[[053]]

『碧鶏漫志』にいう。

>世にみえる「[[伊州]]」は[[七商]]、すなわち[[大石調]]、[[高大石調]]、双調、[[小石調]]、[[歇指調]]、[[林鍾商]]、[[越調]]の曲である。「六幺」で世に行われているものは、以下の四つ(の調)である。黄鍾羽すなわち般渉調、[[夾鍾羽]]すなわち[[中呂調]]、[[林鍾羽]]すなわち[[高平調]]、[[夷則羽]]すなわち[[仙呂調]]である。

>元稹「[[法曲詩]]」にいう。「唐の玄宗は趣向をこらして曲をつくり、しだいしだいに落ち着いた様子が変わっていった。『赤白桃李花』は花の名を取り、『[[霓裳羽衣]]』は天楽を号した。」また白居易は(「[[法曲詩]]」に)いう。「[[法曲]][[法曲]]、霓裳を歌う。」

>考えるに、唐の玄宗は「婆羅門」を「[[霓裳羽衣]]」に改めた。これは黄鍾商、すなわち今の[[越調]]に属する。宮伎が七宝の瓔珞((珠玉を綴って作ったショール。))を身に着けてこの曲を舞うと、曲が終わったあと(辺りに散らばった)玉や翡翠を掃き清めなければならない程であった。

>欧陽修はいう。「人の世に[[瀛府]]と献仙音の二つの曲がある。」[[瀛府]]は黄鍾宮に属する。(『鉄囲山叢談』にいう。「唐の開元年間に、『[[望瀛]]』、『[[法曲]]』というものがあり、今に伝わっているが、これは実は黄鍾宮である。」)

>『嘉祐雑志』にいう。「(『[[霓裳羽衣]]』は)同州((今の陝西省渭南市大荔県。))の楽人が河中((今の山西省運城市永済市。))の黄幡綽の『[[霓裳譜]]』を編曲し、また宮中の楽人の[[程士守]]も別に[[法曲]]に基づいて作曲した。[[教坊]]の伶人の[[花日新]]がこれを読んで、その後ろに書き付けた。『「[[法曲]]」はよくできているとはいえ、「[[望瀛]]」に及ぶべくもない。』」

以上のことから、『武林旧事』、『輟耕録』にいう「六幺」、「[[瀛府]]」、「[[法曲]]」、「[[伊州]]」の類は、みな曲調によって分けたものであり、現在の「[[崑腔]]」、「[[弋腔]]」さらには「[[安慶]]」、「湖広」、「[[秦腔]]」、「[[京腔]]」などに相当することが分かる。「六幺」の中には「孤奪旦六幺」、「[[法曲]]」の中には「[[孤和法曲]]」などというものがあるので、そうであるならば[[優伶]]や役がらはそれぞれの声腔がみな備えていたということになる。

RIGHT:(山下)

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