北宋の武門の名家・楊家の三代目当主・楊宗保は辺関を鎮守していた。その五十歳の誕生日に、祖母の佘太君は、開封の楊家屋敷・天波府で大祝宴を開き、家をあげて祝賀する。時に西夏が宋を侵略し、楊宗保は自ら絶谷に入って道を探り、不幸にも陣没する。焦廷貴・孟懐源は屋敷に報告にもどるが、宗保の母・柴郡主と妻・穆桂英は、佘太君が悲しむのを恐れて、ひとまず隠すことにする。酒宴の場で、佘太君は二人の尋常ならざる様子を見て、再三問いつめ、焦廷貴は隠しおおせず、楊宗保の陣没を告げる。佘太君は悲しみをこらえて仁宗に報告、朝臣たちは色を失う。王輝は敵を恐れて、和議を主張するが、丞相・寇准は、王輝が国を誤るのを斥け、楊宗保弔問に名を借りて、仁宗を天波府に連れていく。佘太君は既に百歳を越えていたが、忠勇は往年と変わらず、王輝に膝を屈して和を求めようとの意があると知って憤激し、自ら元帥となって西夏を征伐することを願い、楊家の女将軍たちも、それぞれ従軍を願う。楊宗保の子・楊文広も、従軍を望んだが、祖母の柴郡主は楊家の血筋が絶えることを恐れて、許さない。佘太君は楊文広に母の穆桂英と練兵場で試合をするように命じ、穆桂英は文広のために偽って負け、楊文広は同行を許される。西夏王・王文はかなわず、旧陣に退き、天険を頼んで固守し、かつ計を設けて楊文広を絶谷に誘い込もうとする。その計を看破した佘太君と穆桂英は、機に乗じて葫蘆谷に侵入、桟道を探して天険を越え、敵陣を奇襲しようと企図する。馬引きの張彪が道案内し、危険を冒し、薬草取りの老人の助力を得て、ついに桟道に登りつくと、穆桂英は火の手を合図に、佘太君と敵陣を挟撃し、西夏の軍勢を撃破、王文を討ち取る。
-1960年、范鈞宏・呂瑞明が揚劇《百歳掛帥》に基づいて改編。中国京劇院四団によって初演された。