研究関係/乾隆期英雄伝奇小説『説唐』の主題

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一 はじめに

英雄伝奇小説とは、明清章回小説の題材による四分類、講史・俠義・神怪・煙粉のうち、歴史物語を扱う講史小説の下位類である。『三国志演義』を代表とする歴史演義小説と対立して用いられ、国家レべルの歴史を描く態度を持ちながら、英雄伝をもとに構成される小説であると定義される。『八犬伝』などの稗官小説や時代小説などを指して言う日本における用法とは、必ずしも同じではない。

清代乾隆年間前後に出現した一群の講史小説は、この言葉で括られるべき要件を備えている。それらの文学的評価は、類型的かつ荒唐無稽な描写、史実からの距離の大きい物語などから概して高くないが、講史小説における同一時代を扱った小説の再製作、いうなれば再話小説製作活動の末尾に位置し、また多量の坊刻本が刊行されているように影響は大きく、現代の伝統演劇・芸能と物語的に近いことには、大衆文化史的価值もみとめられる。

以上の観点から、筆者は興唐故事を扱った乾隆期の英雄伝奇小説『説唐』に注目し、さきにその物語内容が明末崇禎年間の李玉の崑劇伝奇『麒麟閣』に既に現れており、かつ蘇州の地域性を有することを明らかにした*1。乾隆期の英雄伝奇小説成立の背景としては、梆子腔劇の隆盛による物語的影響や、識字層の史実からの距離の大きい物語内容を受容しうる社会的低階層への拡大・分化が想定されている*2。しかし、明末清初における崑劇は知識層を主たる受容層とし、民間では弋陽腔系演劇が流行していたとされるから*3、明末清初の蘇州派伝奇に見える乾隆期英雄伝奇小説と同様の物語内容は、知識層にも受け入れられていたことになる。読者層の変化を言うためには、物語を構成する主題に踏み込んだ検討が必要であろう。

本稿では『説唐』の物語について、特に秦瓊及び単雄信の物語に注目し、『隋史遺文』『麒麟閣』ほか先行小説・戯曲との比較を通じて、物語の形成過程と主題の変化とを明らかにする。更に、通俗文学は営利出版物として読者の好みに迎合すべく製作され、作家と読者との共同生産物としての性格を帶びるとの認識にたち、主題の変化から、小説読者層の変化の解明を試みる。

二 『説唐』と隋唐故事先行作の概要

『説唐演義全伝』(傍線略称。以下同じ。)、編者は姑蘇如蓮居士を名乗るが、本名その他は未詳。乾隆元年序を冠し、現存では乾隆四十八年重刊本が最も古い。全六十八回で、北周の華北統一から唐太宗の即位までを扱う。以下にあら筋を、便宜上三段落に分けて記す。

Ⅰ 南北朝の争乱は隋に統一される。北斉の将・秦彝の遺児・秦瓊は豪傑として天下に名を馳せ、李淵・単雄信・羅成ら天下の豪傑と交わる。朝廷では煬帝が即位し、伍雲召の反乱をまねく。また、親王・楊林が送った即位祝いを程咬金らが強奪する。秦瓊の母の誕生日に豪傑達が集い義を結ぶが、兄弟となった程咬金は捕縛され、秦瓊は楊林の養子に収められ長安に向かう。豪傑たちは牢獄を襲撃して反乱を起こし、秦瓊は通謀が露見して長安を脱出する。 (第一回~第二十七回)

Ⅱ 豪傑たちは瓦崗塞を本拠とし、程咬金を皇帝に立て、隋の討伐軍を撃退・吸収し勢力を增す。煬帝の大運河開削により、各地に群雄が反乱を起こし、天下に十八反王が立つ。程咬金が帝位を投げ出したのち、李密が迎えられて魏王を称し、各地を攻略する。李淵も背いて長安を占拠する。楊林は天下の英雄を一網打尽にしようと、揚州に武科挙を開くが、計破れて没し、隋は宇文化及に簒奪される。十八反王は連合して宇文化及を滅ぼす。 (第二十七回~第四十二回)

Ⅲ 魏国は李密の驕慢から崩壞し、李淵の次子・李世民が秦瓊らその部将の大半を配下に収める。また尉遅恭をも配下に収め、洛陽を征伐、王世充・竇建徳ら五反王を平らげる。李世民は、功を妬んだ太子・李建成と弟・李元吉に陥れられ諸将は散ずるが、劉黒闥の反乱鎮圧のため名誉回復され、残る反王を倒して天下統一を果たす。李世民は玄武門で建成・元吉を討ち、帝位に登る。 (第四十二回~第六十八回)

前半部、第一~十四回及び第二十一~二十五回は、崇禎年間に袁于令が編した『隋史遺文』を踏襲しているが*4、字句はかなり簡略化されている。そのため、物語展開のテンポは速く、冗漫に陥りがちな乾隆期の英雄伝奇小説にあっては、異彩を放っている。道術を用いたり、単騎で数万の軍隊を打ち破るという戦闘の叙述、「隋唐十八好漢」と称される、下位は必ず上位に負ける英雄ランキングなどは、現代から見れば荒唐無稽であるが、中国演劇の舞台での抽象的表現を彷彿させる。会話文の以下のような例にも、演劇・芸能との密接な関係がうかがえる。

茂公又令「尉遅恭、程咬金聴令。」二人応道「有。」「你們明日冲他左営。」「得令。」「黒白二氏過来。」応道「有。」「你們明日冲他右営。」「得令。」「張公瑾、史太奈、南延平、北延道、你們明日冲他中営。」「得令。」 (第五十七回)
※引用文中の句読点・括弧・傍点は筆者による。以下同じ。

曰・道といった会話標識が省略され、無標の直接話法が続く。同様の場面を地の文を用いて読みやすく整理する手法は、『三国志演義』などでも多用されているが、それをあえて用いないのは間髪入れない応答の緊迫感を表現するため、また演劇舞台上の応答を意識したためであろう。

本稿では、『説唐』と先行する興唐故事小説・戯曲作品とを対照し検討するが、使用テキストと概略とを以下に列挙する*5。なお、元明雑劇については、一々挙げないが、本稿では、『元曲選』もしくは『孤本元明雑劇』を使用した。

『唐書志伝通俗演義』 熊大木編 八卷九十節
太原挙兵から太宗の高句麗親征までを扱う。最も早い興唐故事小説。本文には『資治通鑑綱目』を踏襲する部分が多い。注で原本の存在に触れる。嘉靖三十二年楊氏清江堂刊本(中華書局『古本小説叢刊』所収影印本)を使用。
『隋唐両朝史伝』 羅貫中編 十二卷百二十二回
隋煬帝の失政から唐末王仙芝の反乱までを扱う。『志伝』もしくはその原本の影響を受け、また『三国志演義』を踏襲する部分が多い*6。羅貫中は書肆の仮託であろう。万暦四十七年金閶龔紹山刊本(尊経閣文庫藏本)を使用。
『大唐秦王詞話』 諸聖鄰編 八卷六十四回
説唱文芸である詞話のテキストであるが、白話部分の分量が半ばを超える。太原挙兵から太宗の突厥征伐までを扱う。第三十九回の詩讚部分には成化本説唱詞話との字句の共通が見え*7、また第一回及び第六十四回は『両朝』を踏襲する。羅成故事は『説唐』に近い。万暦・天啓間の成立。文学古籍刊行社一九五六年刊影印本を使用。
『隋史遺文』 袁于令編 十二卷六十回
袁于令が『説唐』に近い内容を持つ「原本」を改編したもの。崇禎六年序を冠する。秦瓊を主人公として。その出身物語を扱う最も早い作品。隋の統一から太宗の即位までを扱う。早大図書館蔵崇禎六年序刊本を使用。
『麒麟閣』 李玉撰 二本六十一出
南戯の戯曲。崇禎年間の成立で、南明宫廷での上演記録がある。第一・二本からなり、それぞれを上下卷に分ける。現行テキストは道光年間昇平署抄本と推定される*8。秦瓊の出身・羅成と瓦崗英雄の活躍・尉遅恭物語を扱う。『古本戯曲叢刊三集』所収影印本を使用。
『説唐演義全伝』 姑蘇如蓮居士編
乾隆四十八年観文書屋刊本(上海古籍出版社『古本小説集成』所収影印本)を使用。

三 秦瓊と楊林

(1)『説唐』秦瓊故事の主題

『説唐』で主人公の地位を占める英雄は、秦瓊である。彼は実在の人物で、『唐書』に立伝される*9。字は叔宝、山東歴城の人。李密・王世充に歴事し、唐に帰順したのちは、李世民の親衞隊長として活躍、凌煙閣にも表彰された優秀な武将であったが、時代の鍵となりうる人物ではない。そのような彼に『説唐』では隋唐革命を一身に具現する人物としての地位を与え、全篇を彼の半生を描いた英雄伝奇としている。

『説唐』の物語は、南北朝末の北斉に始まる。「唐を説く」という題名でありながら、南北朝末にまで遡るのは、秦瓊の出身を語るためである。北斉の将であった秦彝は、三歳の一子・秦瓊を妻に託し、攻め寄せた北周の将・楊林に討ち取られる。楊林は、後の隋の文帝楊堅の叔父にあたり、

(楊堅)倚仗楊林之力、将太子廃了、竟奪簒了周主江山、改称国号大隋。 (第一回)

と、隋朝成立の軍事面を支え、第四十一回では彼の死が隋軍の瓦解、宇文化及の簒奪による滅亡へと直結するように、隋朝の武力の象徴として扱われている。従って秦彝が楊林に討ち取られることを冒頭に配する意図は、秦瓊の楊林すなわち隋朝に対する讐(あだ)の発生を提示することに求められる。

第二十三回では、秦瓊は長じて山東節度使・唐璧配下の下士官となっており、楊林が都に送った煬帝への即位祝い強奪事件の搜査を命じられる。秦瓊は楊林に謁見し、御前で演武して亡父秦彝の槍と鎧とを賞され、義子となることを強要される。ここで彼は

他是我殺父之讐人、不共戴天。

と考え、讐の存在が俄に顕在化する。第二十六回で、それが隋への叛逆として噴出し、第四十一回では、秦瓊の従弟である羅成が楊林を、秦瓊自身はその養子である殷岳を討ち取る。これにより隋朝は滅亡し、秦瓊の楊林=隋朝への復讐が完了する。

復讐の完了後も、秦瓊は依然として主人公として活躍するので、復讐の完了と物語の終了とは一致していない。それは、復讐の完了は讐討ちにとどまらず、讐が発生する以前の地位の回復までが含まれるためであろう。秦瓊は讐発生以前の安定状態、すなわち朝廷の重臣としての秦家の地位を回復するために、李世民配下として天下を統一し、太平の世を作り上げなければならない。

ここで、Ⅱの復讐者・破壞者からⅢの創造者へと、秦瓊の性格を変更する必要が生じる。そのための仕掛けが第三十八回である。ここで秦瓊は馬と槍とを失い、隋将尚使徒より魔法的特殊機能を持つ馬槍鎧兜の四宝を継承する。秦瓊の槍と鎧とは、楊林から贈られた亡父秦彝のものであり、隋への讐の存在を顕在化させる象徴であった。第三十八回は、英雄の象徴である武器の破壞・更新により、秦瓊の破壞者から創造者へのイニシエーションを暗示していると考えられよう。その結果、秦瓊は李世民の守護者として、安定と朝臣の地位の回復に努めることが可能となり、第六十三回で護国幷肩王・天下都督大元帥に封ぜられ、地位回復を完了する。

なおも物語は五回を残す。それは最終回結末部で

叔宝単題一本薦伍登為南陽王、鎮守南陽等処地方、以襲父職、庶不負忠良之後。秦王允奏、即封伍登為南陽王、世守南陽。

と、伍登の世襲を語るためである。伍登の父は伍雲召で、第十四から二十回に、その煬帝への反乱が語られる。反乱の発端は、煬帝が伍雲召の父で隋朝の宿老である伍建章を殺害したことにある。伍雲召は敗北するが、落ち延びて軍閥・李子通の元帥となり、第三十五回では反王連合軍の先鋒として煬帝を討つ。しかし、復讐の達成を待たずに、第四十一回の楊林が天下の豪傑を一網打尽にしようと揚州に開催した武科挙で落命する。復讐は一見達成されずに終わったかに見えるが、第四十一回では彼が秦瓊と語らい意気投合することが語られ、また第六十四回では

当年你父伍雲召在揚州、曾与我八拝之交、結為異姓兄弟、情同手足。

と秦瓊が唐に挑戦した伍登を説降し、秦瓊への復讐の継承が示唆される。

伍雲召は実在の人物ではないが、その物語は雑劇等に見える伍子胥物語の換骨奪胎である可能性が指摘されている*10。また、第三回で秦瓊は山賊に扮した晋王(後の煬帝)に襲撃される李淵を救出するが、それは伍子胥廟で受けた夢の啓示による。してみると、秦瓊は伍子胥神の庇護を受け、かつ伍子胥の分身である伍雲召の讐を継承していることになる。

京劇・豫劇・秦腔等の伝統劇に見える伍雲召が登場する出し物の物語は『説唐』の枠を出ず、伍雲召及び『説唐』に数名登場するその一族、義兄弟の雄闊海などは先行作に見えないから、伍雲召故事は『説唐』とともに成立し伝播したのであろう。周知のように、伍子胥物語は『史記』にも見え、通俗文学でも早くから扱われた復讐譚であるから、秦瓊故事を復讐譚として構成するにあたり、『説唐』は秦瓊に伍子胥の姿を投影したものと考えられる。

以上の秦瓊の復讐の過程は、安定→讐の発生→復讐の完了→安定、と要約できる。先に分類した『説唐』の大段落は、それぞれ、

Ⅰ 隋朝による安定
Ⅱ 反乱による安定の破壞
Ⅲ 唐朝による安定化

と名付けられるから、大段落と秦瓊の復讐の各段階とは一致している。

『説唐』の物語は、秦瓊復讐譚にほかならない。これは次章で検討する単雄信らの傍系の物語にも共通する特色であり、『説唐』が復讐譚の入れ子型構造をもっていることが明らかになる。

(2)秦瓊と楊林の来歴

ここでは、先行作の秦瓊と楊林の物語を『説唐』と比較検討する。

秦瓊の敵役として、『説唐』に欠かせない人物である楊林は、史書に見えない架空人物である。先行作では『麒麟閣』伝奇のみにみ見え、他の小説・雑劇には見えない。『麒麟閣』では隋文帝の弟、『説唐』では叔父で、ともに山東地方を領する王とされる。

楊林のモデルとしては、楊義臣が考えられる。楊義臣は『隋書』卷六十三に立伝される。代の人で本姓は尉遅、人質として宮中で育てられ、楊姓を賜った。突厥・高句麗との戦いで功を上げ、隋末反乱の平定に活躍したが、煬帝にその威名を嫌われて召還され、まもなく没した。群雄を鎮圧する点、彼の解任・死没が反乱の猖獗、ひいては隋の滅亡の一因となる点に、楊林との共通が見いだせる。明代『志伝』『両朝』には、楊義臣の物語の史実の枠を越えた発展が見られるが、それが明末『麒麟閣』の段階で跡形もなく消えさり、逆に楊林が現れる。『説唐』で字を虎臣とするのを、義臣が訛ったものと考えれば納得できよう。『説唐』には第三十八回に楊義臣も登場し、銅旗陣を布いて秦瓊ら魏国の軍と戦うが、『麒麟閣』の同場面は楊林が部将の東方旺に命じて陣を布かせたことになっている。『説唐』の製作時には楊林の前身であることが既に忘れ去られていたため、楊義臣が加えられたのであろう。

『志伝』『両朝』に見える楊義臣の物語は、ほぼ同じ内容である。それは隠遁していた楊義臣は、隋を簒奪した宇文化及を討つために、群雄・竇建徳の招きに応じ、聊城で宇文化及を撃滅した後、飄然といずこへか立ち去る、といったものである。史書には全く見えず、『資治通鑑綱目』からの引き写しの多い『志伝』にあって、尉遅恭の唐帰順の始末とともに、数少ない虚構に属する部分でもある。楊林の物語との隔たりは大きいが、明中期以前に楊義臣が隋唐物語の主要人物であったことがわかる。

『麒麟閣』は『説唐』以前で楊林が登場する唯一の作品であると同時に、秦瓊を隋唐物語の主人公として扱う点で、同じく崇禎年間の『遺文』とともに画期的な内容を持つ。嘉靖・万暦年間の小説では彼の地位は概して低く、出身物語は見えず、尉遅恭に唯一対抗しうる唐将として、その唐帰順物語の添え物的役割に終始する。

その一方、『麒麟閣』の秦瓊物語には、復讐譚の色彩は全く見いだせない。第一本上卷第三出、潞州に旅立つ場面で、秦瓊は北斉の秦彝の子と名乗るものの、楊林にはふれない。両者が顔を合わせる第一本下卷第十五出「三擋」、二本上卷第十二出「大考」でも讐の存在は語られず、また楊林は羅成に殺されるが、秦瓊が殺すのは養子ではなく一部将である左傑に過ぎない。

『麒麟閣』で強調されるのは、義である。秦瓊は、逮捕された程咬金・尤俊達を救うため、済州に送って詮議するよう楊林に進言するが、義兄弟たちが済州城を襲撃して二人を救出したため、通謀を疑われ叛逆に追い込まれる。第一本下卷第十四出には

秦瓊為朋友而死、義所当然。

と見え、叛逆は朋友との義のためである。秦瓊が貫くべき義を感じる直接の原因は、第一本下卷第五出で義兄弟の契りを結んだことにあるが、『麒麟閣』は更に伏線を張る。第一本上卷第三出「友餞」で、潞州に旅立つ秦瓊を程咬金・尤俊達が餞别するが、秦瓊は程咬金の貧困を心配して、銀十両を贈る。同第九出「送米」では、程咬金が尤俊達に託されて、秦瓊の留守宅に銀と米とを送ることを描く。『説唐』及び『遺文』では、秦瓊母子は済州を落ち延びて程咬金の母にかくまわれ、秦瓊と程咬金は幼時をともに過ごすが、後に別れ、両者が再会するのは結義のときとされる。『麒麟閣』では以上の場面を設定することにより、秦瓊と程咬金の間の叛逆をも辞さない程の義の深さを強調している。

『説唐』では、前述のように秦瓊は楊林の養子となることを望まない。また、楊林と戦いつつ長安を脱する〝三擋〟の途中で、自らの出身を楊林に如げ、反乱した好漢たちに保護された母から

就是那楊林老賊、乃殺父之仇人、你這畜生反把他為継父相称。畜生阿畜生、你有何面目還来見我。 (第二十七回)

と痛罵される。そのため、叛逆の原因としての兄弟の義は、復讐の後景に押しやられている。

また、『麒麟閣』の“三擋”故事で、秦瓊に情報を漏らして逃亡させるのは歌姫の張紫煙である。「三擋」およびそに直前の「姫洩」は、『綴白裘』などの散齣集にも収録される、『麒麟閣』で最も著名な場面であるが、『說唐』では彼女を旗牌の尚義明に置き換え、しかも秦瓊とともに逃亡することにしている。

張紫煙は、楊林が秦瓊を養子に迎えたとき、妾として与えることを約束した歌姫である。彼女は男装して秦瓊の陣屋を訪ね、情報を洩らして自刎する。彼女の行為は、英雄を知る見識、及び夫婦となることを約束された相手に対して、節を尽くすことによると解される。

一方、尚義明と秦瓊の関係は以下のように説明される。

尚旗牌前番有罪当斬、秦叔宝極力保救。

報恩が、機密漏洩の動機である。ここでも『説唐』は、行動の動機を具体的な貸借関係に置いている。

『遺文』は、『説唐』と同様に北斉に遡って秦瓊の出身を語るが、楊林は登場せず、また、第一・二回で隋の陳征討による唐公李淵と晋王(後の煬帝)との仲違いの発生を描いた後の、第三回に置く。更に第四十四回で、秦瓊は宇文述に冤罪をかぶせられ、瓦崗寨への仲間入りを余儀なくされるに及んでも

我本留此身報国、以報知己、不料生出這事来。

と述べる。この部分の注

還是報知己、隋家報他則甚。叔宝若念及祖父、原不敢臣隋。

が端的に示すよう、『遺文』に於ける秦瓊と隋との関係は、讐ではなく一方的な忠である。忠を全うすることを望みながら、奸臣に追いつめられ反乱に追い込まれる、秦瓊の苦悩と悲劇性とが、『遺文』の出色の部分である。

四 単雄信の死

単雄信は興唐物語の主要人物であり、全ての興唐故事小説および多くの戯曲に登場する。ここでは、〝割袍断義〟及び唐に捕らわれた単雄信が斬られる場面に絞り、材源と主題の変遷とを追う。なお、『麒麟閣』は単雄信の死を扱わないため、本章では取り上げない。

唐の劉餗の『隋唐嘉話』は次のような逸話を収める*11

英公始与単雄信俱臣李密、結為兄弟。密既亡、雄信降王充、勣来帰国。雄信壮雄過人。勣後与海陵王元吉囲洛陽、元吉恃其膂力、每親行囲。王充召雄信告之、酌以金椀。雄信尽飲、馳馬而出、槍不及海陵者尺。勣惶遽連呼曰「阿兄、阿兄、勣主。」雄信攬轡而止、顧笑曰「胡児不縁你且了竟。」充既平、雄信将就戮、英公請之不得、泣而退。雄信曰「我固知汝不了此。」勣曰「平生誓共為灰土、豈敢念生、但以身已許国、義不両遂、雖死之、顧兄妻子何如。」因以刀割其股、以肉啖雄信、曰「示無忘前誓。」雄信食之不疑。

英公李勣(『説唐』の徐茂公)と単雄信との義を称揚する逸話であり、単雄信が生を望みながらも斬罪に処せられたことが読みとれる。

先行小説に眼を転ずれば、『志伝』の単雄信の死は『隋唐嘉話』とほぼ同じである。ただし、前半部は『唐書』尉遅敬徳伝の

猟楡窠、会世充自将兵数万来戦。単雄信者、賊驍将也。騎直趨王(李世民)。敬徳躍馬大呼横刺、雄信墜、乃翼出王。 (『新唐書』卷八十九)

と結びつき、所謂“割袍断義”物語となっている。それは、李勣は単雄信に追われる李世民を救おうと、単の袖をつかんで引き留め説得を試みるが、単は聞き入れず、剣で袖を切り落として李勣との義を断つ、というあら筋であり、『尉遅恭単鞭奪槊』などの元明雑劇に既に見え、興唐故事小説のほとんどに現れる。

『志伝』では単雄信の死は次のように評される。

観者無不垂涙、皆感李世勣重於義云耳。宋人有詩為証、…挿詩略…又断、単雄信不識事人、致有夷戮之禍。…以下挿詩

義を断った単雄信に対し、李勣の義を一方的に頌え、単雄信の「不識事人」すなわち主君を選ぶ眼力の無さを非難する。

『両朝』の同場面は、『三国志演義』の呂布の死の場面を踏襲し、単雄信は義に背き、生を貪る小人におとしめられる。『秦王』でも

単雄信説「徐弟、你忘了旧日交情。不為我善言一解。」茂公説「你前日割袍断義、還有怎麽交情。」

と、単雄信は生に執着し、徐茂公は“割袍断義”して義を失したことを非難する。

『遺文』は以上の小説と異なり、李淵が単雄信の兄を誤殺する〝楂樹崗〟の場面を扱う(これは『麒麟閣』にも見える。)彼が唐を避けて王世充に帰順することは、この讐により説明される。また〝割袍断義〟は見えず、李世民を追う単雄信に李勣が「阿兄、我主」と呼びかけるのみである。単雄信は捕らわれても

此時単雄信、他意原不欲降唐、但一時要殺出他処去、去也不能。却又想起在魏宣武陵時、幾乎把秦王刺死、心裏也不安。

と、讐の存在ゆえに唐に降るのを望まないが、同時に死への不安を感じている。このあと、李勣・秦瓊・程知節の三人は秦王に助命を嘆願するが、斬罪の命令は変わらず、三人は股の肉を割いて雄信に食べさせ、その妻子の撫育を誓う。崇禎年間には興唐物語の一節として定着していた〝割袍断義〟を除くことで、単雄信の死は義に貫かれた。

以上のように先行小説の〝割袍断義〟及び単雄信の死は、正負の差こそあれ、どれも義を主題として構成されている。

『説唐』の単雄信は、“楂樹崗”の讐を懷き、李密敗亡後は王世充に身を寄せて李世民と対決する。第五十一回の“割袍断義”を経て、第五十六回、最後の突撃を試み捕らわれる。

秦王出帳、分付「不可羅(ママ)。」親自上前道「単王兄、気也出得你够的了。前日楂樹崗之事、実系無心、你在御菓園追我一番、亦可消却前讐。孤家今已情願下你一個全礼、勧你降了罷。」秦王即跪将下去。雄信道「唐童、你若要俺降順、如非西方日出。」

『隋唐嘉話』及び先行小説とは異なり、単雄信は迷いなく自ら死を選び、復讐心を貫く。また、単雄信の刑執行の間際、徐茂公は

臣等与他結義一番、可容臣等活祭、以全朋友之情。

と願い、義兄弟たちとともに別れの杯を手向ける。しかし

一個個把酒敬過来、雄信只是不肯飲。

と単雄信は一同の杯を拒絶し、ただ程咬金からだけ受ける。秦瓊もその場には不在である。義は称賛・非難いずれの方向にも一貫して用いられることはなく、復讐の後景に退いている。この復讐は達成されないが、第五十七回で彼が斬られたのち

他一点霊光、直住外国去投胎去了、後世借了蓋蘇文、来奪唐朝江山。

と、転生後の報復を提示することで、締めくくられる。転生譚は『秦王』にも見えが、このような怨念を持つ理由は語られていない。

『説唐』の主題は、“割袍断義”の比較により、一層鮮明となる。『説唐』第五十一回

徐茂公道「単二哥、看小弟薄面、饒了我主公罷。」単雄信道「茂公兄、你説那裏話来。他們殺俺的親兄、大讐未報、日夜在心。今日狭路相逢、怎教俺饒了他。決難従命。」那徐茂公死命的把単雄信的戦袍扯住、叫声「単二哥、単二哥、可念賈柳店結義之情、饒了俺主公罷。」雄信聴着賈店(ママママ)結義之言、一発怒従心上起、火冒頂梁門、叫一声「徐勣、俺今日若不念昔日在賈柳店結拝之情、就一剣把你砍為両断。也罷、今日与你割袍断義了罷。」

徐茂公は、彼の「薄面」を立てて秦王を見逃すよう求めるが、単雄信は「讐」を理由に拒絶する。徐茂公は更に義兄弟の「情」を訴えるが、単雄信は「怒」り聞き入れず「義」を断つ。「面・讐・情・怒」などは個人的水準の語である点、より高次な社会的関係を表す語である「義」と対照的である。二人の間の「義」は、単雄信の個人的な「讐」と「怒」という事情・感情によって断ち切られる。

『両朝』では、同じ場面が以下のようになっている。

(徐世勣)扯住雄信衣襟曰「吾兄別来無恙。憶昔相従多蒙教誨、至今感盛徳不忘。今日到此、何故追窘吾主耶、吾主即汝主也。可看弟薄面、乞全秦王性命。」雄信曰「昔日同居一処、始為兄弟。如今各事其主、実是仇敵。誓必追殺世民、以報吾主、安肯相容。」世勣又告曰「吾与汝交契甚厚、不比他人。不記昔日龍門(ママ)上焚香設誓、同食五魂湯之義乎。」雄信曰「此乃国家之事、非雄信敢私也。今日免汝一死者、尽吾一点同契之情耳。」遂以剣割断衣袍。 (第六十一回)

徐世勣(李勣)は「薄面」を立てて秦王を見逃すよう求めるが、単雄信は「報吾主」のために拒む。「義」の深さを強調し食い下がる世勣に、雄信は「国家之事」と「私」との水準の違いを説き絶交する。兄弟の「義」と臣下としての「忠」との対立が、『両朝』“割袍断義”の主題となっている。

以上のように、『説唐』単雄信物語では、個人の直接的な感情のレべルで事件が展開し、讐という主題が貫かれ、『両朝』その他の先行小説に見える義や忠は、もはや決定的な作用を果たし得ない。また、『遺文』は“楂樹崗”を扱うから、『説唐』と同様に復讐を貫かせる処理も可能であったが、単雄信は死に際して三人の助命を妨げず、彼らに義を全うさせる。復讐は後景にとどめられ、義の称揚に重点が置かれている。

おわりに

明清通俗文学研究の困難は、製作・受容・流通などに関する史料が乏しいことにある。江戸の稗官小説の読者、歌無伎の客層などは、豊富な史料から明瞭にその姿を把握することが出来るが、文章を書くことが特権であり続けた中国では、文字史料の発信者は常に知識層であり、一段低い文学形式と見られた小説や演劇に関する記事は多くない。本が幾らで売られ貸し出されたか、いかほどの利潤をもたらしたかといった書肆の史料も乏しく、俳優の評判記的な出版物もほとんどない。

小說受容層の研究としては、明代に官僚読書層が『西遊記』の中心的受容層であったことを明らかにした磯部彰氏の業績がある*12。しかし、社会的により低い階層の小説受容は、以上のような制約のため、解明することが難しい。従って、通俗小説は読者と製作者との共同生産物としての性格を持つとの前提に立ち、小説の内容から逆に受容者像を推定する方法を採らざるを得ない。

本稿で明らかにしたように、先行作では義や忠を作中人物の行動規準として構成されといた物語を、『説唐』は主題を復讐に置き換え、再構成している。義・忠と復讐とでは、質的にレべルが異なる。義、特に秦瓊・単雄信物語に現れる義兄弟の義とは、血族を貫通する共同体の横のつながりの規範であり、忠とは縦のつながりの規範である。復讐とは、父子・兄弟といった血族のごく狭い範囲で継承される、祭祀的行為であり、他者との貸借関係の清算的行為である。ここから、復讐という主題を貫く『説唐』の読者層として、共同体のつながりがより薄れ、家族・個人での生活を営む人びとが浮かび上がる。これは、社会的地位が高く安定した知識層・郷紳層というよりも、定住地を離れ都市に流入して生活を営む、被支配層たる市民層の特質であるといえよう。主題の変化から、『説唐』の読者層が『遺文』等の先行小説に比べて、社会的により低い層にシフトしていることを、指摘することができる。乾隆期の英雄伝奇小説は、蘇州・江南の地域性を濃厚に帶びるから、江南諸都市に於ける市民層の質的向上と量的拡大とが、小説の背景として想定される。

ところで、京劇の秦瓊物語には、その反乱軍参加の経緯をめぐり、華北系と江南系の二つの流れがある*13。このうち、華北系統に属し梆子腔の影響を受けたと考えられる皮簧調を唱う劇目のうち、楊林が秦瓊の親の讐であることに言及するものは、一九二〇年代に製作された十二本〈隋煬帝〉のみであり、〈三家店〉〈打登州〉などのポピュラーな伝統的出し物では全く言及しない*14。また、劇目集からは*15、豫劇・秦腔などの梆子腔系地方劇にも、同様の例が見い出せる。すなわち、陝西・河南・山西といった梆子腔の流行地域では、復讐という主題は発生しなかったし、乾隆年間に『説唐』がもたらされたであろう後も、従来存在した物語に取って代わり定着するだけの魅力を発揮できなかったのである。梆子腔の流行地域が、当時江南に比べて経済・文化的に立ち遅れた内陸地域であったことは、『説唐』の物語と都市の市民読者層との密接なつながりを示唆する。

以上は、乾隆期の英雄伝奇小説の出現を読者層の二層分化から説明する従来の説と、必ずしも矛盾はしないが、知識層がそれらの小説の読者であった可能性を否定するものでもない。今後、清代における通俗小説の社会的機能は、小説にとどまらず、戯曲・演劇・芸能等との対照を通じ、総合的に解明される必要があろう。


*1 拙論「李玉の歴史故事伝奇と乾隆期英雄伝奇小説~『麒麟閣』と興唐故事小説とを中心に」(『中国古典小説研究』第一号一九九五年)参照。
*2 上田望「清代英雄伝奇小説成立の背景─貴州安順地戯よりの展望─」(『日本中国学会報』第四十六集一九九四年)、小松謙「両漢をめぐる講史小説の系統について─劉秀伝説考補論─」(『未名』十号一九九二年)、同「隋唐をめぐる講史小説の展開について」(『中国古典小説研究』第一号一九九五年)参照。
*3 小松謙「詩讃系演劇考」(『富山大学教養学部紀要』第22刊1号平成元年)参照。
*4 注(2)所引小松謙論文、前掲拙論参照。
*5 褚人穫『隋唐演義』は、比較の対象とする部分を『遺文』及び『両朝』から踏襲しているため、本稿では扱わない。
*6 小松謙氏は『両朝』を福建成立とする。考えるに、『両朝』卷末の木記での言及、版式書体の類似から、『残唐五代史演義伝』も龔紹山刊本と思われるが、両者は『三国志演義』から大量の文を踏襲する点で共通する。『両朝』は、林瀚序を冠する福建刊の原本を、『三国志演義』を用いて增補することによって、龔紹山が製作したとするのが妥当であろう。
*7 拙論「薛仁貴故事変遷考」(『中国文学研究』第十七期一九九一年)参照。
*8 注(1)所引拙論参照。
*9 『旧唐書』卷六十八、『新唐書』卷八十九。
*10 鄭掁鐸〈伍子胥与伍雲召〉(《中国文学研究》古文書局一九六一年再版本所収)参照。
*11 古典文学出版社一九五七年排印本による。
*12 磯部彰「明末はおける『西遊記』の主体的受容層は関する研究─明代「古典的白話小說」の読者層をめぐる問題について─」(『集刊東洋學』44、一九八〇年)参照。
*13 注(1)所引拙論参照。
*14 《京劇劇目辞典》(中国戯劇出版社一九八九年)による。劇本は《車王府曲本》本〈秦瓊表功〉〈三家店〉〈打登州〉、《戯考大全》本〈打登州〉を調査した。
*15 《豫劇伝統劇目匯釈》(黄河文芸岀版社一九八六年)、《秦腔劇目初考》(陝西省人民文学出版社一九八四年)、《中国梆子戯劇目大辞典》(山西人民出版社一九九一年)による。