[[051]]

『[[西河詞話]]』に言う。

>むかし歌と舞いは別々のもので、歌い手は舞わず、舞い手は歌わなかった。そして舞曲の歌詞も、必ずしも舞い手が演ずる中身と対応していなかった。唐代に「[[柘枝詞]]」や「[[蓮花鏇歌]]」が作られてから、舞い手の持ちものと歌い手の措辞とがやや呼応するようになったが、物語はなかった。北宋の末に安定郡王の[[趙令畤]]がはじめて『商調蝶恋歌[[鼓子詞]]』を作り、『鴬鴬伝』に基づいて作詞したが、歌詞の間に物語を配しただけでせりふは無かった。金の章宗の時になって、[[董解元]]―いかなる人物かは分からない―が、『[[西廂]諸宮調]]』を作った。これにはせりふも歌もあり、もっぱら一人で演奏しながら、語り歌うものであった。後に、金では清楽が作られたが、遼の大楽にならって作られたものであり、それにいわゆる「[[連廂詞]]」というものがある。これには歌も演技もあり、歌の担当が一人、[[琵琶]]が一人、[[笙]]が一人、[[笛]]が一人で、ならんで座って歌った。さらに男役の[[末泥]]、女役の[[旦]]児と脇役たちが、舞台で上演し、歌詞に合わせてしぐさをした。例えば「菩薩さまにお参り」と歌えば[[末泥]]はおじぎをし、「花の咲くのを摘む」と歌えば[[旦]]児が花を摘む、という具合である。北方の人々は、今でもこれを「連廂」、「[[打連廂]]」、「唱連廂」、また「連廂搬演」などと呼んでいる。おそらく(朝廷で楽人を配する四方の建物である)[[四廂]]の舞い手を並べて演じることから名づけられたのであろう。しかし(金のころは)まだ舞い手は歌わず、歌い手は舞わず、それはいにしえの舞いの作法となんら変わりはなかった。元代に[[北曲]]が確立されると、歌と舞とを一人で行うようになった。舞台の舞い手が自ら歌うようになり、そして[[笙]]や[[笛]]、[[琵琶]]を用意してその曲に合わせて演奏した。それぞれの上演が四[[折]]をきまりとするものを「雑劇」と言う。いくつかの雑劇を連ねて一つの物語を演じるものがあり、あるものは一「(雑)劇」、あるものは二「劇」、あるものは三、四、五「劇」、これを「[[院本]]」と呼ぶ。『[[西廂記]]』は五劇を合わせて一つの物語を演じるものであるが、当時もまだ歌い手は一人だけだった。「連廂」の作法にならったもので、ただちに変えるわけにはいかなかったのである。わが祖先の汀州司馬(毛公毅)が[[寧庶人]]朱宸濠のところから得た『[[連廂詞例]]』という書物には次のように見える。「歌い手が一人、舞台の舞い手に代わって歌う。」「代わって歌う」というからには、舞台の舞い手をとどめて自ら歌うということである。しかし、歌い手は二人だけで、[[末泥]]が男の歌を、[[旦]]児が女の歌を担当した。脇役が登場しても、せりふだけで歌はなく、これを「[[賓白]]」と言った。「賓」は「主」の反対であり、せりふが「賓」の位置にあるからには歌はおのずと「主」ということになる。元末明初に、[[北曲]]を改めて[[南曲]]が作られると、脇役もみな歌い、「賓」と「主」とを分けなくなった。私は幼いころ『[[西廂記]]』を見たが、一「劇」の終わりにはかならず「絡糸娘」、「[[煞尾]]」が一曲あり、演じ手が退場した後にまた歌い、さらに「[[正名]]」の四句を朗誦した。これは誰の歌、誰のせりふなのだろうか。一番最後の「劇」では、演じ手が「[[清江引]]」の曲を歌い、そろって退場した後にまた「随煞」一曲、「[[正名]]」四句、「総目」四句があったが、いずれも劇中の誰が朗誦しているのか分からなかった。しかし『[[連廂詞例]]』を手に入れてはじめて、歌い手は客席にいて舞台の上にはいないとあったので、雑劇に変化していても、なお客席で代わりに歌うという古意をとどめていることが分かった。
>むかし歌と舞いは別々のもので、歌い手は舞わず、舞い手は歌わなかった。そして舞曲の歌詞も、必ずしも舞い手が演ずる中身と対応していなかった。唐代に「[[柘枝詞]]」や「[[蓮花鏇歌]]」が作られてから、舞い手の持ちものと歌い手の措辞とがやや呼応するようになったが、物語はなかった。北宋の末に安定郡王の[[趙令畤]]がはじめて『商調蝶恋歌[[鼓子詞]]』を作り、『鴬鴬伝』に基づいて作詞したが、歌詞の間に物語を配しただけでせりふは無かった。金の章宗の時になって、[[董解元]]―いかなる人物かは分からない―が、『[[西廂諸宮調]]』を作った。これにはせりふも歌もあり、もっぱら一人で演奏しながら、語り歌うものであった。後に、金では清楽が作られたが、遼の大楽にならって作られたものであり、それにいわゆる「[[連廂詞]]」というものがある。これには歌も演技もあり、歌の担当が一人、[[琵琶]]が一人、[[笙]]が一人、[[笛]]が一人で、ならんで座って歌った。さらに男役の[[末泥]]、女役の[[旦]]児と脇役たちが、舞台で上演し、歌詞に合わせてしぐさをした。例えば「菩薩さまにお参り」と歌えば[[末泥]]はおじぎをし、「花の咲くのを摘む」と歌えば[[旦]]児が花を摘む、という具合である。北方の人々は、今でもこれを「連廂」、「[[打連廂]]」、「唱連廂」、また「連廂搬演」などと呼んでいる。おそらく(朝廷で楽人を配する四方の建物である)[[四廂]]の舞い手を並べて演じることから名づけられたのであろう。しかし(金のころは)まだ舞い手は歌わず、歌い手は舞わず、それはいにしえの舞いの作法となんら変わりはなかった。元代に[[北曲]]が確立されると、歌と舞とを一人で行うようになった。舞台の舞い手が自ら歌うようになり、そして[[笙]]や[[笛]]、[[琵琶]]を用意してその曲に合わせて演奏した。それぞれの上演が四[[折]]をきまりとするものを「雑劇」と言う。いくつかの雑劇を連ねて一つの物語を演じるものがあり、あるものは一「(雑)劇」、あるものは二「劇」、あるものは三、四、五「劇」、これを「[[院本]]」と呼ぶ。『[[西廂記]]』は五劇を合わせて一つの物語を演じるものであるが、当時もまだ歌い手は一人だけだった。「連廂」の作法にならったもので、ただちに変えるわけにはいかなかったのである。わが祖先の汀州司馬(毛公毅)が[[寧庶人]]朱宸濠のところから得た『[[連廂詞例]]』という書物には次のように見える。「歌い手が一人、舞台の舞い手に代わって歌う。」「代わって歌う」というからには、舞台の舞い手をとどめて自ら歌うということである。しかし、歌い手は二人だけで、[[末泥]]が男の歌を、[[旦]]児が女の歌を担当した。脇役が登場しても、せりふだけで歌はなく、これを「[[賓白]]」と言った。「賓」は「主」の反対であり、せりふが「賓」の位置にあるからには歌はおのずと「主」ということになる。元末明初に、[[北曲]]を改めて[[南曲]]が作られると、脇役もみな歌い、「賓」と「主」とを分けなくなった。私は幼いころ『[[西廂記]]』を見たが、一「劇」の終わりにはかならず「絡糸娘」、「[[煞尾]]」が一曲あり、演じ手が退場した後にまた歌い、さらに「[[正名]]」の四句を朗誦した。これは誰の歌、誰のせりふなのだろうか。一番最後の「劇」では、演じ手が「[[清江引]]」の曲を歌い、そろって退場した後にまた「随煞」一曲、「[[正名]]」四句、「総目」四句があったが、いずれも劇中の誰が朗誦しているのか分からなかった。しかし『[[連廂詞例]]』を手に入れてはじめて、歌い手は客席にいて舞台の上にはいないとあったので、雑劇に変化していても、なお客席で代わりに歌うという古意をとどめていることが分かった。

RIGHT:(川)

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