[[036]]

『[[真珠船]]』に言う。

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[[元曲]]の『[[中原音韻]]』、『[[陽春白雪]]』、『太平楽府』、『天機余錦』などの選集や、『范張鶏黍』、『王粲登楼』、『三気張飛』、『趙令譲肥』、『単刀会』、『敬徳不服老』、『蘇子瞻貶黄州』などの劇は、おおむね音調は悠揚として、その精神は雄大壮麗である。後世には、それらと比肩しうる作者はほとんどいない。当時、宮廷の重臣、地方の官僚や要職に漢人はほとんどつくことができず、みな下役として押さえつけられ、志を得ることができなかった。たとえば関漢卿は太医院尹であり、[[馬致遠]]は行省務官であり、[[宮大用]]は釣台山長であり、鄭徳輝は杭州路吏であり、[[張小山]]は首領官にすぎなかった。その他、帳簿係に甘んじたり、官途につけずに老いたものは、さらに多かった。そこで、その治国の才を歌の端に託し、悲憤慷慨の思いを述べたのであろう。いわゆる「その平を得ずして鳴く」というものである。
また言う。
古えには、四方全てに音楽があったが、今歌曲はただ南北の二つの音楽だけに統べられている。「[[伊州]]」、「[[涼州]]」、「[[甘州]]」、「[[渭州]]」などは、もとは西方の音楽であったが、今はすべて[[北曲]]となっている。このことから見るならば、「撃壌」、「[[衢歌]]」、「[[卿雲]]」、「[[南風]]」、「[[白雲]]」、「黄沢」の類、『詩経』の詩篇、漢代の楽府から、下っては元の関漢卿、鄭廷玉、白樸、[[馬致遠]]の作品に至るまで、その言葉には雅、俗の区別はあるが、いずれも北方の音楽である。南方の音楽はといえば、則ち、儒者の[[接輿]]、越人の[[紫玉]]、「呉歈」、「楚艶」、さらには今の戯文にいたるまでが、いずれもこれにあたる。しかし、『詩経』には南方の音楽は無く、「[[周南]]」、「[[召南]]」もみな北方の音楽である。


RIGHT:(川)


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