『説岳全伝』/09 の変更点

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*第九回 [#q3f96941]

**元帥府に岳鵬挙 兵を談じ&br;&ruby(はたご){招商店};に宗留守 宴を賜う [#y9f896dc]



>処世の光陰 百歳は難し、知己は多く無く 却って少なし。&br;眼前の困危に心焦がす無かれ。&br;但 春雷の動くを得ば、平歩して青霄に上らん。

古より男児 須く志を、文を能し武を善する英豪に奮うべし。&br;佇みて名将の衡茅((粗末な家。未だ志を得ない優れた人物の住むところ。))
を出るを看る。&br;兵を談ぜば&ruby(つぼ){竅処};に&ruby(あた){中};る、滑稽の&ruby(ともがら){曹};と認むること莫かれ。

右のしらべ「臨江仙」((この詞、底本は収録しない。家蔵石印本に拠って補う。))

さて岳飛が馬上で振り返って見れば、なんと相州で旅籠を開いている江振子だった。岳飛

「あなたは何故こちらにおいでなのですか。私があなたをひどい目にあわせたとはどういうことでしょう。」

江振子

「実を申しますと、あなたが出立されてから、洪中軍という人が、なんでも岳様に劉都院閣下の面前でうち負かされて、職を奪われたとか言い、大勢の人を引き連れて、あなたに落とし前をつけようとやってきました。手前が、もう二日にお帰りになったと答えると、やつは手前があなた方を泊めたことを根に持ち、言いがかりをつけて手前の宿屋を滅茶苦茶にしてしまいました。その上、手前にあそこで旅籠を開かせないように、顔役に言いつけたのです。手前は仕方なく、こちら南薫門内に引っ越し、以前と同様に宿屋を開きました。さきほど給仕が知らせて、皆様方の馬が通り過ぎたとか。そこで手前は追いかけてきて、皆様方に手前の宿に泊まって頂きたくお願いしている次第です。」

岳飛は大喜びして

「これはまさしく『異郷で旧友に逢う』だ。」

急いで叫んだ。

「兄弟たち、戻ってこい。」

四人はそれを聞いて、それぞれ馬首を巡らせた。岳飛は子細に話して

「江振子がここで宿を開いているぞ。」

四人もそれぞれに喜んだ。一同は江振子の宿屋まで戻って馬を下りた。江振子は急ぎ給仕に言いつけて荷物を二階に運ばせ、馬を裏の厩に牽いていって馬草を与えさせ、茶を出し水を出し、忙しく立ち回ることしきり。岳飛は江振子に尋ねた。

「あなたは先に都に来ていましたが、宗留守の衙門がどちらかご存じですか。」

江振子

「大きな衙門ですから知らない人はおりません。ここから北に向かって大通りをまっすぐ四・五里、すぐ分かりますよ。」

岳飛

「今頃は衙門にご出座なさっておいででしょう。」

江振子

「まだ早いですよ。あの殿様は、護国大元帥留守汴京の官を拝し、馬に乗っては軍を管轄し、馬を下りては民を管轄されるお方。今頃は、まだ朝廷の仕事でお戻りではないでしょう。昼を過ぎてから、ようやく衙門にご出座なさいます。」

岳飛は一声、

「ご教示ありがとうございます。」

二階に上がると劉都院の手紙を取り出し、支度をして階下に降りた。湯懐は尋ねた。

「兄上、どこに行くのですか。」

岳飛

「兄弟、お前の知らぬことだが、このあいだ劉都院が一通の手紙をくださり、宗留守に手渡しなさいということだった。私が主人に尋ねたところ『彼は朝廷で、大変な力がある』とか。愚兄は今この手紙を届けに行こうと思う。もし思し召しがあり、愚兄が官職を得られたら、兄弟たちの利益にもなるだろう。」

牛皐

「そうなら、おいらも一緒に行くよ。」

岳飛

「それはだめだ。ここはどこだ。もしお前が災難を惹き起こしたら、私にも累が及ぶではないか。」

牛皐

「おいらは口を開けずに、門の前で待ってるよ。」

岳飛はどうしても承知しなかった。王貴

「兄貴はいい人だよ。我ら一緒にその留守衙門を見に行き、牛兄弟が何もしでかさないようにすればいいだろうに。」

岳飛は仕方なく

「みながどうしても行きたいのならば、とにかく注意して、何事もしでかさないでください。子供の冗談では済みませんから。」

四人

「絶対に何事も起きないこと請け合いましょう。」

言うと、部屋に鍵をかけ階下に降りて、江振子に

「主人、お手数ですが部屋を見ておいて下さい。私たち留守衙門に行ってきます。」

江振子

「手前、いささか酒などを用意して、みなさまを歓迎したいと思いますので、どうかお早めにお帰り下さい。」

五人の兄弟は声に応じて

「ありがとうございます。おかまいなく。」

宿を出て、一同歩いてまっすぐ留守衙門にやってくれば、果たして雄壮。しばらく立っていると、一人の兵卒が、東側の轅門脇の茶店から出てきた。岳飛は近寄り手を組んでお辞儀すると

「将軍様、お訊ねいたしますが、閣下はもう衙門にお出ましでしょうか。」

その兵士

「閣下は今朝朝廷に行って、まだ帰りません。」

岳飛

「ありがとうございます。」

戻って兄弟たちに

「この時分にまだ戻っていないとは、いつまで待てばよいのだろう。宿に戻って、明日また来るのが良かろう。」

兄弟たち

「兄上のよろしいように。」

五人が身を翻して行くこと半里にもならず、ふと看れば通行人がみな両側に立っていて

「宗閣下のお帰り。」

と言っていた。兄弟たちも近くの家の軒下に立った。しばらくすると、多くの執事や将校を従え、宗留守が大きな輿に乗って、威風堂々やってきた。岳飛が四人とともに後についていくと、まっすぐ正庁まで行って輿を下りた。入って間もなく、出座を知らせる太鼓が三回打ち鳴らされ、両側の下役と将校どもは一斉に叫び声を上げた。宗留守は執務机に座ると、旗牌官に言いつけた。

「全ての文書を、閲覧決済するので次々と渡しなさい。もし湯陰県の武生岳飛が来ら、通しなさい。」

旗牌官は一声

「はっ。」

方々、なぜ宗閣下は岳飛が来るのを知っていたとお思いか。それは相州節度使の劉光世が、さきに手紙を送り、岳飛が世にも稀、蓋世無双の文武ともに秀でたまこと国家の柱石で、是非とも宗留守に引き立ててほしいと伝えていたからである。そこで、宗留守は毎日岳飛のことを考えていたが

「果たして本当の才学を備えた者だろうか、それとも大富豪で、劉節度使が賄賂を受け義理立てして頼んできたのだろうか。」

と疑い判断がつかず、ひとまず彼がやってくるのを待ち、親しく見てみよう、と考えていたのだ。

さて岳飛らが外から見れば、宗留守は果たして威風堂々、閻魔大王さながらの恐ろしげな様子。湯懐

「なぜ宗留守は戻ってすぐに、正庁に出座なさったのだろう。」

岳飛

「私もそれを考えていたのだが、五更に朝廷に上って、今になって帰ってきたのだから、一休みして何か食べてから、ようやく出座なさるのはずなのだが。おそらく、何か緊急のことがあって、このように急いているのだろう。」

話していると、かの旗牌官が一件一件、地方の府県からの文書を手渡すのが見えた。岳飛

「私も手紙を渡しに行ってよかろう。ただ、私が着ている服は白なので、おそらく不都合だろう。張君、ちょっと私と取り替えてくれないか。」

張顕

「兄上の言うとおりだ。取り替えましょう。」

そこで二人は服を取り替えた。岳飛はまた

「私が入っていって、もしも何かの縁があったなら、兄弟たちにも良いことがあろう。万一不測の事があっても、兄弟たちは外で声を立てずにじっとして、絶対に癇癪を起こして騒ぎ立ててはいけません。私の命どころか、賢弟たちの命さえも保てなくなってしまいますから。」

湯懐

「兄上、そんなに怖いのであれば、我ら試合に臨めば、この腕前があるのだから、どうしてその手紙を届ける事などありましょう。功名を得たとしても、人に劉節度の引き立てのお陰と言われるのでは。」

岳飛

「私には考えがあるのだから、止めることはない。」

ついに一人で轅門をくぐり、旗牌に話した。

「湯陰県の武生岳飛、お目通りを願います。」

旗牌

「お前が岳飛か。」

岳飛は声に応じて

「はい。」

旗牌

「閣下がちょうどお前に会いたがっておいでだ。しばらく待ちなさい。」

かの旗牌は報告して

「湯陰県の武生岳飛が、外で謁見を願っております。」

宗沢

「通せ。」

旗牌は返事して、出てきた。

「岳飛、閣下のお呼びだ、着いてきなさい。ご無礼のないようにな。」

岳飛は声に応じて

「承知しました。」

旗牌に従ってまっすぐ正庁に向かい、両膝で跪いた。

「閣下、湯陰県の武生岳飛がご挨拶申し上げます。」

宗沢は下を見やると、かすかに微笑んだ。

「岳飛は必ずや富豪であると思っていたが、果たして派手な服装だ。」

そこで岳飛に尋ねた。

「お前は何時来たのだ。」

岳飛

「武生は、本日到着したばかりです。」

そこで劉節度使の手紙を両手で捧げ渡した。宗沢は開封して読むや、机をパシッとたたき、怒鳴りつけた。

「岳飛、この手紙は、いかほどの金品で買い取ったのだ。正直に言えばそれまでのこと、もし少しでも偽りを申せば、ものども夾棍((二本の棒で足を夾み締め上げる拷問具。))
を持て。」

両側の下役たちは叫び声を上げて威嚇する。轅門の外の兄弟たちは、中で叫び声が聞こえてきたのに早くも仰天し、牛皐

「大変だ。討ち入って兄貴を救出してくるぞ。」

湯懐

「動きようがありませんよ。ひとまずどのように処置するのか見てから、考えよう。」

兄弟四人は、あれこれと話をしながら、外で様子を探った。

こちら岳飛、宗留守が怒ったのを見て、慌てず騒がずゆるゆると話した。

「武生は湯陰県の出身、亡父は岳和、武生が生まれて三日目に、黄河の洪水にあって、父は波間に命を落としました。武生は母が抱いて大ガメの中に座ったおかげで、内黄県に流れ着き、恩人王明様にお助け頂きましたが、財産田畑は全て流されてしましました。武生は長じて、陝西の周侗を義父に拝し、武芸を学びました。相州で院試を受けましたために、劉閣下のご恩を被り、湯陰知県の徐公に、武生の旧時の財産を調べさせ、資金を出して家を建て、我ら母子を住まわせて下さいました。出発に際しまた銀五十両を都に上る旅費にと贈られ、勲功を建てるべく、こちらに前途のことをお願いに上がれと申しつかりました。武生は赤貧洗うがごとし、どこに劉閣下に送る金などありましょう。」

宗沢はこの話を聞いて、心中考えた。

「以前から周侗という者は、腕はたつが、仕官しようとしないと聞いている。彼の義子であれば、あるいは本当に才学があるのかも知れない。」

岳飛に

「よかろう。矢場について参れ。」

一声言えば、一群の将校たちが宗沢をとり囲み、岳飛を連れて、矢場にやってきた。宗沢は腰掛けると、岳飛に命じた。

「自分で弓を一張り選んできて、射て見せなさい。」

岳飛は命を受け、側の弓掛けに歩いていくと、一張りを選び試してみると、弱すぎた。また一張り試してみると、やはり同じ。続けざまに幾つか試してみたが、どれも同じだった。そこで進み出て跪くと

「閣下に申し上げます。これらの弓は弱すぎて、遠くまで射ることが出来ないのではありますまいか。」

宗沢

「お前は普段はどのくらいの強さの弓を使っているのか。」

岳飛

「武生は二百余斤の弓を引き、二百歩余りまで射ることが出来ます。」

宗沢

「ならば、将校に我が神臂弓を取ってこさせよう。ただし三百斤なので、引けるかどうかは分からぬぞ。」

岳飛

「試させていただきます。」

程なく、将校が宗沢愛用の神臂弓と、えびら一杯の鷹羽の矢を持ってきて、きざはしの下に並べた。岳飛はきざはしを下り、取り上げて引いてみると、一声

「すばらしい。」

矢をつがえて、サササと続けざまに九矢放てば、すべて的の中心に当たった。弓を置き箭庁に上がって宗沢に謁見すれば、宗沢は大いに喜び

「お前はどの武器を使い慣れている。」

岳飛

「武生はいずれも些か心得ておりますが、使い慣れているのは槍です。」

宗沢

「よろしい。」

将校に命じて、

「私の槍を取ってこい。」

将校が一声返事をすると、二人が宗沢愛用の点鋼槍を担いできた((武器が重いので、二人で担いでいる。))
。宗沢は岳飛に

「使って見せよ。」

岳飛は一声返事をするや、槍を手に提げ、またきざはしを下り、矢場で槍を構えると、横に進み建てに歩き、縦に進み横に歩き、内をひっかけ外をはね、頭を隠しまた突きだし、三十六の身ごなしに七十二の変化を披露した。宗沢はそれを見て、思わず何度も

「すばらしい。」

側の者どももそろって喝采してやまなかい。岳飛は槍を使い終わったが、顔色は赤くならず、息もあえがず、槍をさっと傍らに立て掛けると、箭庁に上がって平伏し跪いた。宗沢

「見たところ、お前は果たして英雄であるようだが、朝廷がお前を将軍として用いるには、兵法はどうかな。」

岳飛

「武生の志は、もしも出世できたならば、

>都の外に命令を行い 山岳を揺るがし、&br;隊伍は整然 賞罰は明らか。&br;将は謀にあり 勇にはあらず、&br;上は包囲を防ぎ 下は坑道を防ぐ。&br;身は士卒に先んじ 常に愛を施し、&br;計は民草を重んじ 名の為にせず。&br;元帥を捕らえ献じ 国土を回復し、&br;不日凱歌を歌い 太平を定めん。」

宗留守は聞くや大喜びして命じた。

「門を閉めよ。」

そして席から離れて歩み寄り、両手で助け起こしながら

「どうか立たれよ。賄賂で出世を求めてきたものと思ったが、なんとあなたは果たして真の才学がおありだ。」

側の者に

「椅子を持て。」

岳飛

「閣下、武生ごときが座を賜るなど、僭越です。」

留守

「謙遜なさるな。座って話そう。」

岳飛はお辞儀をすると席につき、側の者がすすめる茶を飲んだ。宗沢はそこで口を開いた。

「あなたは武芸人並み優れ、大将たるに堪えよう。ただ行軍・布陣の法は、学ばれましたかな。」

岳飛

「図に従って布陣するのは、姑息な方法ですので、深く極める必要はありません。」

宗沢はそれを聞いて心中不愉快に感じ

「それならば、古人の兵法書や陣法は、いずれも必要ないと言うのですか。」

岳飛

「陣を布いて、それから戦いを交える、これは兵家の常ですが、しかし固執して変えないというのではいけません。昔と今とは違いますし、戦場には広い・狭い・険しい・なだらかなどがあり、どうして定まった陣形を用いることが出来ましょうか。そもそも用兵の大要は不意をつくことにあり、敵に味方の虚実を測らせなくしてこそ勝利が得られるの。もし敵が突然あらわれ、四方をとり囲まれでもしたら、その時に陣を布いてから敵と戦う余裕がありましょうや。用兵の妙は、ただ臨機応変にすること、すべては同じ心です。」

宗沢はこの議論を聞くと

「まこと国家の棟梁だ。劉節度使は見る目をお持ちだ。しかし、あなたは三年早く、或いは三年後にでも来ればよかった。今年とは本当に巡り合わせが悪い。」

岳飛

「閣下はなぜ急にそのようにおっしゃるのでしょう。」

宗沢

「お前は存じまいが、姓を柴、名を桂という柴世宗((五代後周の王。))嫡々の子孫で、雲南南寧州にて小梁王に封じられている藩王((「藩」は、属国、あるいは中国内の自治権を有する国を指す。))
がおるのだが、今上陛下の祝賀に朝見し、誰に吹き込まれたのか、今度の科挙で状元を奪おうというのだ。はからずも、陛下が任命した四人の試験官は、一人が丞相の張邦昌、一人が兵部大堂の王鐸、一人が右軍都督の張俊、もう一人はみどもであった。かの柴桂は四通の手紙と、四つの手みやげを送ってきた。張丞相は一つを収めてこたびの状元を彼に許し、王兵部と張都督も受け取った。ただ私だけが受け取らなかったが、今かの三人が彼を状元及第させようと取りはからっている。そこで、運が悪いと言ったのだ。」

岳飛

「これはやはり閣下のお取りはからいをお願いいたします。」

宗沢

「国のために賢人を求めるのであるから、もちろん真の人材を採用しなくてはならないのだが、しかし色々と事情があるのだ。今日は、引き留めてもっと話をしたいが、人目を引くのはよろしくない。ひとまず宿に戻りなさい。その場になってから、何とかしよう。」

さてそのとき岳飛は拝謝して轅門を出た。兄弟たちは迎えて

「長い間出てこないので、心配したよ。どうして眉根にしわを寄せているのだい。きっと留守に怒られたのだろう。」

岳飛

「彼はこの兄をとても高く評価してくださったのに、どんな怒りを買ったというのだ。ひとまず宿に戻ってから子細に話そう。」

兄弟五人が急いで宿に戻れば、はや黄昏時。岳飛は湯懐と衣服を換えた((原文ママ。前には張顕と換えたとある。))。主人は酒食を運んできて、卓に並べると

「旦那様方、まずい酒に粗末な料理で、お口に合わないかもしれませんが、どうかゆるりとお召し上がりください。手前はほかの客人の給仕がありますので、失礼いたします。」

言うと、階下へ下りていった。

こちら兄弟五人は、席について酒を飲んだ。岳飛は宗留守が演武を見たことだけを一通り話し、柴王のことは話さなかったが、心中ひそかに悶々とした。兄弟たちはどうして彼の心中を知ろう。その夜は話もない。

翌日の午前中、宿の主人がやってきて、こっそりと言った。

「留守衙門の人が五人分の酒肴を運んでおいでになり、なんでも『衙門にお招きするのは都合が悪いので、お届けいたします。岳様方の歓迎です。』とのことです。どういたしますか。」

岳飛

「それならば、上に運んできて下さい。」

すぐに二両の銀子を包むと、運んできた者を帰した。主人は給仕に手伝わせて酒を二階に運んできてならべると、下に酒の燗にゆき、給仕にかしずかせた。岳飛

「それならば、酒が燗できたら持ってきなさい。私たちは自分で勝手にやるから、給仕はけっこうですよ。」

牛皐

「主人の酒は、ただ飲みというわけにいかないが、衙門から送ってきたものなら、宴会返しの必要もない。頂くとするか。」

遠慮もせずに、席につくと、頭をさげて食い散らかした。

ひとしきり食べたところで、王貴

「こんなふうに飲んでも面白くない。酒令をやって飲もうじゃないか。」

湯懐

「その通りだ。それじゃ君が題を出してくれ。」

王貴

「それはおかしい。本来なら岳兄貴が出題役をつとめるべきだが、今日のこの酒席は、宗留守が岳兄貴の面子を立てて送ってくれたのだから、岳兄貴は主人ということになる。この出題者は張兄貴にやってもらわねば。」

湯懐

「それはよい。張兄貴頼むよ。」

張顕

「私にも酒令などできません。古人が酒を飲んで英雄になった故事を話さなくてはならない、言えなかったら罰杯三杯でどうです。」

みなは声をそろえて

「よし。」

そこで王貴は杯に満々と注いで張顕に差し出した。張顕は受け取ると、一口に飲み干して

「私が話すのは、関雲長が単刀で会に赴く、これぞ英雄が酒を飲むだろう。」

湯懐

「確かに英雄だ。我々敬意を表して一杯ずつ飲もう。」

飲み終えると、張顕が一杯注いで湯懐に差し出した。

「今度は賢弟の番だ。」

湯懐も受け取って飲み干すと

「私が話すのは、劉季子は酔った後に蛇を斬った、これぞ英雄ではないか。」

一同声をそろえて

「よし。我々も敬意を表して一杯だ。」

三番目に王貴自身に回ってきた。やはり一杯飲み干すと。

「私が話すのは、覇王項羽の鴻門の宴、これぞ英雄が酒を飲むじゃないか。」

張顕

「覇王は英雄であるとはいえ、このとき劉邦を殺さなかったがために、後に敗れることになるのだから、足りないところがある。罰杯一杯だ。今度は牛君の番だ。」

牛皐

「おいらはそんな古くさいことは知らないよ。ただ、おいらは何杯飲んでも眉一つしかめない、だからおいらが英雄だ。」

四人はそれを聞いて大笑い

「いいだろう、いいだろう。牛君は三杯飲みなさい。」

牛皐

「おいら、こんな二杯三杯では我慢できない。大碗を持ってきて二杯飲もう。」

そして牛皐は大碗を取ってくると、自ら二杯飲んだ。

一同そろって

「今度は岳兄貴に締めくくってもらおう。」

岳飛も一杯注ぐと、飲み干して

「賢弟たちが話したのは、すべて魏漢三国の人。私は今話すのは、本朝は真宗皇帝の天禧年間のこと、曹彬の子、曹瑋は宴会を開き同僚たちを招いた。かの曹瑋は席について酒を飲んでいたと思うと、ふと姿を消し、しばらくすると敵の首級を宴席に放り出した。これぞ英雄ではないか。」

兄弟たち

「兄貴それは爽快な話だ。俺たち敬意を表して一杯飲もう。」

牛皐

「みんなお上品に今だ昔だと話してるけど、おいらちっとも分からないや。なぞなぞで酒を飲もう。」

王貴

「よし。君からだ。」

牛皐は遠慮もせず、皆となぞなぞを始めたが、続けざまに何杯か負けて一同も少なからず飲んだ。こちら兄弟四人は、歓呼しては痛飲し、食べては歓びを尽くしたが、岳飛だけは心中に心配事があり

「この武状元を王子に取られてしまったら、我らは他人の下となってしまい、どうして出世が望めようか。」

考えていると、忽ち酒がまわって座っておられず、覚えず卓に突っ伏して寝てしまった。

張・湯の二人はそれを見ると、

「いつも兄貴と酒を飲めば、文を講じ武を論じとても楽しいのに、今日は全く話さなかった。いったいどうしたのだろう。」

二人は心中おもしろくなく、立ち上がるとそばの寝台で寝てしまった。王貴もいささか飲み過ぎて、体を曲げて椅子に寄りかかり、やはり寝入ってしまった。残った牛皐は、一人大碗を手になおもしきりに飲んでいたが、頭を上げれば二人は卓で寝ていて、二人はどこに行ったかわからない。心中考えるに

「みんな寝ちゃったのだから、この機に乗じて、街に見物に行こうじゃないか。」

そこでしずしずと階下に降りると、主人に

「みんな飲み過ぎて、寝てしまったので、起こさないようにして下さい。私はちょっと用を足してきます。」

宿の主人

「それならば、ここから東に行った横町に、広い空き地があって気分良く用が足せますよ。」

牛皐

「わかったよ。」

宿を出て東に向かってずんずん歩けば、道すがら人が押し合いへし合い、果たして賑やかである。覚えず三叉路にやってくると、立ち止まって考えた。

「どちらに行くのがおもしろいだろう。」

すると向かいから二人が歩いてくるのが見えた。一人は全身白装束、身の丈九尺で白い丸顔、一人は全身赤装束、身の丈八尺で、ほんのり赤ら顔。二人は手に手を取り合って、談笑しながらやってきた。牛皐が耳をそばだてて聞くと、赤装束が

「兄貴、私はこちらの大相国寺は、とても賑やかだと久しく聞いております。行ってみましょう。」

白装束

「賢弟がそうしたいなら、つきあいましょう。」

牛皐はそれを聞いて心中考えるに

「おいらも東京に大相国寺という名所があると聞いたことがある。あいつらについて遊びに行くとするか。」

考えを決めると、二人の後について東に曲がり西に折れ、相国寺にやってきた。すると様々な商店に物売り的屋で、とても賑やか。牛皐

「素晴らしいところだ。兄貴もこんな素晴らしい所があるとは知るまいて。」

また二人について天王殿に入った。すると東西に二つの人だかりがあった。赤装束が両手で人混みをかき分け叫んだ。

「どけ。」

人々は彼の出方が荒っぽいと見て、みな譲って道をあけた。牛皐も後について入っていった。これぞまさしく

>白雲は本これ無心の物&br;却って清風に引き出で来らる

というもの。

いったい何をしているのかは、次回のお楽しみ。