北京プロジェクトⅠ成果報告/北京西派皮影戯をめぐって-上 の変更点

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*北京西派皮影戯をめぐって [#q2cc0fed]

RIGHT:千田大介

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*はじめに [#j8d5a7aa]

**(一) 皮影戯概説 [#l1d89d12]

皮影戯―影絵人形芝居―は、透明な皮革に着色した人形を、紙や布のスクリーンの裏から灯光で投影しながら演じる演劇である。アジアからヨーロッパまで世界各地に分布し、ことジャワのワヤンはよく知られている。中国の皮影戯は、北宋代にその具体的姿を現してより、中国各地の都市や農村に広く流行していたが、20世紀の社会動乱と近代化の中で次第に廃れていき、人々の目に触れなくなった。皮影戯が盛んであるとされる河北東部および陝西の小都市・農村でも、1990年代以降の経済発展を背景としたテレビの普及によって、劇団は急速にその数を減らしているという。このため、20世紀に近代的な中国演劇研究が始まったとき、皮影戯は既に研究者の目に触れにくいものとなっており、調査・研究が遅れる要因となった。

本稿は、元北京皮影劇団編劇劉季霖氏への十数次にわたるインタビュー、および関連文献の調査から得られた知見に基づいて、北京皮影戯の歴史と特色に関する基礎的事項をまとめ、あわせて近代北京におけるそのメディアとしての機能の変容について考察したものである。現在劉季霖氏に北京皮影戯の歴史をまとめた書籍をご執筆頂いているため、インタビュー結果を一々採録することはせず、このような報告書に論考を加えた形態にまとめることにした。

**(二) 北京東派と西派 [#za11971e]

北京の皮影戯は、東西二派に分かれており、美術・音楽・台本など多くの面で相違があった。北京内城という狭い地域にこのような差異が生じたことは奇異に感じられるが、清代までの北京では、内城の中央を正陽門・紫禁城・景山が占めており、東城と西城との往来に時間を要したことに起因する。そもそも、皮影戯にとどまらず北京の東城と西城とでは、町の雰囲気は大分異なっている。例えば、現在でも西単・西四と東単・東四とでは、西の方が洗練されたイメージをもっている。また、東城には旧時、禄米倉・太平倉などの多くの倉庫が置かれ、江南から水運で通州にもたらされた物資が陸路運び込まれた。通州を越えて山海関そして東北へと至る街道沿いにあたるのが現在の唐山市であり、その地に盛行した灤州皮影戯・楽亭皮影戯の劇団が街道沿いに北京東城に進出し、北京東派皮影戯を形成した。このため、劇団の多くは東単から東四・隆福寺周辺に所在していた。

西城は、北は居庸関を通じて大同に、西南は河北西部を経て河南・山西へと通じていた。西派皮影戯は涿州大影とも呼ばれたが、蜀漢の先主劉備の出身地として知られる涿州はその交通路の重要な中継地であった。劇団は、菜市口から西単・西四を経て新街口に達する道沿い、および鼓楼付近に主に分布していた。

現在の北京皮影劇団の前身は、最後の西派皮影劇団であった徳順班である。徳順班は路耀峰とその五人の子が中核となった劇団であり、路家班とも称される。本研究のインフォーマントである劉季霖氏は、文革後、北京皮影劇団の団長を務めた人であり、現在の北京皮影劇団が伝統演目を継承していないため、西派皮影戯の最後の生き証人である。このため、本稿では北京皮影戯のうち、西派を中心に扱う。

**(三) 用語 [#wbb2d99d]

本稿で用いる皮影戯関連用語について、ごく簡単にまとめておく。

***皮影戯・影戯 [#z1f8f0f8]

皮影戯とは、人形の素材に皮革を用いた影絵芝居、影戯は皮革に限らず紙などの素材を用いたものをも含める総称として用いる。

***影人 [#g18e2608]

「影偶」とも称される。影戯で用いられる人形のこと。

***頭楂・身子 [#ode06d2a]

多くの地方の影戯では、頭はすげ替えられるようにできている。胴体(「身子」)から取り外した頭部が「頭楂」である。

***影戯箱 [#ka35190c]

文字通りには、影人を収納する箱を指す。転じて、皮影戯の劇団を指すこともある。

***影巻 [#j7a6ccc6]

皮影戯の台本。「影詞」などとも称される。

***影幕 [#r9e18549]

影人を投影する紙もしくは布製のスクリーン。

***冀東皮影戯 [#b78ff1c9]

灤州皮影戯・楽亭皮影戯は、ともに現在の河北省唐山市の県名を冠する皮影戯の流派であるが、両者の差異は小さく、同一のものと見なして問題ないという。このため、本稿ではそれらを「冀東皮影戯」と総称する。

***人戯 [#s13b7f78]

皮影戯の用語ではないが、本稿中で木偶戯・皮影戯など人形を使って演ずる演劇と区別して、人が演ずる演劇を称する際に用いる。

*一. 劉季霖氏の略歴 [#g1b62e01]

**(一) 劉季霖氏の出自 [#x0e78095]

はじめに、北京皮影戯調査のインフォーマントである元北京皮影劇団編劇の劉季霖氏の出自および経歴について、まとめておく。

劉季霖氏の父祖は正黄八旗に属する満州族であった。家譜等は残らない。言い伝えによれば、一族の故地は松遼平原、清の入関とともに鎮海将軍をつとめた郎賽が16歳にして北京に移住した。以下、熙洽・阿爾泰・伊里布らは、いずれも将軍、あるいは大学士をつとめた。

数代くだって、劉氏の曾祖父・松寿は、義和団事件の頃、正紅旗都統・統領火器営をつとめる二品の官であった。その次男の劉子先が劉季霖氏の祖父となる。長男は劉大爺と呼ばれ、筆帖式であったが、京劇・子弟書の愛好家で、自ら票房を開いていた。劉季霖氏はおさない頃、その影響をうけた。しかし、道樂のために家は没落し、その子・黒大爺は阿片にも手を出し、一族から遠ざけられたという。

劉季霖氏の父は劉鋆。解放前には鉄道の車掌および駅長を務めた。梅蘭芳が上海公演に赴く際に撮影した写真に写っているという。当時の車掌は、英語力を求められる、エリートの職業であった。解放後は中央財経委員会の通訳、米糧庫学校の教員などをつとめ、1993年に亡くなった。

**(二) 劉季霖氏略年譜 [#h63f5d61]

劉季霖氏の経歴を略年譜の形で概述する。

,1936,1歳,小沙菓胡同(西単民族飯店そば)に生まれる。
,1939~40,4、5歳,前門外の新新勧業場三階の新羅天劇場にて初めて皮影戯を鑑賞。
,,,小学校在学中より、西洋画の左輝、国画の呂牧石らに師事する。
,1943,8歳,鼓楼大街宝鈔胡同に転居。
,1946,11歳,護国寺題帽胡同に転居。
,1952,17歳,北京市第七中学入学。
,1954,19歳,南苑の華北第一機械技術学校(第245技校)に編入学。飛行機の試験飛行の観測などを学ぶ。
,1955,22歳,同校を退学、徳順班に入る。路景達を師に拝する。
,1966,31歳,文革のために、東城区美術人形廠にて工芸品・人形の制作に従事。後、工業局に移り宣伝を担当。
,1979,43歳,劇団に復帰。
,1980,44歳,北京市文聯代表となる。

劉季霖氏は、中学で成績優秀であったため、先端技術である航空機関連の学校に特に選抜されたが、芸術家はだであったためその仕事がいやで、結局、おさない頃に魅せられた皮影戯の世界に入ることを決意した。知識人でありながら下海して皮影戯に携わったために、芸人でありながら自らを語る言葉と文章力を有している点、珍しい例であるといえる。他方、劉季霖氏が語る内容がその知識によって方向性を与えられ、偏っている危険性も考慮する必要がある((劉季霖氏の経歴については、孟皋卿《京都工芸》(北京少年児童出版社 1991)にも掲載されているが、
劉季霖氏が我々に語った内容と多少食い違う部分もある。))。

著作としては《中国皮影戯》があり、ほかさまざまな媒体に、皮影戯および北京伝統文化などに関する文章を発表している。

*二. 北京西派皮影戯研究史概観 [#qc7b1ca3]

影戯の研究史については、磯部彰に「中国の影絵芝居とその人形」((『富山大学人文学部紀要』第十九号 1993
))があり、かつ全国の皮影戯を網羅的に扱った金字塔とも言うべき江玉祥《中国影戯》((四川人民出版社 1992。《中国影戯与民俗》(台湾 淑馨出版社 1999)も内容はほぼ同じ。))がある。そのため、本章では影戯研究史の全貌を検討する煩を避け、北京皮影戯に関連する代表的な論考に絞って内容と背景、問題点を整理し、研究史を概観する。

**(一) 民国時期の影戯研究~皮影戯の「発見」 [#t7c93a32]

***1.《北平俗曲略》 [#b56a29a6]

北京皮影戯に関するまとまった論考としては、1933年に刊行された《北平俗曲略》がある。編者は李家瑞。北京の芸能・演劇・俗曲の類を網羅的かつ系統的に解説した専著としては最も古い。皮影戯はp.36~40〈灯影戯〉の項で扱われる。

内容は、まず《事物紀源》《東京夢華録》を引いて影戯の起源が北宋代にあり、かつ説書芸能との関係が深いことを指摘する。その上で、

>現在北平的影戲,通稱灤州影戲,因為演唱者都是灤州唐山一帶的人。

と、北京市中の影戯が灤州影と称され、灤州・唐山一帯の人によって演じられることを述べる。影巻に関する記述も多く、車王府曲本と《燕影劇》を紹介し、中央研究院史語所に道光年間毓秀班鈔本を中心に五十余種の影巻が所蔵されること、および影巻の体裁が、唱の前には「……說了一遍」「在表那……」、既に述べた事実については「原是如此這般」「原是這般如此」といったフレーズを多用するのが説書に似通うことから、影戯が本来説書の一種であったと結論づける。

さらに、影巻に見える俗字・符丁について解説する。本研究の過程で収集された冀東系皮影戯の鈔本影巻には、実際にそれらの俗字が大量に見えているので、この解説は極めて有用である。あわせて、影巻〈當箱〉を収録する。

本書はしかし、北京の皮影戯を扱いながらも西派皮影戯の存在について、一言も言及していない。劉半農の序に

>我在中國俗曲總目稿的許文中說過﹔『李家瑞君毅參加此項工作之心得,寫了一部北平俗曲略;這是一部獨立的書,但也可以與本書相輔而行,作為有力的補充』。

と見えるように、本書は《中国俗曲総目稿》編纂の副産物であり、中研院史語所が収集した資料の解説としての性格を持つものであった。影巻について詳細に解説するのはこのためであり、また西派皮影戯に言及しないのも、後で詳述するように口伝で伝わる西派の影巻が収集されなかったためであると考えられよう。

***2.顧頡剛〈灤州影戲〉 [#f8c8556a]

顧頡剛の皮影戯に関する論文は、〈灤州影戲〉((《文學》第2 巻第6 期(1934.6)所収。))および死後発表された〈中国影戏略史及其现状〉((《文史》第十九輯(1983.8)所収。))の二篇が存在する。それぞれの章立てを以下に掲げる。

〈灤州影戲〉

,一 引論,二 傀儡戲與影戲,三 灤州影戲的創始
,四 灤州影戲之分期,五 灤州影戲的派別,六 灤州影戲的觀象
,七 灤州影戲之内容,八 灤州影戲與舊劇和電影,九 今後之灤州影戲―結論

〈中国影戏略史及其现状〉

,影戏之起源,汉代之影戏,隋唐之影戏,两宋之影戏
,元代之影戏,明代之影戏,清代之影戏,现时之影戏
,影戏之体制,结论,,

両者ともに、皮影戯の歴史から始まり、北京東派皮影芸人・李脱塵が著したという《灤州影戲小史》に従って、北京東派・灤州皮影戯を中心に解説する。この《灤州影戲小史》はその後の北京東派・冀東皮影戯研究の出発点となる貴重な調査記録であるが、現在どこに収蔵されているのかわからない。後者は、前者に比べて詳細な内容となっており、特に〈影戏之体制〉で、皮影戯の音楽・劇団組織・物語・上演場所などについて総合的に解説している。

論中では西派皮影戯への言及が見られるが、東西両派皮影戯を同系のものとして扱い、

>時間在清道光年間,在發展的過程裡忽然發生了兩大派別:(一)西派,(二)東派。

と、東派から西派が分化したものとする。また、東派が影巻を見ながら上演するのに対して、西派は口伝であること、東派の影人が驢皮製であるのに対して、西派は牛皮製であることに言及するが、総じて北京東派皮影戯の添え物として扱われている。

***3.斉如山〈影戯―古都百戯之四―〉 [#n350f371]

顧頡剛論文の翌年1935年、梅蘭芳のブレインとして知られる演劇研究家、斉如山が《大公報》紙上の連載《故都百戯》で、8月7日より四日間にわたって皮影戯を取り上げている。

そこでは、まず影戯の歴史を概述、全国各地に分布することに触れた上で、その発祥地が陝西であると推測する。

次いで北京影戯が二つの派に分かれることに触れるが、西派・東派の用語を意識的に避けているようで、一方が「老虎影」またの名を「流口影」、もう一方が灤州影戯であるとする。このうち北京西派にあたる「老虎影」については、涿州一帯から来たが、老芸人の伝承によれば源は河南・四川にあること、その歌詞が即興的に作られるため「流口影」と称すること、また「誇獎歌」「房舍歌」「穿衣歌」などの歌唱は灤州影に見えず、鑼鼓が弋陽腔とほぼ一致することを述べる。その上で老虎影の現状について、灤州影に押されて歓迎されず、甄三が班主をつとめる開才胡同の西天和班、陸二とういものが班主をつとめる紅羅廠西口の某班のみがあるとする。「陸」は「路」と音通であるから、徳順班のことを指すと思われる。また、旧時の影人は失われ、唱腔も断絶している中で、甄・陸の二班だけがそれを伝えているが、堂会での上演は灤州影に市場を奪われ、わずかな利益で細々と食いつなぐ状態であるとする。

一方、灤州影については、灤州起源であるが、明末に灤州人で関外に赴いて演ずる者がいて歓迎され、清朝の入関に従って北京に伝わったとの、老芸人の説を紹介する。当時の状況については、自らの見聞に基づき、光緒中葉には十四の影戯箱が存在し、演唱できるものが約90名いたと述べ、以下の劇団を列挙する。

,劇団,所在地,班主
,三楽班,崇文門内,周瘸子
,鴻慶班,東単牌楼路東,丑子
,毓秀班,煤渣胡同東口外,王瑞
,永楽班,灯市口,白四
,栄順班,銭糧胡同,李真
,裕順班,東四牌楼六条胡同,張煥章
,同楽班,東四牌楼六条胡同対過路西,趙連仲
,三義班,後門提督衙門旁,王萬杭
,徳勝班,後門方磚廠,高徳然
,玉順和班,東四牌楼弓箭大院,楊進光

これらのうち、執筆時に残るのは、裕慶(ママ)・栄順・玉順和・同楽の四班のみで、他は既に雲散したとする。また、新班として以下の三班を挙げる。

,楽春班,東四牌楼四条対過,陳薫
,裕慶班,絨線胡同,傅成志
,慶民生班,東四牌楼五条胡同,李崑

上演の情況・方式についても詳述する。これら七八班のうち、影人を持つものは四班だけで、その他の班は、堂会などの仕事が入ったときに、所有している班から借り受けて演じていた。行当は、小嗓が旦と小生を兼ね、大嗓が老生と花臉を兼ねるため、一班八人で用が足りる。光緒年間の堂会では、一時から七時まで演じ、夕食後ふたたび開演し、夜半まで演じるのが一般的で、戯価は紋銀五両、民国以降は約十元で、時間が短ければ更に安くなるとする。

さらに、旧時、怡王・粛王・礼王・荘王・車王などの王府が影戯箱を所有し芸人を雇用していたこと、特に粛王の府内には台本作家が二人、影人彫刻家が四人常に雇われていたことに言及し、最後に、灤州影の音楽と影人の制作方法について言及する。

以上のように〈故都百戯〉は、民国時期の北京における皮影戯上演情況を詳細に記している点で、極めて資料価値が高い。また、北京西派皮影戯について、具体的に言及した初めての文献としても、画期的な意義を持つ。

***4.東派皮影戯の「発見」、西派皮影戯の「未発見」 [#u675ec59]

以上のように、皮影戯研究は1930年代に始まるが、大半が北京東派=灤州皮影戯に関する言及に偏っている。これには、次の原因が考えられる。

皮影戯の先駆的研究業績を残した三名は、いずれも北京の出身ではない。李家瑞は白族の出身で、雲南大理の人。北京へ移ったのは、南京大学から北京大学予科への転入時で二十代のときである。顧頡剛は江蘇蘇州の人で、やはり北京大学で学んでいる。彼が北京でいかにして戲迷になったかは、『ある歴史家の生い立ち』((岩波文庫 1987、平岡武夫訳。))に詳しい。斉如山は、河北省高陽の出身である。

彼らは、いずれも青年期に北京に移り、そこで伝統演劇・芸能を研究対象として選択しているのであるから、皮影戯も北京に移った後で「発見」した蓋然性が高い。後で詳述するが、北京西派皮影戯は伝統的に旗人の堂会に経営の基盤を置いており、舞台上演を始めるのは1940年代に入ってからである。従って、老北京の堂会を知らない“外地人”である彼らが触れることができたのは、茶館などでも上演していた東派皮影戯しかあり得ず、西派皮影戯は「未発見」のままであったと考えられる。

実際、顧頡剛・斉如山らの西派皮影戯への言及は、伝聞に基づいていると思われる。

《灤州影戲》は、東派の芸人李脱塵(李崑の子)へのインタビューに基づいてまとめられたものであり、他のインフォーマントの名が見えないことから、西派皮影戯についても李脱塵の言に従うと見てよかろう。前にも触れたように、灤州皮影戯から北京西派・東派が分化したとするが、後で詳述するように、西派皮影戯=涿州大影は明末清初に既に成立していたと考えられ、東西両派は本来別系統の皮影戯である。これは、自分の属する劇種・流派をより高く位置づけたい芸人の心理ゆえと理解されよう。西派の影人や音楽的特徴への言及が全く見られないことから、《灤州影戲》執筆時点において顧頡剛自身に西派皮影戯の鑑賞経験がなかったことは、ほぼ確実である。

斉如山の記事では、西派皮影戯の音楽への言及が見られるので、あるいは西派皮影戯の鑑賞経験はあるのかもしれない。西派皮影戯は、梅蘭芳や尚小雲・程硯秋などの名旦の家で堂会戯を演じられたというから、梨園との結びつきが深かった斉如山に鑑賞経験があったとしても不思議はない。一方で、

>所唱之詞皆随編随唱,又名曰「流口影」,北京土語:凡随編随唱者名曰「流口轍」,故此名曰「流口影」。

と、西派皮影戯に台本が無く即興ででまかせに上演されるものであるとするが、実際には、西派皮影戯では人戯と同様に、芸人が影巻を暗記している。「流口影」とは、影巻を見ながら上演する東派皮影戯の立場からの罵語である。ここから、斉如山の記事も、情報源はもっぱら東派芸人にあると思われる。李脱塵への聞き取りに基づく顧頡剛の記述とは微妙に食い違い、かつ粛王府影戯箱について詳述し、それが楽春班に継承されていることを記しているので、その辺りが情報源であるのかもしれない。

この時期に北京の皮影戯が研究者によって「発見」されたのは、1930年代という時代ゆえであろう。中国において民俗学研究が始まったのは1919年のいわゆる五・四運動以降のことである((以下、初期の中国民俗学の展開については、直江弘治『中国の民俗学』(岩崎美術社 1967)、川村湊
『「大東亜民俗学」の虚実』(講談社選書メチエ 1996)に基づく。))。1922年には周作人らが編集をつとめる《歌謠週刊》が創刊され、各地の民間歌謡の収集がおこなわれた。顧頡剛はそのような思潮の中、俗曲や唱本の収集に従事するようになり、民俗学をも専門分野とするようになる。すなわち、白話文学運動と表裏一体をなす白話通俗文学への関心の高まりが、1930年代に入って初期の皮影戯研究に結実したと考えられる。

**(二) 解放後の西派皮影戯研究 [#w7a5bc42]

1940年代、北京に残る皮影劇団は現在の北京皮影劇団の前身である北京西派の徳順班のみとなった。このため、解放後の北京皮影戯に関する論著は、ほとんどが徳順班を扱ったものである。

***1.関俊哲《北京皮影戯》 [#tefbc1ce]

北京西派皮影戯に関する初めての書籍が、関俊哲の《北京皮影戯》((北京出版社1959。))である。目次を以下に掲げる。

,第一章 皮影戯的発展,第二章 北京皮影戯的伝統劇目
,第三章 皮影戯的音楽伴奏和影詞,第四章 北京皮影戯人物的造形
,第五章 皮影戯人物的彫鏤,第六章 皮影戯人物的色彩
,第七章 影幕,第八章 動作和場面
,第九章 効果,第十章 新式影戯人物設計
,第十一章 如何組織演唱,

歴史から音楽、人形まで全般的に扱っている。

劉季霖氏によれば、関俊哲は瀋陽の出身で共産党員、北京の解放にともなって紅軍とともに北京に移り、北京市文芸処に所属していた。そのとき、所轄下にあった徳順皮影戯社に出入りして団員から話を聞き、上演や後台の様子を観察してまとめたものである。ただし、関俊哲は高等教育を受けた経験がなかったため、本書の内容、特に北京皮影戯の歴史をまとめた部分には錯誤が多く見られるとのことである。

しかし、特に第四章以下、1950年代の北京皮影戯の影人製作や劇団の体制を記した部分は、中華人民共和国初期の劇団の様子を伝える資料として、重要な意味を持つ。

***2.翁偶虹《路家班與北京影戲》 [#u47820e7]

翁偶虹は、《鎖麟囊》《紅灯記》などで知られる京劇の劇作家であるが、北京の伝統芸能にも詳しく、徳順班と北京西派皮影戯についてまとめた《路家班與北京影戲》((《文史資料選編》第二十三輯(北京出版社 1985)所収。))を執筆している。徳順班の路景平へのインタビューをまとめたものであるようだ。

全体は六章からなり、それぞれ、路家班の歴史、清末・民国時期の北京皮影戯の劇団、祖師爺、レパートリー、腔調、影人操作方法と口訣について概説する。個々の内容については後で北京西派皮影戯について概述する際に触れるが、作者は伝統劇に精通するだけに、簡潔ななかに必要な内容が盛り込まれており、北京西派皮影戯を考察する上での基本資料となる。

**(三) 秦振安の西派皮影戯捏造説 [#jbca0f7a]

在米華人である秦振安の《中國皮影戲之主流―灤州影》((台湾省立博物館 1991。))では、第五篇を北京西派皮影戯は灤州皮影戯に他ならないのを、路家班が名称を捏造したとの説を証明するために費やしている。論理的に破綻しており、中國の皮影戯研究界でも同意を得られていない説であるが、本稿で西派皮影戯を取り上げる以上、批判しないわけにもいくまい。

秦が西派皮影戯を捏造だと断定する根拠を以下に整理する。

-A)涿州出身の路福元・路耀峰は北京に出て、灤州皮影戯を学んでいる。
-B)涿州大影、あるいは蘭州皮影と称するが、涿州や蘭州に皮影戯は無い。
-C)1959年に、路家班は唐山市皮影劇団から人形・録音・技術等の援助を受けている。
-D)北京のような狭い場所で二つの派ができるのは不自然。
-E)全ての台本を口伝で暗記できるはずがない。

まずA)であるが、劉季霖氏および翁偶虹《路家班与北京影戏》によれば、路家の原籍は東北、北京の昌平県沙河路家荘に定住したものであり、涿州出身ではない。秦はこのことを1938年に北京東派皮影戲の老芸人・劉煥亭から聞いたとするが、その伝聞の不正確さはこの一事をもって明らかであるし、芸人はともするとライバルを貶めようとするものであるから、そのまま鵜呑みにすることはできない。

B)については、《北京皮影戯》を著した関俊哲が秦への手紙の中に、涿州での調査の結果、皮影戯が存在しなかったことに言及している。しかし、それは勿論、過去に存在しなかったことの証明にはならない。事実、涿州には古い影人が伝わっており、旧時皮影戯が存在したことが確認できる。その影人は王宇文主編《郷土藝術》(河北美術出版社1990)に収録されている。

#ref(http://wagang.econ.hc.keio.ac.jp/~chengyan/images/chida1.gif)
CENTER:涿州驢皮影《郷土藝術》p.65

秦は、西派皮影戯が蘭州皮影戯を詐称したのは、灤州皮影戯と似た発音であったためであるとする。その可能性は確かにある。しかし、それをもって一つの劇種の存在を否定することは不可能であるし、そもそも、西派皮影戯の蘭州起源説は伝説に過ぎない。秦は一方で、顧頡剛が伝説であると明言している灤州皮影戯の創始者黄素志について、秦の故郷である各安荘に当地の出身であるとの言い伝えが残ることによって実在を断定するなど、資料の扱いが極めて恣意的かつ非論理的である。

C)であるが、その時期の北京皮影劇団は陣容が整わず、楽団すらも揃わなくなっていた。そのため、陣容の整った唐山市皮影劇団に援助を求めたもので、西派の技術と相違があるからこそ、冀東皮影の技法を学ぶ必要があったと考えるのが自然である。

D)については、旧時の北京には東西で異なる文化が生まれる地理的要件が、前述のように備わっていたのであり、清代までの北京に関する理解が不足している。E)に至っては、伝統劇の役者あるいは説唱芸能が、長大な台本を覚えている事実を知らないのだろうか。例えば、京劇の武生俳優である王金璐氏は2000ものレパートリーを暗記しているという。文字を知らないということは、逆に超人的な記憶力をもたらすものである。

そもそも、西派の劇団が路家班一つにとどまらなかったことは、斉如山の《大公報》の記事からも明らかであるし、その影人のデザインは冀東皮影戯と明らかに異なる。乾隆年間以前と思われる旧影人も存在する。秦説の無理は火を見るよりも明らかである。

秦は唐山市各安荘の出身で、皮影戯と郷土への愛にあふれた人物であること、「中國皮影戲之主流」というタイトルに如実にあらわれている。推察するに、冀東皮影戯に比べて勢力の微弱な、西派皮影戯の流れを汲む北京皮影劇団が、北京にあるばかりに中国の皮影戯の代表として扱われることに、秦は我慢がならなかったのであろう。灤州皮影戯への盲目的な愛ゆえの過ち、といったところであろうか。

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#include(北京プロジェクトⅠ成果報告/北京西派皮影戯をめぐって-下)