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輝県((現在の河南省新郷市輝県市。))の褚邱((現在の輝県市に褚邱郷がある。))は、百泉((輝県西北の楚門山の麓にある泉。))を去ること四十里、白馬将軍祠があり、土地の人には崔姓が多く、近くには鄭村もある。『崔鄭伝奇』(『[[西廂記]]』)を演ずる者がいると、土地の人は石を投げつける。以上は『[[書影]]』に見える。

『曠園雑志』にいう。

>唐の太常の鄭恒と崔夫人鴬鴬とを合葬した墓は、淇水の西北五十里にある。旧魏県((現在の河北省邯鄲市魏県に属するが、場所が合わない。待考。))というところであるが、おそらくいにしえの淇澳((「淇奥」とも。『詩経』「衛風」に見える詩の題名。淇水の隈のこと。))なのであろう。明の成化年間に、淇水があふれ、土が崩れて石があらわになり、給事の[[秦貫]]の著した墓誌銘が見つかった。農民がこれを見つけて、崔氏に売りつけ、崔氏は中庭の亭の香机の石とした。やがて、その家をさがしあてた胥吏の吉というものが価値を見抜き、県令の邢某に話して、これを県城に移した。墓誌銘では、夫人には四徳((儒教で女性が備えるべき婦徳・婦言・婦要・婦功の四種の徳目を指す。『周礼』「天官」に見える。))が全て備わっていたことを誉めたたえているが、(彼女は)はまず元稹の『会真記』で辱められ、更に関漢卿・王実甫の『[[西廂記]]』で辱められた。久しくして墓誌銘があらわれ、崔氏の貞節の恥を雪いだというのも、また得難いことである。

『詩弁坻』にいう。

>陳継儒の『古文品外録』は「唐鄭府君夫人崔氏合祔墓志銘」を載せており、[[秦貫]]の作である。陳氏はこれに基づいて『会真記』の濡れぎぬについて論じており、その心配りはなかなかのものである。後に私がこの墓誌銘の拓本を見たところ、楷書でありながらいくぶん隸体の趣が感じられて書風は古雅、文辞もまた質実かつ風雅であった。しかし、墓誌銘では府君の諱を「恒」ではなく「遇」と称している。また、眉山((現在の四川省眉山市。))の黄恪が『会真記』の年月とあわせたところ、この碑に載せる崔氏は、その年齢が鴬鴬より四歳上であった。おそらく滎陽((現在の河南省滎陽市。))(鄭氏)と博陵((現在の河北省衡水市安平県。))(崔氏)とは、世代ごとに縁組みしていたのであり、墓誌銘の中の崔と鄭が鴬鴬と恒であるとは限らない。陳継儒は崔の恥を雪ぎたい気持ちから、深く考証しなかったのであろう。

RIGHT:(千田)

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