮影戯がその声腔的特色を確立していなかったらしいことを考えれば、その形成時期は18世紀末、乾隆末年から嘉慶初年であり、19世紀前半にかけて成立後比較的早い時期に各地への伝播を開始したものと推測されよう。

4.河北・東北の旧皮影戯

(1)冀東皮影戯伝播以前

冀東皮影戯が東北・内蒙古などの地域に伝播したのは清代後半であるが、そのことは、それらの地域にもともと皮影戯が存在しなかったことを意味するわけではない。事実、詳細に各資料を検討すると、そのような旧皮影戯に関する記述を見いだすことができる。

以下では、東北・内蒙古・河北などの地域の旧皮影戯に関する記事を検討し、その特色を考察したい。

(2)遼南南派皮影戯

前掲『遼南皮影戯音楽』は、冀東皮影戯以前から遼寧に流行していた「南派皮影戯」の存在に言及している。

芸人の紹介によれば、遼南皮影戯は明代にはじめてあらわれたもので、二・三百年の歴史がある。はじめ、当地にはただ一種、影巻を用いず、決まった物語が口伝された「流口」皮影戯しかなく、この種の皮影戯の上演方式は比較的簡単で、多くて四五人、少ない場合は一人(「単出」ともいう。上演者は手で胡弓をあやつり、人形を持つ。口でうたい、足には金属の打楽器を縛り付ける。)でも上演できた。

同書によると、遼寧全域に冀東皮影戯が流行するなかにあって、遼東半島はロシア・日本の租借地となったために芸人の通行が阻害され、結果として古い時代の皮影戯が保存されたのだという。

このほか、遼南における「流口影」については、『鳳城市志』もその存在に言及している。筆者が元北京皮影劇団編劇の劉季霖氏に伺ったところでは、80年代に同地を訪れたときには、遼南南派皮影戯は既に亡びていたとのことである。

さて、引用文中に見えるように、遼南南派皮影戯は影巻を用いない。また、四五人、場合によっては一人という劇団員の数からは、一人の歌唱者が全ての行当を兼ねる、碗碗腔皮影戯でいうところの「抱本」方式で上演していたことが窺い知れる。これらの特徴は、冀東皮影戯とは明らかに隔絶しており、逆に山西・陝西などの皮影戯に近い。

(3)内蒙古・河北の旧皮影戯

内蒙古自治区東部、東蒙地域でも冀東系の皮影戯が行われており、それらの地域の新編地方志にも、皮影戯の伝播と旧皮影戯の性格に関する記事が見える。

『敖漢旗志』*14

清の中頃に、皮影戯芸術は熱河から敖漢に伝播し、現在まで約200年の歴史がある。……道光年間はじめに、河北皮影戯の影響を受けて「翻巻影」があらわれた。

『赤峰市志』*15

清の乾隆期に皮影戯芸術は山東・河北から赤峰南部各地に伝播した。清朝末年に、玉田・楽亭・唐山などの皮影戯声腔が相次いで伝播し、また、本市北部に次第に発展していった。

いずれも、皮影戯の伝播には清代中葉(乾隆年間)と清代後半(道光以降)、二つの波があったとしている。そして、『敖漢旗志』の記述から、清代中葉に伝播した皮影戯は台本暗記方式の所謂「流口影」であったことがわかる。

内地から内蒙古東部への交通路は、承徳など冀東地域を経由している。従って、内蒙古への皮影戯伝播が承徳(熱河)を経由していたとすることには妥当性がある。事実、冀東皮影戯の一つの中心地として知られる承徳にも、清代中期までは「流口影」が流行していたとの記事が見える。

以下は、前掲魏革新「漫話楽亭影的淵源和発展」が引く王乃和「皮影芸術漫談」の記事である。

1743年頃、熱河に流行していたのは「唱影経」の活動であり、それぞれの劇団は三四人だった。同治・咸豊年間に「流口影」に発展した。1875年に、未精製アヘンの販売や手織り木綿の北への輸送のために、灤州皮影戯劇団は長城の北に進出し、「流口影」を「翻書影」へと発展させた。

流口影への発展時期を同治・咸豊の頃とするのは、前に引いた資料と合わないが、冀東皮影戯の「翻書影」以前に「流口影」が流行していたとの認識を見て取ることができる。

(4)福影

冀東地域の遷安・遷西・廬竜・撫寧一帯には、20世紀前半まで、冀東皮影戯とは異なる「福影」と呼ばれる皮影戯が行われていた。福影は、府影・大影とも称され、その特徴としては、以下の点が挙げられる*16

  • 影人の大きさ:二尺二寸(73cm)
  • 劇団:三・四人で、一人が影人操作、他が楽器と伴唱。
  • 音楽:哭腔・抬腔の二種のみ。伴奏は打楽器のみ。
  • 台本:『封神演義』のみ。芸人が即興で歌詞をつくる。
  • 観音を祖師爺とする。

歌詞は芸人の即興とされるが、しかし即興で全て歌ったとは考えにくく、台本を口伝で丸暗記したものであろう。劉季霖氏は、福影は本来、腹に台本が入っているとの意味で「腹影」と呼ばれたものであるとする。これは、解放前の北京東派皮影戯の芸人が、台本が口伝である北京西派皮影戯のことを即興であると誤解して「流口影」と軽蔑したことを彷彿させる。

また、劇団の人数からして、生・旦・浄・丑の行当を網羅することは出来ず、一人が全ての人物をうたい分ける「抱本」方式であったと思われる。江玉祥氏は福影を「灤州皮影戯勃興以前に、灤州地区に存在した古影戯の生きた化石」であるとしているが、大いに首肯すべきである。

5.華北旧皮影戯

以上のように、河北・東北・内蒙古などの地域には、清代後半以降に冀東皮影戯が流入する以前から皮影戯が行われていた。それらは、台本を暗記する「流口影」、三四人規模の劇団、「抱本」方式による上演など、共通する特色を備えていた。そして、これらの特色には、冀東皮影戯よりもむしろ北京西派や山西・陝西皮影戯と共通するものである。

「流口影」に関しては、北京西派・陝西・山西などの多くの皮影戯と共通するし、「抱本」方式も陝西・山西の皮影戯では一般的である。北京皮影戯・陝西の華陰老腔影などは、観音菩薩を祖師爺としているが、これは福影と共通する。影人の大きさは、北京西派は50cm(1尺5寸)ほど、明末のものとされる影人は60cmほどの大きさがある。山西省晋中皮影戯では、明末のものとされる影人の大きさは2尺、清代には1尺5寸に縮まっている。これは東北地方の皮影戯の大影とほぼ同サイズである。冀東系皮影戯でありながら、遼南皮影戯などには大影の存在のほか、古装の使用といった相違点が見受けられるが、これは冀東皮影戯以前の旧皮影戯の名残であると理解されよう。

このように、河北・東北の旧皮影戯は、北京西派・山西・陝西などの皮影戯と比較的近い特色を備えていたと考えられる。江玉祥氏は前掲書で、北京西派および福影は明代に山陝系皮影戯が大規模に河北に流入した名残であるとする。この山陝系皮影戯の東漸という図式は、江氏が皮影戯の発祥地を西安地区に措定したことから導き出されたものであると思われ、その妥当性については再検討が必要であるが、清代前期頃に河北から東北・内蒙古にかけての広い範囲に、山陝皮影戯と比較的似通った特色を持つ皮影戯が行われていたのは確実である。そしてそれらは、清代後半に冀東皮影戯が爆発的に流行するまで、命脈を保っていたのである。

6.おわりに

本稿では、おもに文献資料から、冀東皮影戯の形成年代を推定するとともに、清代乾隆年間以前に華北地域には同じ系統の皮影戯が広く行われていたことを明らかにした。この華北旧皮影戯と対置するとき、冀東皮影戯の特色はより鮮明になろう。また、皮影戯の文化史的な影響を考察する際に、「翻書影」方式を採用し、歌唱者が行当にわかれるといった冀東皮影戯の特色を念頭に置いてはいけないことも自明である。このような前提に立ち、皮影戯の演劇史的・文化史的な価値を再検討する必要がある。

一方、冀東皮影戯のより正確な成立・伝播年代、および華北旧皮影戯の成立と伝播などが、新たな課題として浮上している。今後、各地の皮影戯の現地調査を実施するとともに、社会経済史的視点からの検討を進める中で、解明していきたい。


*1 『唐山市戯曲資料匯編』皮影部分 第一輯(河北省戯曲志唐山巻編輯部)。なお、同書は油印本で刊年が明記されないが、「皮影老芸人座談会記録」は1984年の座談会の記録であるから、1980年代の刊行であると思われる。収録されるインタビューは、1960年代に実施されているものも多い。
*2 『唐山市戯曲資料匯編』皮影部分 第一輯。
*3 黒竜江芸術研究所、1986。
*4 『楽亭文史第一輯』、1985。
*5 「中国影戯略史及其現状」(『文史』第十九輯、1983)
*6 「北京西派皮影戯をめぐって」(『近代中国都市芸能に関する基礎的研究』、平成九~十一年度科学研究費基礎研究(C)成果報告書、2001)
*7 『唐山市戯曲資料匯編』皮影部分第一輯「皮影老芸人座談会記録」において、魏革新は黄素志起源説および黄素志の実在そのものに否定的な見解を述べている。
*8 『楽亭文史五集』(中国人民政治協商会議天津市楽亭県委員 会文史委員会、楽亭県文教、1990)による。
*9 王信威、春風文芸出版社、1989。
*10 瓦房店市 地方志編纂委員会編、大連出版社、1994。
*11 荘河県志編纂委員会弁公室編、新華出版社、1996。
*12 録献青主編、 大安県県志編纂委員会編、遼寧人民出版社、1990。
*13 農安県志編纂委員会編、吉林文史出版社、1993。
*14 張乃夫主編、 《敖漢旗志》編纂委員会編、 内蒙古人民出版社、1991。
*15 赤峰市地方志編纂委員会編、内蒙古人民出版社、1996。
*16 福影については、江玉祥『中国皮影戯与民俗』(淑馨出版社、1999)による。