『都市芸研』第四輯/車王府曲本所収皮影戯考 の変更点

Top / 『都市芸研』第四輯 / 車王府曲本所収皮影戯考

*車王府曲本所収皮影戯考 ――北京東西両派との関係を中心に―― [#s69786b0]

RIGHT:山下 一夫

#contents

*1.はじめに [#l31b1320]

中国の影人形芝居――皮影戯の研究には、楽器や楽譜などの音楽、人形や舞台などの造形美術の他に、台本の検討が必要なことは言うまでもない。かつて長澤規矩也は、皮影戯の台本について「伝来がまれで、あまり見たことがない」としたが((長澤規矩也「支那俗曲のテキストに就いて」、『書誌学』第4巻第4号(1935年)、『長澤規矩也著作集』第五巻(汲古書院、1989年)所収。))、現在では様々な機関の所蔵資料の調査作業も進み、影印出版なども行われているほか、中国都市芸能研究会でも整理収集作業を続けている((「[[中国城市戯曲研究会蒐集皮影影巻解題目録稿>皮影影卷解題目錄稿]]」(1)~(2)、『中国都市芸能研究』第一輯~第二輯(好文出版、2002~2003年)参照。))。

北京で行われた皮影戯について言えば、西城を中心に活動した“西派”は基本的に台本を口伝に頼るため、書写テキストは少ない。しかし、かつて東城を中心に行われたいわゆる“東派”は、現在の唐山(地級)市一帯で行われた冀東皮影の北京における出張上演だったため((冀東皮影は、また灤州皮影・楽亭皮影・唐山皮影とも称する。これらはそれぞれ多少意味合いが異なるが、本稿ではそうした問題に立ち入らず、ほぼ同義のものとして扱う。なお、澤田瑞穂『中国の庶民文藝』(東方書店、1986年)所収「灤州影戯の芸術」では、北京東派の芸人が灤州へ戻って行く様子が記されている。))、今なお天津市や河北省、東北三省などで活動する劇団が用いている台本や、各地の文化局などで所蔵されているものもその一種と見なすことはできるだろう。ただ、清末から民国期までのものに限って言えば、最も規模が大きく、また資料的価値が高いのは、1928年から1932年にかけて中央研究院で収集された俗曲コレクションである((詳細については、曾永義「中央研究院所蔵俗文学資料的分類整理和編目」、『説俗文学』(聯経出版事業公司、1984年)所収を参照。))。これは中国における民俗学の勃興を受けて、民間芸能を研究するために集められたものであるが、この中に皮影戯の台本も二百点あまり含まれている。現在では台北の中央研究院歴史語言研究所傅斯年図書館の所蔵となっており、さらに近年新文豊図書出版公司から『俗文学叢刊』として影印出版され利用がしやすくなっている。また、やはり1930年代に設立された北平国劇学会図書館で斉如山ら旧蔵の皮影戯台本が百点あまり収集された。これは皮影戯の演目を京劇に移植する際に直接用いられた台本資料なども含む貴重なコレクションであり、現在では北京の芸術研究院図書館に所蔵されている((拙稿「[[芸術研究院戯曲研究所所蔵影巻目録>『都市芸研』第二輯/芸術研究院戯曲研究所所蔵影巻目録]]」、『中国都市芸能研究』第二輯(好文出版、2003年)参照。))。

さて、当該時期のものではもう一つ、車王府曲本に含まれる皮影戯台本が挙げられる。これは、清末に北京で収集されたという点で上記二種に勝るとも劣らない貴重な資料であり、中国における最初期の皮影戯研究である李家瑞『北平俗曲略』「灯影戯」項((中央研究院歴史語言研究所、1933年。))においてつとにその存在が指摘されているにもかかわらず、その後の研究ではあまり言及されてこなかったものである。そこで本稿では、当該コレクションに含まれる皮影戯台本の収集過程を検討し、さらにそこからその出自および性格について考察を加えたいと思う。

*2.車王府曲本とは [#ncbc0844]

車王府曲本は、北京にあった蒙古族の車王府で収集されたとされる、京劇や高腔などの伝統演劇から、鼓詞、子弟書、快書、雑曲などの説唱に至る、さまざまな芸能の台本資料のコレクションである。

これが北京にあった車王府なる場所で集められたものだということは、後にも触れるこのコレクションが最初に売りに出された時の古書店主がそう称していたというだけで、他に何か根拠があるわけではない。したがって車王府と言っても、“車”の字を冠する王府が幾つかある中で具体的にどれを指すのかということすら当然のことながら不明ではあったのだが、とりあえず現在では蒙古旗人の車登巴&lang(zh-tw){咱};爾の王府であるという説が一般に行われている((以下は主に、雷夢水「車王府鈔蔵曲本的発現和収蔵」、『書林瑣記』(中華書局、1984年)所収、および郭精鋭・高黙波「車王府与戯曲抄本」、『車王府曲本研究』(広東人民出版社、2000年)所収による。))。車登巴&lang(zh-tw){咱};爾は雍正帝により王に封じられた賽因諾顔の五代末裔で、和碩親王として北京に王府を構えていた人物である。ただ咸豊二年に逝去しているため、かれ自身は光緒年間の演目を大量に含む当該コレクションの収集者とは考えられず、かりにこの車登巴&lang(zh-tw){咱};爾の王府、すなわち“車王府”で集められたのだとしても、実際の収集作業はその孫である那彦図の頃を中心に行われたこととなる。ちなみに、那彦図の頃にはかれの王府は“那王府”と呼ばれていたため、もしそうなら“那王府曲本”とでも称すべきものとなろう。那王府は現在の北京第七幼児園である安定門内宝鈔胡同にあり、正房の他に戯台なども残っている。ただ、他にも賽因諾顔の次子である車布登扎布の系統を引く蒙古王であるとか、或いは蒙古王公の車林巴布であったとかいう説もある。なお、朱家&lang(zh-tw){溍};は1930年代に北京で“車王府”の額の掛かった没落旗人の邸宅を見たことがあり、詳細は不明ながらここがそうだったのではないかといった話も伝わっている。

いずれにせよ“車”を冠する王府というのは語感からして蒙古八旗に属するものだとは思われるが、このコレクションには別にいわゆる“蒙古”文化的な要素が見られるという訳ではなく、中身は清末に北京で行なわれた漢民族の芸能の台本の集積である。車王府なるものがどこであったにせよ、恐らくある程度の資金を擁した旗人の類が芸能に夢中になり、台本を大量に収集していたものではあるのだろう。そしてそれが、辛亥革命による没落で手放さざるを得なくなったのか、このコレクションは民国に入って売りに出されることになる。

1925年の秋、北京の瑠璃廠にあった松筠閣の劉盛誉が、西小市打鼓攤から装丁や書写形態が統一された千四百種の俗文学台本の山を廉価で入手し、これを宣武門外大街の会文書局の李匯川の仲介で、中国文学の研究者として名高い馬隅卿が孔徳学校に購入させた。これが、車王府曲本が世に出た最初である。この時のことを、劉復は『中国俗曲総目稿』((中央研究院歴史語言研究所、1932年。))の序文で以下のように書いている。



>あれは民国十四年(1925年)の秋のことだった。私は初めて北平に帰り、孔徳学校に間借りしていた。ある日、馬隅卿先生の研究室に行くと、床にうずたかく積まれた抄本の山が目に入った。私が「それは何ですか」と言うと、馬隅卿先生は「どうだい、それは有用なものかね」と言った。そこで私は適当に何冊かパラパラと捲ってみて、すぐさま言った。「これはいい!学校が買わないなら私が買います」「いいものだと言うなら、学校に買わせる。君に買わせる訳にはいかないな」「それでもかまいません、手放しさえしないのならば」。後に孔徳学校は何と五十元で購入し、大きな本棚二つを丸々一杯にしたのだった。そして車王府曲本の名は全国に喧伝されたのである。

孔徳学校がこの資料を購入したという知らせは、すぐに『北京大学研究所国学門周刊』第六期で「写本戯曲鼓児詞的収蔵」として発表された(1925年11月18日)。さらに翌1926年の夏期休暇の際に顧頡剛が整理を行って分類目録を作成、これが「北京孔徳学校図書館所蔵蒙古車王府曲本分類目録」として『孔徳月刊』に掲載され、車王府曲本はにわかに注目を浴びることとなる((3~4期、1926年~1927年。))。

ところが程なくして、北京でまたもや俗文学台本の山が売りに出されることになった。これについては誰がどのような経緯で売りに出したのか詳細が解っていないが、最初に購入した分と装丁や書写形態がそっくりで、しかも重複もないことから、孔徳学校はこれも車王府曲本の一部であると認定して購入した。つまり、孔徳学校所蔵の車王府曲本は第一回購入分と、第二回購入分の二種類があることになるのである。そして、第一回購入分は日中戦争期に周作人の手を経て北京大学文学院に移管され、現在では北京大学図書館に所蔵されている。また、第二回購入分はその後北京にある首都図書館の所蔵となって現在に至っている。

ただし、車王府曲本はこれだけではなく、ほかにも詳細な経路は不明だが傅惜華が個人で購入した分というのが二十種ほどあり、現在は北京の芸術研究院図書館に所蔵されている。また、1928年に日本の長澤規矩也が高姓の書籍商を通じて、孔徳学校所蔵分の一部が流出する形で購入しており、これは現在東京大学東洋文化研究所双紅堂文庫に所蔵されている。

さらに、車王府曲本は複製本の存在がある。まず一つ目は、顧頡剛が中心となって孔徳学校から第一回購入分を借りて広州の中山大学語言研究所で作成したものがある。これは、明白な誤字を正すなどしながら書き写したもので、その後の中山大学における車王府曲本研究の基礎となっている資料である。次に1928年から1929年の間に、劉復が中心となって中央研究院でもやはり第一回購入分を複製している。これは、「車王府曲本」と印刷された専用の原稿用紙を用意して書写するという念の入ったものであったが、何らかの理由によって途中で頓挫してしまった上に、その後の研究院の移動などもあって紛失もあったらしく、現存するものは量的にはあまり多くはない。ただし、劉復と李家瑞が『中国俗曲総目稿』を作成した際に、書写した分については各テキストの冒頭部分をすべて収録している。三番目には、1932年に張干卿らが個人的に書き写したもので、これは後に文化部芸術局に接収された後、現在では芸術研究院図書館に移管されているが、中には民国期の台本など、もともと車王府曲本に含まれていたとは到底考えられない資料も多い。そして四番目に、孔徳学校第二回購入分を所蔵する首都図書館が、1960年代に北京大学から第一回購入分を借りて複製したものがある。

そうすると、芸術研究院図書館や東京大学東洋文化研究所双紅堂文庫の所蔵分は別として、北京大学・首都図書館・中山大学・中央研究院それぞれが所蔵する分は、原抄本・複製本の差はあっても、第一回購入分・第二回購入分についてそれぞれ重なるはずで、中でも首都図書館には第一回購入分と第二回購入分が全て所蔵されていることになるが、実際にはそうなってはいない。例えば、首都図書館の第一回購入分複製本は完全ではなく、欠落も相当数見られる。また、やはり第一回購入分で、中山大学や中央研究院に複製本が残っているのに、北京大学の原本が失われているものもある。これは、管理が杜撰であったため、所蔵機関の移転や複製のための貸し借りの過程で行方不明になったものなどがあるからであろう。ただ、比較の上からでは首都図書館所蔵分が量的に最も多いものであることは変わりなく、これが『清蒙古車王府曲本』として1992年に北京古籍出版社から15部限定で影印出版され、ひとまず利用しやすい形で提供されている。

*3.第一回購入分所収皮影戯テキスト [#g0b1f059]

さて、車王府曲本の中に含まれている皮影戯の台本について以下検討する。まず第一回購入分には、「某種戯詞」として以下十八種のテキストが収録されている。

+『金蝴蝶』 原本:北大、複製本:中山大・中研院
+『西遊』 原本:北大、複製本:中山大・中研院
+『天門陣』 原本:北大、複製本:中山大・中研院
+『対菱花』 原本:北大、複製本:中山大・中研院
+『泥馬渡江』 原本:北大、複製本:中山大・中研院
+『対綾巾』 原本:北大、複製本:中山大
+『鎮冤塔』 原本:北大、複製本:中山大・中研院
+『綉綾衫』 原本:北大、複製本:中山大・中研院
+『牛馬灯』 原本:北大、複製本:中山大・中研院
+『閔玉良』 原本:北大、複製本:中山大・中研院
+『紅梅閣』 原本:北大、複製本:中山大・中研院
+『鎖陽関』 原本:北大、複製本:中山大
+『定唐』 原本:北大、複製本:中山大
+『龍図案』 原本:北大、複製本:中山大
+『群羊夢』 原本:北大、複製本:中山大
+『薄命図』 原本:北大、複製本:中山大
+『対金鈴』 原本:北大、複製本:中山大
+『大団山』 原本:北大、複製本:中山大・中研院

「某種」と書かれてはいるが、皮影戯の台本に特徴的な書写形態を有している点から、明らかにそれと判断できるものである((皮影戯台本の特徴については、長澤規矩也前掲書を参照。))。そもそも「某種戯詞」の「某種」という表現は原資料にはなく、顧頡剛が分類目録を作成する際に冠したものであることが推測される。また、皮影戯の台本が「影戯詞」とも称されることとを考え合わせれば、恐らく「皮影戯台本」という意味で使われているのであろう。上のリストを見れば解るように、第一回購入分の複製本と第二回購入分の原本を所蔵しているはずの首都図書館にはこれらのテキストはなく、従って北京古籍出版社影印本にも収録されていない。

さて、ここに収録されている台本を見ると、いずれも皮影戯の長編台本で、「本戯」と称されるものであり、いわゆる冀東皮影の演目の中に見出されるものが多い((以下、冀東皮影の演目については、劉慶豊『皮影史料』(黒竜江芸術研究所、1986年)、『楽亭文史第五輯――楽亭皮影』(中国人民政治協商会議天津市楽亭県委員会文史委員会・楽亭県文教、1990年)に依った。))。

まず『鎮冤塔』は、冀東皮影の『双失婚』『金石縁』『五峰会』(あるいは『破洪州』)と並び“老四大部”の一つに数えられる比較的古い演目である。しかも、『金石縁』や『破洪州』が早い段階で廃れたのに対し、道光年間に楽亭県の高述尭が冀東皮影の改革を行った際にも改編されて、現在でも常演演目として行われているものである。また、『定唐』もやはり高述尭の作として知られ、『青雲剣』や『二度梅』などと並び、かれの“六大部”の一つとされる演目である。

また、『群羊夢』については灤州の戯班である“漁陽万順和班”の清光緒二十四年抄本が((抄本の作成者は“易俊生”となっている。“漁陽万順和班”の名は、第六冊の封面に記されている。))、『対金鈴』についても同じく“毓秀班”の抄本が中央研究院俗曲コレクションの中に収録されている。この他、『泥馬渡江』『鎖陽関』『薄命図』『対綾巾』『天門陣』が楽亭皮影「伝統連台本劇目」((『楽亭文史第五輯――楽亭皮影』75-82頁。))の中に見え、これらの演目はいずれも冀東皮影のものであることが解る。

前述したように、北京の東城を中心に行われたいわゆる東派皮影は、灤州一帯の芸人たちの出張上演という性質を持つ。もちろん、北京で西派皮影と交渉を持ったり、あるいは京劇や鼓詞など隣接する芸能と接触したりして、これらから様々な要素を取り入れ変質している可能性も十分にあるが、ひとまずは冀東皮影と一体のものとみなすことができる。となると、これらの演目が冀東皮影の中に見出され、かつその台本が北京で蒐集されたものだとすれば、それは北京東派のものであるとすることができよう。

*4.第二回購入分所収皮影戯テキスト [#s747c8aa]

次に第二回購入分にも首都図書館の分類で「某種戯詞」となっているものがあり、以下三種の皮影戯の長編台本が収録されている。第二回購入分は複製本が作られていないので、首都図書館所蔵の原本のみである。


+『英烈春秋』 原本:首都図書館
+『双金印』 原本:首都図書館
+『双勝伝』 原本:首都図書館



また、第二回購入分には首都図書館の分類でさらに「影戯」として、以下八種のテキストも収録されている。「影戯」とは言うまでもなく「皮影戯」そのものである。こちらはすべて短編、すなわち「折子戯」の台本である。


+『三疑記』 原本:首都図書館
+『大拝寿』 原本:首都図書館
+『字差』 原本:首都図書館
+『老媽開謗』 原本:首都図書館
+『收青蛇』 原本:首都図書館
+『金銀探監』 原本:首都図書館
+『岳玉英搬母』 原本:首都図書館
+『路老道捉妖』 原本:首都図書館

車王府曲本は、例えば中央研究院所蔵の俗曲コレクションの様な、劇団や芸人が所有していた台本や、街中で売られるなどして流通していたテキストの集成ではなく、おそらくそうしたものを借りるか購入するかした上で、統一した体裁のもとに書写したものであり、ほとんどのテキストは、縦19cm×横10.5cm・5行×20字、縦21cm×横12cm・5行×20字、縦21cm×横13cm・6行×20字の三種のいずれかが採用されている。しかし、皮影戯だけはいずれも、縦17.5cm~18cm×横12.5cm~13cm・8行×18~20文字という独自の規格が採用されている。皮影戯台本間でも複数の書き手による筆跡の差異が見受けられるため、規格の相違は書写者の別を反映するものではない。それは逆にいえば、第一回購入分の「某種戯詞」、第二回購入分の「某種戯詞」「影戯」の三種は、いずれも同一のカテゴリーのものと考えられていたということになる((なお、芸術研究院図書館と東京大学東洋文化研究所双紅堂文庫の所蔵分には、皮影戯台本は含まれていない。仇江・張小瑩「車王府曲本全目及蔵本分布」および仇江「『清蒙古車王府曲本』遺珠雑談」、『車王府曲本研究』(広東人民出版社、2000年)所収を参照。))。

さて、第二回購入分の「某種戯詞」三種については、冀東皮影の演目の中には見いだすことができない。また、「影戯」として分類されているものについても、やはり楽亭皮影「伝統単齣劇目」などには見あたらない((『楽亭文史第五輯――楽亭皮影』82-94頁。))。しかし、うち幾つかについては、北京西派で行われた演目の中に見えるのである。

まず「某種戯詞」のうち『英烈春秋』と、「影戯」の『收青蛇』『路老道捉妖』が基づく本戯『白蛇伝』は、北京西派の常演演目である“京八本”に数え上げられているものである((関俊哲『北京皮影戯』(北京出版社、1959年)、および劉季霖『影戯説』(好文出版、2004年)参照。))。また、「影戯」の『大拝寿』『三疑記』『字差』『老媽開謗』『金銀探監』『岳玉英搬母』は、1915年にドイツで出版された皮影戯台本集である『燕影劇』の中に見える((拙稿「[[『燕影劇』の編集をめぐって――ドイツ・シノロジストによる北京皮影戯の発見>『『都市芸研』第三輯/『燕影劇』の編集をめぐって]]」、『中国都市芸能研究』第三輯(好文出版、2004年)参照。))。『燕影劇』は、もととなったテキストは詳細は不明ながら、ある一つの戯班が行っていた演目を反映したものだが、この中にやはり“京八本”の一つである『混元盒』((拙稿「[[混元盒物語の成立と展開>北京プロジェクトⅠ成果報告/混元盒物語の成立と展開]]」、『近代中国都市芸能に関する基本的研究』(平成9―11年度科学研究費基盤研究(C)成果報告論文集、2001年)参照。))や、西派路家班の演目である『夜宿花亭』『双怕婆』『王小趕脚』((この三種は民国期に百代唱片公司からレコードが出ているが、歌っているのが西派に属する路家班であることから、かれらの演目であると解る。『中国伝統音楽集成』(日本コロムビア、1980年)参照。))などが収録されているので、これらの演目も同様に西派のものである可能性が高い。
まず「某種戯詞」のうち『英烈春秋』と、「影戯」の『收青蛇』『路老道捉妖』が基づく本戯『白蛇伝』は、北京西派の常演演目である“京八本”に数え上げられているものである((関俊哲『北京皮影戯』(北京出版社、1959年)、および劉季霖『影戯説』(好文出版、2004年)参照。))。また、「影戯」の『大拝寿』『三疑記』『字差』『老媽開謗』『金銀探監』『岳玉英搬母』は、1915年にドイツで出版された皮影戯台本集である『燕影劇』の中に見える((拙稿「[[『燕影劇』の編集をめぐって――ドイツ・シノロジストによる北京皮影戯の発見>『都市芸研』第三輯/『燕影劇』の編集をめぐって]]」、『中国都市芸能研究』第三輯(好文出版、2004年)参照。))。『燕影劇』は、もととなったテキストは詳細は不明ながら、ある一つの戯班が行っていた演目を反映したものだが、この中にやはり“京八本”の一つである『混元盒』((拙稿「[[混元盒物語の成立と展開>北京プロジェクトⅠ成果報告/混元盒物語の成立と展開]]」、『近代中国都市芸能に関する基本的研究』(平成9―11年度科学研究費基盤研究(C)成果報告論文集、2001年)参照。))や、西派路家班の演目である『夜宿花亭』『双怕婆』『王小趕脚』((この三種は民国期に百代唱片公司からレコードが出ているが、歌っているのが西派に属する路家班であることから、かれらの演目であると解る。『中国伝統音楽集成』(日本コロムビア、1980年)参照。))などが収録されているので、これらの演目も同様に西派のものである可能性が高い。

なお、冀東皮影は長編の演目を行うことが特徴であるが、折子戯を行わない訳ではない。事実、1930年代における冀東皮影の演目調査を調査した湯際亨の「中国地方劇研究之一・灤州影戯」((『中法大学月刊』8巻3期、1936年。))には多数の折子戯の名前が挙がっており、「現在は折子戯の時代である」とまで言っている。ただしそうした状況は、1910年代から1920年代にかけての李紫蘭による改革以降に生じたものである((『楽亭文史第五輯――楽亭皮影』16頁。))。李紫蘭は行当の整備や音楽の改変などをすすめ、道光年間の高述尭による改革に匹敵する冀東皮影の大幅な変革を行ったが、これは唐山地区の工業的発展による都市化の進展と、それに伴って生じた上演形態の変化と表裏一体のものであった。すなわち折子戯の上演は、従来の数十日に渡って行うという農村上演の形態が守れなくなったために起こった現象である。これに対して、北京西派は都市部で堂会などを中心に活動していたため、はやい段階から折子戯の上演を行っていた可能性がある。そう考えると、車王府曲本第二回購入分に収録されている「影戯」、すなわち折子戯皮影が、西派のものである可能性はやはり高いと考えられるのである。

前述したように北京西派の台本は口伝で継承されたとされ、書写テキストを作成する習慣はないが、それは同じく車王府曲本に含まれる京劇なども同様である。したがって、これらの台本は恐らくはコレクション形成の過程で実際の上演を記録したか、あるいは台本を読み物として貸し出す業者から借りるなどして作成していったものだろう。特に、京劇が中央研究院俗曲コレクションの中に様々な貸本業者の台本が残っていることからすれば、皮影戯も後者である可能性が高い((王秋桂編『李家瑞先生通俗文学論文集』(台湾学生書局、1982年)参照。))。

さて、以上の点からすると、車王府曲本の第一回購入分には北京東派、第二回購入分には西派の台本が収録されているのではないかという推測が成り立つ。第一回購入分と第二回購入分とのこうした相違は、実は他のジャンルのテキストにも見られる現象である。例えば、高腔や京劇といった、生身の俳優が演じる演劇の台本は、すべて第一回購入分に含まれており、第二回購入分には存在していない。逆に、説唱芸能のうち、大鼓書については第二回購入分の中にしか見出されないのである。すなわちこのコレクションは、顧頡剛が整理する以前から、恐らくはもとの所有者――車王府――の段階ですでに分野ごとにテキストがまとめられていたのであろう。車王府曲本が二つのコレクションを合わせたものなのか、あるいはもとより単一のコレクションであったのかは解らないが、いずれにせよ第一回購入分と第二回購入分という区分には、それなりの意味があるものと思われる。となると、例えば顧頡剛による第一回購入分の分類に第二回購入分を取り込んだ北京古籍出版社影印本で用いられている分類は、全体を俯瞰するには便利であっても、結果として本来の配列を解りにくくしてしまったものと言えるだろう。

*5.おわりに [#n9a6a9d3]

車王府曲本が王府で集められたコレクションであれば、宮廷や王府における芸能の上演状況をある程度反映している可能性もあり、そこからあるいは旗人の堂会を中心に活動した北京西派皮影を反映しているといえなくもない。ただ、車王府曲本全体を見ると、収録されている芸能はあまりにも雑駁であり、実際に王府で行われた上演というよりは、基本的には当時北京で流通していた芸能台本を集めたものである。だからこそ東派の皮影戯台本も多数含まれているのであり、そこにもし王府という特徴を見出すというのならば、西派のテキストも入手することができた、その収集能力にあるのだろう。

北京東派、あるいは冀東皮影の台本は、書写による伝承が一般的であるという性質も手伝って、多量の写本が残されており、テキストの比較検討も比較的容易である。しかし西派の場合は残された台本が圧倒的に少なく、そうした意味で車王府曲本第二回購入分に含まれる資料は貴重なものであり、今後の西派皮影研究の基礎となるものであると言えよう。

なお、本稿では触れることができなかったが、西派に関わると思われる書写テキストは、『燕影劇』以外にもさらに数種あり、今後はさらにこれらの資料を分析することで、西派皮影の演目全体について研究をすすめる必要がある。これについては、また稿を改めて検討したいと思う。

>*本稿は、日本学術振興会科学研究費・基盤研究B「近現代華北地域における伝統芸能文化の総合的研究」(2005年度、課題番号:17320059、研究代表者:氷上正)による成果の一部である。