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嘉靖、隆慶のころ、松江の何元朗が奴婢を召抱えて歌を習わせると、そのころの役者たちは、みな彼を避けた。それは歌われていたのがみな北詞で、北方の異民族の遺風をなおも残していたからである。何元朗はまた数人の婢女を教え、みな北曲を得意とするようになり、南京の教坊の頓仁に賞賛された。頓仁は武宗にしたがって北京に入り、北方の音楽の伝統を全て伝授され、江南においては第一人者であった。晩年は流落し、その伎芸を知る者もいなくなった。頓仁は曲を論じてこう言っている。「南曲の簫やは、これを『唱調』と呼ぶ。北方の弦楽器の曲では演奏できず、曲譜におこすこともできない。」沈璟の『増定南九宮曲譜』が流行すると、北曲九宮については問う人もいなくなった。頓仁は次のようにも言っている。「北曲の弦楽の九宮は、あるものは『滾弦』を用い、あるものは『花和』、『大和』、『釤弦』を用いて、みな規則があった。しかし南九宮はといえば、よるべき規則が無い。さらに管楽器は音を少し長短に調節すれば、すぐにリズムに合わせられる。弦楽器はもし一つ多く弾いたり少く弾いたりすれば、たちまちリズムに合わなくなる。」江南では、三弦を南曲の歌に合わせ、その上また管楽器をそれに添わせる。これは唐人の言う「錦の上着の上から簑を着る」というものである。管楽器は北曲に取り入れることができるが、弦楽器を南曲に入れることはできない。それはおそらく、南曲が弦楽のリズムにのらないからであろう。北詞にも、弦楽器に調和しないものがある。例えば鄭徳輝や王実甫でも、時にそれを免れ得ない。元人は、多く北曲になじんだが、南曲にまでは及ばなかった。成化、弘治の頃には、沈仕、陳鐸らが南詞の領袖であった。同時期に康海や王九思はともに北詞で一世を風靡した。王九思は、作詞を学ぶにあたって、名人を招いて歌を三年学んでからようやく始めた。章邱の李開先も、作詞で名をなし、康、王と交流した。しかし音楽はあまり得意ではなかった。たとえば彼の『宝剣記』は、生硬で音楽に合わず、さらに南曲に入声があるのを知らず、『中原音韻』で韻を踏んでしまったので、蘇州っ子たちにけなされることになった。同時期では、馮惟敏だけが誤って賞賛している。この他の江南の作詞家たち、唐寅、祝允明梁辰魚張鳳翼といった人々は、才気にまかせてはいるが、みなそれらは本物ではない。今歌い継がれている南曲、たとえば「東風転歳華」は、元の高明の作と言われるが、実は陳大声と徐髯翁の聨句である。陳は名を鐸、号を秋碧、大声はその字である。金陵の人、官は指揮使であった。(『蝸亭雑訂』を節録。)

(川)

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Last-modified: 2016-08-19 (金) 16:30:38 (1040d)