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『録鬼簿』には[[白仁甫]]作の劇目『祝英台死して[[梁山伯]]に嫁す』が見え、また宋詞の詞牌にも「祝英台近」がある。『銭塘遺事』に言う。

>林鎮は河間府((今の河北省滄州市河間市。))に属し、[[梁山伯]]・祝英台の墓がある。

乾隆乙卯年((乾隆六十年(1795)年。))、私が山東にいた時、学政((原文「學使」。清代、童生・生員の科挙など各省の学務を司る官職を学政といい、また提督学政、督学使者、あるいは学使と称した。))の阮元が『[[山左金石志]]』を編纂するにあたり、山東の各州県が碑文の拓本を送り届けた。嘉祥県((今の山東省済寧市嘉祥県。))には『祝英台墓碣文』があり、明代に刻されたものであった。また丙辰の年((嘉慶元(1796)年。))に越に旅して、寧波に至った時に、そこにも祝英台の墓があると聞いた。地方志にはこのことが以下のように詳しく記載されている。

>[[梁山伯]]・祝英台の墓は、鄞((今の浙江省寧波市鄞県。))の西十里の接待寺の後ろにあり、かつては義婦冢と称した。

また言う。

>晋の[[梁山伯]]、字は処仁、会稽の人である。若いころ遊学し、途中で祝という若者に出会って同行した。三年間学問を修めた後、祝が先に帰った。後に[[梁山伯]]も帰り、上虞に祝を訪ねて、はじめて祝が女性であり、名を英台ということを知った。[[梁山伯]]は家に帰って両親に告げ、結婚を申し込んだが、このときすでに鄮城の馬氏との婚姻が決まっていた。[[梁山伯]]は後に県令となったが、病に伏し、鄮城((鄞県の旧名。))の西の清道原に葬るよう言い残して世を去った。次の年、祝英台が馬氏に嫁ぐ際、舟が墓の所を通りかかると、波風で進むことができなくなった。英台が墓に臨んで痛哭すると、地が裂けて埋まってしまった。このことが朝廷に聞こえ、丞相の[[謝安]]が「義婦冢」に封じた。

この説は何に基づいているのか分からないが、地方志にはこのように詳細に記されている。またわが郡城((焦循の故里である江都(揚州)を指す。))の北の槐子河のほとりに高い盛り土があり、これも俗に「祝英台墳」と呼ばれている。私は城内に入るとき必ずここを通りかかる。またある者は、「これは隋の煬帝の墓だが、誤って英台になったのである」と言っている。

RIGHT:(山下)

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