研究関係/李玉の歴史故事伝奇と乾隆期英雄伝奇小説 の変更点

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*李玉の歴史故事伝奇と乾隆期英雄伝奇小説&br;~『麒麟閣』と興唐故事小説とを中心に [#s9ee3d4f]

RIGHT:千田 大介 

**1 はじめに [#u6b1e20c]
明清代、歴史物語を扱った講史小説を概観すると、明嘉靖から万暦初、及び清乾隆から嘉慶年間に、製作の高潮が認められる。前者は福建の書肆を中心とする、『~志伝』と題する一群のいわゆる志伝小説であり、後者は史実からの距離がより遠く、英雄伝奇的性格を濃厚にすることから英雄伝奇小説と称される。両者とも一般に講史に分類されるが、性格はかなり異なる。

このうち、乾隆期の英雄伝奇小説、即ち『説唐全伝』『説岳全伝』『飛龍全伝』『万花楼』等は、これまで文学的評価の低さから、研究材料としては閑却されてきた。しかしそれらは、旧中国に於ける講史小説変遷の末尾に位置し、物語内容は伝統演劇・芸能のそれと非常に近いことから、通俗文学史上の意義・影響は大きかったと思われる。一方、それらの物語内容には、従前の志伝小説との大きな相違が認められ、一般に荒唐無稽と評されるが、来源は必ずしも明らかでない。そもそも、同様の時代を扱った小説が既に流通していたにも関わらず、それらが製作された動機・背景についても、未だ明確な説明はなされていない。

以上の問題意識から、小論では明末清初の戯曲作家・李玉に注目する。彼の歴史故事伝奇が、明の志伝小説と清乾隆期の英雄伝奇小説とを、物語内容的・年代的に結ぶ位置にあると思われ、講史小説史における問題の解明に有用な材料であると考えるからである。具体的には、興唐故事、即ち唐朝成立物語を扱った『麒麟閣』伝奇を取り上げ、乾隆年間の英雄伝奇小説『説唐全伝』、崇禎年間の『隋史遺文』、更には清代以降の民歌・地方戯との比較対照を通じて、李玉歴史故事伝奇の意義、及び乾隆期の英雄伝奇小説成立の背景を解明したい。 

**2 李玉の平生と伝奇製作 [#s8770aba]
明末清初の戯曲作家・李玉は、明代のレーゼドラマ的才子佳人伝奇の枠を突破して、言辞は平易、物語も通俗的かつ起伏に富み、実演に適した伝奇を多く製作した、蘇州派の領袖として知られ、洪昇らへの道を開いたと一般に評される。戯曲史上、明から清への転換点に位置するので、先行論も多い。本章では、それらを参考に((小論では李玉の平生について、&br;Ⅰ.呉新雷「李玉生平、交友、作品考」(『江海学刊』1961年12月号)&br;Ⅱ.『中国古代戯曲家評伝』「李玉」(項目執筆呉新雷。中州古籍出版社1992)&br;Ⅲ.欧陽代発「李玉生卒年考弁」(『文学遺産』1982年第一期)&br;を、特に参考した。))、李玉の平生と伝奇製作の特色とを概観する。

李玉、字は玄玉、または元玉、号は蘇門嘯侶。蘇州呉県の人。万暦三十九年前後に生まれ、康煕十九年以降に没した((前掲Ⅲ論による。))。出身については、焦循『劇説』((『中国古典戯曲論著集成』八(中国戯劇出版社1959)所収本による。))巻四に

>元玉係申相国家人,為孫公子所抑,不得応科試,因著伝奇以抒其憤。

とある。一方、呉偉業が李玉の『北詞広正譜』に寄せた序((「善本戯曲叢刊」第六輯(台湾学生書局民国76)所収本。))には

>李子元玉好奇学古之士也。其才足以上下千載,其学足以嚢括芸林,而連厄於有司。晩幾得之,仍中副車。甲申以後,絶意仕進。

と見え、甲申、即ち崇禎十七年の明滅亡以前に、李玉が度々応試していたことがわかる。呉偉業の記述は信用するに足るが、焦循は時代を下った乾隆・嘉慶の人であり、李玉を申家の家人の出身とする記述を受け入れるか否か、明代奴籍の応試資格の有無に対する見解の相違から意見対立があり、未だ決着を見ていない。ともあれ、清初の人・呉綺の満江紅「次楚韻贈元玉」((呉綺『芸香詞』(上海書店1982 根拠開明書店1937初版複印『清名家詞』所収)))には

>家伝自擅清平調

とあり、李玉の家が代々演劇に関係していたことは確かなようである。先行論では言及しないが、『墨斎定本伝奇』所収本『永団圓』の馮夢龍の叙((『墨憨斎定本伝奇』(中国戯劇出版社1960)))に見える

>初編『人獣関』盛行,優人毎獲異犒,競購新劇,甫属艸,便攘以去。

との記述は、例えば袁于令の『瑞玉記』『玉符記』伝奇に関する記事、

>甫脱稿,即授優伶演唱。((焦循『劇説』巻三))

に見える「授」と対比すれば、李玉の伝奇が俳優の買う商品であったことが読みとれる。先行論でも、李玉及び彼を領袖とする蘇州派戯曲作家は、伝奇の量産ぶりから、専業戯曲作家であったと解釈されている((前掲Ⅰ論。))。

李玉の伝奇は四十種前後が知られ((Ⅰは四十二種、Ⅲは三十九種とする。))、うち十八種が伝存するが、崇禎年間に出世作となった所謂「一人永占」(『一捧雪』『人獣関』『永団円』『占花魁』)と、清代に編まれた『精忠譜』、及び『両須眉』『眉山秀』を除いた十一種は、抄本である。

李玉伝奇の特色は、一般に、用語の平易、歌唱性・実演の重視、構成の厳密などが挙げられるが、題材面にも顕著な特色が見られる。即ち、ほぼ同時代の社会事件伝奇(『精忠譜』『一捧雪』『万里圓』『両須眉』等)と、歴史故事伝奇(『牛頭山』『風雲会』『麒麟閣』『昊天塔』等)とがそれである。特に後者は、従前の崑劇伝奇では扱われることの稀な題材であり、明末才子佳人伝奇の枠を破ると言えよう。その一方、従来の李玉評価は、前者、特に『精忠譜』に集中しており、歴史故事伝奇が注目されることはなかった。それらが通俗文学史上、重要な位置にあることは、以下『麒麟閣』伝奇への検討によって、納得していただけるであろう。 

**3 『麒麟閣』と『隋史遺文』・『説唐』 [#m0cbe0c3]
***3-1 『麒麟閣』伝奇の成立とテキスト [#x32e39c2]

『麒麟閣』の上演記録は、談林『棗林雑俎』((『叢書集成続編』第二百十四冊所収『張氏適園叢書』本による。))仁集「女伎」条が最も早い。

>甲申秋…大内嘗演『麒麟閣』伝奇。

甲申、即ち崇禎十七年の、南明の宮廷に於ける上演の記録である。ここから、『麒麟閣』が崇禎末年の作であることが明らかになる。

『麒麟閣』のテキストは、『古本戯曲叢刊三集』所収の旧抄本(以下、古戯本と略)一種しか伝わらない。全六十一出から成り、全体を二本に、更にそれぞれを上下巻に分かち、第一本は秦瓊故事、第二本の上巻は瓦崗故事、下巻は唐開国故事と、各巻がある程度の独立性を持った構成となっている。古戯本には、後人の手が加えられていると思われ、例えば第二本下巻第十四出は、巻首の「提綱」では「麟閣」(出の題については、後掲表参照。)に作り、登場人物名から秦瓊・尉遅恭・徐茂公等が麒麟閣に表彰される場面であったと推測されるが、本文では秦瓊母子が皇恩を感謝する場となっているなどの齟齬が見られる。また、第一本と第二本、第二本上巻と下巻との間には、ストーリーに飛躍があり、特に後者では、上巻は揚州武科の後、羅成と李元覇とが別れる場面で終わるが、下巻では唐突に尉遅恭が登場し、何ら説明の無いまま李密は敗亡しており、李元覇も登場しない。これは、或いは「甫属艸,便攘以去」のためであろうか。

古戯本の由来について、周妙中氏は各巻首の「提綱」に登場人物と俳優名とを記すことから、清内府抄本の流れを汲むと推測される((『清代戯曲史』(中州古籍出版社1987)李玉項参照。))。考えるに、古戯本では第一本冒頭の第一出に「降凡」を配し、「開場」を第二出とするが、明代伝奇で冒頭に「開場」以外を配置する例を、筆者は知らない。しかし、『古本戯曲叢刊九集』所収清代宮廷大戯は、大多数が冒頭に天界の場面を配する点((『楚漢春秋』『鼎峙春秋』『昇平宝筏』『如意宝冊』が、冒頭に天界の場面、第二齣に開場を配する。又、『盛世鴻図』『鉄旗陣』『忠義璇図』は天界の場面のみが有り開場が無く、『勧全金科』『昭代簫詔』『封神天榜』は、開場・天界の場面の順に配する。))、古戯本と同様である。

古戯本の抄写年代については、「玄」字が缺筆され、「劉弘基」を「劉宏基」に、「寧氏」を「甯氏」に作る。後二例は固有名詞ゆえに断定することはためらわれるが、道光帝の諱を避けていると考えられよう。また、各巻首の「提綱」に記される俳優計二十一名のうち、排行を用いず姓名で記される者は三名であるが、そのうちの「万保住」は、道光元年昇平署外頭学に見える「保住」であろう((王芷章『清昇平署志略』(原民26年 新文豊出版公司民国72)398頁参照。))。以上から、古戯本は道光年間昇平署抄本である可能性が高いと言えよう。

散齣集では、乾隆年間蘇州で刊行された『綴白裘』((中華書局1955排印本を使用した。))所収の「反牢」「激秦」「三擋」「揚兵」四出のうち、「激秦」(古戯本第一本下巻第十四出の「姫洩」)「三擋」「揚兵」の字句が、古戯本とほぼ一致する。『清蒙古車王府曲本』所収「投信」(即ち「姫洩」)「三擋」も、古戯本と概ね一致する。また、『侯玉山崑曲譜』((中国戯劇出版社1994))所収「倒旗」「斬子」「大考」三出も、多少の出入りはあるものの、唱詞はほぼ同じである。以上に挙げた共通箇所は、第一・二本の各所に散ることから、古戯本は冒頭と末尾とを除いて、概ね李玉原作の姿を留めていると見なされる。

尚、『綴白裘』所収「反牢」は古戯本に見えないが、曲牌に見える〔姑娘腔〕、即ち〔山東姑娘腔〕の唱詞には、山東民歌との字句の共通が認められることから((紀根垠「談〔山東姑娘調〕」(『戯曲研究』第四十二輯)参照。))、李玉原作とは見なし難い。

***3-2 『麒麟閣』と興唐故事小説の物語内容 [#z5e4fc78]

興唐故事、即ち唐開国物語を扱った講史小説は極めてヴァリエーションに富み、年代順に、熊大木『唐書志伝』(下線略称。以下同。)、羅貫中『隋唐両朝史伝』、袁于令『隋史遺文』、褚人穫『隋唐演義』、如蓮居士『説唐全伝』の五種が挙げられる。この他、天啓年間諸聖鄰の『大唐秦王詞話』も、白話部分の分量が半ば以上を占め、小説に準ずるものと見なされる((使用テキストは以下の通り。

『唐書志伝』:嘉靖三十二年楊氏清江堂刊本(「古本小説叢刊」所収) 
『隋唐両朝史伝』:万暦四十七年金閶書林龔紹山刊本(尊経閣文庫蔵) 
『大唐秦王詞話』:万暦・天啓間刊本(文学古籍刊行社1956) 
『隋史遺文』:崇禎六年刊本(早大蔵) 
『隋唐演義』:康煕三十四年序刊本(「古本小説集成」所収) 
『説唐全伝』:乾隆四十八年重鐫観文書屋刊本(「古本小説集成」所収)))。これらの小説は、『唐書』忠義伝に見える実在の武将・羅士信、及び虚構中の人物である羅成の扱いの相違により、ほぼ三種に分類できる。即ち、羅士信のみが登場するもの:『志伝』『両朝』、羅成・字士信とするもの:『秦王』『説唐』、羅成と羅士信を別人とするもの:『遺文』『演義』である。また、興唐故事小説は扱う時代範囲が長短様々であり、『麒麟閣』の眼目である瓦崗英雄の始末を扱うものは、『両朝』『遺文』『演義』『説唐』の四種である。

これらのうち、『演義』については、瓦崗英雄部分は『遺文』を襲っているため((欧陽健「《隋唐演義》"綴集成帙"考」(『文献』1988年第2期)に、『隋唐演義』が『隋史遺文』『隋煬帝艶史』『混唐後伝』を原本とすることに関する、詳細な論考が見える。欧陽氏の所説を補えば、『隋唐演義』第四十九~五十回の楊義臣が宇文化及を討つくだり、第五十一回の老君堂は、それぞれ『隋唐両朝史伝』の第二十三~三十回、第三十一~三十三回を受けている。))、検討の対象とはしない。『両朝』についても、瓦崗英雄部分はほとんどが『三国志演義』からの剽窃によって構成されており((羅貫中と『両朝』の関係については、金文京氏が『三国志演義の世界』(東方書店1993)で、上田望氏の口頭発表を受けて、言及している。尚、筆者の目覩した限りでは、『両朝』剽窃部分の字句は、『三国志演義』諸版本のうち、聯輝堂本に最も近い。))、第十五~十七回に見える隋将・邱瑞の名が、『説唐』でも瓦崗五虎将の一人として見えるといった微細な共通は看取されるものの、物語の内容的隔たりが大きいので、扱わない。『秦王』は、『麒麟閣』と重なる尉遅恭故事に物語上の共通点が見られるが、尉遅恭故事は小説間の差異が比較的小さく、また雑劇・地方誌なども併せて検討する必要が有り、小論の主題からも外れるので扱わない。従って、比較の対象は『遺文』『説唐』に限定する。

比較作業に移る前に、『遺文』『説唐』の概略について触れておく。『遺文』は全六十回で、『西楼記』伝奇で知られる袁于令の手を経て、崇禎六年に刊行された。隋の統一から唐太宗の即位までを、秦瓊を主人公として描く。『遺文』には原本があり、袁于令が改編者に過ぎないことは、先行論で既に指摘されている((何谷理「『隋史遺文』考略」(幼獅文化公司民国64年刊排印本所収)、宋祥瑞「袁于令和《隋史遺文》」1985(『隋史遺文』北京大学出版社1988排印本付録)など。))。その根拠は、以下のような回評での『原本』への言及にある。

-A 『旧本』有太子自扮盗魁阻劫唐公,為唐公所識。(第三回総評)
-B 按史,歴城羅士信…亦一奇士也。『原本』無之,故為補出。徐世勣亦年十六七作賊。『原本』以為与魏玄成倶在隋為官,因隋主弑逆棄職,似非少年矣。(第三十五回総評)
-C 『原本』李芸後不得見,茲為補入。(第五十五回総評)

また、第九・十五・二十八回回評には「原評」が見える。

褚人穫は『演義』の序で

>昔蘀庵袁先生、曽示予所蔵『逸史』、載隋煬帝・朱貴児・唐明皇・楊玉環再世因縁事、殊新異可喜,因与商酌,編入本伝,以為一部之始終関目。

と、袁于令所蔵の『逸史』を『演義』の構想に取り入れたと述べているが、その『逸史』は『混唐後伝』である可能性が高い((欧陽健前掲論参照。))。"後伝"とする以上、薛仁貴征東を扱った"前伝"があったはずであり、更にその前には"混唐伝"に対する"興唐伝"があったと思われる。袁于令が基づいた『原本』は、彼所蔵の『逸史』に連なる"興唐伝"であったと考えられよう。

『説唐』は全六十八回で、扱う時代範囲は『遺文』と等しい。姑蘇如蓮居士乾隆元年序が付され、乾隆四十八年重刊本ほか多くの坊刻本が伝存する。さきに挙げた『遺文』の改訂箇所のうち、BCは『説唐』の内容と符合する。Bの羅士信は『説唐』では羅成と同一人物であり、徐世勣・魏徴は知府・知県であったが「掛冠閑行」したと第五回に見える。Cの李芸、即ち羅芸は、竇建徳と戦い陣没するので、後半部では既に故人である。しかし、『説唐』の文章は簡略であり評注も見えず、また秦瓊の父・秦彝を第一回で北斉の将としながら、第二十三・四・六回では陳の将とするなどの記述の混乱が認められるので、『遺文』の原本ではあり得ず、逆に『説唐』の前半部が『遺文』を受けていると考えられる((孫楷弟『中国通俗小説書目』前言では『演義』→『説唐』とするが、例えば、『遺文』第二十四回・『説唐』第十四回の題はともに「恣蒸淫太子迷花 躬弑逆楊広簒位」、『演義』は「恣蒸淫賜盒結同心 逞弑逆扶王陞御座」であるように、『遺文』→『説唐』が正しい。))。また、後半部の羅成が李建成・元吉に陥れられ淤泥河に没する事等は、『秦王』と近い。

『麒麟閣』と『遺文』『説唐』の物語内容の検討に移ろう。次頁の表は、『麒麟閣』の出と、『遺文』『説唐』の回数との対照表である。また、以下に掲げるのは、三作に登場する人物の対照表である。 

,,羅成,羅士信,楊林,魏文通,薛亮,,李元覇,秦彝
,『麒麟閣』,○,=羅成,○,○,×,賀芳,○,北斉
,『遺文』,○,≠羅成,×,×,○,盧方,×,北斉
,『説唐』,○,=羅成,○,○,○,盧方,○,北斉・陳

表で明らかなように、『麒麟閣』と『説唐』との間には、羅成・楊林((史上の楊義臣が演化したものと思われる。『説唐』では字を虎臣に作るが、義臣が訛ったのであろう。))・魏文通・李元覇といった、史書に記載のない、もしくは活躍の見られない人物の名称や、エピソードに、多くの共通点が認められる。以上は、『秦王』が羅成の字を士信とすることを除き、他の興唐故事小説には見えない。また、以下に列挙するエピソードが、他の興唐故事小説や元明雑劇に見えず、『麒麟閣』と『説唐』だけに共通して見えることは、注目に値する。

-単雄信が秦瓊の無罪を袁天罡に上訴する'弁冤' 
-秦瓊が程咬金らとの通謀が露見したため、楊林と戦いつつ長安を脱する'三擋' 
-瓦崗塞に上った程咬金が帥旗を拝起して、王に選ばれる'拝旗' 
-楊林が設けた銅旗陣に秦瓊が挑み、羅成の内応で勝利を得る'倒銅旗' 
-楊林が豪傑を害さんと揚州に武科を開くが失敗し、状元を得た羅成に殺される'揚州武科' 

これらは、『説唐』のうち、唐王朝成立前史を描く部分の中核となるエピソードであり、史実からの距離が大きい。従来、来源は必ずしも明らかでなかったが、『麒麟閣』との対比により、その形成が明末にまで遡ることがわかる。

次に『麒麟閣』と『遺文』との関係を検討しよう。『遺文』は崇禎六年刊であり、『麒麟閣』と成立年代が近い。また、『遺文』の編者・袁于令も『西楼記』伝奇などで知られる呉江派の伝奇作家であり、かつ李玉と同じ呉県の出身である。共に『南音三籟』に序を寄せている事例もあるから、彼らの間には何らかの交流があったと想像される。

物語内容に即して検討すると、先に挙げた『遺文』回評の原本への言及のうち、Bについては、『麒麟閣』は羅成=羅士信とするから、『遺文』と異なる。しかし他の二点、特に『説唐』では相違の見られたCは、『麒麟閣』第二本下巻第十二出に、劉武周平定後、秦瓊が幽州の羅芸救援に向かうことが描かれ、『遺文』と同じである。また、『麒麟閣』第二本下巻第八出で、柴紹の妻の李夫人、即ち平陽公主は、

>招撫李如珪、斉国遠等,聚兵数万。

と語るが、『遺文』第四十八回にも同内容が見える。『説唐』では、李如珪・斉国遠は当初から瓦崗軍に参加している。

このように、『麒麟閣』は『説唐』の原型となる物語に基づき、『遺文』を参照して製作されたと考えられ、三者の間には物語内容上の共通点が多く見い出せる。先に触れたように、李玉と袁于令はともに呉県の出身であるが、『説唐』の編者も「姑蘇如蓮居士」を名乗り、また蘇州方言の使用も見られる((著者は「姑蘇如蓮居士」である。また、趙景深「《説唐伝》非羅貫中作」(1933。『中国小説叢考』斉魯書社1980所収)に、『説唐』の蘇州方言使用に関する指摘が見える。))ことから、蘇州の人であると思われる。従って、三者の物語内容も、蘇州の地域性を帯びたものであると推測される。

この物語を、庶民の物語と決めつけることは出来まい。『麒麟閣』と『遺文』とは、一方は読書層や富裕層に支持された崑劇であり、一方は刻字・繍像とも精緻な、文字メディアである小説であり、やはり読書層・富裕層を対象としていた形式であるからである((磯部彰「明末における『西遊記』の主体的受容層に関する研究―明代「古典的白話小説」の読者層をめぐる問題について―」(『集刊東洋学』44 1980所収)参照。))。特に李玉は、先に述べたように専業戯曲作家であったと考えられるから、興唐故事伝奇が賞品となりうる環境、即ち崑劇観客層の興唐故事への興味・要求の高まりが、『麒麟閣』製作の背景に有ったこと考えられる。

明末の大説諸家として知られる柳敬亭は、「水滸」「三国」とともに「隋唐」を十八番とし、それには『遺文』『麒麟閣』でも扱われるエピソードである、'秦叔宝見姑娘'が含まれていた((銭曾注銭謙益「左寧南画像歌為柳敬亭作」、余懐『板橋雑記』巻下。『桃花扇』第十三齣「哭主」で柳敬亭が演ずるのも「見姑娘」である。尚、柳敬亭に関しては胡士瑩『話本小説概論』(中華書局1980)に拠った。))。彼はよく知られるように、南京に居を構え、その優れた芸から富裕層の間でもてはやされ、左良玉の幕下にも招かれている。彼と彼の芸が文人からも尊重されていたことは、張岱『陶庵夢憶』の記述や、呉偉業・黄宗羲ら一流の文人が彼のために伝を書いている事実から、明らかである。崇禎年間の江南の読書層には、『遺文』『麒麟閣』製作の動機となるのに十分な、興唐故事への興味・需要を高めたであろう情況が見られるのである。先に挙げた、南明朝に於ける『麒麟閣』上演の記事は、このような文脈で理解されよう。

**4 『麒麟閣』と地方劇・民歌 [#u55e6c8b]

通俗文学の、特に歴史物語の内容は、地域・階層等の社会環境的要素によって決まる部分が大きく、劇種・唱腔・形式等の形態的要素は、例えば成化本説唱詞話『薛仁貴跨海征遼故事』と南戯『白袍記』との間に、内容・字句上の密接な関係が見いだせるように((拙論「薛仁貴故事変遷考」(『中国文学研究』第十七期1991)参照。))、物語内容を直ちに規定するものではない。形態的要素は、劇種の伝播・版本の流通などにより、ある特定の社会環境下に成立した物語内容を他地域にもたらす媒介であり、物語の受容層を判断する要素であると位置づけられよう。

本章では以上の態度に立ち、『麒麟閣』と地方劇・民歌の物語内容、特に興唐故事の主人公たる秦瓊落草の物語を比較することにより、前章で触れた『麒麟閣』『遺文』等が江南の地域性を持つことの、傍証としたい。

初めに、京劇を検討しよう。京劇にも「麒麟閣」と題する演目があり、秦瓊が長安を脱出、楊林と戦いつつ逃走し瓦崗反乱軍に加わるまでを描く。しかし曲調は崑曲を使用し((李洪春『京劇長談』(中国戯劇出版社1982)、「挖掘伝統劇目 精彩片断挽会」プログラム(北京日報広告科1988)による。))、李玉原作の第一本下巻第十五出「三擋」を中心とした数幕で構成される。一方、皮簧を唱う出し物では、「三家店」「打登州」「秦瓊観陣」等が秦瓊落草を扱う。それらの粗筋は、楊林は秦瓊の瓦崗塞との通謀を知り、登州に護送して斬罪に処するが、瓦崗塞の豪傑達が登州に攻め寄せ救出する、といったもので((『京劇劇目辞典』(中国戯劇出版社1989)参照。))、'三擋'は描かれない。

京劇形成過程で、四大徽班はそもそもは崑曲を主体として、二簧調をも唱っていたのであり、皮簧調が完全に自立したのは同光期以降のことである。その自立過程で、京腔・梆子腔・西皮調といった様々な声腔を吸収し、地域的には北京・安徽・江蘇・山西・湖北等、各地の影響を受けた。二つの秦瓊落草物語は、京劇形成過程に於ける重層性の反映と解されよう。では、皮簧の物語は、何処に由来するのであろうか。

豫劇では、「打登州」「反延安」「斬秦瓊」が秦瓊落草を描く((豫劇に関しては『豫劇伝統劇目匯釈』(黄河文芸出版社1986)による。))。このうち、「打登州」の内容は皮簧と同じである。後二者も、それぞれ延安・河間府を舞台とするなどの相違は認められるが、ストーリーは皮簧「打登州」とほぼ同様であり、'三擋'は扱われない。

『秦腔劇目初考』((陝西省人民文学出版社1984))には、「打登州」「秦瓊売児」「麒麟閣」が見える。このうち「麒麟閣」は'三擋'を扱うが、『京劇劇目初探』からの転載で、秦腔の台本・記録は残っていない。「秦瓊売児」は嘉慶年間の古鐘に題名が見え、飢饉のため臨洮に逃れた秦瓊が豪傑達とともに、攻め寄せた楊林を破り、瓦崗に落草するといった筋で、やはり皮簧「打登州」に近い。

豫劇・秦腔の事例から、河南・陝西・山西等の地方では、楊林に捕らわれた秦瓊が、豪傑達に救われ落草する、という物語が定着しているとわかる。梆子腔系の劇種でありながら、豫劇と秦腔とで異なる物語が見られるのは、それらの物語が梆子腔流行以前に広まり、現地化していたことを意味しよう。『中国梆子戯劇目大辞典』((山西人民出版社1991))が「秦瓊売児」を、比較的臨洮に近い地域である南路・西路秦腔、山西北路・蒲州梆子、四川梆子に見えるとすることは、その傍証となる。

民歌集では、乾隆六十年の『霓裳続譜』((『明清民歌時調集』(上海古籍出版社1987)所収。尚、曲題は排印出版時に付されたものである。))巻八〔垜字寄生草〕に「山東秦瓊」が見え、『麒麟閣』「姫洩」「三擋」と同内容が唱われる。嘉慶年間、山東に流行した民歌を中心に集録したとされる『白雪遺音』((前掲『明清民歌時調集』所収。曲題同前。成書については鄭振鐸『中国俗文学史』(上海書店1984拠商務印書館1938年版復印)による。))では、計十三曲が興唐故事を扱うが、うち、人名の列挙である巻二の「古人名其二」「同其四」「同其五」はいずれも張紫煙を挙げ、巻一「盗令」「闖潼関」は、張紫煙自刎と秦瓊逃走とを扱い、『麒麟閣』と一致する。

一方、巻一「秦瓊」には

>夜打登州,赴過沿海。

巻三「秦瓊」にも

>夜打登州城,両肋挿刀,劫牢反獄救牛通。

とあり、'打登州'による秦瓊落草が唱われる。

以上から、'三擋'系・'打登州'系、二つの秦瓊落草物語は、乾隆年間には既に併存していたことがわかる。京劇や梆子腔系伝統劇にも、もちろん『説唐』から取材したと思われる出し物はあるが、秦瓊の落草は、興唐故事の中でも転換点にあたる重要事件であり、それらの劇種もしくは劇種の流行した地域に、もともと物語が確立されていたからこそ、小説に基づく改編が加えられず、物語が根付くことがなかったのだと考えられる。豫劇・秦腔はじめ梆子戯に於ける'打登州'系物語の優勢と、両系の併存が見られる山東・北京が、大運河による南北交通路と東西交通路との交点であることを考慮すれば、'打登州'系は、華北地域のものであると推測される。

物語の地域性の完全な解明には、更に網羅的な調査が必要であるが、以上の例からも、『説唐』『麒麟閣』が反映するのは、華北地域とは別の、江南地域の物語であることが明らかになろう。

**5 結論 [#ee8523ae]

乾隆期の英雄伝奇小説『説唐』の物語内容は、崇禎年間の『麒麟閣』に既に現れている。それは、蘇州・江南地方に成立したものと考えられ、清代乾隆年間以降、華北に見られる物語とは相違がある。『麒麟閣』と興唐故事小説への検討によって得られた以上の結果は、他の李玉の歴史故事伝奇と小説との間にも、敷衍できるのではあるまいか。

『牛頭山』は岳飛の抗金戦を描いた伝奇であるが、その内容は『説岳全伝』と近い。即ち、題名にも取られた牛頭山は、史上、韓世忠に敗れ秦淮河を通って建康に向かう完顔兀術を、岳飛が奇計を用いて破った地であり((『宋史』巻三百六十五岳飛伝。))、『大宋中興志伝』及びそれを改編した『岳武穆精忠伝』等では、史実と同様に扱われる。しかるに『牛頭山』伝奇と『説岳』では、牛頭山は湖広・江西界に位置するとされ、岳飛が高宗を奉じて立て籠もり、完顔兀朮と死闘を繰り広げる、最も重要な戦場である。また『牛頭山』は、岳雲が神に錘を授かること、牛頭山への道を間違えて鞏家荘に至り、鞏金定と結ばれることを扱うが、『説岳』第四十一回にも、ほぼ同内容が見える。

『説岳』の伝存する最も早いテキストは嘉慶刊本であるが、乾隆五十三年の禁書目に見え、金豊の甲子年序を載せることから、甲子は康煕二十三年もしくは乾隆九年となる。『中国通俗小説総目提要』等では康煕二十三年を採るが、『説岳』には、明らかに『説唐』をふまえたと思われる、以下のような箇所が見える。

>他説的是『興唐伝』。正説到「秦王李世民,在枷鎖山赴五龍会,内有一員大将,天下数他第七条好漢,姓羅、名成,奉軍師将令,独自一人拿洛陽王王世充、楚州南陽王朱燦、湘州白御王高談聖、明州夏明王竇建徳、曹州宋義王孟海公。」(第十回)

>一個是成都再生,一個是典韋重生。…中略…一個是溜金鐺,恰象猛虎離山。(第七十七回)

前者は作中で聞く評話の内容であるが、反王の称号・地名・姓名の表記は、『説唐』と完全に一致する。また「第七条好漢」とは、『説唐』に見える英雄ランキングであり、羅成は確かに第七条とされる。後者に引かれる「成都」、即ち宇文成都は、史書に見える宇文化及の子の承基・承趾が訛ったものと思われるが、やはり『説唐』と同様の表記であり、武器名も一致する。以上から、『説岳』の成立は『説唐』の後、乾隆年間であると考えられ、『牛頭山』が『説岳』に先行する作品であることは間違いない。

又、蘇州派の戯曲作家で、『一品爵』『埋輪亭』等を李玉に協力して製作している朱佐朝の『奪秋魁』伝奇は、'岳飛槍挑小梁王'を扱うが、これも『説岳』には見えるものの、明以前の戯曲・小説には見えないエピソードである。

『風雲会』伝奇は、鄭恩と趙匡胤との邂逅を軸に、'千里送金(ママ)娘''打韓通''打董達'等の故事を扱う。趙匡胤の十人の義兄弟、南唐が献上した妓女の名・大雪・小雪など、『南宋志伝』との細部にわたる一致が見られる一方、趙匡胤を赤須龍の降凡とする、鄭恩が董達と戦うにあたり棗樹を引き抜いて兵器とするなどのエピソードは、己巳歳(乾隆十四年)序を載せ、乾隆三十三年刊本が伝わる『飛龍全伝』と共通し、物語内容上、両小説を橋渡すものである。

『昊天塔』伝奇は、楊家将故事を扱う。傅惜華氏が康煕間抄本を蔵していたが、いまは行方不明である。呉新雷「李玉逸曲訪読記」((『江海学刊』1963年9月号。))の内容紹介によれば、物語は'孟良盗骨'を主として構成されているが、中の「求救」一齣には火焼丫頭・楊拍風の活躍が描かれるという。楊拍風、即ち楊排風は、明代の『北宋志伝』『楊家府演義』や雑劇には見えないが、広く現在の伝統劇・芸能に見え、例えば京劇では「打孟良」「打焦賛」「打韓昌」更には「雛鳳凌空」などの出し物の主役である。これは、清代に再話小説が製作されなかった楊家将故事も、明末には現在の伝統演劇・芸能により近い形に演化されていたことを示す。

以上のように、『麒麟閣』と『説唐』との物語内容上の関係は、他の李玉の歴史故事伝奇と乾隆期英雄伝奇小説との関係にも、敷衍し得る可能性が高い。清代乾隆期、出版業の中心は蘇州であったが、『説岳』『飛龍』等の英雄伝奇小説も、編者が江南の人であったり、蘇南方言の使用が認められるなど((江蘇省社会科学院明清小説研究中心編『中国通俗小説総目提要』(中国文聯出版公司1990)飛龍全伝項参照。))蘇州地方色が濃い。これらの物語も、やはり江南の地域性を持つのであろう。清乾隆期の英雄伝奇小説の成立は、李玉の歴史故事伝奇と対照することにより、明代以来育まれてきた蘇州通俗文化の流れに位置付けられるのである。

RIGHT:(早大博士後期課程)

&size(10){『中国古典小説研究』第一号 P.78~88 中国古典小説研究会 1995/06/30}