『都市芸研』第四輯/宋代影戯とその特色 の変更点

Top / 『都市芸研』第四輯 / 宋代影戯とその特色

*宋代影戯とその特色 [#xeef5626]

RIGHT:千田 大介

#contents

*はじめに [#i9cbcd13]

中国における影戯((「皮影戯」が皮革製の人形を用いる影絵人形劇のみを指すのに対して、「影戯」は人形の素材に関わりなく、影絵劇全般を含む。宋代には紙の人形を用いた影絵劇が行われていたことが明らかであるので、本稿では宋代の影絵劇に対して影戯の呼称を用いる。なお、本稿で扱う影戯の範囲は、人形を用いるものに限定する。ただし、人の身体を直接投影したとされる大影戯については、行論の必要上取りあげる。))の形成時期については、さまざまな説がある。漢の武帝が帳に映る影を見て李夫人を偲んだのを起源とするとの説は、後に引く『事物起源』にも見える。陝西省華陰県の老腔皮影戯には、その腔調が漢代、黄河から渭水をさかのぼる舟を曳く人夫の労働歌に起源であるとの伝承があり、また晋中皮影戯の起源を春秋時代に求める説もある。しかしこれらは、あるいは伝承であったり、あるいは厳密な資料批判に基づく考証を経ていなかったりと、妥当とは認め難い。

また、唐代に影戯の萌芽を求める説がある。例えば孫楷第は、敦煌変文が仏教の絵解きに起源し影戯と同じ二次元視角メディアである点、および歌詞のスタイルの共通性に注目し、敦煌変文にその萌芽が見えるとする((孫楷第「近世戯曲的演唱形式出自傀儡影戯考」(『滄州集』、中華書局、1965)))。また、江玉祥は白居易の「長恨歌」の描写に影戯の影響を求めている((『中国影戯与民俗』(淑馨出版社、1999)pp.69以下。))。これらの説は、ある程度の蓋然性を備えてはいるものの、しかし確固たる資料的裏付けに乏しく、牽強付会の域を出ない。そもそも、影戯が中国に発生したものであるか、あるいはインドなどから伝来したものであるのかという根本的問題についても、未だに充分な研究がなされていないのが現状である。

影戯の存在が文献資料によって裏付けられるのは宋代である。このため、新たな資料が発見されない限り、ひとまず中国における影戯の形成時期は宋代であるとしておくのが妥当であろう。

宋代の影戯については、顧頡剛・孫楷第・周貽白らによって、既に文献資料が渉猟され、概略が論じられている((顧頡剛「灤州影戯」(『文學』第2巻第6期、1934.6)・「中国影戯略史及其現状」(『文史』第十九輯、1983.8)、孫楷第「傀儡戯考原」・「近世戯曲的演唱形式出自傀儡影戯考」(『滄州集』、中華書局、1965)、周貽白「中国影戯与傀儡戯影戯――対孫楷第先生『傀儡戯考原』一書之商榷」(『周貽白戯曲論文選』、長沙出版、1982)等。))。資料的にそれらに付け加えるべきものは無いし、宋代における影戯の隆盛や性格も資料の範囲で概ね明らかにされてはいるが、演劇の一種たる影戯の受容や社会的位置づけといった側面への注意が不足している嫌いがある((文革後の宋代影戯に関する論文としては、楊祖愈「論皮影戯的起源」(『戯曲芸術』1988(4))、趙建新「中国影戯溯源」(『蘭州大学学報(社会科学版)』23(1)、1995)、慶振軒「宋金“影戯”考」(『蘭州大学学報(社会科学版)』29(1)、2001)、および江玉祥前掲書などがあるが、いずれも注4に掲げた先行諸論の域を出ない。))。

そのため、小論では、改めて宋代影戯の資料を整理し子細に検討することで、現代の皮影戯との共通点と相違点を明らかにするとともに、その文化史的意義を、特に他の芸能・劇種との関係に留意しつつ考察するものである。

*1.宋代影戯の資料 [#j55ce03e]

宋代影戯に関する文献資料はさほど多くない。本章ではまずそれらの資料を年代順に列挙する。

**①高承『事物紀原』((『叢書集成新編』所収本による。)) [#v8413bd8]
高承は、北宋神宗の元豊年間(1078~1085)頃の人。北宋中期以前に影戯が存在したことを伝える資料である。

>&lang(zh-tw){故老相承,言影戲之原,出于漢武帝李夫人之亡。齊人少翁言能致其魂。上念夫人無已,迺使致之。少翁夜為方帷,張燈燭,帝坐他帳,自帷中望見之,仿彿夫人像也,蓋不得就視之。由是世間有影戲。歷代無所見。宋朝仁宗時,市人有能談三國事者,或採其說加緣飾作影人。始為魏、吳、蜀三分戰爭之像。(卷九「影戲」)};&br;(古老の言い伝えによると、影戯は漢の武帝の李夫人が亡くなったときに起源する。斉の人の少翁が、魂を呼び戻せると言った。陛下は夫人を思ってやまず、そこで魂を呼び戻させた。少翁は夜四角い帳に蝋燭をともし、帝が他の帳の中に座って中から望むと、夫人の姿のようであったが、それを見ることはできなかった。これより世に影戯が現れたが、歴代の記録には見えない。宋朝仁宗のとき、街のもので三国物語を語るのが上手いものがいた。ある者がその話をとって、絵飾りを加えて、影絵人形を作り、初めて魏・呉・蜀鼎立の戦争の様子を演じた。)

**②張耒『続明道雑志』((『叢書集成新編』所収本による。)) [#o9907bb4]
張耒(1054―1114)、字は文潜、楚州淮陰の人。神宗の熙寧年間に進士及第し、哲宗の紹聖年間、潤州の知州を努めた。徽宗朝の初年に太常少卿となる。蘇門四学士の一人として文才を知られた。

>&lang(zh-tw){京師有富家子,少孤專財,群無賴百方誘導之。而此子甚好看弄影戲。每弄至斬關羽,輒為之泣下,囑弄者且緩之。一日弄者曰:「雲長古猛將,今斬之其鬼或能祟。請既斬而祭之。」此子聞甚喜。弄者乃求酒肉之費,此子出銀器數十。至日斬罷,大陳飲食如祭者。群無賴聚享之。};&br;(都のある富豪の子は、幼くして両親を無くし、財産を相続した。無頼どもは、彼をさまざまに誘惑した。この子は影戯を見るのが好きで、関羽を斬るところまで演ずると、そのたびに涙を流して、演じ手にやめるように言った。ある日、演じ手が言うには「関羽はいにしえの猛将です。斬るとその幽霊が祟るかもしれません。斬ったら祭ってあげてください。」その子は、それを聞いて大喜びした。演じ手は供え物の酒・肉の費用を求め、この子は銀の食器数十を出した。当日、関羽を斬ると、大いに飲食をならべ、祭礼のようにした。無頼どもは集まってこれを味わった。)

**③孟元老『東京夢華録』((『東京夢華録外四種』(中華書局、1962)所収排印本による。)) [#d04c313f]

南宋初、紹興十七年(1147)年の成立で、北宋の都・開封の繁華を懐古したもの。北宋末、徽宗の時代の状況を反映しているとされ、芸能関連の記事が多いことでも知られる。

***③-1 [#iea934d1]

>&lang(zh-tw){崇、觀以來,在京瓦肆伎藝,……董十五、趙七、曹保義、朱婆兒、沒困駝、風僧哥、俎六姐,影戲,丁儀、瘦吉等,弄喬影戲。(卷五「京瓦伎藝」)};&br;(崇寧・大観年間(1102~1110)以来、都の瓦肆の芸能では、……董十五・趙七・曹保義・朱婆児・没困駝・風僧哥・俎六姐が影戯を演じ、丁儀・痩吉らが喬影戯を演じた)

***③-2 [#jd37b7cf]

>&lang(zh-tw){諸門皆有官中樂棚,万街千巷,盡皆繁盛浩鬧。每一坊巷口無樂棚去處,多設小影棚子,以防本坊游人小兒相失。(卷六「十六日」)};&br;(いずれの門にもお上が音楽の舞台をしつらえ、いずれもにぎやかであった。音楽の舞台の無い横町の入り口には、多くが小さな影戯の舞台を設け、横町を訪れるものが子供とはぐれないようにした。)

**④徐夢莘『三朝北盟会編』((『文淵閣四庫全書』所収本による。)) [#o853d0ef]

全二百五十巻。政和七年(1117年)から紹興三十二年(1162年)にかけて、宋の徽宗・欽宗・高宗三朝と金国との盟約書類を編纂したもの。編者の徐夢莘は紹興年間の進士である。

***④-1 [#ia285c50]

開封陥落後の記事。

>&lang(zh-tw){求索諸色人,……雜劇、說話、弄影戲……等藝人一百五十餘家,令開封府押赴軍前。(卷七十七)};&br;((金は)さまざまな芸人を要求した。……雑劇・説話・影戯……などの芸人150余家を、開封府に命じて軍前に連行させた。)

***④-2 [#ka2cc5cc]

南宋初期のニセ皇族事件に関する記事の一部である。遇僧は後に少帝の第二子を詐称し、影戯で覚えた宮中の言葉で知県・知州をだましおおすが、ウソが露見して御用となる。

>&lang(zh-tw){先單州碭山縣染戶朱從,因販棗往南京界,劉婆家得一小兒曰遇僧,以棗博歸,養之。有金人之出戍于碭山者,見之曰,「此兒似趙家少帝」,染人不以為然。稍長,令學雕花板。有京師販豬人張四,見之曰,「此兒似趙家少帝」,遇僧心暗喜,每有影戲,唱詞私記,其宮禁中殿閣下龍鳳之語。(卷一九九)};&br;(以前、単州&lang(zh-tw){碭};山県の染め物職人の朱従は、棗を売りに南京応天府境に行き、劉婆の家で遇僧という童を得て、棗と取り替えて連れ帰り育てた。金人の&lang(zh-tw){碭};山守備のものが彼と会い「この子は宋皇室の少帝(欽宗)に似ている」と言ったが、染め物職人はとりあわなかった。やや大きくなると、染め物の模様の木型彫りを学ばせた。都の豚売りの張四というものが、彼に会い言うには「この子は宋皇室の少帝に似ている」。遇僧は心中ひそかに喜び、影戯が上演されるたびに、歌詞を暗記し、禁中の御殿での皇帝・皇后の口ぶりを覚えた。)

**⑤張戒『歳寒堂詩話』((『叢書集成新編』所収本による。)) [#p27a03c6]

作者の張戒は紹興年間に官僚として活躍したが、三字の獄とともに失脚し地方官におとされている。

>&lang(zh-tw){往在柏臺,鄭亨仲、方公美誦張文潛『中興碑』詩。戒曰:「此弄影戲語耳」。二公駭笑問其故。戒曰:「『郭公凜凜英雄才,金戈鐵馬從西來。舉旗為風偃為雨,灑掃九廟無塵埃。』豈非弄影戲乎。」(卷上)};&br;(以前柏台で、鄭亨仲・方公美と張耒の『讀中興頌碑』を朗読した。私が「これは影戯の語である」と言うと、二人は驚き笑ってその理由を尋ねた。私は「『郭子儀は凛々たる英雄の才、金戈鉄馬で西より来る。旗を挙げれば風を起こし横たえれば雨となり、長安の九廟を洗い清めて塵も無し。』これこそ影戯ではないか」と答えた。)

**⑥『百宝総珍』((『四庫全書存目叢書』所収影印本による。)) [#zbe5d04d]

『百宝総珍』は、南宋臨安の商人が用いた商品知識を得るための冊子であるとされる。

>&lang(zh-tw){大小影戲分數等 水晶羊皮五彩裝&br;自古史記十七代 注語之中子細看&br;影戲頭樣並皮腳並長五小尺。中樣小樣大小身兒一百六十個,小將三十二替,駕前二替,雜使公二,茶酒,著馬馬軍共記一百二十個。單馬、窠石、水、城、船、門、大蟲、果桌、椅兒共二百四件,鎗刀四十件。亡國十八國,『唐書』、『三國志』、『五代史』、『前後漢』,並雜使頭,一千二百頭。(「影戲」)};&br;(大小の影戯は数等に分かれ、水晶のような羊皮に五色を装う。古の『史記』より十七代、講釈の中に細かに見える。&br;影戯は頭から皮の脚まであわせて5小尺。中型、小型など大小の身児が160個。小将軍は32隊((江玉祥は、「替」を「&lang(zh-tw){屉};」の音通と解釈するが、これは宋代に軍隊の小部隊を「替」と呼んだことを指すと解すべきである。))、旗本が2隊、使者が2つ、茶酒、乗馬の騎兵が120個。馬、庭石、川、城、船、門、虎、食卓、椅子は合わせて204件、槍刀は40件。滅び去った十八国、『唐書』、『三国志』、『五代史』、『前後漢』など(の人物)と、小者の頭は、あわせて1200。)

**⑦耐得翁『都城紀勝』((前掲『東京夢華録外四種』による。)) [#u69e0405]

理宗端平二年(1235年)に成立しており、『東京夢華録』の体に倣い、南宋の首都臨安の風俗を記す。耐得翁の本名は未詳。

>&lang(zh-tw){凡影戲,乃京師人初以素紙雕鏃,後用彩色裝皮為之,其話本與講史書者頗同,大抵真假相半。公忠者雕以正貌,奸邪者與之醜貌,蓋亦寓褒貶於世俗之眼戲也。(卷一「瓦舍眾伎」)};&br;(およそ影戯というものは、開封の人がはじめ白い紙を切り取って作ったが、後に色を付けた皮革で作るようになった。その台本は講談の講史書とそっくりで、大抵、事実と虚構が相半ばしている。忠義の人物は整った姿に切り抜き、よこしまな人物は醜い姿に切り抜く。これも世俗の目による褒貶をこめた芝居なのであろう。)

**⑧呉自牧『夢梁録』((前掲『東京夢華録外四種』による。)) [#o039a225]

『東京夢華録』の体裁に倣って、南宋杭州の繁華を綴ったもの。南宋滅亡前後の成立。影戯関連の記述は、『都城紀勝』を受けていると思われるが、より詳細である。

>&lang(zh-tw){更有弄影戲者,元汴京初以素紙雕鏃,自後人巧工精,以羊皮雕形,用以綵色粧飾,不致損壞。杭城有賈四郎、王昇、王閏卿等,熟於擺布,立講無差。其話本與講史書者頗同,大抵真假相半,公忠者雕以正貌,姦邪者刻以醜形,盖亦寓褒貶於其間耳。(卷二十「百戲伎藝」)};&br;(さらに影戯を演ずるものがいた。はじめ開封では白い紙を彫刻したが、後の人は技巧をこらし、羊の皮を彫刻し、色を施し、壊れないようにした。杭州には賈四郎・王昇・王閏卿らがおり、人形の操作に熟達し、語りも素晴らしかった。その話本は(講談の)講史書とそっくりで、大抵が真実と虚構とが相半ばしており、忠義なものは整った形に彫刻し、邪なものは醜く彫刻するが、そこに褒貶を込めているのであろう。)

**⑨周密『武林旧事』((前掲『東京夢華録外四種』による。)) [#kb93520b]

これも『東京夢華録』スタイルに倣い臨安の繁華を記したものである。成立は南宋滅亡後であると思われる。周密は詞人として知られ、また筆記『斉東野語』がある。

***⑨-1 [#hf0372f6]

>&lang(zh-tw){或戲於小樓,以人為大影戲,兒童諠呼,終夕不絕。(卷二「元夕」)};&br;あるいは小さな高殿で劇を、人による大影戲を演じ、童どもの歓声は一晩中絶えることがなかった。)

***⑨-2 [#w04f4434]

以下は、影戯芸人の名称の記録である。訳出は省略する。

>&lang(zh-tw){賈震 賈堆 尚保義 三賈(賈偉、賈儀、賈佑) 三伏(伏大、伏二、伏三) 沈顯 陳松 馬俊 馬進 王三郎(昇) 朱祐 蔡諮 張七 周端 郭真 李二娘(隊戲) 王潤卿(女流) 黑媽媽(卷六「諸色伎藝人」影戲項)};

宋代影戯に関する現存の資料は、以上9種である。なお、以下、本論中の引用では煩を避けるため、①~⑨の番号をもって各資料の名称に代える。

*3.宋代影戯の特色 [#be7e8bbb]

**3.1.物語 [#l5d8b564]

影戯の物語的特色については、前章に引いた多くの記事で一致している。

+宋朝仁宗のとき、街のもので三国物語を語るのが上手いものがいた。ある者がその話をとって、絵飾りを加えて、影絵人形を作り、初めて魏・呉・蜀鼎立の戦争の様子を演じた。
+この子は影戯を見るのが好きで、関羽を斬るところまで演ずると……
+古の『史記』より十七代、講釈の中に細かに見える。……滅び去った十八国、『唐書』、『三国志』、『五代史』、『前後漢』など(の人物)と、小者の頭は、あわせて1200。
+その台本は講談の講史書とそっくりで、大抵、事実と虚構が相半ばしている。
+その話本は(講談の)講史書とそっくりで、大抵が真実と虚構とが相半ばしており…

①では影戯が三国志の語り、すなわち講談に起源するとされており、②でも具体的演目として三国志ものが挙げられる。⑥からは、宋代以前のあらゆる朝代の物語が影戯で演じられていたことがわかる。⑦・⑧では影戯の台本が「講史書」、すなわち歴代王朝興亡の物語を扱う宋代説話(講談)の四家数の一つと似ていることを指摘するが、①の記述をふまえれば、その理由は納得されよう。

現代の皮影戯も、歴史物語が占めるウエイトが非常に高い。ただし、現在の皮影戯は主に淮河以北の北方地域に流行しているが、それらの地域では清代以降、歴史物語が非常に好まれていた上に、皮影戯の物語や音楽が&lang(zh-tw){梆};子戯などと近いことを考えると、それを宋代影戯からの伝統を受け継いだ結果であると短絡的に結論することはできない。

*3.2.語りと謡い [#zae31108]

⑧には、「人形の操作に熟達し、語りも素晴らしかった」(&lang(zh-tw){熟於擺布,立講無差};)と見え、南宋末臨安の影戯は、聴覚的表現においては歌唱ではなく語りに重きを置いていたことがうかがえる。これも、影戯が講談に起源することの反映であろう。

現代の皮影戯では、北京皮影戯および冀東系皮影戯を除く、陝西・山西皮影戯や福影など大半が、一人だけが歌唱を担当し声色を変えて全ての役柄を歌い分ける、「抱本」方式をとっている。演劇としては甚だ不自然な方式であるが、これは影戯が語り物あるいは謡い物から生まれた名残であると考えれば納得できる。さらに、晋中の皮腔皮影戯や陝南道情皮影戯のように、一人が歌唱と人形の操作を兼ねる例もあるが、⑧の記述は宋代影戯もそのような上演方式であったことを示すものと思われる。

また、『都城紀勝』や『夢梁録』では影戯の台本が「講史書」に似るとしているが、それは物語のジャンルを表すとともに、台本が代言体ではなく叙述体であることをも指し示していると解される。李家瑞は『北平俗曲略』で、冀東皮影戯の影巻に「&lang(zh-tw){…說了一遍};」「&lang(zh-tw){再表那…};」「&lang(zh-tw){原來如此這般};」などの叙述体のフレーズが多用されることを指摘し、皮影戯と説唱芸能との交渉を想定しているが、皮影戯台本が叙述体であるのは交渉の結果というよりもむしろ、中国における影戯の形成され方そのものに起因していると言えよう。

ただし、④-2に「歌詞を暗記し」(&lang(zh-tw){唱詞私記};)と見えることから、宋代の影戯にも歌唱があったことは明白である。また、宋元南戯には「大影戲」曲牌が見られる。

●『張協状元』第十六出

>&lang(zh-tw){今日設個幾案,(喏)些兒事要相干。靠歇子有個豬頭至。斟些酒食須教滿。怕張協貧女討校柸。是它夫妻,是它夤緣,千萬宛轉。有豬頭,看豬面看狗面。};

●『殺狗記』第三十一齣

>&lang(zh-tw){嫂嫂行不由徑。應是我不開門。自來叔嫂不通問。休教人說上梁不正,忽聽得一聲唬了我魂。戰戰兢兢,進退無門。心兒裡好悶。我便猛開了門。任兄長打一頓。};

このほか、『九宮正始』所引『呉舜英』伝奇に「大影戯」曲牌が用いられる。「大影戯」が曲牌の名称に用いられているからには、「大影戯」のメロディーは基本的に単一で、連套体ではなかったことになる。

孫楷第は「大影戯」曲牌を六言の偈讚がやや変化したものであるとし((注2参照。))、葉徳均・周貽白((注4参照。))は六・七言の詩讚体であると推測するとともに、周貽白は襯字を取り除いた歌詞をも呈示している。

●『張協状元』

>&lang(zh-tw){今日設案要相干,靠歇有個豬頭至,斟些酒食須教滿。張協貧女討校杯,是它夫妻是夤緣,千萬宛轉看狗面。};

●『殺狗記』

>&lang(zh-tw){行不由徑不開門,自來叔嫂不通問,休教說上梁不正。忽聽一聲唬了魂,戰戰兢兢進退無門,開門任兄打一頓。};

綺麗な七言詩讚体になっているが、しかしこれは少々やりすぎであろう。沈璟『増定南九宮曲譜』は巻八「中呂過曲」で『殺狗記』の「大影戯」を引くが、六十種曲本とは多少の字句の出入りがあり、次のようになっている。

>&lang(zh-tw){嫂嫂行不由徑。笑不露形。我應是不開門。自來嫂叔不通問。休又說得上梁不正。只此一句,唬得人喪膽亡魂。戰戰兢兢,進退無門。};

また、呉梅『南北詞簡譜』巻六では『西楼記』の例を挙げ、以下のように句切りする。

>&lang(zh-tw){語多相近(叶)。辨來漸真(叶)。是我方便他感咱恩(叶)。送來禮物何須遜(叶)。你是個扎火囤癩皮光棍(叶)。(合)只此一句(不),有近朝破口傷情(叶)。咬斷牙齦(非)。暫不登門(叶)。(無贈)};

このように、曲学家は明代南戯「大影戯」曲牌の正格を「&lang(zh-tw){4。4。6。7。7。4、7。4、4。};」の長短句であるとしている。『張協状元』の例はこの格式とは会わないものの、はじめの二句「&lang(zh-tw){今日設個幾案。(喏)些兒事要相干};。」が襯字を除いて「&lang(zh-tw){設個幾案,事要相干。};」になると解すれば、七言句の首尾に四字句・三字句を配した南戯と比較的近い形式になる。

多くの時調・小曲は、『明清民歌時調集』などをひもとけば、七言句を主体に、二・三・四言句を取り混ぜるスタイルであることがわかる。例えば、馬頭調は作によって字数の出入りはあるが、概ね「7444737443737」という句式をとるし、西調も七言を主体に三・四言句をとりまぜ、しかも長さが一定しない。「大影戯」の音楽もそのようなものであったと思われる。これを偈讚や詩讚であるとする孫楷第・周貽白らの所説には、かなり無理がある。

もっとも、南曲の曲牌が「影戯」ではなく「大影戯」である点は、注意を要する。大影戯については⑨-1に「人によって大影戯を演じ」(&lang(zh-tw){以人為大影戲};)と見える。また③-1では、「影戯」と「喬影戯」とか区別されているが、字義からして「喬影戯」は「大影戯」と同じものであろう。

この「大影戲」なるものについては、孫楷第・周貽白らは、もっぱら生身の人が演じたものであると考え、江玉祥は大型の影人を用いたとする。江玉祥の論拠となっているのは、⑥で影人のサイズが「&lang(zh-tw){五小尺};」、約150cmもの大きさであるとされていることで、大影戯そのものは大型の影人を用いた皮影戯であるが、『武林旧事』の該当箇所では人が大影戯をまねたのであろうとしている。

いずれにせよ、「大影戲」は「(小)影戲」と区別した謂いである。⑥に「大小の影戯は数等に分かれ」と見えるから、(小)影戯で用いられていたのはその小型の人形だったのであろう。そして③-1からは、大小の影戯で芸人が異なっていた、つまり単なる人形の大きさにとどまらない差異が、両者の間にあったことが伺える。曲牌が「影戯」ではなく「大影戯」と名付けられているのは、両者で使用される音楽が異なっていたことを意味するものであろう。

「大影戯」に言及する⑨では、「影戯」の芸人として「王潤卿」を挙げるが、彼女は⑧では「人形の操作に熟達し、語りも素晴らしかった」と評されている。従って、(小)影戯は語りに芸能としての特長があったことは明白である。しかし、これは必ずしも(小)影戯に音楽がなかったことを意味するわけではない。

⑤では、張耒の七言古詩『讀中興頌碑』の詩句、

>&lang(zh-tw){郭公凜凜英雄才,金戈鐵馬從西來。&br;舉旗為風偃為雨,灑掃九廟無塵埃。};

の卑俗であることを、「影戯の語」と揶揄している。比較の対照になるからには、宋代の影戯にも似通った斉言句が使われていた蓋然性が高い。あるいは、(小)影戯がそのような詩讚体の影戯であったのかもしれない。

**3.3.人形 [#v55cfb0b]

宋代影戯の人形については、⑧に次のように見える。

>はじめ開封では白い紙を彫刻したが、後の人は技巧をこらし、羊の皮を彫刻し、色を施し、壊れないようにした。……忠義なものは整った形に彫刻し、邪なものは醜く彫刻するが、そこに褒貶を込めているのであろう。

後半部分、「邪なものは醜く」というのは、現在の伝統劇の臉譜の「&lang(zh-tw){歪臉};」に相当するものであると思われる。しかし、このことをわざわざ特記するということは、南宋代の院本雑劇にはまだそのような臉譜の描き方が確立されていなかったことを示唆する。事実、現在我々が目にすることができる元明の臉譜の図像は、いずれも色による表現に重きを置いており、臉譜のデザインは極めて単純である。あるいは、清代以降勃興した地方劇の臉譜が複雑化するのは、影戯の影響を受けているのかもしれない。

また⑥では、一つの劇団が用いる人形の数が詳細に説明されている。頭が1200というのは少なくないが、おそらく人物ごとに頭のデザインが完全に区別されていたのであろう。現在、冀東皮影戯では、たとえば紅浄の頭は忠義な英雄であれば関羽その他誰にでも用いることができる、つまり一つの影絵人形を複数の人物に充てることができるようになっているが、晋中皮腔皮影戯などのように、人物ごとに頭と体が固定されている皮影戯劇種も見られる。⑥の記述とつきあわせれば、冀東皮影戯のあり方がより新しいことになろう。

*4.宋代影戯の上演 [#va889153]

**4.1.影戯の受容層 [#o27f7a33]

宋代は、都市経済が発達し、都市の常設演芸場である「瓦肆勾欄」を中心に、さまざまな演劇・芸能が花開いた時代である。それらは『東京夢華録』・『都城紀勝』・『夢粱録』・『武林旧事』・『綴耕録』などの開封・臨安の繁華を描いた資料に記録が留められている。

この当時、最も格が高かった芸能は、雑劇である。宋代の雑劇は、唐代に流行した漫才的な滑稽戲である参軍戯の流れをうけつつも、物語を演ずる演劇へと転換する過渡期にあった。『夢粱録』では、影戯を含む「百戯技芸」の前、芸能の筆頭に「妓楽」の項を配置する。

>&lang(zh-tw){散樂傳學教坊十三部,唯以雜劇為正色。};&br;(散楽は教坊十三部を学び伝え、ただ雑劇のみを正統とする。)

散楽は、民間の劇団を指すのであろう。それらは、教坊の宮廷音楽の伝統を受け継いでいる。北宋・南宋ともに教坊司、あるいはそれに相当する官署を置いて、宮廷舞楽・演劇のための楽人や妓女を蓄えていた。

>&lang(zh-tw){今士庶多以從省,筵會或社會,皆用融和坊、新街及下瓦子等處散樂家,女童装末,加以弦索賺曲,祗應而已。};&br;(いま、士大夫や庶民は簡略化して、宴会や集まりの際には、みな融和坊・新街や下瓦子などの色町の散楽家を用い、女の子を末に扮装させ、弦楽や小唄を加えて、服務するばかりである。)

士大夫や都市の市民が社交の際に用いるのは、民間の劇団による雑劇であった。後世、元雑劇や南戯・京劇などが、士大夫や富裕層の宴席の座興として用いられたのと変わらないことがわかる。

一方、影戯は「百戲技芸」の項目で言及される。ここでは、さまざまな見せ物曲芸の類を列挙した上で、

>&lang(zh-tw){遇朝家大朝會、聖節,宣押殿庭承應。};&br;(朝廷の大朝会や天長節になると、宮殿に召し出されて芸を献じた。)

と述べることから、百戯は雑劇と異なり宮中に芸人は養われず、必要に応じて在野の芸人を召し出していたことがわかる。影戯もそのような芸能の一つであり、明らかに雑劇よりも一段低いものとして扱われている。

しかし、本格的な演劇成立前夜という環境にあって、当時の影戯は、長編の物語を扱いうる視覚メディアであるという点に、雑劇・院本に対する優位を持っていたと思われる。宋代の影戯が歴史物を特色としたのは、かかるメディアとしての特性の反映でもあろう。

さて、影戯は『東京夢華録』では「京瓦技芸」、『都城紀勝』では「瓦舎衆伎」の条にそれぞれ収められることから、「瓦肆勾欄」で上演されていたことがわかる。瓦肆勾欄の主たる観客層は、格式を重んずる官僚や富裕層には属さないものの、安定した生活を維持している都市の中間層であったとされる。したがって宋代、雑劇と影戯とでは主要な受容層が異なっていたことになる。

④-2では、染め物職人の養子となった遇僧が影戯を見ている。職人であるから、安定した生活を維持する庶民層に属すると言えよう。しかも、当該部分の文脈からは、遇僧は一人で影戯を見に行っているように読めるので、子供の小遣い銭程度でも鑑賞が可能であったことになる。中国では、節日や慶弔の際の演劇上演は、出資者が一般に無料で開放するのが一般的であるが、宋代に既にそのような習慣が生まれていた可能性もある。

**4.2.影戯の上演範囲 [#o9cd49b3]

④-2で遇僧が影戯の上演を見ているのは、文脈からして単州&lang(zh-tw){碭};山県である。&lang(zh-tw){碭};山県は現在の安徽省北部、河南・山東・江蘇と境を接するあたり、芒&lang(zh-tw){碭};山の北麓に位置する。南京応天府から真東に70㎞余りで、大運河には面していない。

単州の徽宗崇寧元年(1102)の戸数は61,409、口数は116,969((梁方仲『中国歴代戸口、田地、田賦統計』(上海人民出版社、1980)による。))。この戸数は北方地域の州としては平均的であるが、江南地方には10万戸を越える州が数多く存在していた。つまり、かかる中規模州の管下四県の一である&lang(zh-tw){碭};山県は、特に繁栄しているというわけではない、ごくふつうの地方の県であったと考えられる。

宋代の影戯は、瓦肆の設けられた大都市ばかりでなく、このような県城クラスの都市でも上演されていた。それは、影戯の上演コストが低廉であったためであろう。現在、皮影戯が生き延びているのは、大半が経済的に立ち後れた地域であり、人戯の上演を招くだけの資金がないために、上演コストの安い皮影戯を使っているケースが多い。このコストの安さという特長は、宋代から変わらなかったようである。

また、この記述からは、宋代の段階で影戯が相当広い範囲で行われており、庶民芸能として大きな影響力を持っていたことが伺える。

*まとめ [#f8821e42]

以上に論じてきたことをまとめると、宋代の影戯は以下のような特色を有していたことになる。

-物語:歴史物語が中心
-話者(歌唱者):一人
-台本:叙述体
-歌唱:斉言句?(影戯)、長短句(大影戯)
-主要受容層:中間層(庶民層)
-上演コスト:低廉

これらのうち、たとえば講談に起源し叙述体の演劇であるという特色は、現代の皮影戯のみならず、清代以降隆盛する地方劇とも共通しており、また前に触れた臉譜の事例を考え合わせると、両者の間に何らかの交渉があった蓋然性は高まる。

中国では周貽白が前掲論で、中国伝統演劇の歌唱形式が影戯・傀儡戯に起源するとの孫楷第の説を否定してから、偶戯研究が演劇史研究から除外される傾向までもが生まれ、定着してしまっている。例えば孟繁樹『中国板式変化体戯曲源流研究』が、類人猿が人間に進化しながらも、ゴリラや猿はもとのままであるのと同じようなものだと述べ、偶戯と人戯との比較研究の必要性を否定するのは、その最も極端な例である((文化美術出版社、2002年、pp.96-105。))。

しかし、以上に検討してきたように、影戯は早くも宋代には独自のスタイルを確立し広汎に行われていた庶民芸能であったのだから、後世の演劇・芸能に何ら影響を及ぼさなかったと考える方がむしろ不自然であろう。

一方、現在定説となっている周貽白らの説にも、かなりの問題が含まれることが、宋代影戯資料の再検討を通じて明らかになった。かかる既存の理論の枠組みにも批判的な態度で接し、演劇・芸能を分類学的なジャンル意識にとらわれず、社会や文化の総体を構成する一部として広い視野から検討すれば、あるいは新たな研究の地平が開けるのではなかろうか。

>*本稿は、日本学術振興会科学研究費・基盤研究B「近現代華北地域における伝統芸能文化の総合的研究」(2005年度、課題番号:17320059、研究代表者:氷上正)による成果の一部である。