#author("2018-11-30T22:08:43+00:00","saisyu","saisyu")
*乾隆期の觀劇と小説&br;―歷史物語の受容に關する試論― [#i815717b]
RIGHT:千田 大介
**はじめに [#x5382c91]
ここでいう「歷史物語」とは、王朝の興亡や抗爭を扱った物語、すなわち宋代説話のジャンル分類「四家數」における講史と鐵騎兒の流れを汲む物語を指す。胡士瑩『話本小説概論』((中華書局一九八〇。))によれば、講史は王朝の興亡を扱い、鐵騎兒は當時の同時代史にあたる楊家將・岳飛・中興英雄などの、遊牧民族王朝と宋王朝との抗爭を扱ったという。明末から清中期にかけての時代には、鐵騎兒の扱う時代は既に過去の歷史の一齣になっており、鐵騎兒は講史に吸收されていた。かつ小論が問題とするのは、物語の材源・變遷ではなく、明末から清代中期乾隆年間にかけての物語の受容であるから、本來別ジャンルに起源する物語を同列に論じても問題はなかろう((『話本小説概論』一一四頁。))。
歷史物語は、近世の戲曲・講談・説唱などのさまざまなメディアを通じて再生産を重ね、最終的には正史とは異なるもう一つの歷史の體系を形成するまでに發展した。その過程で章回小説が果たした、物語を集大成する作用は輕視し得ないが、近代以前の小説、とりわけ作者すら明かでない通俗小説を特權的メディアとして扱うことはできない。物語の受容の觀點から見れば、小説も戲曲・演劇、講談などの藝能、はては繪畫などと同列の、物語を傳達する一メディアに過ぎないし、いかなる形式の通俗文學作品であっても、娯樂のための作である以上、受容者との共同生産物としての性格を帶びている。從って、通俗文學研究においては、メディアの相互關係および受容の問題を避けて通ることはできない。
筆者はさきに、清中期・乾隆期の通俗歷史小説―英雄傳奇小説の成立に至る隋唐および岳飛故事の變遷について檢討した((「李玉の歷史故事傳奇と乾隆期英雄傳奇小説~『麒麟閣』と興唐故事小説とを中心に」(『中國古典小説研究』第一號 一九九五)、「乾隆期の英雄傳奇小説『説唐』の主題」(『早稲田大學大學院文學研究科紀要』第四一輯・第二分冊 一九九六)、「岳飛故事の變遷をめぐって~鎮魂物語から英雄物語へ~」(『中國文學研究』第二十二期 一九九七)。))。その結果、どちらの物語とも、元明代の雜劇・小説の物語と明末清初以後の物語との間には、物語の内容・意味づけに大きな相違が見られ、變遷の転換點に位置する明末清初の蘇州派傳奇(長編南戲)作家グループの手になる一連の歷史故事傳奇の物語が、乾隆期の英雄傳奇小説の先驅となっていることを明らかにするとともに、それらが蘇州を中心とする江南の文化の産物であることを指摘した。
即ち、隋唐故事では、元明代を通じて太宗配下の勇將・尉遅敬德にまつわる物語に重點が置かれていたが、明末崇禎年間に蘇州派の領袖李玉の『麒麟閣』傳奇、および袁于令の小説『隋史遺文』があらわれ、秦瓊を中心とする瓦崗塞反亂軍の諸將へと物語の中心が移る。そして『隋史遺文』の前半部と『麒麟閣』のより史實から離れた物語とを繼承して、清の乾隆年間に『説唐』が成立している。
岳飛故事では、雜劇『東窗事犯』南戲『精忠記』小説『中興志傳』など、傳存する元明代の作品はいずれも岳飛の鎭魂物語としての色彩を濃厚に帶びており、秦檜の岳飛謀殺と因果應報譚「東窗事犯」故事が虚構部分の中核を占めていた。しかし、明末清初になると『續精忠』『倒精忠』『如是觀』『奪秋魁』『牛頭山』などの傳奇が製作され、岳飛が武狀元を奪う「槍挑小梁王」故事、高宗を報じた岳飛が金兀朮と激戰を繰り廣げる「大戰牛頭山」故事といった、岳家軍諸將の出世物語と金との戰鬪の經過、さらには岳家將の子息たちの活躍が英雄傳奇的に扱われるようになり、それらの影響を受けて乾隆年間頃に『説岳全傳』が成立している。
岳飛故事では、雜劇『東窗事犯』南戲『精忠記』小説『中興志傳』など、傳存する元明代の作品はいずれも岳飛の鎭魂物語としての色彩を濃厚に帶びており、秦檜の岳飛謀殺と因果應報譚「東窗事犯」故事が虚構部分の中核を占めていた。しかし、明末清初になると『續精忠』『倒精忠』『如是觀』『奪秋魁』『牛頭山』などの傳奇が製作され、岳飛が武狀元を奪う「槍挑小梁王」故事、高宗を奉じた岳飛が金兀朮と激戰を繰り廣げる「大戰牛頭山」故事といった、岳家軍諸將の出世物語と金との戰鬪の經過、さらには岳家將の子息たちの活躍が英雄傳奇的に扱われるようになり、それらの影響を受けて乾隆年間頃に『説岳全傳』が成立している。
蘇州派の歷史故事傳奇は、主に知識層・富裕層が受容した崑劇のための戲曲であり、英雄傳奇小説は文字媒體である以上、讀者は當時ほんの一握りしかいなかった識字層である。兩者の受容層はかなりの部分重なっていたと考えてよかろう。
では、戲曲の物語の後を追って小説が製作されたのは、受容層のいかなる需要によるのか。同じ物語の戲曲と小説の出現に、一世紀近くの時間差があるのはなぜか。また、同じ物語を扱いながら、戲曲が文學の正統を繼承するジャンルと認められたのに對して、小説の地位が低かったのはなぜか。かかる問題意識から、小論では歷史物語を扱った代表的なメディアである戲曲・演劇と小説との關係を、物語の受容という觀點から、メディアの社會における機能・性格に留意しつつ試論し、ごく大まかな見取り圖を描いてみたい。
**一.何を鑑賞するか [#se66fedc]
現在、京劇などの傳統演劇を鑑賞するとき、「戲迷」は「唱・做・念・打」といった役者の「藝」を樂しむ。「戲迷」は傳統演目の物語はおろか、臺本字句までもあらかじめ一言漏らさず憶えているものだ。民國時期には、觀客が役者の歌詞・臺詞・演技の誤りを糺す例も多くあったし、現在でも天津や上海では、戲迷が公演が終了してから誤りを糺すために樂屋に役者を訪ねることがあるという。傳統劇の舞臺・役者には軌範を尊重し演技の型を極めることが求められているが、意外性や偶然性による感動は追求されない。このような鑑賞方法は、明末には既に確立していたようである。張岱『陶庵夢憶』には次のように見える。
>投げられる祝儀は日に數萬錢にのぼり、『伯喈』や『荊釵記』を唱う。一人の老人が舞臺の下に坐って院本と見比べていて、一字でも脱落したりすると、大勢立ち上がって騷ぎだし、また第一場からやり直させる。(巻四「嚴助廟」((『新編叢書集成』所收本。日本語訳は松枝茂夫氏訳本(岩波文庫 一九八一)による。以下同じ。)))
この老人はもっぱら臺本を見ているので、演劇が上演されているにも關わらず、演劇を通じて物語を受容してはいない。決まった型どおりの演技の完全さが追求されている。臺本も、人口に膾炙した明代南戲の嚆矢『琵琶記』と四大南戲の一つ『荊釵記』であるから、物語にも新味は無い。
そもそも、中國の元雜劇・明傳奇から現代の崑劇・京劇などに至る傳統演劇では、臉譜・衣装は舞臺の人物の地位・性格・職業などを視覺的に表現する記號であり、一見して舞臺の人物・場面が把握できるように構成されている。また、南戲では冒頭の副末開場で物語の梗概を紹介してから實際の物語に入るのが作法である。物語の知識をあらかじめ教えておくわけである。
物語や人物・場面把握を手助けする仕組みが整っている上に、レパートリーの中心は傳統劇目であるので、觀客は「唱」「念」の聞き所や「做」「打」の見所で如何に役者が伎倆を發揮するかに集中して鑑賞できる。新作であっても、傳統的手法で構成されている限り、聞かせどころは音樂設計から自ずと理解され、見所も傳統技法の型に基づいて構成されるので、十分に藝を樂しむことができる。これは、歌舞伎などにも共通する古典演劇の一般的な鑑賞方法と言ってよかろう。前引『陶庵夢憶』には次のような一節もある。
>王岑が李三娘に扮し、楊四が火工の竇老人に扮し、徐孟雅が洪一嫂に扮し、馬小卿は十二歳、咬臍に扮して、飛び入りで「粉ひき小屋」「池に捨てる」「子を送る」「獵に出る」の四段を演じたが、科、諢、曲、白の妙技は骨の髄にしみ入り、またやんやの喝采を浴びた。 (同前)
喝采の對象はセリフや歌唱の伎倆である。
前に舉げた引用でも、「『伯喈』や『荊釵』を唱う」(唱伯喈、荊釵)と、演劇を演ずることを「唱」と表現していることとあわせれば、張岱が鑑賞のポイントを歌唱の善し惡しに置いていたことは明かである。
しかし、藝を樂しむ高度な鑑賞方式が成り立つには、一定の條件が必要である。觀衆の階層・環境によって、鑑賞の對象も變わると考えられるからである。年に一二度しか戲班が訪れないような農村であれば、觀客は演劇が上演されることそれ自體に驚喜し、藝はおろか物語を鑑賞するまでに至らないかもしれない。小都市の市民層ならば、觀劇機會はより多いので餘裕をもって鑑賞できるであろうが、それでも歌唱などの藝の巧拙を辯別できるだけの經験は無いので、興味は物語へと向くだろう。上演者側からしても、鄉鎮や小都市での上演の多くは、屋外の戲臺や臨時の戲棚を用いた「草臺戲」であるので、觀客に聞こえるような大きな聲を出すことが最優先であって、節回しの微妙な味わいなどに藝を發揮することは不可能である((戲曲導演家協會會長李紫貴氏への中國都市藝能研究會によるインタビューに基づく。李氏はもと武生俳優で、民國時期に全國各地で樣々な劇團に參加して京劇を演じた經験を持つ。))。
一方、都市の知識層・富裕層などの狀況は異なる。祝いの場や社交の場では常に演劇が上演されるので、觀劇の機會は豊富である。客をもてなす目的での上演では、より優れた演技が常に追求されたし、職業劇團・家庭内劇團の數も多かったので競爭も激しかった。また、上演場所は後で詳述するように屋内なので、細かな歌唱のニュアンスを表現することも可能である。從って、鑑賞の眼目は役者の歌唱・演技などの藝に向かう。
はじめに述べたように、小論では江南の經濟的先進地域で知識層・富裕層が受容した崑劇と、戲曲・小説といった文字メディアを考究の對象とするので、現在の「戲迷」的な觀劇方法が程度の差こそあれ一般的であったと考えられる。
**二.演劇受容の場と方式 [#ne18aadf]
「戲迷」ともなれば、ありとあらゆる戲曲のストーリーや見せ場を知っているのは當然である。しかし、明清代の知識層・富裕層は「戲迷」ではなくても、社會生活上ある程度の戲曲への知識が必要だったと考えられる。
明清代、知識層や富裕層の宴席の場には、しばしば座興として演劇が供された。いわゆる「堂會」がそれであり、知識層・富裕層の成員であれば、好むと好まざるとに關わらず、演劇を鑑賞する機會は多かったのである。明末の文人・祁彪佳の『祁忠敏公日記』から、幾つかの觀劇記事を抜き出してみよう。
>夜、喬聖任の宴席に赴いた。同席は、呉達行・黃王屋、劉闇然・李鹿胎、『百花記』を觀た。(崇禎五年十一月二十七日)
>田康宇に飲みに招かれて行ってみると、郭太薇・馮鄴仙・禹海若が先に密室に座っており、花の香りは人を襲わんばかり、杯がめぐること數巡、また廣間に出て雜戲を觀た。再び書齋で『馬陵道』劇を見た。(崇禎五年十二月二十五日((根ヶ山徹「『祁忠敏公日記』に見える觀劇記事」(廣島文教女子大學紀要 平成4年)に基づく。)))
現代の觀客が劇場に足を運び、集中して演劇を鑑賞するのとは異なり、ごく普通の交友の場に演劇が付帶している。場の趣旨は交友・社交にあり、座興にすぎない演劇は飲食や話をしながら氣樂に見るものだった。何十齣にも及ぶ南戲作品を、ときに文字通り朝から晚まで上演させることもあったようだが、それは不真面目に鑑賞しているからこそ、可能であったと言えよう。
こういった宴席で消費される演劇は、現在の劇場公演で演目の決定權が上演者側にあるのとは異なり、觀客側が劇團のレパートリーのリストから見たい劇を選ぶ方式であった。この劇をリクエストすることを、「點戲」「找戲」などと稱する。點戲はただ好きな演目をリクエストすればよいというものではない。祝いの宴・餞別の宴など狀況に應じて的確な劇をリクエストしなくてはならない。選擇を誤れば、滿座で恥をかいたり、あるいは宴席をぶちこわしてしまう。
清初の文人・陳維崧は次のように書いている。
>杜于皇が次のように言った。「仲間内では、僕と其年(陳維崧)が最も鈍い。他はさておこう。ある日旅籠で風雨の中、其年と酒を酌み交わしながら閑談した。私はそこで首席には絶對に坐れない、劇をリクエストすることは苦しみだという話を持ち出した。「私は以前誕生祝いの宴席の上座に坐り、新作劇の『壽春圖』がめでたい名前なのでリクエストしたが、なんと最後まで殺伐とした劇で、いたたまれない思いをした。」其年が言うには「私も以前誕生祝いの上座に坐り、新作劇の『壽榮華』がめでたいと思ってリクエストしたら、なんと最後まで泣き通しの劇で、席が白けてしまった。」(「賀新郎・自嘲用蘇崑生韻同杜于皇賦」小序((『清名家詞』(上海書局影印本)第二巻四九三頁。)))
『壽春圖』がいかなる戲曲であったのかは著錄にも見えずわからないが、『壽榮華』は蘇州派の人氣戲曲作家・朱佐朝の作で、『曲海目』『曲考』といった清代中期の戲曲目錄にも著錄されているから、それなりに流行した戲曲であったようだ。しかし、世事に疎い杜于皇と陳維崧はそれらの内容を知らず、内容がわからぬままに題名の字面だけからリクエストし、失敗した。
また、乾隆年間の焦循の『劇説』には次のように見える。
>公の宴會では、劇を選ぶのがとても難しい。傳えるところでは、秦という者が『琵琶記』の數齣を選んだが、座に蔡というものがいて、不機嫌になった。秦はあわてて「瘋僧」(原文「風僧」)の一齣を選んで演じさせ、蔡はようやく機嫌を直した。
>乙卯の歳、私は山東で試験官の幕僚をした。試験が終わって、県令が劇でもてなしてくれたが、幕僚の中の林という者が「孫臏詐瘋」の齣を選び、孫という者が「林冲夜奔」の齣を選んだ。いずれも他意はなかったのだが、お互いにそしりあっているかのようであった。そこで主人の阮公の伯父、阮北渚は「さあ『桃花扇』を演じてもらおう」と言ってその場を收め、懷寧が化粧をして登場し、「鬧丁」「鬧謝」の二齣を演ずると、北渚は手を打って大いに樂しみ、滿座心ゆくまで樂しんだ。(焦循『劇説』巻六((『中國古典戲曲論著集成』所收本。)))
前者は、『琵琶記』の主人公が蔡邕であるために當てこすりと考えた蔡は機嫌を損ねたが、秦が機転をきかせて、秦檜が地藏菩薩の化身である瘋癲僧侶に揶揄される、『東窗事犯』雜劇の「瘋僧」(「掃秦」とも稱する)の場面を演じさせて、事なきを得ている。後者は、『桃花扇』に懷寧、即ち阮大鋮が登場することを利用して場を收めている。
いずれの例でも、觀客と同姓の登場人物がトラブルの種になっている。點戲にあたっては、場の趣旨に應じた劇を選ぶだけでなく、列席者や登場人物までも考慮しなくてはならないことがわかる。そのためには、一編の戲曲の大まかなストーリーは勿論のこと、登場人物とその描かれ方のレベルまで、齣ごとの内容まを把握していなくてはならない。
以上から、公務や社交の宴席という社會生活上の重要な場面で人間關係を維持するために、知識層・富裕層の成員が戲曲の内容に關する知識を必要としていたことがわかる。戲曲への知識は觀劇體験を通じて蓄積されたとも思われるが、例えば『揚州畫舫錄』所引『曲考』に著錄される戲曲は、雜劇・明清傳奇をあわせて千百十三種、これは失傳の作が含まれていることを考慮しても膨大な數である上に、新作劇も續々と生産されていたのである。しかも、當時の演劇上演は今の劇場方式とは異なり、家庭劇團を組織・育成するか、もしくは専業劇團を臨時に雇用するしかなかったので、コストが高かった。つまり、幼時からの觀劇體験だけで點戲の用に足りるだけの知識を得ることは不可能であったと判断される。
このように、明清代における知識層・富裕層が消費した演劇というメディアは、物語を傳達する機能がさほど高くなかった。言い換えれば、演劇は物語を傳達する、より低コストな他のメディアの存在に依存していた。それは或いは説唱・説話などの藝能であったと考えられるが、小論で問題にしている崑劇の受容層である知識層・富裕層は識字層に属するから、複製が容易で前後の參照ができる紙媒體が、最も有力な物語傳達メディアであったと考えられる。特に、女性の場合は外界や藝能と接触する機會が限られていたので、必然的に紙媒體に賴らざるを得なくなる。明清代に戲曲作品や散齣集(名場面集)が多數刊行されたのは、娯樂讀み物である以前に、觀劇のための物語予習教材としての需要に應えてのことだろう。
しかし、物語の受容という點から考えると、歷史物語の戲曲には、明代傳奇の大多數を占める恋愛ものや世話ものにはない特徴がある。
第一に、現在残っている明末清初に蘇州派の傳奇作家らが製作した歷史物語傳奇は、抄本がほとんどで刊本が少ない。例えば、李玉の歷史物語傳奇『七國記』『昊天塔』『牛頭山』『風雲會』『麒麟閣』はいずれも抄本である。特に『麒麟閣』は、乾隆年間の散齣集『綴白裘』に一部が收錄され、現在でも「三擋」などの齣が京劇で演じ繼がれているように一貫して人氣を保っているにも關わらず、刊本が傳わっていない。歷史物語の戲曲では、觀劇のための予習資料として使用できる戲曲の出版物が、そもそも少なかったのである。
第二に、明清傳奇はときに六十齣もの長さに及ぶが、それでも國家の興亡・抗爭を扱う長大な歷史物語の全體を收めることは困難である。先に舉げた蘇州派の歷史物語傳奇は、いずれも二・三十齣ほどの長さで、歷史物語の一部分だけを扱っている。そのため、よしんば戲曲を讀んだとしても、物語の全體像を把握することができない。例えば、岳飛故事傳奇の物語と小説『説岳全傳』の對應する回とを對象すると次のようになる。
>『奪秋魁』…五~十二回、二十二回&br;『牛頭山』…三十六~四十三回&br;『精忠記』…五十八~六十一回、七十~七十四回
複數の傳奇をあわせ見ても、岳飛の出世・戰功から謀殺、怨恨の超度に至る物語全體を通觀できない。
唯一の例外は、清代の宮廷演劇所管官廳・昇平署による長大な連臺本戲で、漢楚の興亡を扱う『楚漢春秋』、三國物語の『鼎峙春秋』及び楊家將物語の『昭代簫韶』等は、いずれも全十本毎本二十四齣、合計で二百四十齣にも及ぶ長大な傳奇である。十日間かけて連續上演されたのであろう。しかし皇宮以外で上演されたことは無いので、小論で問題にしている蘇州地域の知識層・富裕層の觀劇とは直接には關係ない。
以上のように、戲曲出版物から歷史物語の演劇を鑑賞するのに十分な物語的知識を得るのは困難であった。明末から清中期の文字媒體で、戲曲・演劇を補う歷史物語傳達の機能を果たし得たのは、おそらく講史小説だけであろう。ここから、演劇を見るためのストーリーブックとしての小説受容という假説が導かれる。蘇州派の歷史故事傳奇と乾隆期の英雄傳奇小説との物語の一致は、このような小説受容の反映であると考えられよう。
しかし、蘇州派の歷史物語戲曲は明末から清初にかけて制作されているのに、その物語を反映した小説があらわれるまでに一世紀近くの時間を要したのはなぜかという疑問は、これだけでは解明されない。
**三.歷史故事傳奇の上演 [#j7b590e2]
明代に知識層・富裕層が鑑賞した演劇は、教化的物語あるいは恋愛もの世話ものが大多數を占め、歷史故事傳奇が演じられることはまれであったことについては、田仲一成氏に詳細な論考がある((田仲一成『中國祭祀演劇の研究』(東京大學出版會)三五六頁以下參照。))。即ち、『祁忠敏公日記』『快雪堂日記』などの觀劇記事に見える戲曲は、呂天成の『曲品』による戲曲の題材による六分類、忠孝・節義・風情・豪俠・功名・仙佛のうち忠義・節義・風情類が大半を占める一方、功名類の比率は一割そこそこであり、歷史物語は更にその一部分に過ぎない。例えば、『祁忠敏公日記』には祁彪佳が觀た劇が百十餘り記錄されるが、歷史故事傳奇はわずかに漢楚の興亡を描いた『千金記』、三國時代の猛將・呂布を扱う『連環記』くらいである((根ヶ山徹「祁彪佳の日常生活と戲曲」(『集刊東洋學』第七十號、平成五年)參照。))。
明代の主要な觀劇の場である堂會で、歷史故事傳奇の上演が稀であった理由の一つは、場の文脈に求められる。家庭での誕生祝い等の席であれば、祝賀の場にふさわしいめでたい劇を上演しなくてはならないので、殺人の場面を含む戰爭ものは上演しにくい。
また、主な明代の歷史故事傳奇、『三國記』『草廬記』『白袍記』『金貂記』『東窗記』(『精忠記』)などは、いずれも明代南戲の四大聲腔の一つ弋陽腔系統に属するとされる((林鶴宜『晚明戲曲劇種及其聲腔研究』(學海出版社、民國八三年)參照。))。弋陽腔は明代中期以降、全國的に流行したが、通俗的な特色を持ち、清代地方劇の成立にも大きな影響を与えた聲腔である。
>南京で、萬暦以前、官僚・名士や富豪の宴會や集まりでは、多く民間の劇團を用いた。あるいは三四人、あるいは大人數で、北曲の套曲を歌った。大きな宴會であれば、官営の劇團に北曲の四折の院本を演じさせた。…中略…後にみな南曲を用いるようになった。…中略…大宴會であれば南戲を用いた。そのはじめは二つの曲調で、一つは弋陽腔、一つは海塩腔であった。弋陽腔は方言をまじえ、四方の士客が喜んで見た。海塩腔は多く官話で、兩京の人が用いた。…中略…今は崑山腔もある。(『客坐贅語』巻九「戲劇」((『叢書集成新編』所收本。)))
北曲・海塩腔・崑劇が知識層・富裕層に受容されたのに對して、市民層・商人層などが主な受容層であった。更に、弋陽腔は聲律が緩かで、長短句の曲牌に詩讚を挟み込む「滾調」と呼ばれる形式をしばしば用いるが、崑劇は聲律に厳格で「滾調」も用いないので、崑劇の傳奇を弋陽腔で演ずることはできたが、逆に弋陽腔の傳奇を崑劇で演ずることは難しかった。このため、知識層・富裕層の社交の場では、それらの傳奇の上演が困難であったと思われる。
ところで、歷史物語は國家の興亡を描く物語である以上、戰爭の經過の敘述が多くなることは避けられないし、それがまた魅力でもある。從って、歷史物語を戲曲化・演劇化する際には、必然的に立ち回りによって戰闘を表現する場面が多くなる。現代の傳統劇では、歌唱をアピールする出し物を「文戲」立ち回りを見せる劇を「武戲」と稱するが、明清の歷史故事傳奇は武戲的な要素が濃厚である。
實際に、明代には歷史物語傳奇が武戲として扱われていたことを示す資料もある。
>先帝は武戲がとりわけお好きで、懋勤殿にお出ましになると、よく岳武穆戲文をご所望された。瘋癲和尚が秦檜を罵るところになると、魏忠賢はいつも避けて見ようとしなかった。 (劉若愚《酌中志》巻十六((『叢書集成新編』所收本。)))
「岳武穆戲文」とは『精忠記』のことであろう。管見の限りでは、これが最も早い武戲という語の用例である。
また、李玉『永團圓』の『墨憨齋定本傳奇』本には以下のように見える。
>愉快愉快。ただ今の出し物は、みな武戲だ。
>【北朝天子】温侯と戰う、虎牢關。雲長にはなむけする、錦の袍。征東に慣れた、仁貴は白袍をまとう。(第五折「看會生嫌」((中國戲劇出版社 一九六〇。)))
これは、南京城外の豊作祭り(「慶豐勝會」)で草臺戲を鑑賞する場面である。いずれも弋陽腔系の傳奇である三國故事の『連環記』『草廬記』、薛仁貴故事の『白袍記』などが、屋外で武戲として上演されている。これは、當時の一般的な認識を反映していると見てよかろう。
歷史故事傳奇を武戲としてとらえると、富裕層・知識層が觀劇した場所、劇場の問題が浮上する。明代には専門劇場は無く、堂會では屋敷の廣間に敷いた氍毹(絨毯)を舞臺として上演する方式が一般的だった。觀客は氍毹の前と左右に席を設けて飲食しながら鑑賞するので、舞臺と客席とは同じ空間に設けられる。空間が狭いため、トンボを切ったり、倒れたり、足を踏みしめたりという演技を伴う立ち回りでは、氍毹や衣装から塵埃が立ち上り、傍らで飲食するのに不便であろうし、技に失敗しようものなら宴席に人や物が飛んでくる危険もある。
從って、王安祈氏が言うように「狹い赤絨毯の上では立ち回りを展開するのが甚だ困難だった」((王安祈前掲書 一九三頁。))と考えられる。王氏が引用する以下の記事は、それを如實に物語っている。
>集順堂の右は山滿樓である。…中略…後に鹽司が侍御(錢岱)に會いに來て、この樓閣に宴席を設けた。そのとき役者が兀朮に扮して、戰に敗れて倒れる仕草をしたところ、席上の果物が搖られて散らばった。『筆夢敘』巻一(『香艷叢書二集』所收)
ここで演じられているのは、兀朮が登場するから『精忠記』もしくは『東窗事犯』であろう。建物が堅固でなかったために、倒れる仕草程度で宴席に惡影響が出ている。
前に引いた武戲の上演に關する記事で、『精忠記』は宮廷で上演されている。李玉『麒麟閣』傳奇は京劇に武戲として繼承されているが、その最も早い上演記錄も、南明の宮廷における上演である。一方、『三國記』『草廬記』『白袍記』は屋外で上演されている。明代宮廷演劇の上演場所については記錄が乏しいが、建築の規模が壮大であり役者も厳選されていたから、氍毹方式であっても問題なく武戲を上演することができる。屋外であればなおさら問題無い。
以上のように、明代には知識層・富裕層が歷史故事傳奇=武戲を鑑賞する機會が少なかった背景には、彼らの好尚のみならず、曲調や上演の文脈・場所といった具體的な理由があったと考えられる。
**四.清代における上演環境の變化 [#u26430fc]
清代に入ると、演劇の上演環境は大きく變化する。
清朝政府は、明代の黨爭の温床であるとの理由から、演劇を伴った官僚同士の饗應を禁止した。雍正二年には「禁外官蓄養優伶」が出され、官僚が家庭劇團を蓄えることを禁止している。また乾隆年間にも同樣の禁令が出されている。このような取り締まりの結果、順治・康煕年間には多くの家庭劇團が解散した。更に、清代初年は明末の戰亂による破壊の影響が強く残っていたため、經濟も振るわなかった。清代中期の乾隆期に至ると、經濟は史上空前の繁榮を見せ、商工業活動も活發となり、民間の餘力も增えた。そのような狀況の下、演劇の上演環境にも大きな變化があらわれた。
>以前、蘇州で奉納芝居を上演したり客をもてなす時には、いつも虎邱の山塘水路を使い、(舞臺が設けられた)捲梢の大船を用いた。…中略…しかし、大風大雨にあうと劇は臺無しだった。岸の上(の見物人)が礫や瓦を投げると劇は終わりになった。(小舟で劇を見に來て)船室の屋根で見物する閑人どもが多く、舟が覆って水に落ちる恐れがあると、やはり劇は終わりになった。このように手間がかかり、不便が多かった。雍正年間になって、郭園が初めて戲館を開くと、まもなく一二館に增えた。だれもが便利だと言った。…中略…(今や)戲館は二十餘處を下らない。(公燮『消夏閑記摘鈔』巻下「郭園初創戲館」)
>蘇州には商人が雲集し、宴會も絶え間なく開かれている。戲館は數十カ所、毎日劇を上演し、小民を養うこと數万人を下らない。 (同前巻上「撫藩禁燒香演劇」((『涵芬樓秘笈』所收本。)))
『消夏閑記摘鈔』には乾隆五十年の序が付されているので、以上の記事は乾隆期の情況を反映していると見られる。また、地方誌にも同樣の記事が見える。
>以前、蘇州城内に戲園は無かった。あることはあったが、商家の會館を借りて客をもてなすだけだった。今や、城内城外を問わず、至る所で戲園を開いている。(乾隆三十一年修『長洲縣志』巻之十一「風俗」)
戲館と戲園という呼稱の違いはあるものの、いずれも常設の劇場である。蘇州では、清代の雍正から乾隆にかけての時期に、常設劇場が登場し定着したのである。北京で常設劇場があらわれるのもほぼ同時期であるから、この變化は全國的であったようだ。劇場の形式は、清末・民國時期にはなお乾隆年間の劇場がそのまま使われている例もあった言うから、その時期と大差なかったと思われる((青木正兒『支那近世戲曲史』第十五章「劇場の構造及び南戲の脚色」參照。))。
常設劇場では、從來の屋外の戲臺とは異なり、屋内であるから天候に左右されない。また氍毹方式と異なり、大空間である上に舞臺と客席とが仕切られているので、武戲の上演にも何ら問題がない。また、現在の劇場方式の公演と同じく、劇場・劇團側が上演する劇を決定するシステムであるから、宴席での點戲と異なり場の文脈によって上演劇目が拘束されず、上演される戲曲の種類も大幅に增加したと思われる。知識層・富裕層が社交のために觀劇する場も、從來の船上舞臺や氍毹方式が減少し、劇場二階席の桟敷(包廂)を借りたり、時には劇場を借りきる方式が增加した。
このように、乾隆期の常設劇場の出現は、知識層・富裕層が武戲を鑑賞する條件が整ったことを意味している。乾隆期の英雄傳奇小説の物語が、知識層・富裕層に支持された崑劇の影響を受けている背景には、同時期の演劇上演環境の變化に伴う、觀劇のストーリーブックとしての小説需要の高まりが想定されよう。
**結論 [#a23ddbee]
蘇州派の歷史故事傳奇は、明末清初の時期に制作されているが、その背景には、異民族王朝である清朝への抵抗の氣風があると思われる。岳飛故事では、『如是觀』にその傾向が強く見られる((前掲拙論「岳飛故事の變遷をめぐって」參照))。また、李玉『麒麟閣』は南明の宮廷で上演されているが、同時期に説書家として名を馳せた柳敬亭は、明朝復興の期待を集めた將軍・左良玉との親交があり、その十八番が「秦瓊見姑娘」などの隋唐ものであったことは、偶然の一致ではあるまい。
清朝統治の安定に伴い演劇への統制が強化されるが、乾隆期に至ると、専門劇場の成立によって知識層・富裕層の演劇上演環境が一變し、明末清初の蘇州派歷史故事戲曲を武戲として鑑賞することが可能となり、觀劇のストーリーブックへの需要が高まり、それに應えて清代英雄傳奇小説が制作されたのであろう。
こうして乾隆期には、ディテールの描冩に優れた戲曲・演劇と物語傳達機能に優れた小説との相補關係が確立した。そして、小説が定めた物語の枠内で、戲曲・演劇・藝能が樣々なサイドストーリーを膨らませ、メディアの特性を生かして競い合うという、通俗メディアの競爭・共生關係は、民國時期まで安定して繼承されていった。
以上、明末から乾隆年間にかけての歷史物語に絞って論じてきたが、元雜劇と平話・明代講史小説の間にも、同樣のメディアの相補關係が成り立っていたのではなかろうか。雜劇と明代嘉靖期の講史小説の物語が比較的近いこと、雜劇が明代中期まで知識層・富裕層によって受容されたこと、或いは明の宮廷で脈望館鈔校本に見える多くの雜劇が繼承されているのと同時に、章回小説が多く消費されていたことなど、狀況證據は多い。
また、近代以前に小説と戲曲の地位が、同じ物語を扱っているにも關わらず甚だしく異なったのは、受容の場の社會的な位置づけの差にも一因があるのではなかろうか。戲曲は一族の集まりや官僚の社交の場など、社會生活上のきわめて重要な、言うなればハレの場で上演・受容されていたが、小説の讀書は個人的な行爲である。兩者の扱いの差は、このような社會生活における位置と對應している。
小論では戲曲や小説の社會的機能に注目して試論したが、これは勿論、共時的に存在しえた多樣な讀み方の一つにすぎない。小説のストーリー構成や文章表現の妙に惹かれた讀者は多かったであろうし、小説から着想して作られた戲曲も多い。また、乾隆期の英雄傳奇小説の成立の要件には、歷史書の模倣から物語を傳える讀み物への熟成などの要件があったのも確かである。
しかし、近代的な特權的メディアとしての小説という無意識の前提を排し、近代以前の戲曲・小説受容のあり方を考察することで、新たな通俗文學史理解への道が開けるのではなかろうか。
**主要參考文献 [#p379d4d7]
-『明代傳奇之劇場及其藝術』王安祈 學生書局 民國七五年
-『崑劇發展史』胡忌・劉致中 中國戲劇出版社 一九八九年
&size(10){『中國文學研究』第二十四期 p.121~134掲載&br;早稲田大学中国文学会 1998/12}